【ゆっくり解説】 南北朝時代 なぜ天皇家が二つ存在することになったのか その原因と建武の新政から南北合一までの流れを簡単に解説

Sdílet
Vložit
  • čas přidán 20. 08. 2024
  • 今回は南北朝時代についてです!
    応仁の乱以前からすでにごたごたしてたこの頃の時代を
    二つに分かれる事になった元々の原因と
    建武の新政から解説してます!
    人物の画像などは確定してないのであくまで説を採用して使用してます。
    歴史という事で説や確定してない事柄もありますので広い心でお願いいたします!
    もし「ここ間違えてるよ」ってところがあれば優しくコメント欄へ
    修正があった場合は概要欄に追記させていただきます!
    また動画制作の励みになるので、ぜひ高評価ボタン、チャンネル登録よろしくお願いいたします!
    【Twitterはじめました】
    @fukiyukkuri
    作成中の動画の告知や特に意味はないつぶやき
    歴史に関する動画のリクエストなどありましたら是非登録よろしくです!
    BGM・甘茶の音楽工房
    #ゆっくり解説 #歴史 #南北朝時代 #日本史

Komentáře • 67

  • @ANDOHSOHON
    @ANDOHSOHON Před rokem +49

    おそらく皆様の知らない歴史の裏を紹介しよう。後醍醐天皇の財政基盤は大覚寺統なので、八条院領という荘園。で、八条院領にどんなのがあるかというと、下野の足利荘。そう足利尊氏が地頭として仰いでいた上司は、後醍醐天皇になるのでした。だから後醍醐天皇が思慮を誤らなければ尊氏は謀反できなかった。こういうの知ってると面白いよ、日本史は。

    • @user-vf8vs9ke7m
      @user-vf8vs9ke7m Před 4 měsíci

      後醍醐天皇はいないよ。だって変なんだ?足利尊氏て書いたからあり得ないからです。知ってたよ。

  • @user-sy1ow2bl4p
    @user-sy1ow2bl4p Před rokem +10

    ザクっと、分かりやすい解説でした。ありがとうございます。
    南北朝の皇族だと、どうしても南朝を起こした後醍醐天皇に注目が集まりますが、私は北朝の光厳天皇に興味を持ってます。
    一旦は倒幕に失敗して退位して隠岐に流された後醍醐天皇に代わり、即位。しかし、その後、足利高氏が寝返り、京を追われ、逃亡中に捕まり、京へ戻され光厳天皇の即位は否定=無かったことにされ、後醍醐天皇が復帰。
    その後、足利尊氏が兵を起こすと、要請を受け入れる形で尊氏に院宣を出し、自らの血統の天皇即位を成し遂げる。
    しかし、観応の擾乱が勃発するや、正平の一統で北朝は廃されてしまい、また、南朝側が京へ進軍した際には置き去りにされてしまい、南朝側に拉致されてしまうなど、気の毒に思えてくる。
    どんな心境だったか、まあ、実現は無理なのは承知だが、大河ドラマで見てみたいものです。

  • @tubesatoshi
    @tubesatoshi Před 2 lety +22

    内容、盛沢山!!
    よく纏められましたね!!凄い

    • @fuki_rekishi
      @fuki_rekishi  Před 2 lety +4

      ご視聴ありがとうございます!
      どうしても無理矢理まとめた感が出てしまったのでいずれ深掘り解説も行えたらと思ってます!!

