陶一族、終焉の地。〜恩讐の彼方に〜毛利家歴代当主の弔い
Vložit
- čas přidán 6. 10. 2022
- 毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を討った後、本格的に山口制覇に向けて軍を進めます。
その時に陶晴賢をの長男長房と次男小次郎が城を逃れて立てこもったお寺がありました。
龍文寺
陶家の菩提寺として西国随一の禅寺です。
龍文寺は錦川の支流に囲まれた天然の要害で、毛利家も攻めあぐねます。
そして最後に取った奇策によって陶家を滅ぼすに至ります。
この動画では、陶家を滅ぼした元就から17代を経て、徳山藩毛利家の現当主が恩讐の彼方に500年の時を超えて和解します。
=========
日本の歴史が動くとき、そこに毛利あり。
鎌倉政権樹立
天下分け目の関ヶ原
明治維新 etc…
毛利家は日本の歴史の大きなターニングポイントに深く関与してきた大名家です。
このチャンネルでは、徳山毛利家第14代当主の毛利就慶氏が、当事者ならではの裏話や秘話も織り交ぜながら、日本史への興味を掻き立てるような動画をお届けします。
大名家の当主が現代日本においてどのように暮らし、何を思うのか、等身大でありのままの姿でお伝えしてまいります。
「こんな話を聞きたい」というようなご意見ご要望は、ぜひ各動画のコメント欄にお寄せください。
毛利就慶氏への講演依頼も承ります。
なお、毛利就慶氏は歴史家ではなく、毛利家に伝わる言い伝えや独学の情報を基にお話ししていますので、動画で話す内容の真偽を保証するものではございません。
ご理解の上、楽しくご覧いただけますと幸いです。
当チャンネルを通じて歴史を学ぶことで、日本に関心を持ち、ひいては日本やその先人たちを誇らしく思う、そんな方が1人でも増えれば望外の喜びです。
公式webサイト
mouri-rekishi.com/
このチャンネルは小説家の中川秀彦氏のご支援、視聴者様からの投げ銭、Google広告掲載料によって運営されています。応援のほど、よろしくお願いいたします。
『神に選ばれた男 児玉源太郎』中川 秀彦 (著)
この小説の主人公、児玉源太郎大将は、毛利家歴史チャンネルの語り手、毛利就慶氏が当主である徳山藩の武士でした。
ウイルスの概念もない明治末期に「検疫の大切さ」を理解していた軍人がいた。日露戦争を勝利に導いた名将にして、武力に頼らず台湾を近代化に導いた偉大な政治家でもある児玉源太郎。 その活躍と人生を余すことなく語り尽くす。
amzn.to/3aJqNiH
#日本史 #毛利 #山口県 #徳山 #教養 #大名 #末裔 #歴史 #戦国大名 #明治維新 #戦国時代
ぜひ他の動画もお楽しみください^^
再生リスト:歴史名所めぐり
czcams.com/play/PLs52PWs0zP31664zkqmaK3x8PW7NXwMuQ.html
うちの母方の祖父の家系は毛利家の家臣で 殿様の直筆の額とか沢山ありましたよ
大変遅い返事になりました‼️
すみません😢⤵️⤵️
それはそれは、凄い‼️ 大事にされてください。是非、拝見したいです。
まだ途中ですが、幾つか動画拝見しました。
自分、鎌倉期はアンチ大江広元、戦国期は大の山中鹿之助&戸次道雪贔屓、幕末期は大の新撰組贔屓……という有り様ですけど 笑。
ただ、大江広元の実務能力の高さ、毛利元就の「三矢」やら、「そうせい候」の毛利敬親の聡明ぶりに感銘を受けてるのも事実です。
まだまだ毛利家の事はあまり詳しくないけど、このチャンネルで勉強していきたく思いますので、どうぞよろしくお願いします
m(_ _)m
最近になってNHK大河毛利元就や
その他歴史チャンネルで毛利元就を見るようになって稀代の策士元就に魅せられています
その直接の系譜の方から
尼子家や陶家のお墓を紹介して頂くとは
驚きであり有難いことです🙏🙇
山崎興盛父子の須々沼城もそうでしたが、勝つ者もあれば敗れる者もあり、ですよね。
ここ龍文寺にもこの様に徳山様やお父様が当時の相手方に対して思いを馳せ、弔っておられる。
こういう事に歴史だとか、毛利家の積み重ねというものを感じます。
清末殿‼️ ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
なんか、そういって貰えると和みます。
最近、アンチコメントも多いので、、、感謝。
陶家に対する哀悼の意がすごく伝わってきたよ。
素晴らしい心持ちだね。
それにしてもお寺の山門、素晴らしいね👍
福島に誉められて光栄です(笑)
徳山には、派手じゃないけどあんな、史跡が沢山あります。早く、来れると良いね‼️
前回の山崎氏もそうでしたが同じ時代の戦場で戦い散った者への敬意は素晴らしいと思います。
陶家への弔意は十分に伝わっていると思います。お父様が白装束の武士を目撃とお話されていましたが落武者の姿でないのもその証明かと、、、さらに四季折々の花に囲まれているの環境が陶家の皆様も安らかに過ごされているものと感じました。
ありがとうございました⤵️⤵️⤵️
あ、上手い事を言われますね。
確かに、白装束の武士でしたから、落武者の怨念はないのかも知れませんね。
とても、静かで荘厳な中、花に囲まれて、何よりの供養かも知れません。
御当主からのかつての敵方へのリスペクトが伝わる動画だったと思います。
人は争って歴史を作るけど、その中に他者の犠牲の上に生きていれることを改めて感じました。
自分墓参りいかないと😢
とても、嬉しいメッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
そうですね、様々な苦労や犠牲の上に今がある。素晴らしいです。 私も、墓参りは時々サボっております(笑)
お父様も素晴らしい方だったんだろうと感じました。
陶家の方々に対する尊敬の念も素晴らしいと思いました👍
度々のコメント嬉しいです‼️
父は純粋な人でした。喜びます。
なかなか、相手方を弔うと言うのは、難しいものですね。
@@mourihistory
当代の方からのコメントいただけるなんてとても恐悦至極でごさいます。
本当に応援してるので全部動画拝見させていただきます😊
今は神奈川で仕事してますが私の実家も徳山に今ありますので知ってる場所がこんなに色々歴史が深く価値があるものがあるんだなと思い驚いてます💦
帰郷した際は改めて色々思いを馳せながら行ってみたく思います。
徳山とは嬉しい限りです‼️
しかも、神奈川は毛利家発祥の地。ご縁があります。
動画から伝わる龍文寺のパワーというかオーラというか…。行ってみたくて、行ってみたくて…。本日ようやく参拝する事が叶いました。錦川に掛かる橋、荘厳な山門、本殿、陶一族の墓跡群。家の為、民の為、戦国時代を全力で生き抜いた陶一族に敬意を表し、祈りを捧げる事が出来ました。素晴らしい動画をありがとうございました!PS 沼城跡も行き、歴史の重さを感じる事が出来ました。奥が住宅地なんで確かに交通量が意外と多かったです!
