北条家滅亡 小田原合戦  北条五代の終焉

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  • čas přidán 19. 03. 2020
  • 小田原の陣は天正18年(1590年)2月から始まり、7月に北条氏直の降伏によって終わった。
    北条氏政、北条氏直、豊臣秀吉、織田信雄、徳川家康、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、猪俣邦憲、北条氏照、松田憲秀、大道寺政繁
    (字幕付き)

Komentáře • 343

  • @user-saigaraco.hidekinyon

    分かりやすくて楽しめました!

  • @yf-lv6tx
    @yf-lv6tx Před 4 lety +37

    実家が忍城近くで現在関西住み。帰省の時は北条征伐気分で東名ルートではなくちょっと遠回りで長野経由で上信越道ルート。結構楽しかった。

  • @user-zy3jk2je6e
    @user-zy3jk2je6e Před 4 lety +22

    九州征伐も是非、解説して欲しいです。とにかくわかりやすい動画で感謝感激です。しかも、城攻めの細かい詳細まで教えていただき、大変ありがたいです。

    • @thienbaoguonghungtruonghoa9725
      @thienbaoguonghungtruonghoa9725 Před 3 lety +1

      この戦のあとの信雄への秀吉の理不尽さはやばい、北条征伐で大活躍したのになぜか尾張伊勢100万石から三河遠江50万石に移れと言われたので当然拒否したらほぼすべての領地を召し上げるという

    • @user-qb1gl2sw7o
      @user-qb1gl2sw7o Před 3 lety

      @@thienbaoguonghungtruonghoa9725 北伊勢30万石から三河遠江55万石に加増転封だった気がする。信雄が拒否して改易になったのは事実だけど。

  • @user-jz9zv2xg8q
    @user-jz9zv2xg8q Před 3 lety +16

    結局戦国末期のキーポイントは真田問題につきる。これから大阪城夏の陣まで豊臣家も徳川家も北条家もみんな真田家の小さな小さなそれは小さな所領の行方にふりまわされる。もちろん真田家自身も自分たちの所領に振り回され親子が袂を分かつ運命に辿って行くことになる。

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 3 lety

      大大名の北条ともあろうものが沼田の城1つ自力で落とせないのは後々響いてきましたね。徳川の大軍を2度も撃退したのもそうですが、真田昌幸というのは楠木正成と並ぶ殆ど神秘的な名将なんでしょうね。

    • @user-dp7jh6dl8x
      @user-dp7jh6dl8x Před 3 lety +1

      @@pianochandaisuki 確かに真田昌幸は楠木正成と並べても遜色のない武将だと思う。勝てなくても負けない戦をする…だけど天下を握る器ではないんだよなぁ。

