【ゆっくり歴史解説】鎌倉幕府の滅亡
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- čas přidán 18. 06. 2020
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正中の変
誤 せいちゅうのへん
正 しょうちゅうのへん
化粧坂
誤 けしょうざか
正 けわいざか
ご指摘くれた方々ありがとうございます。
鎌倉幕府の滅亡を題材にしたゆっくり解説動画です。
元寇で鎌倉幕府の寿命は100年短くなったとも言われていますが、
実際には社会の変化などの御家人がついていけなかったなどもあるようです。
後醍醐天皇、新田義貞、楠木正成、足利尊氏など様々な英雄が出て来た時代でもあります。
鎌倉幕府の最後は、呆気なく滅んだイメージもありますが、
実際には、難攻不落の鎌倉の要塞に立て籠った幕府軍を破る為に、
新田義貞はかなり苦労して話もあります。
圧倒的大軍を擁しながら、正攻法では倒せなかった話もあります。
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ゆっくりで長編は大変と聞きました。本当にありがとうございます。楽しく見てます。
越の勾践の評価の苦労を共にできるが楽しみを共有できないというのが後醍醐天皇にもあてはまりそうなのが皮肉
その相の人って結構多いと思う。乱世・混乱を収集した賢君が世が落ち着いてくると暴君になる君主とか。始皇帝や漢の高祖はその代表例なのかな?
戦史もいいけど、経済史で紐解く歴史解説も見てみたいと思わせる回
竹崎季長に恩賞与えたのは大正解だったよな
恩賞与えたおかげで、後世までに残るあの有名な絵巻物を残してくれた
本人は子孫に残す意味合いで残した蒙古襲来絵詞が世界的な研究対象になるとは夢にも思っていなかっただろう
>竹崎季長に恩賞与えたのは大正解だったよな
これは自分も凄く思います。後世の残す事をやってくれたんだなと感じております!
あの絵巻物は「恩賞寄越せ!俺はこんなに奮戦したんだ!」とアピールする為に竹崎季長が描かせたと記憶してますが?絵巻物でアピールしたのが効果的だったのか恩賞貰えましたな〜!(≧∇≦)b
@@halkalay2023 実は逆。竹崎季長が恩賞を貰えた経緯の話がそもそも絵詞に載っている話。あの絵詞自体は恩賞を貰った後に描かれたもの。
@Eagleなイッヌ さん
誰が言ったのか?専門家ですよ。私が記憶してるのは、昔見たNHKの歴史番組。絵巻物の絵が後世に書き直された事を科学的に証明してました。歴史は様々な意見を検証していくのが、面白いトコロ。(≧∇≦)b
ちょっと感動しました…!あまり興味のない時代だったけど、これを期に鎌倉に行ってみようかな
鎌倉幕府滅亡までの流れは単純に元寇で衰退したとか高時が暗愚だったという話では片づかない感がありますね、でもさらにカオスなのはこの後、後醍醐、尊氏、直義、北条時行といろんな勢力が出てきてもうわけわからん、中先代の乱から南北朝への解説もお待ちしております(笑)
大化の改新のエンディングでしょうね。緩やかな地方経済から極端な国営方式に対する最後の終焉が鎌倉幕府の勃興であり、その鎌倉幕府も農業経済から貨幣経済への移行について行けず崩壊したと見てます。
幕府視点の幕府滅亡動画まってます!忘れた頃にでものんびりと作成して下さい。
日本史扱っていただけるのはありがたい
これから日本の武将たちを扮するゆっくりたちのドヤ顔を見て行きたい
自分の中で、新田義貞が
かわいいキャラになって
しまいました。
大変面白く拝見しました。
長崎高重の
「酒が呑みとうございます」
は涙を誘いますね。
時間が出来たので久しぶりに見てみました。フランキー堺さんと鶴太郎さんのコンビを懐かしくおもいます。
鎌倉幕府滅亡の詳しい動画で、最後まで勉強になりました。
40分あっても最後まで中だるみせずにサクサク進むテンポの良い動画
思わずチャンネル登録しちゃったよ
チャンネル登録ありがとうございます。感謝です!
