矢沢永吉と高橋幸宏、若い頃の衝撃エピソードがヤバすぎる…『アイツはキャロル時代から●●で…』
Vložit
- čas přidán 24. 03. 2024
- 矢沢永吉さんは、日本の音楽シーンに多大なる影響を与えたロックミュージシャンです。現在も熱烈なファンに支えられ、精力的に音楽活動を行っています。
高橋幸宏さんは、細野晴臣さん、坂本龍一さんと1987年に結成した「YMO」でドラムを担当、国内外で高い人気を誇り、一時代を築きました。
今回はそんな二人が活躍した若い頃を振り返り、衝撃エピソードを見ていきます。
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#高橋幸宏
#矢沢永吉 - Zábava
1978年ね
永ちゃん50歳記念ライブにてスターin日比谷のバンドメンバーで恋の列車はリバプール発を幸宏氏が叩いてましたな、生で観ましたわ。
動画の中にポスターがでてきますが、国道20号線ツアーでミカバンドとキャロル見ました。すごかったです。ミカがロックしてました。先にミカバンドでキャロルが後の順番でした。ミカバンドのファンキーなステージが終わって、場内にバイクの爆音が鳴り響いて、ミラーボールが回り、泣いてるあの娘(夏の終わりのB面)の後半の演奏部分がスピーカーから爆音で流れて、ステージの両サイドからキャロルが2人ずつ肩組んで登場しました。途中でエーちゃんが「みんなロックンロール見たことないの?」とか客を煽って行儀良く鑑賞しているファンに疑問な表情でした。MCは常にエーちゃんだけです。ジョニーはジャンプして足を広げてギターをかきならす派手なアクションもやってました。常に客席にガン飛ばすスタイルでした。あとステージの中盤でソムリエみたいな人が登場してキャロルのメンバーがシャンパンとか飲んでました。ちょっと変な演出でした。ミカバンドは銀座カンカン娘とかカバーしてる頃でミカはやっぱ凄かったです。チャイナっぽい服にパンプス履いて腰に手を当ててダンスするミカはすごくヤンキー感があってカッコよかったです。トノバンはMCで富士急ハイランドのコースターに乗った話をしたりしてました。やさしそうな人柄とカッコつけた感じのバランスが絶妙な方でした。多分ないと思いますが映像があったら見てみたいです。
その変な演出、多分ミカ・バンドの悪影響ですwww。でも同じく観たいですナ〜。
矢沢さんは幾つになっても別人格として『エーちゃん』を完璧に演じきれる名役者であり策士だと思ってるし、ジョニーさんは後に本物の個性派俳優として名を馳せることになりますし、思いつくままに楽しんでやってたのだと思います。
当時はこの組み合わせにユーミンが混ざることも多かったとか・・・。なんとゴッタ混ぜな・・・w。
この時代のレコード会社の演歌〜歌謡曲カテゴリー以外への認識力や知識の無さがうかがえるホノボノとした話ですナ〜www。
『銀座カンカン娘』やってたのなら74年のツアーですかネ?
例のワンステップ・フェスティバル(内田裕也さん主催で世界的なフェスに先駆けて行われた日本初のロック野外フェス。トリにオノヨーコ、超有名アーティスト達を惜しみなく出演させたが後にギャラの未払い問題でもめるw。特に矢沢さんと内田さんの確執は伝説級。客は大満足だっただろうが出演者側は大変だったであろう)でもやってましたし。
関係ないですが、中学生時代のユーミンって幸宏さん(当時は高校生)とバンド組んでたのご存知でした?どうでもいいかwww。
???YMO誕生は1987年じゃないですよ・・・・そんなに遅くないです。
時間よ止まれは1978年ヒットです。エーちゃんのバックをしたのは、1976年日比谷野外音楽堂で高橋幸宏、後藤次利、高中正義さんらが参加してました。レコーディングは1976年から。坂本龍一さんは1978年のGOLD Rushのアルバムで参加。
相沢行夫、木原敏夫さんはエーちゃんのデビュー前からのバンド仲間で1976年から1980年まで矢沢ファミリーとしてライブツアーをまわっていました。
野音はホント素晴らしいコラボだったけど
本編中のサディスティックスが矢沢永吉のバックバンドを務めたという言い方はちょっと言い過ぎだよねえ
@@user-rx4ws5lt9e 斉藤ノブさんの存在も大きいですネ〜。
いわゆる『日本の名盤』連発スタジオ・ミュージシャン軍団3大チーム(『ポンタ組』『ティンパン・ファミリー』『サディスティックス系』)全てに絡んでますからネ〜。
中でも、りりィさんの『バイ・バイ・セッション・バンド』って曲は驚愕!コレです ⇨ czcams.com/video/3d3x9DDUt5E/video.html
矢沢さんに高橋さん、どちらも素晴らしいミュージシャンでありますよ😊
音楽のスタイルが違いますよ。
幸宏を含め当時のそれぞれ面々が凄すぎです。ミカバンド、教授、細野さん
日本のレジェンドが頭角を表してきた年代だし音楽シーンが変化した時代でもありますね。
日比谷野音の矢沢永吉のソロライブのバックバンドは、高橋幸宏、高中、後藤次利、今井裕ですから、加藤和彦と矢沢がすり替わり相沢と大盛りがプラスされたようなバンドでしたね。後藤、高中、高橋の三人は矢沢をリスペクトしていたようです。いまだに、後藤は矢沢の音楽をカーステレオを聴いているそうです。
サディスティックスの頃の写真ではないな。この髪型はYMO散開後の1983年当たりじゃないか。
本当に酷い。。。
半分正解っ!
