【悲惨な印象】誤解されている戦国武将5選!歴史研究によってイメージが覆る武士たち!歴史解説!
Vložit
- čas přidán 3. 05. 2024
- 歴史というのは、日々新たな発見があるものですが、
後世の人々による解釈によって、間違った史実が通説としてまかり通ることがあるようです。例えば歴史上の人物なども、暗愚でどうしようもない評価だったはずが、
新しい史料の発見によって真逆の評価がなされる場合もありますよね。
そこで今回は、誤解されている戦国武将の実態と題し
「え、この人はそんな感じだったの!?」という知られざる実像をあばいていきたいと思います。
◆公式LINEを開設!ぜひ、ご登録ください。
liff.line.me/1657596280-v27Xm...
(名古屋おもてなし武将隊公式LINE)
戦国乱世の華といえば、やはり兵(つわもの)たちが集う合戦でしょう。川中島や桶狭間、あるいは関ヶ原など華々しい戦いの様子が伝えられています。とはいえ合戦は槍を持って戦うだけにあらず。多くの兵がいる以上、食べたり、眠ったりといった日々の暮らしもありました。
そこで今回は、武将や兵たちの過ごし方を一日の時系列でご紹介したいと思います。これで映画やドラマの見方が少し変わるかも知れませんね。
■出演
語り:踊舞(名古屋おもてなし武将隊)
TikTok / touma1560
X(twitter) / touma_bushotai
ナレーション:なつ(名古屋おもてなし武将隊)
Instagram / ngy_natsu
■企画制作/ほまれWORK
work.homare@gmail.com
【出演団体紹介】
■名古屋おもてなし武将隊HP ぜひ、名古屋城に会いにきてください。
busho-tai.jp/
#歴史,#日本の歴史,#戦国武将
ご覧頂きありがとうございます。誤解されている武将たちのお話はいかがだったでしょか。
歴史研究の結果、多くの新説が発表され昔と今とでは武将たちの印象も大きく変わってきましたね。
皆様が考える誤解されているんじゃないかと思う武将の話もぜひ、教えてください。
名古屋城はGWで多くの皆さんが登城頂いています。
もちろん、CZcamsの視聴者さんにもたくさん、お会いすることができました。ぜひ、皆さんも名古屋城で武将隊に声をかけてください。
伊達政宗のことなんだけど、後世の人にはスターでも、当時の部下たちからすれば、こんな男にペコペコさせられたのかとな心境だな。
明智光秀が率先して比叡山焼き討ちをしていたとは、今までの通説と真逆ですね。
織田信長「東大寺の大仏殿を焼いたのは、おぬしだな この罰当たりめ(ブーメラン)」
松永久秀「延暦寺焼いたくせにどの口がいってんだ」
延暦寺が行っていた悪行を考えれば焼き討ち自体はわからなくもありませんが
光秀に関してはやはり残忍さがちらつきますね。
光秀に関しては 叡山の地質調査で火災の跡が無かったことも言って欲しかった 地元でも名君だったとも言うし‥むしろ 毛利家の方が功罪ありそうですよね
よく考えたら、焼夷弾も火炎放射器もない時代に焼き討ちするには、聖火ランナーよろしく松明を持って一軒一軒火をつけて回るしかないんですよね。
むしろ、土地勘のないこちらの兵士が火にまかれて不利ですよね。
踊舞さんの演技がうますぎる😳
晴久がもう少し長く生きていたら毛利の躍進はなかったでしょうね
明智光秀さんって冷酷だったのですね('ω')
映画「首」での表現は間違ってなかったのでしょうかね('ω')
お疲れ様です。
チャンネル登録 2回押しました。(笑)
尼子晴久、今川義元、石田三成、負け方が良くないとそれまでの功績も無視されちゃうの気の毒だなぁ、ドンキホーテ・ドフラミンゴの「勝者だけが正義だ」ってこういうことだね😅
援軍、矢文、よいねのくだりが楽しみなのでいつも動画の最後まで見ちゃいますwww
今川義元に関して言えば負けた時期も悪かった。
雪斎の死去から僅か5年での討ち死にと言う大敗北で、今川義元の功績も全て雪斎ありきの様な印象は仕方ないでしょう。
それこそ幕末の話から「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があるくらいですから
焼き討ち止めてなかったとは……、今までとは真逆ですね。
謙信も人身売買や略奪やっていたのも別に驚かない 越山ってほぼ略奪だったのは時代が時代だし
アサヒ芸能の歴史コラム、毎回楽しく読ませてもらってます。
褒めて下さりありがとうございます。NHKの方々が読んでなきゃいいが。
尼子晴久は新宮党の頭領のお嬢さんを妻にして、結束を強くしようとしたんだけど、頭領が舅として逆に出しゃばってくるようになっちゃったんだよね。父親と夫の不和、自分の産んだ息子の心配、長生き出来なかった奥さんは辛かっただろうね。(大名の妻なんだからアンタがしっかり鎹になれという意見もある)
戦国最大のミステリーは第一次月山富田城戦ではないでしょうか。
尼子晴久の吉田郡山敗北は籠城する毛利に陶(大内)の援軍が間に合ったから。
その後晴久は大内陶毛利+寝返った旧配下総勢5万に月山富田城まで追いつめられます。
吉田郡山と違い援軍は無し、大内軍は富田城を包囲し幕府朝廷にも根回し済。
目の前の富田城を落とせば尼子は滅びます。
そこから夜襲受けたわけでもなく内乱おきたわけでもないのに連合軍は大敗するのです。
この逆転劇の解説は歴史家の方でも説明できないのではないでしょうか。
尼子晴久は死後一気に滅亡したから責任を押し付けられてる感があるよね
新宮党の件と元就を攻めての返り討ちが大袈裟に言われてるよね
正直、これが晴久のせいなら甲斐武田も信玄の(不義理と勝頼への権力委譲を怠ったつけ)せいになると思う
晴久が駄目だったわけではなく、お舅さんが引っ掻き回す厄介な人だったようです。それでも跡取りのお祖父ちゃんだから無下には出来ないですし。