動画楽しかったです。
もしよかったら鎌倉幕府滅亡後もやってください。
同意。
九州の南朝派・北朝派・直冬派の三つ巴もしてほしい
調べてるけどよくわからんし・・・
初めて動画拝見しました。これが正しい歴史みたいな話でなくテンポも良くて楽しく観られたので登録しました。
鎌倉幕府崩壊も十字軍に失敗した後のヨーロッパでの騎士階級や諸侯の没落と似ているような気がする。時をほぼ同じくして商工業が発達したり、座(ギルド)が形成されたりというのも含めて似たようなことをやっていたんだな。
鎌倉幕府の滅亡前から南北朝のあたりは、
出版されてる書物を読んでも利害関係や対立構造などが書籍ごとに結構バラバラで、
ぶっちゃけ自分はさっぱり分からないので今回の動画は有り難かったです
後々に後醍醐天皇に関する動画も作成予定あるとの事なので楽しみです。
ついでに南北朝くらいよく分からん応仁の乱も何時かやって下さい(他人任せ)
10年前くらいにキミノナヲ。という護良親王の正妻の主人公のケータイ小説が流行っててこの動画見てすごく懐かしい気持ちになりました
何それ面白そう
得宗家は全盛期だったのに、「職」等の権益の重なり合いで、権力の空白域が生じたため、滅亡してしまったとか。
その説を少し出していたのが良かったです。
教科書の数行で読み取るには難しすぎる
化粧坂と書いて「けわいざか」と読みます。
鎌倉幕府初期に平家残党の討伐があり、平氏方の武将の首を持って鎌倉に入る前にこの坂(切り通し)の湧き水で洗い首実検にたえられる様に化粧をした事が由来になって化粧坂(けわいざか)と呼ばれているそうですよ。
解説ありがとうございます。勉強になります。
名前の由来までは知りませんでした。
間違った部分に関しては、概要欄に訂正を出したいと思います。
和田塚は、和田一族が滅亡した場所だし、
油壺は、三浦氏が滅亡した時に、全員海に身投げして、湾が血で染まって油の壺のように見えたから、油壺と呼ばれるようになったとか、
鎌倉や三浦半島は、怖い場所がたくさんありますよね。
やっと流れがわかってきた
逃げ上手の若君にハマってるからありがたい😊
妖夢「国を滅ぼした王様って大半の場合は悪く言われちゃうんですよね」
確かに武田勝頼や北条氏政とかかなり悪く言われましたからね。
武田勝頼のことを、いつ誰が、どう悪く言ったんでしょうか?
武田勝頼はわりと、悲劇のヒーローとして描かれる場合が多い印象があります。
北条氏政も、立派に戦って、最後は立派に切腹した人だという印象です。
織田信長や豊臣秀頼、徳川慶喜、松平容保、真田幸村、平家の滅亡、忠臣蔵の浅野内匠頭などはどうでしょう?
滅びた殿様たちが、みんな悪く描かれてるっていうことでもないような気がします。
源義経や木曽義仲、新田義貞、平将門、楠木正成、源義家や実朝…
日本人は滅びたヒーローが大好きですよね!
武田勝頼もその1人のような気がします😄
今は評価が変化したんだと思いますよ
私の記憶では20年くらい前は、信長に敗れ家臣の離反を招き武田を滅ぼした半端な後継者という評価が多かった気がします。
今は研究が進み変わったのかな。大河ドラマ「真田丸」でもかっこよく描かれて話題になった
氏政は小田原評定
勝頼は馬場が反対したのに
夜戦をしたからかな。
城攻めだけで終わらせれば変わってたかもね。
@@ACAOATAMI さん
小田原評定… たしかにそういうイメージ持ってる人が多いかもしれないですね。
しかし元々、小田原評定というのは、後北条氏が先進的に取り入れていた民主的な合議制のことであり、
それによって後北条家は、5代に渡って家臣や国人の裏切りが皆無に近かったと言われていますね。
結果的に武田と北条が織田や豊臣に勝てなかったのは、これはもう、時代の流れと言うしかないことで(小田原を包囲した豊臣の軍勢は22万。当時世界一ぐらい強かった可能性あります。北条氏政以外の誰であっても、勝てる可能性はなかった)
武田勝頼や北条氏政の無能が原因で滅びたわけではないし、
逆にもし、勝頼や氏政が、織田や豊臣に勝てないと悟って、戦わずして早々に降伏していた場合、聡明な名君と言われたか?