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
うわー❗動画を見ていただいて、その場所に行かれたなんて嬉しいです。
そして、あの場所の素晴らしさを感じていただけて何よりです👍⤴️⤴️⤴️
また、沼城までなんて、動画をアップし続けてる甲斐があります‼️
毛利の殿様
徳山市長穂出身、現在杉並区在住55歳の元領民です。故郷の龍文寺を紹介してくださり、ありがとうございます。子供の頃よく遊びに行って、いたずらして怒られたり、下を流れる錦川でもよく泳ぎました。懐かしいです。ウチの父は先祖は毛利の家来だったと強がっていますが、実際は実家が農家の私にとっては、お殿様のお顔やお声を拝見、拝聴することはとてもありがたいことと思いながら楽しく動画を見させて頂いております。今後も楽しみにしております。
ちなみに長穂村は江戸時代は萩藩の領地だったと聞いております。やはり名前の通り、米が良くとれた土地であったため、萩藩が治めたのでしょうか。
とても、嬉しいコメントありがとうございます!
長穂だったんですね👍️ 今でも、行くと心癒されます。幼い頃には長穂荘というよりは宿舎もあったりして、その近くの商店でコーラを買って宿に戻る、何とも言えない懐かしい思い出が今も心に残っています。
また、ゴルフ場の方々も長穂の方が多かったので非常に思い入れが強いです。
そう、近くの 二俣神社も本家の家紋でしたね。 あの辺は宗家の所領ですね。
だから、ご宗家のご家臣様です‼️
ゴルフ場当時は鹿野に別宅があったのでダムの横を通って通ってたんですよ。
あそこで、お育ちとは羨ましい‼️
これをご縁にまた、色々とコメントお待ちしてますね。
年も私と近いので、是非、東京でもお会い出来たらいいですね❗
1975年夏に会社の宿泊研修で泊まったけど、そんなに怖いと感じなかったけど、泊まった日が土用丑の日に出された鰻がとても美味しかった。しかし後から実は豆腐で作られたと聞かされ精進料理の素晴らしいさに感動しました。今でも忘れられない鰻でした。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
へえ‼️泊まられたんですね。
それは、まさに精進料理。 プチ、禅の修業ですね👍
殿様〜
こんばんは。
後追いでこの動画で全て見たことになりました。
陶一族は、あまり知らないのでコメントされている方、殿様からの返信をザクッと読みました。
皆様方のコメント
勉強になります。
そして殿様の誠実な返信。
ますます毛利家歴史チャンネル好きになりました。
殿様のお父さんの逸話、陶一族への心を込めての供養
清々しい気持ちになりました。
最後に殿様からの
陶一族への黙祷
今に生きる者達にとって、歴史の勝者、敗者は、先人達が生きた証ですし、
勝者、敗者共に学ぶべきことあるでしょうし。
石田三成は、徳川家康に逆らい敗者になり、幕府からは、悪人のそしりを受けてきたようですが
石田三成の子孫は、
迫害受けず生き延び
てきたと。
徳川家康自身は、
石田三成のことを認めた思います。
フミカミさん‼️
遅くなりました‼️
あら、、、、じゃあ、もう一巡しちゃった。。。って、フミカミさんくらいじゃない? 嬉しいです‼️ ちゃんと、見て!評価してくれて。涙が出そう。
でも、歴史は勝者の歴史と言っても過言ではないですよね。 そんな中から、企画した陶家の動画にここまで、真摯にコメント頂いて感無量です👍👍👍
今後も、離れずコメントしてくださいね‼️
さすが、毛利家の方は仁がありますね。百万一心しかり、慈愛の精神を感じました。
嬉しいメッセージありがとうございます⤴️⤴️⤴️ 百万一心の精神を旨に精進して参ります‼️
動画ありがとうございます。厳島合戦の時、確か陶晴賢は35歳でしたので、長房さんはまだお若かったのですよね。戦国時代ということで仕方がないとは思いますが、一族滅亡と伺うと心が痛みますね。
祭りの格好をして陶が立てこもるお寺に入り込んだという話は、尼子経久が月山富田城を乗っ取った話に少し似ているかな、と思いました。
流石‼️大江さん‼️
確かに。 尼子経久のそれに、酷似していますね。元就は経久に尊敬の念を抱いていました。 パクったんだ(笑)
私もサイクリングで歴史の名所旧跡墓所などを訪れます。有名な方だけではなく、マイナーな方のお墓も見て回ります。もう今となってはどの墓石が誰に該当するのかということさえ分からないお墓も多いですが、彼らにもそれぞれの人生があり、同時代のいろんな方と繋がってたんだよなと思ったり。そんなことしかできませんが、そんな思いで周ってます。ある時、昭和史の人物ですが、その墓所に行った際に、その方のご子息に出会って話したことがあります。たまたま、本当に偶然のことでしたが、こんなこともあるんだと驚いたものです。陶氏の墓所、いつか行ってみたいですね。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️素晴らしいですね‼️ 本当にそのように、色々と考えてみたりするだけで、歴史が身近に感じられたり、はたまたその様な出会いに恵まれたり。 是非、当家の墓所や陶氏の墓所行かれて見てください‼️
月山富田城で降伏した尼子義久の尼子宗家は長らく長州藩士として続いたそうですが、末裔の方も各地にいらっしゃるようですね。ウィキペディアで調べたのですが周防大内陶家の子孫は殆ど居らず、義隆の四男大石義胤という人が居て子孫には大石内蔵助良雄がいるというあくまでですが伝説があるそうです。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
はい、尼子のその後は、佐々木姓を名乗って毛利家の家臣として長らえました。
それにしても、その伝説は知りませんでした。ロマンがありますね⤴️⤴️⤴️⤴️
ありがとうございます!