  • @jjjj6075
    @jjjj6075 Před 4 lety +66

    小田原攻めで、関東の戦国大名としての歴史は終わりますが、氏直と氏規は蟄居という処分にとどまり、江戸時代には河内狭山藩として続き明治維新を迎えています。

    • @kosmos143
      @kosmos143 Před 3 lety +13

      (現・大阪狭山市)関東で一大勢力を作った北条氏がこの地で小大名として存続した事は結構地元でも知らない人が多いですよね。

    • @taroyosimoto2681
      @taroyosimoto2681 Před 3 lety +4

      北条氏直は、 徳川家康の娘を 嫁にしているので 切腹が免れたのです

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 3 lety +4

      氏直が生きていれば、伯耆が与えられる可能性があったみたい。伊勢氏の本拠地みたいだから。

  • @user-es1de5th8x
    @user-es1de5th8x Před 3 lety +40

    北条滅亡して江戸時代には別の殿様が居たというのに小田原城は永遠に北条の城という不思議。今でも三つ鱗の旗が翻っている。

    • @jjjj6075
      @jjjj6075 Před 3 lety +17

      大阪城が豊臣はたかだか30年。その後、数百年は徳川の城だったのに、永遠に豊臣と言われるが如し。

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 3 lety +9

      上田城は真田の城だよね。江戸時代には仙石氏とかいたのにね。逆に、米沢城では伊達氏が忘れ去られた印象で、上杉家の影響が強い。

    • @user-un2lm9lx4f
      @user-un2lm9lx4f Před 3 lety +9

      徳川はあくまで江戸が中心でしたが北条の中心地は小田原ですからね
      そういうのもあるかもしれませんね

    • @user-dp7jh6dl8x
      @user-dp7jh6dl8x Před 3 lety +1

      @@jjjj6075 ほとんど遺品らしい物が残っていない秀吉にとって唯一この世に生きていた(存在した)証のようなものだからでは?

    • @yuk653
      @yuk653 Před 2 lety

      @@jjjj6075 現在残っている石垣等もすべて徳川によって建て直されて、豊臣時代の物は何も残ってはいないが、京都の伏見城然り、立て直してもあえて、桐紋を残したらしい

  • @bunkino3393
    @bunkino3393 Před 4 lety +68

    名古屋で生まれ育ち、今、八王子に居住している。今でも相当距離を感じる。北条は勿体ない事をしたなと思う。上手く振る舞えば五大老以上だろう。

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety +19

      小田原攻めは秀吉が豊臣の力を全国に知らしめて揺るぎ無いモノにするためにわざと北条に対して様々な悪条件で煽りを掛けた事で北条氏が秀吉への宣戦布告をしたのが始まりなんだよな。
      きっと、戦う前からの北条氏の降伏は秀吉は端からさせる気は無かったのかも知れない。
      結局、不手際で思う程短期間で小田原攻めが出来なくて、秀吉の天下の崩壊のきっかけや関東勢を家康に好きにされてしまう事になるんだよなぁ…

    • @myofficialchannel3068
      @myofficialchannel3068 Před 3 lety +8

      織田信長には服属したのにな…

    • @user-nh4qv3kp9r
      @user-nh4qv3kp9r Před 3 lety +1

      北条家は家名が残ったとはいえ秀吉に良いようにもてあそばれて可哀想😭

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 3 lety +2

      その場合、利根川が東京湾に流れていたな。

    • @miyakoshim.4443
      @miyakoshim.4443 Před 2 lety

      確かに北条はアホだ
      毛利に、長宗我部、上杉、島津にしろ当初は敵対していたが、臣従すれば許されている
      家康も上杉などの諸将に家康討伐の直書が発せられるや、あわてて上洛して臣従し所領は安堵された。
      普通に期限内に氏政が上洛していれば、何の問題もなかった。
      彼我の戦力差もわからぬ井の中の蛙ということだろう。
      九州の統一が目前だった島津(北条よりはるかに強敵)を降伏させたことで豊臣の威勢は天下にとどろいていたので、豊臣の力を知らしめる価値もない。秀吉軍は九州平定で20~27万の兵を動員しているが、北条征伐は島津征伐にくらべたら物見遊山だったろう。

  • @user-kg8cs5dp7x
    @user-kg8cs5dp7x Před rokem +4

    分かりやすい動画でした。他の方の動画で秀吉と北条氏政の意識のずれが北条氏滅亡の原因という説が提示されていました。確かに小田原包囲時の和平条件で「伊豆・相模・武蔵は北条の領土」という楽観的な主張を北条家はしていたので、こりゃ滅亡するのも当然だと思いました。

  • @okimonkosugi
    @okimonkosugi Před 4 lety +3

    とてもとてもとても勉強になります♪

  • @user-nw1dl8qi4u
    @user-nw1dl8qi4u Před 3 lety +9

    包囲の仕方が当時の戦国時代のオールスターだもんね、もう無理すぎる。地元が小田原だから、この場所にあの名将がいたのかなと考えると凄いことだと思う

  • @j88pm
    @j88pm Před 4 lety +48

    秀吉が本陣を置いた早雲寺には、早雲から氏直までの五代が葬られています。
    少なくとも秀吉が陣を置いたタイミングでは、早雲、氏綱、氏康は葬られていたと思われます。
    他の寺社ではなく、その早雲寺にわざわざ本陣を置いたということは、籠城などせず出て来いという挑発の意味もあったのでしょうね。
    ちなみに、五代全員のお墓は非常に質素なものですが、あの大乱世を駆け抜けた方々が眠っていると考えると、墓前では背筋が伸びる思いがします