その場合やはり、卑怯者のそしりを受けて、家臣の離叛を招いてしまった可能性も高いですよね。
そして最期、氏政の切腹は、北条氏の降伏の条件にはなかった。
つまり秀吉は和睦の条件を破って氏政に切腹を言い渡したわけだけど、
氏政は、うろたえたりもせず、立派に辞世の句を読んで切腹しました。
決して暗君の死に方ではないし、決して暗愚な殿様のせいで国が滅んだなんてことではないですよね😄
Silver Surfer
北条氏政がダメだったのは戦国の時代に合儀制だったと思うんですよね。
関東政権とって大国なら民意制でもよかったのかもしれないけど
豊臣のスピードについていけなかったこと
織田家とは親善していたのに
秀吉にはしなかった事。
やっぱり氏康の真似をして籠城で勝負した事でしょ。
降伏したら切腹させられること
この時代なら当然だと思うのだけど
わからなかったと言うのは世間知らず
戦略と時制を読むのことには
乏しい印象。
その辺は氏直の方が時代を読む力は
あったのかもしれませんね。
勝頼は最初から貧乏くじ引いた感じですね。
10:41〜
夢を見た後の夢解きで河内に楠木正成がいるのが分かるとか凄いな...
これも後醍醐天皇の成せる技なのか?
最後の酒宴は妙に泣きそうになるな。切腹の文化ってのは実は美しいものなのかもしれん。
後醍醐天皇、楠木正成、新田義貞、等は南朝を正当とする人々からは神格化されましたからその記述もかなり誇張されたと思います。義貞が幕府を滅ぼした時の指揮の見事さについてですが、新参の武士をそこまで手足の如く動かすのは無理があるのでは、と思ってしまいます。正攻法の平押しが実際のところだったか記述の通りなら義貞直属の配下は180騎ではなく少なくとも2000騎以上はいたのではと思います。そもそも180騎しかいない義貞の指揮に他の武士が従ったというのは無理があるのではないでしょうか?千寿王の力を足したとしてもです。
新田さんといやあ
黒乳首
今から、あのジャンプの連載が
この世界に入ると思ったら胸アツ。
鎌倉時代末期には時の執権より北条氏惣領の家系である得宗家の当主の方が実権を握っていたと言われている。
この人の動画対話形式のやつすげぇわかりやすくてすこ
日本史をあつかってくれてありがとう。
「急な寒冷化」
例えば「歴史に(文字として)残っていない」火山の大噴火や隕石の落下とかで微細な塵が大量に大気中に撒き散らされた結果とかだと面白いなぁ、とか思ってしまいました
なぜ寒冷化すると
政変する必要があるんだい?
別にこの人たち
マニフェストとして経済改革掲げてないっしょ
稲村ヶ崎の潮が引いたのは孔明の赤壁の風が変わったのみたいですね
ナポレオンまでの近世全部冷え込んでたんだか なら冬将軍もウィーン包囲も納得
日野すけとものお墓は鎌倉市梶原にあります。親戚の家から近いため梶原に行くたび通りましたが、さみしいところにあります。
鎌倉幕府の滅亡は新しい時代の到来とイコールで結べなかったからどうしても目立たないよね。
キャラの濃さなら歴代天皇トップ10に入るであろうガンダーラ天皇の影に隠れるし。
バンデットという漫画が頭から離れない。
全員(アカン)枠の太平記w
モーニングに載ってた漫画ですね。
未来記の僧侶可愛いw
太平記はシリーズ化してほしいです
大河ドラマは神作と呼ばれる名作です
太平記、BSで日曜朝6時から再放送されてますよ。
@@user-ec6bg8by8r いつも見ています太平記
あとツイッターで実況しています
「太平記」と「大河ドラマ」、逆に入れたほうがしっくりくるw
後醍醐天皇の存在感が半端ない。後醍醐天皇崩御後、足利氏内部の対立が泥々して怖くなる。
前半ではメインキャラだった、
ましらの石がどうなったのか覚えてない。
北条高時も大往生していれば、室町幕府の足利義政のように文化面で功績を残せたかもしれないですね。
もしかしたら田楽が猿楽能よりも芸術として高められたかも。
鎌倉幕府の御家人が日本中に行って権力者になった人と地元の昔からの有力な名家との詳しい関係を知りたいです。お願いします。
平安時代ゆっくり解説お願いします!
個人的には保元の乱や平治の乱みたいです。
鎌倉幕府滅亡の年はよく覚えていますが、室町幕府成立の年は思い出せないです…
大楠公かっけー!
流石っす。
楠木正成=ゲリラ戦の達人=魂斗羅
お疲れ様です。
個人的に好きな南北朝に続く鎌倉陥落とはマジで楽しみです
NHKの大河で何が京じゃ!何が六波羅だ!