凄く励みになります‼️ありがとうございます⤵️⤵️⤵️⤵️⤵️
廿日市の洞雲寺には陶晴賢と穂井田元清のお墓があるのでぜひ行ってみてください!
ありがとうございます‼️
それは、是非ものですね⤴️⤴️
そして、葬られてる2人との因果関係など考えると益々、行きたくなります❗
桂元澄の墓もありますよね。ひょんなことから桂家に興味を持ち桂元澄に興味を持ちまして、萩の海潮寺、知行地の宇部市小野にもあります。毛利家と桂氏は同じ大江朝臣。厳島の戦い以前より深い関係ですね。
今回もありがとうございますm(__)m 白装束のお話は大変興味がありました。
記録では晴賢の息子や陶氏一族のお墓が全てあるように記載されていますが法名で人物特定出来るのは数名です。墓石の碑面が綺麗になっている箇所は私が調べた際のものだと思います。親戚筋にある石見益田氏の供養墓や陶 興房の奥さんのお墓はハッキリしていますが他は特定出来ていません。墓所前は確か3年程前に陶氏のご子孫の方が修復されていました。工事の脇で写真を撮ったりさせていただきました😅 また、陶 晴賢の奥さんのお墓は夜市の山の中にポツリとありますがこちらも数年前に探しました。他にも風土注進案にありますが1つ奥の谷の地名に「奥光」という場所があります。陶 奥(興)光のお墓らしき立派な宝篋印塔は今年の頭に大藪こぎをして探しました。
今度是非一度、徳山大迫田墓地、上田平墓地、大成寺上墓地散策をご一緒して欲しいですm(__)m
徳山毛利氏家臣団が詰まっております。墓石の場所の記録、碑文は資料などで随分と解読も済んで全て記録しています。私も東京生まれで現在は「徳山藩領」の一番西端に住んでいるので「万役山事件」の導火線となった「干草山事件」さらには明治3年奇兵隊脱退騒動の際にも徳山緒隊が出動した場所、大内輝弘自刃の地、更には徳山藩と言えば尼子氏残党のあの有名な山中鹿之介の首を打った福間さんの息子・福間淡路守墓地など湯野堅田家墓所等を含めてまだまだ歴史の宝庫です(*^^*)
是非とも毛利さんにご紹介していただきたいですm(__)m
あっ‼️藩祖就隆様のお母様の墓所は行かれましたか?
また、そこに関係された方々の墓所は錦町から周防大島にまでございます。そして慰霊は江戸時代までずっと毛利家で行われていました。毎年、仲間と墓参していますがそちらも是非とも宜しくお願いしますm(__)m 長々と大変申し訳ありませんでした。
追伸
カントリークラブ内の古戦場跡地は見てみたいです(((^^;)m(__)m
ご無沙汰しております‼️
お元気でしたか? なるほどなるほど、です。 そうですよね、あの様な場所に貴兄が絡んでいないわけないですよね。
是非是非、お墓巡りご同道させて下さい‼️ 色々な方とも、知り合いたいですし、是非、お願い致します。
ただ、金剛寺さんに関しては、色々ありまして、、、、それは、会ったときにお話させて下さい‼️
あと、色々とコメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
全部読ませて頂いております。
全てのコメントに返信出来ませんがお許しください。
中途半端な返答したくないので。
是非、ご連絡お待ちしています‼️
毛利さんの陶一族への敬意の姿勢 感動しました。
この番組を見て 岩徳線で徳山訪問してみたりしています
色んな毛利様のゆかりの場所の紹介 毎回楽しみにしています
お褒めに預かり、恐縮です‼️
番組を見て、徳山とは嬉しい限り‼️
しかも、岩徳線とは親近感湧いてきます。
今後とも是非、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
龍文寺が陶氏の菩提寺であることを初めて知りました。大内氏終焉の地である長門湯本にある太寧寺を彷彿させる雰囲気が伝わってまいりました。太寧寺にも大きな山門があったようですが、廃仏棄釈の暴徒により焼失してしまったとのことです。それはともかく、お父上様が檀家の少ない龍文寺の苦境を察して、寺領を買収せずにゴルフ場用地として借地料を支払われていた話には感服いたしました。
武断派の武将「陶晴賢」が中国地方の覇者「元就」公に敗れたことは武門の誉であると思います。
素晴らしい、結びの言葉です‼️
そうなんです、あそこが菩提寺なんです。
私も、長門には手を合わせに参りました。山門があったんですね。 でも、あちらは観光客が多かったです。それに比べるとこちらは、ひっそりです。
陶家が立派な城主として勤めていた、というお話はこの動画で知りました。これまでは裏切った立場という、一般的なイメージでしたね。