    • @kazsteinkreis8570
      @kazsteinkreis8570 Před rokem

      本当に
      下手くそな教師の授業を何時間も聞かされるより15分ちょっとのこの動画をみる方がよっぽど理解できる😊

  • @toshotoshokan
    @toshotoshokan Před 11 měsíci +17

    基本的に武士階級での争うの戦国時代と違い、公家や僧侶、海賊・悪党とかいろんな身分の人間が活躍するからおもろい。
    戦国時代よりもカオス

  • @samlie93
    @samlie93 Před rokem +14

    「一休さん」の将軍様、超有能

  • @yutmat2627
    @yutmat2627 Před rokem +15

    逃げ上手の若君読んでて復習したかったから助かった、分かりやすくかつ面白くまとまってた

  • @user-ph8ij1lt9v
    @user-ph8ij1lt9v Před rokem +9

    5:14  中先代の乱は「なかせんだいのらん」と読みます。

  • @user-cb6yp6zp5e
    @user-cb6yp6zp5e Před 7 měsíci +7

    この動画の
    足利直義の肖像画は『源頼朝』
    高師直の肖像画は『足利尊氏』 と 教わった世代です。

  • @john_andaman3498
    @john_andaman3498 Před 2 lety +14

    戦う王子・護良親王
    なろう主人公・足利尊氏
    発情しながら戦場を裸で逃げ回る変態稚児・北条時行

  • @lutesnest1353
    @lutesnest1353 Před rokem +13

    根本的に後醍醐が悪いんだよな。
    大覚寺統の分家でしかないのに。
    だから大覚寺統の本流が北朝方に行ってしまった。

  • @user-sr6ew9sh7l
    @user-sr6ew9sh7l Před rokem +5

    南北朝時代なんですが私の地元静岡県の遠州掛塚地区、掛塚祭りで演奏されている掛塚祭り屋台囃子、通称掛塚囃子の起源で伝わっているのが後醍醐天皇の皇子、宗良親王(むねながしんのう)が1338年(延元三年)に伊勢大湊から茨城ヘ向かうために湊を軍船数十隻で出航しましたが遠州沖で台風に遭い船団は散り散りになり幸いにも宗良親王の船は遠州白羽湊に漂着、そこから浜松の井伊谷へ向かう途中に掛塚の祭りと出会い村人たちは宗良親王を歓待してその時に同行していた中御門中納言が京都流のお囃子を村人へ教えたと言われています。

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke Před rokem +6

    大河の太平記を見た当時から興味持ち始め、鎌倉末期から南北朝、さらにその後の応仁の乱から信長上洛までのカオスな時代がとにかく面白い。
    教科書でも絶対出てこないし、教えられもしない。最近になって享徳の乱が出るようになったらしいけど、俺らの時代は一切なかった。禁闕の変なんて変換すらされない。それくらいマイナーなことこそ歴史好きには堪らない、そんな天邪鬼な人は多分マニアだと思う。

  • @user-th1ig6zc3j
    @user-th1ig6zc3j Před rokem +10

    足利義教殺害の翌年、三種の神器が南朝方によって盗まれた事件と、
    それを見事に取り返した赤松家の家臣 達の話も興味深いので、
    アップお願いいたします。

    • @user-ph8ij1lt9v
      @user-ph8ij1lt9v Před rokem +1

      いわゆる禁闕(きんけつ)の変ですね。1443年に起きた事件なので、義教殺害の翌々年のことです。

  • @user-ub8ry4cw9b
    @user-ub8ry4cw9b Před 3 měsíci +2

    南朝の御座所であった金剛寺の坊さんに聞いた話
    今でも南朝の天皇はおられる
    ずっと受け継がれていると

  • @qcbno1
    @qcbno1 Před 2 lety +6

    複雑な時代ですよね。日本史の中で最大でしょうか。私本太平記という本を入り口にして色々読んでいるし大河ドラマも借りてきて見ていたし良い復習になった気持ちです。人物名を列記して南北のどちらの陣営に居たのか、移ったのか、なども面白そうだと思いました。

    • @fuki_rekishi
      @fuki_rekishi  Před 2 lety +1

      ご視聴ありがとうございます(*´꒳`*)
      そういった動画も面白そうですね!!
      作った際はぜひ見てくださいね( ˶ˆ꒳ˆ˵ )

  • @bruuzar
    @bruuzar Před rokem +12

    歴史の授業は、鎌倉まで濃く、ここから戦国は薄く、江戸は濃く明治になりましたで終わりになっていた年代ですので、非常にありがたいです。😀
    まさに仁義なき裏切りの戦い、ある意味既に戦国時代と言えますな😀

    • @fuki_rekishi
      @fuki_rekishi  Před rokem +1

      ご視聴ありがとうございます!
      そう言っていただけると非常に励みになります(*´꒳`*)

  • @hogehoge11111
    @hogehoge11111 Před rokem +8

    13:13 筑後川の戦いの南朝側はもりよしではなくかねよし(懐良)親王だね。

  • @user-nk8nk4tn8k
    @user-nk8nk4tn8k Před rokem +4

    後嵯峨天皇が、長兄の後深草天皇より次男の亀山天皇を寵愛したことが問題の始まりではあるが、現在の皇室が北朝の血統なのはまだ救いがあると思える。唯、長兄云々を持ち出すと遡って壬申の乱の異常性等も指摘出来るのだけれど。