    • @omurice2598
      @omurice2598 Před 4 lety +3

      pm88j 秀吉に早雲寺が燃やされていなかったら、、、結構な大きなお寺として残して欲しかったなぁ

    • @j88pm
      @j88pm Před 4 lety +5

      @@omurice2598 大大名の菩提寺ですから、かなり広かったんでしょうね。
      徳川家の菩提寺である増上寺くらいはあったのか。。。

    • @otaru6042
      @otaru6042 Před 4 lety +4

      早雲、氏綱、氏康のお墓は秀吉が早雲寺を焼き払ったことで場所わからなくなったんですよね。そして後世に子孫が今の形で再度作り直しました。

    • @j88pm
      @j88pm Před 4 lety +2

      @@otaru6042 燃やされてしまって、しかも燃やした人間の天下がしばらくでも続けばそうするしかなくなりますもんね。
      ただそれでも、今のお墓のところには寂びの極致とも言える雰囲気があるんですよ。
      早雲、氏綱、氏康お三方の霊はそのまま移ってきたのかななんて感じています。
      確か箱根湯本の駅からバスが出てましたので、もし可能でしたら一度お越し頂く価値はあるかと思います。

  • @user-uc1uc9bn6c
    @user-uc1uc9bn6c Před 3 lety

    チャンネル登録しました。

  • @user-hl7bu4mf2q
    @user-hl7bu4mf2q Před 4 lety +75

    前田、上杉、真田の連合軍ってめっちゃロマンある笑

    • @user-do5sn6ys7o
      @user-do5sn6ys7o Před 4 lety +13

      攻められた方の八王子城はたまったもんじゃなかった。駐車場も整備されて観光地になっているので、機会が有れば行って見てください。「決戦。八王子城。」700円プラス税。

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety

      八王子夜戦は有名だな。
      小田原が最後の決死として意地を張ってたから八王子の降伏は見せしめがしたかったのも合って秀吉には許されなくて朝まで続いた挙げ句の果てに八王子城は死体の山になった話しは有名だな。

    • @SW-me4um
      @SW-me4um Před 3 lety +1

      めっちゃ関係ないですが、スピッツいいですよね!

  • @user-gf6ig1rl5i
    @user-gf6ig1rl5i Před 4 lety +9

    戦国時代の勢力図や戦法が分かって勉強になる

  • @user-vf7yk6og9l
    @user-vf7yk6og9l Před 4 lety +82

    小田原城の包囲すごすぎるw完全に終盤の信長の野望w

    • @user-nc2vf5ko4q
      @user-nc2vf5ko4q Před 3 lety +8

      数と練度の暴力ですねw
      分かります!