今の我々は尻に火がついてるのがなんでわからん!と児玉清が熱演してたのを
小学生だったが胸熱で見てた。。
歳がバレるw
そのドラマ、赤橋守時が可哀想過ぎましたね。妹が「兄上も足利に来ればよかったのに」と言い出すレベルには。
金沢貞顕「六波羅はどうでもよい!京は遠すぎる!今はこの、鎌倉を守ることが先決であろう?足元に火が付いておるのじゃ!…鎌倉の地図は何処じゃ?あれでもない…これでもない…鎌倉の地図は何処じゃあ‼」
家臣「申し上げます!京からの火急の早馬でございます!京六波羅は…謀叛軍の手に落ちたとの事にございます…!」
(この後、全身地図まみれの金沢殿がガックリと落胆)
@@armcrome6151 赤橋守時「この赤橋守時、幕府の長たる執権ぞ。足利ごとき外様連れに情けをかけられるいわれはない…!………登子に、足利御台所にお伝え下され。もはや思い残すことはない。心を強く生きられよと…それが兄の願いだと…!……さぁて、もうひと合戦!!北条の戦ぶりを披露仕ろう…!」
赤橋殿の最後の場面です。義弟(足利高氏)に心の内では同心しつつも、最期は北条一族として散っていった赤橋殿。彼の後姿には涙を誘わずにはいられますまい😢😢😢
@shing inky 殿、
私の中での児玉清は、
大河ドラマに出る度に俳優だと思い知らさせられる御方でした。
1333年というだけで覚えられる、忘れようがない。
語呂合わせ覚えるほうがかえって難しいわ。
新田義貞が鎌倉に侵入できたのは単に引き潮を利用しただけでは突破できたと考えられていません。
それでは海側にいた船からの攻撃を防ぐことができません。
そのうえ大館宗氏のように市街戦に持ち込まれて撃退される可能性が高いです。
突入の前に鎌倉に放火を行う(多分大館宗氏の突入した生き残りを利用)ことにより大規模な火災を起こし、
火災による風で海にいる船が岸から離れ攻撃ができなくなり、火災のため市街戦ができなくなったことが重要なこと
だと考えられています。
楠木正成の一番好きなエピソードは千早城で部下の糞を集めて煮るところ
そしてそれを見た側近が正成の頭がおかしくなったと思って切腹したらしい
昔同じような事やって近隣住民に迷惑かけまくって
逮捕されたおっさんがニュースになってたなぁ
ニュースになった? OK、いいね👍
それが目的だからね
討幕とか言ったって 時の政府の正規軍に 💩投げて勝てると思わないよね普通
アホだね、オワタ、氏亡フラグ立ちました、いつまで続くか賭けようか? と、娯楽の少ないこの時代 世間はこの話題で盛り上がったと思いますよ。 でも 1か月2か月 落城しなかったら?
え、まだやってるの? 幕府弱いの?と 風向きが変わると思いませんか?
ついでに 護良親王の討幕お誘い令旨もばら撒いているんですよ
だんだん面白くなって来ませんか?
正成さんが本当に狙った戦略は この情報戦なんですよ
そろそろ背後で 尊氏さんや義貞さんが 爪を砥ぎ始めているかも…ですね
土岐氏って戦国の頃には岐阜の片田舎に移ってて、守護職をしてた土岐氏は斎藤道三に追い出されてしまったって、程度の認識しか無いのですが、此の頃は結構な豪族だったのですね。
この時期はかなりの名門とは言わないけど尊氏に従ってかなりの実力でしたね
土岐 頼遠が婆娑羅大名でやりたい放題でしたね・・・
滅亡時期は過去の歴史みたいにあっけないですがね・・・
日本史ありがとうございます
どういたしまして
バンデッドの後醍醐天皇はステゴロで戦ってたよね(違)
なお後醍醐天皇といえばみたらし団子の由来の人物でもある
大河ドラマの太平記好きだからこの時代を取り扱ってくれるのが嬉しい、北条高時役の片岡鶴太郎は名演だった。
この時代は将軍だけじゃなく執権も傀儡になって北条得宗家の当主とその家宰である長崎一族が実権握って、その得宗家当主も代々短命で30代半ば~40くらいで死んじゃうし。
貞時(高時の父)の時代が中興と言えるのかもしれないけど、貞時が死んだとき高時はまだ9歳で執権就任が14歳、年齢的にどう考えても実権握るのは無理だろうし基本は長崎円喜は仕切ってたんだろう。
長崎家が実験握ってるし外戚の安達家も長崎家とやりあってたりとそんな中で得宗以外の一門から執権なりたい人なんて
いませんよね・・・
長崎家は内管領だっけ?