見る立場の人によっても評価が変わると思うので、当時の地元の方がどう思っていたのか等、多面的な見方も重要なのでしょうね。
スポットが当てられるようになり、歴史の研究が進めば、石田三成さんと同様に異なる人物像が浮かんでくる可能性もあって、それも面白そうですね。
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
そうなんです。一般的な陶は非常に悪者扱いですが、地元では本当に親しまれたスーパースターなんですよ。
色々と掘り下げる事は大事なのかも知れません‼️
@@mourihistoryさん、小郡の陶ヶ嶽の名前がついた日本酒もありますね
興味深いです。
是非訪ねてみようと思いました。
ありがとうございます‼️
是非、歴史を感じられる場所ですのでオススメです⤴️☝️⤴️
私は新潟生まれで今は埼玉に住んでいて関東周辺の歴史は大体分かるんですが毛利家や関わりのあった武将はあまり詳しく分からないので大変勉強になります。ありがとうございます😊
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
少し遠いですが、こちら中国地方でも様々な歴史のドラマがありました。
越後なら、上杉ですね‼️ 私も、半分は関東なので、そちらでも動画を作っていきたいと思っています。
これからも、宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
殿、分かりやすい解説ありがとうございます。ご先祖さんが戦った陶家に敬意を払ったご解説、痛み入りましてござりまする。
お褒めに預かり、恐悦至極に存じます‼️
これからも、精進して参ります⤴️⤴️⤴️
お祭りの盆踊りの影絵がどう見ても『阿波踊り』なんですけど😂
コメントありがとうございます。そうなんです(笑)
お寺のロケなのにご当主の胸に「Deus」って書いてあって笑いました(笑) 周南方面は徳山動物園周辺と若山城跡地くらいしか行ったこと無いので動画解説助かります。
デウスの布教を許されたのは。。
お屋形様ではございませんか‼️
面白かったし興味深かった。 先週、元就公へ墓参りに行きました。
明日も、ちょっとふらっと高田市へ足を運びます。
お褒めに預かり恐悦至極です💃⤴️⤴️⤴️‼️
え、元就の墓所や、高田市。と言うことは、私の故郷近くにお住まいなんでしょうか? 今後とも宜しくお願い致します⤵️⤵️⤵️👮
龍文寺や陶家についての動画勉強になりました。
陶家って言ったら自分はやはり大内義隆と陶晴賢の色恋沙汰の関係が頭に出てきます。笑
結果的に陶晴賢を上回る毛利元就殿は、やはり素晴らしい知力の持ち主だと思います。
良くご存知で‼️
男色の関係にあったことは事実です。
そんな事も、反乱に関係あるのかも(笑)
龍門寺のことでなく不躾ですが、45年以上前のゴルフのデビューが龍門寺近くの徳山カントリークラブでした。
その時、俳優の勝新太郎さんがお越しでした。色紙にサインをいただきましたので、今も持っています。
ゴルフは、まだ5番アイアンだけで練習していましたので、前半は5番アイアン中心でプレーして結果は54でした。初めてにして54は立派という評価でしたが、後半はクラブを何度かウッドで試してOBをだして64でした。
その後、何度も徳山カントリークラブにいきましたが、遠い昔の思い出となりました。
ええええ‼️
それは、嬉しいですね。
父が良く勝さんの話をしてましたから。
45年前となると、ゴルフブームの頃ですね。しかもデビューが徳カンとは光栄な限りです。 それは本当にご縁ですね。
陶一族最後の攻防が想像出来ました。毛利家は征服範囲が広くて大変ですね。
最近、あちこちの山がソーラーパネルで崩されているので、無事なようで良かったです。きっと陶一族の御霊が守っているのでしょう。
ついでに悪い外務大臣を懲らしめて欲しいな
お久しぶりです‼️
あの辺りにも、ソーラーパネルの計画の話は持ち上がってます。。。 そうならないと、良いのですが。
外務大臣、、、、ハニートラップにかかったりと、、、 一応、同郷なのが困ったものです(笑)
お殿様に覚えて頂き光栄です。
毛利元就公と陶一族と尼子一族の御霊が共闘でソーラーパネル阻止と外務大臣へのお仕置きをして頂くようにお祈りします🙏
毛利家御霊「陶殿、尼子殿。怨念は外務大臣へどうぞ👻」
ありがとうございます⤴️⤴️⤴️💓
歴史好きには 感動
ありがとうございます!