散開直前で1983年の夏ごろですネ。2回目のヤツです。
スティーヴが一風堂のワールド・ツアーだかで来日不可であったため、ドラムが散開の時と同じデビッド・パーマーだったヤツ。
YMOは、矢沢永吉のやりたかった事を成し遂げてしまったんだよね
日本人にしか出来ないことで勝負すると選択した細野さんは本当に凄いと思います。
70年代後半から80年代前半にかけてのロック、フォークからパンク、ニューウェーブ、テクノポップ、ニューミュージック、シティポップなどへの移行期となった日本の大衆音楽が大好きです(^^♪
リーダーの細野さんが参加してない時点で違うかなと。YMOの結成のきっかけは山下達郎のレコーディング説が妥当だと思います。
『ムーングロウ』ですか?公式には細野さんの「ファムファタール」のレコーディングがきっかけとなっています。
@@yasurange67 あっ、ちょっと間違ってました。大瀧詠一さんのレコーディングで初めて細野さんと教授が知り合って、その時に参加していた達郎さんと教授が仲良くなり、翌年教授は達郎さんから幸宏さんを紹介されたっていう話でした。
3人の初めての共演は「ファムファタール」なんでしょうね。失礼しました。
@@heboinuchan 当時の坂本さんはどちらかと言うと大瀧詠一さん〜矢野誠さん一派でしたネ。で、シュガー・ベイブのライヴで大貫妙子さんのキーボードのサポートが必要ということになり、矢野誠さんが付きっきりは無理ということで坂本さんが同行していた・・・という話を聞いたことがあります。
@@user-zr6el5hm9w 山下達郎さんと本当に仲が良かったらしいです。当時新宿ゴールデン街でよく朝まで飲んでたそうです。
YMOの結成のキッカケは細野さんのレコーディングに教授とユキヒロが参加して細野さんが誘ったと云う事です。矢沢永吉とも交流があり、教授の事を凄いキーボディストがいると言ったそうです。
個人的にはサディスティックミカバンドの中心人物だった加藤和彦と矢沢永吉と接点があったかに興味がある。
交流があったかどうかはわからないけど、レーベルメイトでしたね。
’79年にドノヴァン氏がワーナーに移籍、翌年永ちゃんもワーナーへ移籍。
その前後が東芝EMIとCBSソニーなんだけどその順番が逆なんですね。
1978年
1月「時間よ止まれ」レコーディング
2月 YMO結成
3月「時間よ止まれ」リリース
坂本、高橋はもっと前に出会ってる
87年結成とか言ってる割には内容詳しいですね 調べて編集しただけ感あるけどそれでも成立してんだからいいか 最後まで見たし
事実上、時間よ止まれの編曲は坂本龍一
ほんまかいな
@@user-ce1vu5rx6y ほんまです。
当時、坂本は名もないスタジオミュージシャンであったためクレジット表記は無記であった。これはHEY!HEY!HEY!や他の音楽番組で公言です。ただしスタジオセッションでのプロデューサーのもと現場で打ち合わせしながらの制作とゆうから、おもにはキーボードアレンジだと自分はおもっています。
@@user-ce1vu5rx6y ほんとです♪
ベーシックなバッキングは教授の弾き始めたフレーズに各パートのミュージシャンが合わせて行ったらしいよ
相沢さんがラジオで証言していた
@@user-ps5jl1xf4t さらに詳細にありがとう😉👍️🎶
高中と幸宏って、本当に音楽的に合わないのかな?
時間よ止まれはゴーストライターが書いたと当時から言われてましたね。何故なら、どうきいても永ちゃんじゃ書ける曲ではないと!
あれっ?キャリアで云ったら、高橋さんの方が上では?
『時間よ止まれ』のレコーディングから、YMO誕生ですか!
それは知らなかったです。
日本人のポップミュージックが世界的なレベルにまさに到達する頃の逸話ですね。
いや、'77年に日比谷の野音で山下達郎さん(多分アルバム『SPACY』レコ発のLIVEと思われる)と『サディスティックス』がたまたま対バンした時に、達郎さんのバンドでキーボーディストをしていた坂本さんに、達郎さんが幸宏さんを紹介したことで第一段階の関門であったギアが噛み合う。
お互いに持っていない要素に興味津々となり夜な夜な飲み歩くついでにそれぞれのスタジオ・ワークに声を掛け合う関係となる。
細野さんは別々のルートで高橋さんと坂本さんを知っており、この3人の様々な組み合わせでレコーディングが行われていく。
細野さんの中にあった当初の『イエロー・マジック考想』は『ティンパン・ファミリー』の林立夫(Dr.)さんと佐藤博(Key.)さんを中心に考えていたようだったが、頭に『?』マークを浮かべられて逃げられてしまう。コレが第二段階の歯車である。
'77年末から自身のソロ・アルバム制作を開始した細野さんは、ある曲のレコーディングに参加した高橋さんと坂本さんを前に『ピン!』とくる。『これだったらやれんじゃね?』と・・・。
で、レコーディングも落ち着いた'78年2月にご両名を自宅に招き、『シン・イエロー・マジック考想』を話し説得する。坂本さんは難色を示したらしいが、『この機を逃すか!』とばかりに口車に乗せて渋々ながら了承を得る。もちろん、これが最後の歯車だ。
こうしてYMOは誕生したのだが、高橋さんと坂本さんもソロ・アルバムを制作したためYMOのレコーディングは一番最後となるが、作曲の時間を確保したり実験を行えたことは有意義であったに違いない・・・と、勝手に妄想している。
誰でも知ってるわ笑
矢沢さんと、YMOじゃ音楽センス、😊才能が違い過ぎた、、、
センス?
ジャンルも違うのに違いを論じる低俗な人もいるんだ(笑)
可哀想😭
矢沢ださいからね