    • @tomoyama7176
      @tomoyama7176 Před 3 lety +6

      戦国武将のオールスターで包囲だもんな〜

    • @user-fy3vw9cc1q
      @user-fy3vw9cc1q Před 3 lety +5

      ついさっきに明智で北条と戦ってたわ

    • @user-it9tb4um2p
      @user-it9tb4um2p Před 2 lety +1

      包囲軍に参加した方が楽だが、武勲はあまり期待できない。どっちが得だろうな。

    • @user-zv5ug1rj7v
      @user-zv5ug1rj7v Před 2 lety +1

      秀吉の戦国時代オールスターによる包囲網、後北条の初代伊勢宗瑞が生きていればどう突破して秀吉を討ち取り、大坂城を落としたか気になる。

  • @user-yt7fw8go6f
    @user-yt7fw8go6f Před 4 lety +16

    名胡桃城を攻められ
    秀吉、大喜びだっただろうな

    • @sugisinfkk
      @sugisinfkk Před 3 lety

      北条氏を攻める口実ができた

  • @00kumakuma
    @00kumakuma Před 3 lety +5

    本城の籠城戦って、多数で包囲している方が補給が滞って押し切らない場合が多いが秀吉は違った。

  • @user-hh3mh1tu3q
    @user-hh3mh1tu3q Před 3 lety +56

    数年かけて、全ての支城を回りました。
    よくできた作戦だと思えました。

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 Před 3 lety +15

      全ての支城を回る事もすごいです。

    • @user-hh3mh1tu3q
      @user-hh3mh1tu3q Před 3 lety +9

      @@gionsyouji5831 さま、百名城のついでです。
      秀吉の戦略の恐ろしさが、見えました。

    • @user-es1de5th8x
      @user-es1de5th8x Před 3 lety +6

      @@user-hh3mh1tu3q
      お!百名城制覇したのですか?
      私は残り37城もあります。

    • @user-hh3mh1tu3q
      @user-hh3mh1tu3q Před 3 lety +5

      @@user-es1de5th8x さま、息子の成したことで、私はついでスタンプです。
      私は、まだ同じくらいです。

  • @user-sh6ry3vj1z
    @user-sh6ry3vj1z Před 3 lety +38

    しかし、後北条氏は滅亡せず結局は一年後許され、河内と関東とで1万石与えられ
    豊臣大名に復帰したが1591年に天然痘で病死。
    そして、領地は子孫に与えられのちに狭山藩藩主となる らしいです。

  • @user-ce6qm8lv9m
    @user-ce6qm8lv9m Před 3 lety +3

    詳しいですね。
    情報元、気になります。

  • @koh631
    @koh631 Před 5 měsíci

    百姓の意地 vs 名門 & 大軍 vs 忍城 見応えある一戦ですね🎵

  • @user-ux3gy5vt2m
    @user-ux3gy5vt2m Před 3 lety +9

    ここまでされんと降服しない
    北条、どのみち秀吉が九州平定後は北条は難癖つけて滅亡させていたと思う、最低国替えは
    必然だろうな、絶対に拒否、
    そして滅亡、と、

  • @Statement_of_Use
    @Statement_of_Use Před 4 lety +16

    忍城って「のぼうの城」の城だっけ、こんだけの連中に攻められて、小田原城よりもよくぞ持ったもんだな……

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety +2

      忍城は三成が小田原の北条氏に取っても被害の少ない降伏を促したくての戦だけど…水攻めをしても堤防の破壊などをして決死の抵抗をした北条氏の士気の高さのせいで降伏は失敗して三成の本隊が苦戦したのを家康に救援された挙げ句、三成の失態を家康に弁明を測られた事を豊臣の天下の崩壊の1つに結び付けられてしまう悲しみよ…

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk Před 3 lety +3

    名胡桃城址は関越道・月夜野ICから近い

  • @pianochandaisuki
    @pianochandaisuki Před 4 lety +16

    家康に梯子を外されたのも大きい。小牧長久手の時やその後の秀吉の襲来に際しては北条に依存して低姿勢だったのに、劣勢を感じると秀吉と勝手に和睦しておいて、北条にすぐに秀吉に降りなさい、それが嫌なら氏直に嫁いだ娘を返して欲しいとか無理難題を押し付けられたり、家康の自分勝手な都合に振り回された感が強い。小田原合戦の際に家康による裏切りを期待した北条の甘さも問題だが、家康に一杯食わされた思いが強いと思う。

