摩多羅onデマンド 04「毛利家特集」
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- čas přidán 3. 05. 2024
- #戦国時代 #ゆっくり解説 #東方project
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forms.gle/RDFBmdNcgcHAGGMQ8
初めましての人は初めまして、しかかくと申します。
この動画シリーズは皆様からの無茶ぶり(デマンド)に対し、できる限り答えていく新企画となります。質問の関係上、不確定な内容を含む場合もありますのでその点はご注意ください。
今回は毛利元就をはじめ、毛利家に関するいくつかの質問に答えています。
・参考文献
安芸高田市歴史民俗博物館「毛利興元」「ー名将の横顔ー毛利元就」
岸田 裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』
光成 準治『小早川隆景・秀秋 消え候わんとて、光増すと申す』
光成 準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』
秋山 伸隆「毛利興元とその時代」
秋山 伸隆「毛利元就が結ぶ石見銀山と嚴島神社 」
和田 秀作「周防右田氏の相伝文書について」
・使用楽曲
白鷺ゆっきー「大和に散らばる不思議な森」(「やまとごはん」より)
騒音のない音楽「ニンニン忍者」
騒音のない音楽「キャノンボール」
騒音のない音楽「亡霊の女の子」
白鷺ゆっきー「太子の里~たちばな香る飛鳥」(「やまとごはん」より)
針の音楽(白鷺ゆっきー): / @harimusic896
騒音のない音楽:noiselessworld.net/
・使用立ち絵
摩多羅隠岐奈
(原作:東方project、 絵:真田源次郎ベル助 様)
/ berusuke_sanada
・地図:国土地理院
・他イラスト:イラストAC
・効果音:効果音ラボ
NicoNico; www.nicovideo.jp/mylist/69621...
Twitter; / squaredeerhorn
無理は無理なりに返事をくれるのはうれしい
毛利元就は冷酷だったのか…温厚な人だったのか…
この立ち絵
天才だと思う
動画おつかれさまでしたー。
どれも驚き(むしろ深く知らない)の連続でした。
動画投稿、お疲れ様です
擬制的一族関係で毛利氏を中心とした西国戦国期のアライアンスはホント面白いですよね
小早川氏は相模発祥の平安末以来の家柄。その家を継いだ以上は、興隆させたくもなるよな。
お疲れ様です
来年までかかるという事は
少なくとも来年まで楽しみがあると
ありがとうしかかくさん
これも見たかった
まってました
しかかくさん、投稿お疲れ様です。今回の右田氏の件、取り上げてくださってありがとうございます。見付元氏の件、前々から気になっていたのですが、高田市史に書いてあったので実在するのかなと思っていました。でも、よく考えたら陰徳太平記に出てこない時点でまずおかしいとも思いました。そういえば、芸藩通志で思い出したのですが、藤井崇先生の『大内義隆』であった山名六郎豊澄がいたと思うのですが、この人と元就はどのような関係だったのでしょうか。また質問をしてしまいますが、よろしくお願いします。
ためになりました。
大寧寺の変さえなければ西国の地位は…
すでに西国中心はほぼ無理。
蝦夷地南端まで日本に入っている状態で西国に政府を作ってもまた東国に強大な勢力ができて(作って)しまって、江戸や鎌倉幕府みたいな東の強力な政府が誕生するきっかけになる。
一つの勢力が統治するには日本は長く険しすぎるから、つまり瀬戸内は最強。
或いはこの国のかたちが
変わっていたのかも
大内という概念は他の戦国大名とは
全く異質の可能性を孕んでいますし
@@user-oi8lp2es8tさん
妄想するなら逆に銀を背景に