いやー最高に面白かったですよ。陶晴賢も徳山藩初代の就隆公も確か日向守。オカルト大好きです。なんかトロイ戦争みたいな攻めかただったんですね。500年前の幽霊って結構古いですけど、八つ墓村も尼子の残党臭いので毛利氏が関係してるかもしれませんね。是非尼子義久と真の和解をお勧めいたします。殿はノーサイドの精神を貫いてください。(_ 笑_)しかし、徳山領大井では、なんと角髪を結った古墳時代の幽霊を見たという話があります。勿論毛利家とは関係ありませんが、こうなったら、尼子義久とあわせて古墳時代の怨霊も殿の力で成仏させてあげてくだされ。
テロップで酒及び生臭はは山門内に立ち入れないとありましたが、酒は般若湯、お茶けと誤魔化し御願いします。輝元公の客分となった尼子義久とは怨念はないては存じますが、山崎親子、陶氏ときたら画竜点睛が必要ですね。奈古大井の徳山領もご巡回してくださいませ。
いやー❗刀禰さんは、相変わらず上手い‼️ トロイの木馬(笑) 八墓村は毛利家から逃れた残党の話ですよね。あれも、尼子だった気がします。
ならば、余計に奈古に行かなくては。
余談ですが、最近、奈古の神社でたまたま町長にあった人が、家紋が徳山であることを指摘したところ、「ここは徳山藩です‼️」と一喝されたそうです。尼子への弔いと町長との会談をしに参ります‼️
@@mourihistory 昨日のyabの伊集院光の番組、ご苦労様でした。徳山動物園由来の件ですよね。僕はヤボ用で見逃しましたが、姉から話はききました。花田君に是非切腹申し渡してくださいませ。あまり昔のことに興味なさそうで、近所の人でも徳山藩勘場跡を知っている町民は皆無でした。町長の責任です。
こんにちは。我が家は、関東武士である千葉一族の分家の家柄らしいのです。江戸時代からは、徳川家の旗本でした。私自身、関東以外の大名等については、薄く広くという感じで、勉強してきました。この番組は、私自身大変
勉強になっております。ありがたいことです。質問ですが、三本の矢は、なかったとある歴史研究家は、言っていましたが、どうなのでしょうか❓よろしくお願いします。
千葉氏の流れで、旗本とは外様大名からすると、羨ましい。
嬉しいコメントありがとうございます。
はい、三本の矢は、あくまで創作ですが、元就が三人の子供に宛てた三子教訓状には、毛利と言うものを疎かにせず、兄弟一致協力することが何より肝要だと書かれており。 子孫はそれを大事にしております。 三人の子供はその教えを良く守った事から、中国の故事になぞらえて作られたと言われています👍👍👍
出るんですね。桶狭間もでるて言われてます。萩城、古写真でみたのですが、かっこいいです再建して欲しいです。
桶狭間、、、出そうですね。。。
萩城、本当に再建したいですね👍️
以前訪問しました。百日紅が綺麗なお寺でした。
仰るように、陶晴賢はどうしても下剋上のイメージがありますが、例えば豊後の名将立花道雪は、あれは陶晴賢が主家の混乱を憂いてやむを得ず行ったことで、私利私欲では無いと言ったとの逸話もありますから、必ずしも単純な逆心では無かったののかな、と思います。やり方には問題があったとは思いますが.,
お寺に行かれたのですね‼️
そうですか、道雪が言ったと言うところに真実味がありますね。 確かに、彼は本当に主家を憂えていたような気がします。
そして、焚き付けた、、、、フィクサーがいる気もします、、、、。
また訪れたい所が一つ増えました(笑)。功山寺と同じ曹洞宗ですね。「葷酒山門に〜」の石碑は
功山寺も本門の右側にあります。仏殿で自害した、大内義長と陶晴賢の末子と言われる鶴寿丸の
墓もありますので、またいつかこちらにもどうぞ!それにしても和尚さん、柔和な表情の方ですね。禅宗の厳しい修行を乗り越え達観された方の表情でしょうか?見習いたいです‼️
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
そう言えば、功山寺にもありましたかね、、、(恥) 大名家や武士は、臨済宗か曹洞宗が殆どですよね。 功山寺は、元々は大内家の菩提寺だったんですかね。
いつも、長府毛利家の墓地ばかりお参りして、罰が当たりますね。。。
最後の当主と晴賢の末子の菩提を弔いに参ります‼️ 教えられてばっかり、、、(笑)
@毛利様
功山寺は鎌倉時代末期に創建され、毛利氏の前は大内支配ですが、大内氏の本拠は、山口市の方なので、菩提寺はそちらの方で、功山寺は、大内終焉の地なので、元就公が滅ぼした側の主要な三人を、手厚く埋葬した墓地という事だと思います。元就公の流儀か、日本人に根深くある
「祟り」とか「怨念」を鎮める意味合いかわかりませんが、相手方にも最低限の敬意をはらった
のではと思っています。
陶氏は晴賢の祖父・陶 弘護が大内家の守護として大内氏が長い間、京都にいた頃、北九州の少弐氏を抑えていたりと活躍しすぎたので大内氏が吉見氏を裏でひいて信頼に陶 弘護を討たせたんではないか?等々あります。これだけで話が長いなりますね(笑)
弘護亡き後を陶氏家中で兄弟が争う結果となり結局、三男の興房が当主となり、一方の重臣の内藤氏も陶 弘護亡き後に同じような運命となり結果的には内藤氏の娘が大内義興の室となり後の義隆を産むことになりますね。やはり歴史は掘り下げるとまだまだ出て来ますね。近年の資料から陶 晴賢は父・陶 興房の「養子」ということも見つかったようです。私は「大内氏實録」に記載があったように思っていましたがあれは「二次資料」で書かれているようで「一次」資料の中で専門家の先生が発見したようですよ。まだ直接お会いしてお話を伺っておりませんが、今年になり広島大学の秋山先生の講演があり、講演後に直接お話を伺ってそのお話を聞きました。
徳山毛利氏もまだまだ毛利さん所蔵の古文書の中に色々あるはずですよ(((^^;)
知りませんでした。
行ってみたいと思います。
お久しぶりです‼️お元気でしたかが
是非、静寂に包まれた素晴らしい所です‼️
行ってみたいな
是非是非‼️