執事みたいな人が実権握るし。。
ただ個人的には長崎家が全ての悪とは思えない。
それまで鎌倉の中で起きた昼ドラ並みにドロドロした権力争いで幕府が一致団結できんかったと思いまする。
ただ、記憶が曖昧なんですが北条高時が死ぬ前?御所から東勝寺?にの時に小田茜さんが演じる下女に対してよい女子になったな・・・
一緒に死のうと言ったら死んでくれるかは名シーンと思う。。。。
鶴太郎さんの高時は憎めない役だった。自らの才の無さを自覚してる無念さ、そんな中でも北条得宗家の意地を貫き鎌倉と運命を共にした姿は敵役ながら悲しみを覚えたな。
あと長崎円喜も序盤は足利貞氏や高氏をいびりまくってて、鎌倉幕府腐敗の温床のような胸糞なジジイだったけど、最期の無念極まる表情を浮かべながら自決した様で全部許せてしまった。
あと楠木正成を武田鉄矢が演じていたのは驚いた
@@user-vf4gk8dx1y 弟のまさすえが浪速のロッキーがドラマデビューしたての頃でしたね@_@
@@user-fp8fe7wz7z 鶴太郎さんの高時も、フランキー堺さんの長崎円喜も見事な最期。
未見・初見の方々、8月30日の「鎌倉炎上」は大河屈指の名場面です!
個人的には鎌倉幕府滅亡の原因は元寇より分割相続と貨幣経済の発展による御家人の困窮化の方が有力だと思います。後この頃は執権より北条氏の惣領である「得宗」の方が権力を握っていました(鎌倉幕府滅亡時の執権は16代目の守時)。
それでも後醍醐天皇は鎌倉幕府に何度も組織的な反撃を受けて負けてるし
幕府が揺らいでいたといってもちゃんと統率がとれてるから
どこまで本当かわからない
なぜだか知らないけど歴史語る人たちの間では歴史の変動につねに経済ありという視点がみんな抜け落ちていますね。
@@user-zz4tq5rh2p 後醍醐天皇側に経済基盤が無さすぎますからねぇ
全く地盤がなく味方しても旨味がなさそうな方に味方するのは博打が過ぎる
当初はゆらぎもしなかった経済だが楠木正成筆頭にいつまでも倒せずに戦費が嵩んだ結果という見方のほうが強いのでは?
この守時の妹が足利尊氏の正室だった。だから、足利将軍も鎌倉公方も北条の子孫。
北条守時=赤橋守時
コノ方って、
NHK・TV放送の大河ドラマ、
太平記
で、TVドラマ俳優の勝野洋さんが演じておられましたね。
呉座勇一先生など最近の日本中世史研究の先生方の本や話を見ると、鎌倉幕府滅亡の原因は「分からない」(正確には気づいたら滅んでた)というのが最近研究の結果らしいですね
元寇の恩賞問題もこの頃にはほぼ解決し(実際竹崎季長も弘安の役の戦功で土地を手に入れている)、土地相続問題もそれで不利益を被った武士が反幕勢力に加担した形跡が見られないらしいです
どころか年々得宗の権力は拡大していき、実は滅亡直前が鎌倉幕府最盛期では?という意見も多いそうです
あと後醍醐天皇も当初幕府との関係は良好だったらしく。というのも世継ぎの世良親王が幕府から厚い支持を受けていたからであり、実際正中の変は後醍醐側近が暴走したもので後醍醐の責任ではないという認識を幕府は持っていたそうですし
ただ元弘の変では幕府は後醍醐の関与を疑い、逮捕しようとしたのでやむ無く後醍醐は反旗を翻せざるを得なかったのでは?というのが有力みたいですね
気が付いたら滅んでたと言っても、最終的には後醍醐天皇天皇が反旗を翻して其れに乗った新田義貞が止めを刺してはいるのでしょう?何も起こらなかったのですか?ゴダイゴはガンダーラを歌ってたのでしょうか?
六波羅探題撃破はともかく、鎌倉を攻める新田義貞軍の初期段階(生品明神での挙兵数)が、
異常に少数だったので、どうやってあんなに幕府を滅ぼせる数が集まったんでしょうねぇ。
大河で長崎円喜(フランキー堺)が「数万?あの貧乏御家人の新田が?皆頭がどうかしたのではないか?」と
言うのも無理はないw 申し合わせていた非常事態の狼煙でもあげていたのかも。
@@giantnioinoba2023
どうやっても何も、足利さんが挙兵したと思って関東の武士達が合流したからだろ。新田さんにそんな戦力があるわけないじゃないか。
@@user-it9tb4um2p 加えて...。
かの足利高氏(のちの尊氏)嫡男・千寿王(のちの義詮)を総大将としての軍勢集結も、大きかった???