大陸や進出して来た西洋と繋がるような新しい支配者に大内家がなっていた可能性もあるのでは?責任放棄する足利やどこの馬の骨かもわからない東海三英雄より尊皇の姿勢を
崩さなかった大内は権威に近しい存在だったし。少しコンラン先生に触発され過ぎかもですが、分与された権威権力を勝手に争った末に都を放棄して逼塞したり行方不明になる
将軍家や摂関家に代わる臣下としての大内もあり得たのでは
楽しませていただきました。あくまでリクエストですので、採用されなかったのは仕方ないです。
毛利家は石見銀山を手に入れる前に「大林銀山」を旧:高橋領で運営していましたね。
大内家に遠慮してか、堺に流していたみたいですが。
伊予はいーよさん笑
山名次やって~というのは短期的なリクエストではないので今はこたえてくれなくて全然OKですよ
大名が親類を他家に継がせる例は織田信長の次男・三男の信雄・信孝を伊勢の北畠家・長野家を継がせてますし、
甲斐武田家の信玄も諏訪家を外孫である勝頼に継がせてますし、伊達氏からの岩城親隆・国分盛重等や南部氏からの大浦(津軽)為信(あくまで一説)と、
この手法は素人考えながら割と日本全国で行われてたかもしれません。
長男だった岩城親隆はさすがに別件かと思います。親の結婚の経緯がアレすぎての約定でしたから。
@@otaru6042
指摘を受け調べてみたら、伊達晴宗の強引な婚姻の埋め合わせとして行われたようですね。勉強不足で済みません。
ただ事情はどうあれ他家へ親類を継がせるというのは日本全国その大名家でも行われていたという事を言いたかっただけです。
大寧寺の変で失われたのは
中国地方と九州北部の繋がり
それを考えると陶晴賢は意外に
小悪党というか無謀な野心家だったのかも。大内という境界を超えて存在した世界が今で言う自治体レベルの集合に矮小化されて酷く勿体無い印象。とりとめなくなりますが
元就とその子供たちの関係は多くの手紙(お説教)が残っているため、色々察せられて面白いですね。嫌気が差すほどのしつこすぎるお説教の数々は毛利両川体制を破綻させないための心遣いと考えれば、元就はやはり人心掌握術に長けた稀代のリーダーと言えるでしょうね。ところで嫡男の隆元はやたらと父・元就の偉業を失墜させることを恐れていたきらいがあるようですが、隆元存命中の毛利家はまだ中国地方を統一するほどの大勢力へ成長を遂げていなかったと考えます。なにが隆元をそんなにも自己卑下の強い性格にしてしまったのでしょうか。うp主様は隆元と他家の嫡男との間で、どのような環境の違いがあったと考えますでしょうか。答えようのない質問で申し訳ないですが、ぜひご考察をお聞かせ願いたいです。
疑問だけど、吉川元春が元春なのはわかる。隆元の偏諱を受けたから。でも、なんで小早川隆景は大内義隆から偏諱受けたんだろ?普通なら隆景も隆元から偏諱受けて元景になるだろうに
元春は吉川家継承前に元就弟・北就勝の後継となる予定でしたので隆元からの偏諱となります。
一方で、隆景は元服前に竹原小早川家入りが決まったことと、竹原小早川家は代々大内家との従属度が強く、大内家当主からの偏諱を受ける慣わしであったため、また家格的には小早川家の方が毛利家よりも上であるという歴史的経緯がある、などの理由から隆景は安芸国衆・毛利家ではなく、大名・大内家からの偏諱となったと考えられます。
もう答えていたらごめんなさい!
背景の立派な櫓はどちらのお城ですか?
こちら、兵庫県赤穂市の大避神社の絵馬堂になります。
大避神社は秦河勝(大避大神)を祭る珍しい神社なのですが、解説しているキャラ(摩多羅隠岐奈)のモデルの一つが秦河勝であり、それ繋がりで背景に使用しております。
摩多羅隠岐奈は大内家が信仰していた妙見信仰や、尼子家の出雲国の摩多羅信仰などに関わる摩多羅神もモデルであり、割と西国に関わりのある点が多い所も採用理由の一つです。
幸松丸は元就がやったのか?
絶対にないとは言いませんが、当時の状況から考えても99%ありえないと思います。
秀吉が言ったっていう今張良も作り話か?w