毛利と陶家と裏話は興味が湧きました。貴重な御話し、ありがとうございました。要望ですが、奥方の名前が歴史的になく?尼寺に入門してからの名前しかありません。その歴史的背景も興味がありますので、よろしくお願い致します。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
また、リクエストありがとうございます。ご指摘の件。確かに、疑問ですよね。
残念ながら、当家の家系図にせよ、女性は女子としか記載されていません。 幕末くらいから名前が散見されます。 他では伝記などに頼るしかないのかも知れませんが。私なりに調べてみます‼️
@@mourihistory さんへ 元就公の正室の「妙玖」様の事は {日本の100人 毛利元就編}にも本名謎とされてましたが、「当家の家系図にせよ、女性は女子としか記載されていません」このご回答こそが歴史マニアがウナル歴史のミステリー
だから歴史の勉強は楽しくてしょうがないのですね。
面白いお話をありがとうございました。最後、和尚さんに会った「その時は??をお願いします」が聞き取れません。浄財かな?と推定。
少しでも、面白いと思って頂けたら嬉しいです‼️ はい。正解です ○
お疲れ様です。おお!!N〇K顔負けの本格的歴史教養番組でしたね(もちろん山口県民と言う過剰バイアス認めますが)イヤー魅入ってしまいました。そして菱形家紋の答え合わせビミョ~に間違えてしまいました。大内家と思ってましたが陶家でしたか。
夕方の休憩時間に歴好きの方のブログに大内家と陶家は多々良家から分かれた親族だから同じ形だよ 的なるもの目にしました。
次週も楽しみにお待ちしております。
佐藤さん‼️ありがとうございました‼️
また、お世辞も上手い。嬉しいです。
そうなんです。あの菱紋は大内とほぼ変わりませんよね。 解りづらかったと思います。 四つ菱は、源氏のシンボルなので武田とか使ってますよね。 なんか、それを更にきらびやかにしたのが大内菱です。
僕も調べてみます‼️
今回もいいお話でしたね。感動しました。そして今回は遠方からも訪問客が。。
「陶」と言えば、子供のころ、山陽本線徳山駅より西に、たしか「陶駅」という鈍行が止まる駅があったと思うのですが、今はもうなくなったのでしょうか。汽車の窓の外に、たくさん土管のようなものが散らばっていて、もしかして昔から陶器(すえき)のようなものがたくさん製造されたところだから「陶」という地名になったのかな、などと思いながら見ていました。そして「陶」という地名があるところを見ると、あの陶晴賢の根拠地もここだったんだろうなとも思いながら。
そういえば、その近くにかつて富田駅というのもありましたね。こっちは新南陽駅に改称されたという情報が見つかりました。
どんどん地名や駅名が変わりますね。歴史が抹殺されていくようで心配になります。
メッセージありがとうございます‼️
えええ、陶駅そうなんですか?調べてみますね。 山口市の方には、確かに陶器の駅があったとかないとか⁉️
富田はきっとあったんでしょうね。
富田中学校は今もあるので。
ても、そうやって確かに歴史が刻まれた駅名や地名が失くなって行くのは寂しい限りです。 徳山も然りです、、、。
@@mourihistory
徳山もですよね。近隣の町の古老たちも驚いてました。
その通りです。寂しい限り‼️
2023年に龍文
寺に行って来ましたがカントリーの閉鎖寂しいですね😢
そうなんです、、、自分自身少しショック、、、(涙)
宗家32代元栄さんは、雑誌かなんかで見たことあるな。
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
とても、素敵な方です‼️
宗家の当主らしい👍👍👍
岩国は何回か行ったことあります。
いいところですよね👍️👍👍
大成寺の代々の和尚さんたちは、毛利家代々の当主を大切に扱ってくれてんだね👍
福島‼️ありがとう‼️
そうなの。
でも、コメントの動画間違えてるし(笑)
いつも、本当に嬉しいよ。
@@mourihistory
ホントだ😲
なんでだろ🤔
色々と見てくれてるんだね‼️
初めて陶家墓所の紹介を拝見しました。
某ゲームで(ホントは違うのですが)陶を名乗っていますので、いろいろ気持ちが落ち着いたら訪ねてみようと思います。
(本来の意味なら中国浙江省も行かねばならない)
コメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
陶さんがご贔屓なんですね。
是非、訪ねてみてください。
浙江省、、、気になりますね‼️
春秋戦国時代の越王勾践の重臣、范蠡です^_^
隠居後は陶朱公、と名乗りました。
とう、と、すえ、ですね。
あ、なるほど‼️
納得です👍👍👍
こんばんは。殿。今日もありがとうございます!『陶晴賢を誅せしは~』ですね。でも、なぜ晴賢は反逆したんでしょう?謎ですね。御老師もお元気そうですね。いい所なので、一度行ってみたいです!
メッセージありがとうございます⤴️⤴️⤴️
そして、核心を突いた謎。。。
陶晴賢の反逆に関しては、私は、元○公が大きく関与、、、、、。
是非、お寺に足をお運びください‼️
殿。早速のご返信ありがとうございます。すみません、昨日は疲れすぎていてすぐ寝落ちしました。晴賢の反逆にはやはり元〇公ですか・・・。しかし、陶の反逆時は、未だ安芸一国の盟主的な存在だったと思うので、そこま手が回るかな?と個人的には思います。古刹いい所ですね。是非お伺いしたいです!!
疲れ過ぎ。気をつけて‼️
@@mourihistory 殿、ご心配をかけまして申し訳ありません・・・。ありがとうございます!昨日は忙しくチャンネルも拝見できませんでした。これから拝見させていただきます!!!殿にもお身体お気を付けください。寒くなってきましたから。しかし、世の中に感謝ですね。こんな、平民が、殿様とメールさせていただけるとは・・・。世が世なら、無礼打ち???
元就が苦労して 領地を増やしたのに 輝元が家康にだまされて ほとんどなくなった
確かに、、、(涙)
龍文寺は昔ゴルフ合宿で泊まったところですか?