日曜朝の『太平記』再放送。既に全話録画済みですが、ラストの紀行を入れたくて、録り直ししてます。
第22回「鎌倉炎上」は、8月30日放送予定。ちなみに、元鎌倉市民です。大船のほうだけどw 登子が避難した
柄沢から少し東に降りたところ。
投稿現在はここ⇒15:05
巨福呂坂は裏八幡から北鎌倉(山之内)に向かう途中にあります。たしか横須賀線の踏切の辺りだったような
鎌倉時代にそんな動員力があったのか疑問ですね。数字に関してはより少数でより多数を破ったとしたいが為に誇張したのではないでしょうか。足利尊氏や楠木正成は、特に前者は時代によって評価が大きく変わった事でしょうね
なんか昔みたドラマのせいで、鎌倉幕府の滅亡って、
片岡鶴太郎さんやフランキー堺さんなどが頭に浮かぶんだよな。
フランキー堺は古い!😆
8月30日の早朝6時、「鎌倉炎上」再放送。必見!
nhkの太平記ですかね。
鶴太郎氏がキモキャラだった
ような記憶があります
隠岐を脱出した後醍醐を擁して船上山で戦った名和長年が出ないのがちょと不満
鎌倉時代は高校生の時にある漫画をきっかけに興味を持ち、特に元寇から幕府滅亡の時代は色んな本を読み漁りました。この時代が好きすぎて鎌倉の名所旧跡(各切り通しや腹切り櫓など)や各古戦場跡に行き、分倍河原駅のロータリーにある新田義貞の銅像を見てわざわざ分倍河原に引っ越しもしました。今思えば若い時だからできた行動でしたね。世間的には、北条氏=悪という印象でしたので本当にそうなのか?という観点からいろいろ調べたので、人物で言うと最後の執権である北条守時や最後の六波羅探題北条仲時が印象的でした。懐かしさと共に改めて鎌倉時代関連の本を読んで見たいと思います。ありがとうございました。
鎌倉幕府の滅亡 とか 太平記 のネタになると北条高時を演じた片岡鶴太郎の顔しか浮かんでこないんだけど。
新田氏支流の大館氏は「オオタチ、オオダチ」と読むのが正しいそうです
上野国新田郡(新田荘)大舘郷(おおたちごう)に依ります
赤坂城行ったことあるけど、30万人どころか3万人展開するのも無理無理(笑)
携帯の電波も入らないような山奥ですよ。
問題ないですよ、この頃は携帯は普及してなかったから 電波入らなくても構わないんですよ。
その代わり、修験道(山伏)のネットワークや 真言宗・天台宗などの寺院ネットワーク等があり、おそらく忍びの者も使って 討幕プロパガンダとしての「不落の千早城」の情報と護良親王の討幕お誘い令旨を全国にばら撒いて討幕気分を煽り 情報戦をしていた訳です。
情報戦なので 場所はどこでも構わない。大軍が入りずらい山奥なら かえって都合が良い位ですよ。
大河太平記の「鎌倉炎上」回
長崎円喜の
「太守の仰せも道理ではある……
鎌倉は我ら北条の築いた北条の都。
我らが分身ぞ………
それを失うて、いず国か我らの立つべき
所やある。」
カッコいいなぁ
まだ足利尊氏じゃなくて、足利高氏ですね。
最初は北条高時の「高」でしたが、
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇が御名「尊治」の字を与えました。
江戸時代でも末期に棄捐令をだしてたからこのようなムーブは時代をへても変わらないんだな。
700騎あれば、新田義貞や楠木正成ならばもう一戦、自害せずに戦ったであろう
こういう気力の差が幕府の滅亡だったのではないかと
海音寺潮五郎先生が書いていますね それにしても詳しくてわかりやすい動画
新田義貞はこの時代の好きな武将です
韓信に例えられるのはなるほどと思います
個人的には木曽義仲に近いように感じていました
勝っている時、攻めているときは抜群の活躍をしますがその後にしくじってしまう
いまいち英雄とよぶ器のない感じが堪らなく心引かれます
そんな貴方に上毛かるた(『れ』が新田義貞を詠んでいる)
ちなみに絵札には太刀を沈めて干潮を起こしたみたいな場面が描かれてる。
兵力が相手の十倍以上有利なら力押しで勝てるはず。三日三晩休みなしで攻撃すれば相手が疲労してどんな勇者でも討ち取られる。問題は三日三晩士気を維持できるかどうかだが。
六波羅探題って平家の頃から凄く有名だけど、今はなーんにも無いんだよね。当時のお寺が1つ残ってるだけだったと思う。だから、それらを知って色々ガッカリしたなぁ。