  • @pou-fou7748
    @pou-fou7748 Před 2 lety +10

    いやぁ、さすがに1回でこのテーマを解説するのは無理でしょう、確かに概要としては簡略にまとめられていますが、護良親王殺害とか楠木正成による後醍醐天皇への足利尊氏との和睦進言、湊川の戦いや北畠顕家率いる奥州勢の尊氏軍との戦いに向けての進軍における不可解な動きとか、北陸での戦いなどがバッサリ端折られているのはあまりにも惜しい。
    今後南北朝時代の主要人物ごとの解説を期待しております。

    • @fuki_rekishi
      @fuki_rekishi  Před 2 lety +4

      ご視聴ありがとうございます!
      やはり無理がありましたよね…
      深掘りした解説も行いたいのでぜひその時は見てください!!

  • @user-ti6su8wm8i
    @user-ti6su8wm8i Před rokem +6

    どうしても熊沢天皇が思い出されます

  • @user-xv6bq5lq8s
    @user-xv6bq5lq8s Před rokem +5

    政権の始まりからこれだ。戦国時代になるわけである。そして家康は足利政権をちゃんと反面教師にしているのが分かる。

  • @user-xp5le2ck3s
    @user-xp5le2ck3s Před 5 měsíci +1

    元を辿れば、承久の乱の後に後鳥羽上皇一家に代わって皇位に就きました後堀河天皇の子の四条天皇が幼くして不慮のアクシデントで崩御した事が南北朝対立の最大の遠因ではないかと思います。彼が幼くして崩御していなければ後鳥羽上皇の孫が後嵯峨天皇として即位するなんて事は絶対に有り得ませんでしたから。

  • @funkypanda2469
    @funkypanda2469 Před 6 měsíci +1

    次の三谷大河はぜひ太平記を見たいです。

  • @user-mn3ik7tl7n
    @user-mn3ik7tl7n Před 5 měsíci +1

    さすがに、昔、足利高氏像とされていた高師直像のキャプションは、改まっているなあ?

  • @user-mn3ik7tl7n
    @user-mn3ik7tl7n Před 5 měsíci +1

    吉川英治の「私本太平記」読んだけど、さっぱり筋がわからんかった?ここでも、おんなじだ。😢

  • @user-nq9lb2ew3f
    @user-nq9lb2ew3f Před 28 dny

    山一抗争が子どものケンカに思えるほどのカオス感www

  • @user-zj8wl2ee2b
    @user-zj8wl2ee2b Před 7 měsíci +4

    みんな足利尊氏の甘さが悪い、源頼朝や徳川家康のように邪魔者後醍醐を消さないと

  • @akazukin1213
    @akazukin1213 Před 2 lety +2

    さすが霊夢ちゃん勘が鋭いw

  • @user-fh4wh7gx7s
    @user-fh4wh7gx7s Před rokem +3

    義満ちゃんありがとう

  • @user-oz7kw8iz5p
    @user-oz7kw8iz5p Před rokem +8

    毎度おなじみの源氏の内部争い。

  • @user-ct1ge3zk3s
    @user-ct1ge3zk3s Před rokem +3

    南北朝はおもしろいですけど政治やリかたでゴタゴタ担ってしまった天皇が武家の不満を聞いてやったらいい政治ができたかもしれない

  • @user-ky4ht1ys4s
    @user-ky4ht1ys4s Před rokem +2

    鉄道唱歌 関西参宮南海編は、やたら南朝を押してきます。 czcams.com/video/qap9FbbKADU/video.html 四條畷、津、金剛山、吉野。

  • @user-jx3eo8ey1g
    @user-jx3eo8ey1g Před rokem +1

    73世武内宿禰の竹内睦泰さんは小倉宮睦泰王という名を持ち、亡くなった今では後崇徳院なる院号をお持ちのようですよ。「南天北闕、天皇弥栄」が後南朝の乾杯の号令だとか。74世をめぐって末裔家族の争いが大変そう…