のり、、、。
その通り。タバコを吸って和尚さんに怒られた、あのお寺です(笑)
犬の企画やろうね。
大内氏・陶氏に関して一般的には厳島合戦以降は殆ど語られないので、このような動画は大変に貴重だと思います。
怨恨に対するお気持ちの話ですが、毛利氏も幾度と滅ぼされる危機に見舞われているので、この手の話は当事者の方達にとっては本当に難しい物だと思います。
最後に私事で恐縮ですが、この連休を使って世田谷松陰神社と下田の吉田松陰寓寄処・弁天島に参りました。偶然杉家のお話があって驚きですΣ(・□・;)
いつも、ありがとうございます‼️
そうなんですよね、、、動画を作る際にも、非常に気を使う内容ではあります。
でも、出来るだけ素直に発信しようと努めてはおります。
それにしても、世田谷の松陰神社に行かれて、かつ、下田にも。。。
因みに、下田には行けども、そこには私は行ったことがございません。
勉強になりました‼️
@@mourihistory 偶然に松陰先生を匿ってくれただけの地域の方々が今でも一生懸命運営。維持をされています。スタッフの方もいまだに山口の事を熱心に勉強されているのも驚きました。
毛利家のご子孫が訪問されたら絶対に喜ばれると思いますので是非!
大内政弘がわざわざ応仁の乱に参戦してなければ、大内氏の弱体化、衰退は回避できた?!大内義隆が家中をしっかり治めていれば、陶の謀反は起こらず、その後の厳島神社の合戦は起こらなかったのでは…?!そうなると、この動画はアップされてなかった?!歴史というか、時の流れ、人間ドラマってスゴいなと思います。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
歴史にもしは、ないとしても、そう考えてしまいますよね。 大内家に隙がなければ、毛利家のその後は大きく変わってたでしょうし、戦国の地図も大きく変わってたと思います‼️
7分55秒で出てきた杉氏の末裔が神杉と名を変えて今自治会長をなさっています。
先生‼️ほおー❗ それは、知りませんでした。しかし、杉家と毛利家も、また、深い因縁があるんですよ、、、、
よく勉強してるな
お褒めに預かり嬉しいです。
陶隆房がやむにやまれぬ事情で大内義隆に反旗を翻した苦しい心情は、当初それに同調してたご先祖様の元就公も充分理解してたものかと。
以後は様々な利害関係で敵対してしまい、あんな結果になってしまったけど、それを誇らずに陶家に対しての情を忘れない現在の毛利家の方々は素敵だね。
とても、嬉しいコメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
仰る通り、山口の乱は言うに言われぬ事情があり、元就も良く解っていたと思います。 勝敗は武士の常ですが、陶家が地元で愛されているのを見ますと、やはり立派な武将だったんだなと、しみじみ思います。
@@mourihistoryさん、あのあたりの事はアメリカ人学者の方がかなり調べられました。動画のアドレスを出しておきます。
陶晴賢と言えば、陣内孝則のイメージが強いですね!
わかります‼️ あの、激しい感じが良かった‼️
花菱家紋(大内花菱)は大内氏の家紋でしょうが、大内氏から別れた陶氏も花菱だったんですね。
それにしても陶氏の末裔が現代に続いていたのは知りませんでした。
あ、すみません、陶氏の菩提を当主様が弔いに手を合わせに来て居られると言う事でしたか。間違いました。
毛利家の人々は毛利元就から、乱世であるとは言え、相対する敵を打ち破り、負かしても、その霊を弔うと言う事をされていますね。厳島神社を合戦場にしながら、合戦後に海水で社殿を洗って清める、誤って族滅した家系を許して一族に後を継がせる、尼子氏に至っては罪人扱いをされながら、後に家来として取立てているという寛大さが今のお家の繁栄に繋がっていると思います。
嬉しいコメントありがとうございます⤵️⤵️⤵️
あの、墓所の石碑には末裔の方が建立されてると書かれていました。一応、居る事は居るんですよね。
元就が慈悲深い処置として尼子を残したこと、良くご存じですね‼️
それまでは、結婚厳しい処断をした、自分に対する罪滅ぼしもあったかも知れませんが尼子のご子孫は確かに佐々木としてちゃんと残っていますよね‼️
こんばんは^_^
家紋から大内家か陶家とどちらか迷いましたが、陶家でしたか!
ちなみに陶氏の家紋は「唐花菱」といいます。大内氏の家紋は「唐花菱」とも呼ばれるケースもあるみたいですが、「大内菱」と呼ばれているケースが多いですね。
陶氏は大内氏の支流だったと聞いていまし、「血染めの廊下」も「橋に現れた霊」と怖い話ですが、その大内氏は朝鮮半島に存在した「百済」王家の末裔とする説や同じく「伽耶」の王族の末裔という説があります。
確かに負けた側=悪とするのは歴史の流れで当たり前なのかもしれません。しかし歴史を知る上で勝者側だけでは歴史の究明にはならず真実と断定は難しい。
敗者側の主張もきちんと理解してこそ本来の歴史的な事実に近づく事ができると私は思います。敬意を表す事は決して無駄ではなくその気持ちは伝わっていると思います。
「血染めの廊下」「橋に現れた霊」など
怖い話でしたが、毛利さんが怖い時にドラえもんの歌を歌っていた事に心がほっこりしました😂。同じような経験があるので凄く分かります。
怖い時に歌われる曲でもドラえもんの歌は結構多いみたいですよ。
いつも、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
素晴らしい説明をありがとうございました‼️ しかし、百済の王の末裔が菱紋である事が不思議ですね。 温故知新とは、仰る事だと思います。
そして、今度、怖いお話教えてください(笑)ドラえもんが、共通なのが面白い‼️
@@mourihistory さんへ
こちらこそ^_^
毛利家・陶家の歴史を考える機会になったと思います。
毛利氏が「大江姓」であるように大内氏は「多々良姓(たたら)」と言われています。当時の天皇から褒美として賜姓であると記録されているみたいです。
ちなみに徳山毛利家は子爵であるのと同じく大内氏の子孫も子爵として続いています。
周防山口の地名を名として山口氏(牛久山口氏)
家紋もご指摘も素晴らしいです^_^。
全てというわけではありませんが、渡来系出身家の家紋には大陸から来た花等を紋様にする事も多いみたいです。
今回の大内氏・陶氏も同じ「唐花菱」ですのであながち間違いでは無いかもしれません。
ドラえもんの歌はやっぱりというか何故か歌ってしまいますね笑笑。
安心するテンポだと言う人もいるし元気よく歌って霊を近寄らないようにするって言う人もいますが、やはり前者の方だと思いますね。他に歌う曲はあるはずなのに謎ですね。
でも逆に夜道でドラえもんの歌を歌うのも側から見たら怖いとも思いますよ:(;゙゚'ω゚'):。
是非怖い話はいいですね!