    • @user-ux9fq6ug7m
      @user-ux9fq6ug7m Před 4 lety +3

      家康は秀吉と正面衝突したら負けると分かっててずっと避けてたと思うよ。
      小牧長久手だって秀吉と信雄の対戦に援軍として駆け付けた体裁だったし。実際所領が攻略されて信雄が降伏したら撤退してる。
      既に秀吉の圧力に屈した後じゃ最早北条と命運共にして戦う気は元々無いでしょ。

    • @user-pl7gn2hc7r
      @user-pl7gn2hc7r Před 4 lety +8

      さすがに言いがかりやな
      徳川に徹底抗戦してほしかったら小牧の戦いで援軍送っただろうし状況判断する時間も十分にあったのに家康や伊逹はなんだかんだで北条に味方してくれるだろうと楽観視していた北条の見通しの甘さはどう考えても戦国大名失格

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 4 lety +5

      @@user-pl7gn2hc7r ご存知かと思いますが、小牧長久手と同時進行で関東では、北条と佐竹、結城、宇都宮の北関東連合軍との沼尻の合戦があったため援軍が送れなかったのが実情です。勿論秀吉は佐竹など北関東連合軍を支援して北条を牽制してました。援軍はなかったとはいえ家康は東方に強大な勢力を誇る北条がいたので、安心して対秀吉戦を行えたのです‼家康はこの後秀吉と和睦を結びつつも、北条氏にはいつ秀吉と破談になるかわからないので、これまで同様に力を貸して頂きたいと低姿勢に懇願してます。要するに二股をかけたのです。そして、秀吉が四国、九州と平定し関白になった頃には、家康は自分が関東の取次になり北条にも上から目線の口出しをして、まるで今までの同盟はなんだったのか?というほどに対応がぞんざいになっていきます。確かに時代に対応できなかった北条は甘いですが、あれだけ北条に依存していた家康が、秀吉が強大になると梯子を外すように北条に冷淡になっていきます。戦国の世を生き抜くためとはいえ、家康のしたたかな外交戦略に梯子を外された北条の悲運を感じてしまいます。

    • @user-pl7gn2hc7r
      @user-pl7gn2hc7r Před 4 lety +2

      @@pianochandaisuki 返信どうも、そもそも当時の豊臣に対して徳川が仮に北条と共に秀吉に対抗した所で両家ともまとめて滅びるだけの差があるのだから豊臣との敵対をやめて北条にも臣従するように説得し続けた家康は北条に対して十分義理を果たしたと思いますよ?
      そもそも北条が生き残るには家康が北条に味方することではなくその忠告を聞いて豊臣に臣従することの一択なのに
      この時期の北条の情報収集力と状況判断力の低さと楽観視は戦国大名としては致命的過ぎると思いますね
      家康からしても当時の北条は「なんで今の豊臣の力が分からんのだ?このままでは親類の徳川家まで連座で処罰されるかもしれないじゃないか」と気が気ではなかったと思いますしどちらかと言うと当時の家康の方が北条の楽観ぶりに振り回されたイメージがありますね
      逸話ではありますが家康が時季外れの果物を珍しい進物として北条に送ったら北条は「橙がそんなに珍しいのか?だったらこちらから大量に送ってやろう」と大量の橙を送り返された家康は「よく見ればこれが橙ではないことは分かるだろうににべもないことをする、こんなことでは北条も先は無いな」と北条の状況判断の低さに呆れた逸話があるくらいですから