  • @R.H.victoria.echigo.
    @R.H.victoria.echigo. Před 6 měsíci +2

    薔薇戦争より100倍たちが悪い

  • @user-tx5ge2nw7t
    @user-tx5ge2nw7t Před 2 lety +70

    みんな後醍醐天皇が悪い

    • @user-vf4gk8dx1y
      @user-vf4gk8dx1y Před rokem +22

      いや、後嵯峨上皇だろwwそいつが持明院統と大覚寺統の争いを作ったキッカケの元凶だし

    • @yoshintt4424
      @yoshintt4424 Před rokem +4

      みんな大泉が悪いみたいな
      言い方されても(笑)
      そんなに単純なことではないと思うぞ。

    • @user-be7xh4qs5b
      @user-be7xh4qs5b Před rokem +9

      自分の親政が大失敗した時点で、尊氏に任せないといけないよね。尊氏は皇室のあり方には一切立ち入ら無かったのに。
      そのせいで皇室滅亡寸前まで行ってしまった。

    • @fluorite5131
      @fluorite5131 Před rokem +4

      尊氏もゴタゴタが続いたせいで戦には強いけどってイメージしかないのよね
      信長の野望の室町時代版があったらステータスがどうなるか気になる

    • @user-yl9ek9le7m
      @user-yl9ek9le7m Před rokem +7

      その通りですね。全て後醍醐のわがままから始まっている。
      海音寺潮五郎が「悪人列伝」の中に、北条高時を取り上げながら、「後醍醐の方が悪いだろう」と書いていますね。

  • @user-ko4hm4kv3h
    @user-ko4hm4kv3h Před rokem +1

    7:35 教科書改変×2

  • @maro22412
    @maro22412 Před rokem +1

    お坊さんが増えた時期なのか。
    数千数万の軍勢を持つようになるよりも、もっともっと前って全国あちこちにいる数人規模のごろつきが小規模暴走族みたいなの作って拡大してって領主になったんかな?
    その辺が一番気になる。

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk Před 2 lety +18

    トラブルメーカー後醍醐天皇のせい

    • @user-vv2pk6yw4l
      @user-vv2pk6yw4l Před 7 měsíci +3

      そもそも後嵯峨のせいだけど

    • @sugisinfkk
      @sugisinfkk Před 7 měsíci +1

      @@user-vv2pk6yw4l
      分裂のきっかけの人ですか

  • @TA-ci9wi
    @TA-ci9wi Před měsícem +1

    先祖は南朝側の人だったな

  • @user-qy5cm4lr5o
    @user-qy5cm4lr5o Před rokem +1

    昭和、平成、令和の現代史もよろしくぅ!

  • @lezakymura
    @lezakymura Před rokem +3

    しかし。義満以後が続かなかった。
    そこは残念だ。

  • @user-oe4ew7xm7d
    @user-oe4ew7xm7d Před 11 měsíci +3

    足利尊氏
    勇敢、人が良い、人望あり、優柔不断、ビビり
    →ウソップやん

  • @meu330ci
    @meu330ci Před měsícem

    とっくに純血なんか途絶えるのに北陸の普通のおっさんの血をかけて戦ってるの草

  • @gmgdtwgm
    @gmgdtwgm Před rokem +1

    グダグダ過ぎてワロタ

  • @78hirohiro35
    @78hirohiro35 Před rokem +4

    九州の南朝勢力は、後南朝の時代には壊滅しててないんだよな。 一時は、九州全土を支配する勢いだったのに。
    懐良親王(後醍醐天皇皇子)→良成親王(後村上天皇皇子)に代替わりするが 最後は五条氏の領地の筑後矢部(福岡県八女市矢部村)くらいしか維持できなくて、
    そこも攻められて何度か撃退するも、良成親王(後村上天皇皇子)が死んで終了。
    1395年の感状が最後で30台半場前後で死去したとの通説だが、子供とかいなかったのか・・ それとも病死等ではなくて北朝側に寝返るために子供もろとも暗殺されたのか・・
    五条氏はその後も生き残っているのに、良成親王の辞世とかも伝わってないし不自然さを感じる。
    辞世の句を残す時間すらない死に方をした可能性大。 突然死、戦死、暗殺など 。畳の上でゆっくり病死したなら辞世の句くらい残すだろ。
    五条氏は現在まで子孫が続いているから辞世の句があったなら伝わっただろうしな。

  • @user-vf8vs9ke7m
    @user-vf8vs9ke7m Před 4 měsíci +1

    東西南北朝です。たぶん此が源平藤橘の四家です。当家が北朝です。源平が1つになった為日本国最高の家柄となっています。源平2つで1つの天皇家で当家しかないからです❗️