陶長房を討った杉重輔は、父重矩を陶隆房に討たれているので、息子同士が因縁の戦いだったわけです。
確かに‼️ そうですね。
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
杉家ですか。杉家というと吉田松陰先生、高杉晋作先生につながりますね。
メッセージありがとうございます⤵️⤵️⤵️
確かに、杉姓はそこでも絡んで来るのですが、もしかしたら杉違いかも知れません。
調べてみます‼️
ありがとうございます。記憶だと、高杉晋作は安芸銀山城の武田家の一族。吉田松陰先生の杉家は、大内家の家臣だった杉家一族だと思います。杉家は最期まで大内義隆公に味方し、そのために陶晴賢により討ち取られたらしいです。生き残った杉家が毛利本家に仕え、幕末に吉田松陰につながるようです。
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
もう一度、勉強致します‼️
徳山大仏が陶氏関係ですね
そうなんですね‼️
知らなかった‼️
@@mourihistory さん、是非行かれてみてくださいませ、徳山大仏様は昭和初期に建立され、昔は違う場所にありましたが、戦後は徳山法華講が中心となり、いまの法華宗のお寺に移りました。
群馬県生まれですが、山口県萩市の玉林寺陶氏のどの程度の支流かわかりませんが末裔です。祖父が養子できて、祖母もお見合いで山口の華族からきていたので、毛利との関わりもあったのかなぁと思います。
私は現在東京でパソコンの卸売業を営んでいますが、一度山口でいろいろな話を聞いてみたいなぁと思っています。
コメントありがとうございます!
それは、とても興味がありまた、ご縁のある方とお見受けしました。
陶家のご子孫が何人か、このお寺に訪れているみたいですが、幸喜さんのルーツも恐らく多いに関係性が深そうですね。
お祖母様は山口からの華族とはいよいよですね。 東京なので、なかなか大変かと思いますが、何かあればお手伝いしますので是非、ルーツの深掘り頑張ってくださいね👍️
祖母方の家系図と記録を以前いただいたものがあり、見直しました。毛利家家臣であった松田家、松田兵吉の家系のようです。(元禄で農民になった際に改姓し村沢となった)と書いてあります。
有地品之助の姪も嫁いできている?様です。
山口広島あたりはいつも出張の際に通過してしまい、あまりゆっくり回れたことがないので是非足を運んでみたいと思っています。
戦国三代奇襲
はい。その中でも一番厳島が鮮やかだったのではと。
徳山カントリーはよく利用させていただいてますが、毛利家と所縁のあるゴルフ場だったとは初めて知りました。
そのような場所が近々閉鎖されてメガソーラーにされてしまうと聞いてましたので、とても悲しいです。
最近山口県下のゴルフ場がメガソーラーにされて隣国の企業に土地ごと買収されてるとも聞きます。
毛利家と所縁のある土地なのですから、出来れば外資に委ねることのないよう願うばかりです。
動画と直接関係ない書き込みご容赦下さい。
不適切でしたら削除してください…。
ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
そうなんです、徳カンの理事長と社長を父が兼務していました。
トリッキーなコースですが、僕には思い入れが多くあり、ソーラーの件に関しては忸怩たる思いです。
ただ、山口県内にゴルフ場の数が多くあり過ぎたことも事実と、受け止めています。。。寂しいですね。
殿自らご返答ありがとうございますw
徳山は仕事の関係で頻繁に訪れる地ですし、徳山カントリーは存続している限り利用させてもらいます。ゲーム性に富んだ良いコースですし、NEWコースは変則コースですけどとても面白いです。
ゴルフされてる方はコースが使用出来るうちに一度訪れる事をお勧めします。
なんか、嬉しいです‼️私は、草木一本までコースを覚えております(笑)
地縛霊の寿命は400年と言われています。それ以降は五次元以上に成仏して輪廻の輪に乗る言われています。
なるぼど、、、です。
勉強になりました‼️
陶晴賢は、信長の野望では、戦闘力80でござる、元就公は、戦闘力94でござる、吉川元春の戦闘力85、小早川隆景の戦闘力82でござる、なかなか、強いでござる
ちょっと、数字に不満があるでござるが、ヨシとするでござる。
ありがとうございます!
佐藤さん、、、(涙)いつも、いつも
、ありがとうございます⤵️⤵️⤵️
@@mourihistory さんへ 少ないですが陶家か毛利家の墓所の維持に使っていただければ本望です。
行ってみたいな
是非、行っていただきたいです👍
ありがとうございます!
ありがとうございます‼️⤵️⤵️⤵️嬉しいです。
歴史チャンネルの励みになります。
今後とも。是非宜しくお願い致します。
@@mourihistory 😆私の家系は幕府方だったので長州藩は苦手意識がありましたが、このチャンネルはとっても面白く、おかげで親近感が湧きました!これからも色々教えてください。
最近で、一番嬉しいコメントです‼️
僕も幕府を尊敬してますし。 お互い歴史を未来に伝えられたらといつも、思っていました。 なかなか、コメントが多くて返信を見る機会が少なく遅れてごめんなさい。 違った意味で、また、励みになりました‼️