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 4 lety +3

      @@user-pl7gn2hc7r まあ橙の話も汁かけ飯同様に創作の類だと自分は思ってます。北条は信長に臣従していた時代があるように決して中央政権に疎いということはなかったと思います。しかし、信長に臣従したのに、ぞんざいに扱われてしまいプライドを傷つけられたトラウマが秀吉の時に判断を誤らせた原因かと思います。それと北条は独自の非常に百姓に優しい年貢システムを採用していたため、秀吉に太閤検地をされることで、せっかくの良政が崩されてしまう不安があったのも大きいと思います。そして最も大きい原因が北条氏が大きくなりすぎたということです。秀吉は氏政か氏直が上洛したら領地を安堵すると言いましたが、側近の石田三成などは開戦して北条氏を潰しておかないと将来家康と北条が豊臣政権の癌になると考えてました。そして小田原合戦につながる、名胡桃城事件も、三成が真田と図って罠を仕掛け、まんまと北条がそれに嵌まったという話もあるくらいです。要するにあのまま氏政か氏直が上洛してもいずれ難癖をつけられて滅ぼされていたと思われるのです。織田信雄が改易されたようにそれを北条氏もわかっていたので、決戦しかないと思ったのでしょう。秀吉は特にこの後、唐入りを考えていたので、なおさら北条のような大勢力の温存は邪魔であったと思います。北条としては領地削減覚悟で臣従するという手もあったと思いますが、難しかったですね。そして北条は家康を純粋に最期まで味方と信じていた甘い期待があったのはおっしゃる通り致命的な見通しの楽観だったと思います。戦国を生き抜くのは難しいです。長々とすみません。

  • @bandotaro2540
    @bandotaro2540 Před 4 lety +9

    名胡桃城事件って創作なのかな...

  • @user-ov5gj3fm5l
    @user-ov5gj3fm5l Před 3 lety +25

    朝鮮出兵で釜山やソウルの城が半日で落とされてたのを見るにつけ
    朝鮮出兵以上の人数で攻められたのに数ヶ月耐えた
    北条家と小田原城の凄さを再認識してしまう

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru Před 3 lety +3

      明・朝鮮側は鉄砲を持っていなかったからね。
      また防衛施設の仕組みも違ったろう。
      一番違うのは、日本軍なんて海なんて越えてわざわざくるわけないだろ、と思い込んでいたので、全く警戒していなかった。

  • @user-iw2ej5dr9s
    @user-iw2ej5dr9s Před 2 lety +2

    小田原城包囲で思ったこと俺「完全に信長包囲網じゃん」

  • @orita3104
    @orita3104 Před 4 lety +14

    先鋒・徳川家康のパワーワード

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety +2

      秀吉、最大のミスとしか思えん!!

    • @user-nc2vf5ko4q
      @user-nc2vf5ko4q Před 3 lety +7

      家康「殿下!わい同盟結んでて仲ええから降伏勧めてくるわ」
      秀吉「よっしゃ、なら先んじて頼むわ」
      家康「領土割譲と氏康、氏直は処遇はよう分からん、戦うなら協力するで?」
      氏康「ほんまか!」
      氏直「わい死んでもええ、降伏や」
      氏康、家康「え?」
      氏康「ダメや!戦うで!」
      家康「それでええ」
      家康「説得したけど言うことききまへん」
      秀吉「関東狩りやな!」
      これやで

    • @user-qb1gl2sw7o
      @user-qb1gl2sw7o Před 3 lety

      氏政「・・・・」

  • @user-li4pn5rs1d
    @user-li4pn5rs1d Před 3 lety +3

    数は力の具体例🔍

  • @silence-suzuka
    @silence-suzuka Před rokem +4

    島津長宗我部と比べられても、あの人達最初から敵意あったからなあ…。北条は交渉を引き伸ばしたり、してた途中に城を奪取したのもあって信用できないと判断したのかなと思いました
    後、伊勢早雲公ならこうなる前にさっさと上洛してますよ状況判断早いですから

  • @user-zk8um8pz4k
    @user-zk8um8pz4k Před 3 lety +32

    北条がこの時代1番好きな大名だったからこの特集は嬉しいけど悲しい

    • @user-to8yb8cn2w
      @user-to8yb8cn2w Před 3 lety +16

      私も後北条が一番好きです所詮秀吉は百姓上がり。氏政氏照を切腹させといて小田原の市街地に葬るなんてだめ!仮にも240万石の大大名なのだから一つお寺を作って葬ることくらいしなくては侍ぢやない所詮百姓。