将軍と執権が割れちゃったのがねぇ…
まぁ北条は源氏じゃないから将軍になれなかったのは仕方ないけど
というか三浦氏なんか有力御家人を滅ぼしたり2月騒動だったかな?での内紛やら北条同士の内紛で
昼ドラ並みにドロドロとした内輪もめありましたしね。
将軍も源氏→摂家将軍→宮将軍と変わるし
惟康親王とか3歳で将軍とかいいお飾りだし・・・
個人的には将軍と執権というより北条家一門(得宗・金沢・赤橋等と外戚の安達氏)の内輪もめが一番いけんのじゃないのかなと思う・・
権力維持のために一門でも排除は正しいとは思うが。。。
でも最後に幕府のために散っていった一門・御家人はよく戦わられたと思います・・・
後醍醐帝の話は別にって事なので、そこで語られる気かもしれませんが……後醍醐帝の反幕府の動機として大覚寺統内での皇統争いがあって、その中で幕府が後二条系を支持したために対立したわけで、別に「天皇中心の世の中にしよう」とは考えていなかった、というのが最近の話じゃなかったかな。
父親の後宇多天皇にもあんまり重視されてなかったようですしね
それはありえません。後醍醐天皇が天皇親政原理主義者でなければ、建武(延元)の和議で収まっていたはずです。なにせ、完敗にも関わらず持明院統と大覚寺統後醍醐系で両統迭立することが決まったのですから。これは亀田俊和先生の説でもあります。
少し昔にうちのお墓の家紋と新田義貞の家紋が一緒だったからおじいちゃんに聞いたら昔は家紋が今のように丸に横棒がついていたが義貞が敗れたときにおそらく民衆に一本の龍の新田が二本の龍の足利に敗れたという噂が嫌で横棒を丸に付けない家紋になってうちは元に戻ったのは明治に入ってからだっていっていたけど義貞の子孫なのかはっきりわかっていないという・・・ 家系図も信用してよいものか・・・
新田義貞って戦下手なイメージがあったんだけど、韓信に例えられてたのか……
韓王信だったら納得するかもしれない。しかし、韓信も韓王信も新田義貞と違って忠義は全うしたと言えないけど。戦術面の天才と言う意味で韓信に例えるなら楠木正成の方がいいと思う。
高校の日本史の教科書に鎌倉時代後半の北条氏の守護地図が掲載されていて、見ると全国広範囲に勢力が拡がっていて、元冦をきっかけに幕府が管轄外の場所にまで徴用徴発するようになったから、得宗家の勢威はむしろ高まったと思うんですよね・・・。
鎌倉幕府崩壊の原因はコメ欄にも散見されますがやはり勃興する貨幣経済に対応できなかったというところが妥当なトコでしょうね。
その貨幣を大量に導入したのが他ならぬ平清盛さんですから鎌倉幕府は言ってみりゃ清盛の亡霊に滅ぼされてしまったという事になりますかね。
因果応報ですね。
y arai まあ足利氏の嫡男が参戦したのが兵が集まった理由でしよ。
新田足利と河内源氏だけど
河内源氏で連携してたのかな?
将門・純友の乱、源平合戦、応仁の乱、戦国時代、幕末、第二次世界大戦と日本には数知れず混乱がありましたけど、
南北朝はある意味日本が一番混乱した時代ですよね。何せ天皇が二人いたのですから。
鎌倉幕府の滅亡は異常気象を考える必要があるのでは、この時期の小氷期への移行による寒冷化が起こっており
ヨーロッパなどでは「14世紀の危機」と言われています。
このような状態では不満分子が多くおり、お題目があればいつでも飛びつくありさまだったと思えます。
あとこの時代は「天皇」でなく「治天の君」に権力があります。なぜなら、荘園という財産を持っているのが治天の君であって、天皇では財産を好き勝手に使用できないのです。この財産の継承システムは女系がからんでおり簡単に幕府が手を出せた
とは到底思えません。この点をしっかり理解してないと平安末からこの時代は明後日の方向の理解をしてしまいます。
その小氷期が終わったのが織田信長が出てくるころって聞きました@_@
だから室町時代全般荒れてたのかなと@_@;
@@Amichans 一応調べなおしたのですが、
小氷期は19世紀が終了とされています。
信長の頃は比較的小氷期期間では温かい様ですが1645年から1715年はマインダー極小期で太陽の黒点が全く観測されなかった時期が到来します。
鳩山・緒方会談によって決した自民党結成までの道のりなどを解説してみてはどうでしょう?