    • @user-xu8hp7re9g
      @user-xu8hp7re9g Před rokem +1

      最近の研究では秀吉は商人若しくは武士の家柄だったという説があるらしいですよ

    • @paulieys8282
      @paulieys8282 Před rokem

      百姓かどうかは定かではないが
      どちらにせよ信憑性のある文書で秀吉は貧乏な身の上からの出身であったとの記述があるらしいから
      貧乏ではあったと思うけどね

    • @user-cc4jy7vt9n
      @user-cc4jy7vt9n Před 11 měsíci

      侍でそんなことするのは殆どおらんだろ。お前の先祖は百姓だろ。この百性上がりが知ったかするな。

  • @user-iw9xw8fe9d
    @user-iw9xw8fe9d Před 4 lety +7

    いっそ、北条が徹底抗戦して2年持ちこたえたら…

  • @user-to5cx8fz1r
    @user-to5cx8fz1r Před 3 lety +20

    忍城強いな

    • @user-tc7wd2kt3w
      @user-tc7wd2kt3w Před 3 lety

      兵糧攻めで良かったのにね

    • @user-dp7jh6dl8x
      @user-dp7jh6dl8x Před 3 lety

      忍城も強いが三成が間抜けすぎたのも一因だよね。

    • @supremegarbage9796
      @supremegarbage9796 Před 3 lety

      間抜けではなく、無理に水攻めを命じた秀吉に責任がある。

  • @souitirouful
    @souitirouful Před 4 lety +10

    戦国時代のオールスター感。
    朝鮮出兵もそうだけど。

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety +4

      小田原攻めの方が全国の諸大名を集めてるからオールスターだな。

  • @user-op4ib5ql6c
    @user-op4ib5ql6c Před 4 lety +3

    小山氏も今時滅亡したんだよなぁ-!

  • @user-hl3mt5qt5k
    @user-hl3mt5qt5k Před 3 lety +2

    その後の北條氏は北條残党狩りされ東北方面に逃げて、出家して本山慈恩寺の僧侶になったと聞いています!

  • @user-zs6hu8ev5q
    @user-zs6hu8ev5q Před rokem +2

    豊臣家に逆らうとこうなるぞ

  • @waiha-tomotaro5528
    @waiha-tomotaro5528 Před 3 lety +2

    北条の家紋がゼルダの紋章みたいで草

  • @user-fg3rt5bm1l
    @user-fg3rt5bm1l Před 4 lety +32

    北条氏の時勢の読めなさは異常
    もう絶対勝てない状態なのに

    • @glassbuddha
      @glassbuddha Před 4 lety +12

      当時は道路事情も悪く、人の往来も頻繁でなく、日本各地で話し言葉が違った。情報収集は相当困難を極めたと思われる

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru Před 3 lety +2

      所詮、関東の山猿。
      井戸の中の蛙に近い。
      セコいやり方で関東を維持出来ればそれでよかった。一種の日本の中の独立国家を目指していたのだろうが、呑気過ぎてこの結末。