近現代史も面白いですよ?
兵力の誇張は歴史書の常なのか。
そんなに兵おらんやろ~(濁声
特に、負ける側は誇張されがち。勝った側がそれだけの数に勝ったと引き立てられるために。
所詮北条は平家の流れ、頼朝公の源氏将軍三代を滅ぼした憎い相手、足利も新田も同じ源氏の流れ、積年の恨みもあると思う
4:22 建武の親政 × → 建武の新政 〇
天勾践を空しゅうすること莫れ時に范蠡無きにしも非ず。
1333年(一味散々幕府が滅びる)と覚えた
この六波羅探題が落ちた時点で、北条高塒が後醍醐天皇に大政奉還したらどういった歴史になっていたんでしょうね。
むしろ、徳川慶喜はこの歴史を知っているから大政奉還したのかもしれませんね。
どちらかというと、幕末時代は幕府側は討幕側への応戦でなく、なるべく江戸を戦場にしないように、みんな立ち回っていたのかもしれませんね。
背景が気になってしまい全く集中できない
このころに戻って蟇蛙とやり直したし😭😭
♪右に見える競馬場~左にビール工場~♪のすぐ近くで行われた分倍河原の戦いって、今の東京での戦いだし鎌倉幕府の滅亡が決定的になった戦いの割には扱いが今一つな感じがありますよね。
幕府軍的に多摩丘陵に築いた城をフル活用した防衛戦ではなく野戦に持ち込まれてしまったのか考察していただければ、と。
(太平記読み込むだけの精神力が無いだけだったり)
化粧坂=けわいざか
次は卑弥呼より前の時代をよろしくお願いいたします
後醍醐天皇は
きっと
ドリアングレイ
みたいな人物。
会うと魅了されて
人生が変わってしまう
結構皆んな被害者な希ガス
でも本当は サイコパス
もし三度目の元寇があったら、どうなっていただろう?
予言しよう。「逃げ上手の若君」によって再生数が上がる
正解😊
1333年鎌倉幕府滅亡は語呂合わせで覚えないでもみんな知ってる
後醍醐の成功はこの前の民主党と同じ。己の実力と勘違いしてはいけなかった。
昭和41年生まれの私が学校で学んだ当時は、護良親王は「もりながしんのう」と習ったんだが、いつの頃からか、「良」の文字の訓みが、「なが」から「よし」に誤読されるように変化してしまった。漢字の誤読がいつのまにか定着した例はほかにも数多くあるから、仕方ないことなのかもしれませんね。残念です。
大平記は足利尊氏が主人公の物語じゃないの?
否、太平記の主人公は、
後醍醐天皇尊治陛下ですよ。
大河ドラマの太平記は 吉川英治原作をドラマ化したもので 尊氏さんが主役ですが、古典太平記は違いますね
テロップの字が小さくて見ずらい
真言宗と関係がありそう。実はそこが本質かもしれません。
後醍醐天皇は、名前どうり真言宗18本山の1つ醍醐寺(だいごじ)と関係があるらしい。
さらに、弘法大師の絵は、胸に持っている五胡金剛を持ってい。
後醍醐天皇の肖像画は、それを同じ位置に持っている。
空海様が活躍したは、嵯峨天皇(さがてんのう)の時代。そして嵯峨天皇に信頼されていた。
その嵯峨天皇と関係が深いのが大覚寺である。
その大覚寺も真言宗18本山の1つ。
また、持明院という真言宗の寺もある。
後醍醐天皇ではなく、『後』という漢字がない醍醐天皇(だいごてんのう)は、空海に弘法大師という名前を付けた人である。
そもそも、平安時代は真言宗が天皇家と深くつながっていた密教時代と考えてよいと思う。
鎌倉時代新仏教が、信仰されるようになってきた。
だから、
『その平安時代の密教時代に戻したい!』 ということだろう。
日本史には
れーむちん、れーむちん、
が無いのか、、、
それ以外は完璧な出来なんだが
根絶やしにした源氏の怨念だよね。