    • @user-ub7tt4gl8y
      @user-ub7tt4gl8y Před 2 lety

      氏政自身も臣従の姿勢見せてたんだけどねー…

    • @user-zv5ug1rj7v
      @user-zv5ug1rj7v Před 2 lety +1

      初代伊勢宗瑞だったらあんなバカな籠城などせず秀吉軍と決戦を挑むか、勝てないと分かった時点で降伏していたと思う。

  • @user-co4uy9zu1s
    @user-co4uy9zu1s Před 4 lety +29

    北条が大人しく秀吉に臣従して
    関東を安堵されていたら家康の天下は無かっただろうに…

    • @user-pt5ld2nu7g
      @user-pt5ld2nu7g Před 4 lety +7

      それだと豊臣の天下の終焉も早まっただろうがね

    • @giantnioinoba2023
      @giantnioinoba2023 Před 4 lety +18

      間違いなく、江戸に幕府は開かれてないな。東京の繁栄も今ほどではなかったろうし。

    • @user-bi3og9yx7x
      @user-bi3og9yx7x Před 4 lety +8

      そんなに北条は力があったのか

    • @user-xj1sg4mk6o
      @user-xj1sg4mk6o Před 4 lety +11

      北条を降した時、秀吉は一罰百戒を兼ね見せしめのために一族郎党皆殺しにするつもりでした。しかし、前田利家の説得に応じて取り止めました。その後、北条家は利家の監督下に入り徳川を牽制する事になりました。秀吉の死後海道一の弓取りである家康が五大老筆頭になったのに直ぐ、豊臣を滅ぼすことが出来なかった最大の理由に、徳川包囲網の監督を利家が率先してやっていたからです。先ず豊臣のトップの前田家を取り込まなければ身動き出来ない状態でした。

    • @user-xj1sg4mk6o
      @user-xj1sg4mk6o Před 4 lety +11

      徳川は勢力拡大が出来ず、頭打ちだったでしょうね。

  • @umakara55
    @umakara55 Před 4 lety +10

    6:32 徳川、織田、豊臣の連合軍とかめっちゃロマンあるな

    • @kinnginnrimeiku
      @kinnginnrimeiku Před 4 lety

      浅井朝倉も武田の騎馬隊も勝てなかったよね

    • @user-it9tb4um2p
      @user-it9tb4um2p Před 2 lety

      織田(当主がアホな上、主な武将は抜け出した残りカス)。

  • @user-eg4be2ln9m
    @user-eg4be2ln9m Před 4 lety +30

    忍城は、落城しなかったんよねー。
    のぼうの城の小説になった

    • @kero997s
      @kero997s Před 4 lety +6

      攻め方の石田三成の失敗でね。

    • @Kei-zh9fh
      @Kei-zh9fh Před 4 lety +12

      映画化もされたね。なかなか面白かった。

    • @user-eg4be2ln9m
      @user-eg4be2ln9m Před 4 lety +5

      Kei そそ。敵も味方もあの者に魅入られておる

    • @user-eg4be2ln9m
      @user-eg4be2ln9m Před 4 lety +4

      kero997s 史料にはないので、推測だけど。
      三成は、もしかすると攻め滅ぼすつもりが無かったのかも。
      戦下手という自らの評判も利用して。。。。

    • @hidenorif9440
      @hidenorif9440 Před 4 lety +6

      現地埼玉県行田市は昭和の雰囲気が濃厚に残り、さきたま古墳群もありおすすめです。GWの5/4には火祭りもあります。

  • @kazkumamon1261
    @kazkumamon1261 Před 4 lety +11

    戦になれば最初から勝機なんて無いのはわかってたはず、最初から素直にしたがっておけば存続はさせてもらえただろうに。

    • @user-cj8kl6dd4q
      @user-cj8kl6dd4q Před 4 lety +9

      その後の秀吉の大陸進出を考えると、仮に恭順して残された場合の北条氏はとんでもない軍役を課されそうだな

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 4 lety +2

      @@user-cj8kl6dd4q
      でも領地は減らされてただろうから
      そんなに軍勢出せって言われなかったと思う

    • @user-tf7lm7sr9m
      @user-tf7lm7sr9m Před 4 lety +3

      確かに存続は大事ですね、滅んだら全て終わり。
      いろいろ命じられても、家康がその時まで待っていて天下を取るんですからね〜

    • @user-ux9fq6ug7m
      @user-ux9fq6ug7m Před 4 lety +4

      徹底抗戦した長宗我部や島津が元々の所領の土佐や薩摩・大隅は安堵されてたし、配下の手前何もしないで降伏ってのもメンツ立たないし
      戦になって負けても滅亡するとまでは思っていなかったんじゃないかと。
      秀吉は信長の配下時代から相手が滅亡するまで殲滅するってやり方は殆どとらなかったし(殲滅されたのは明智や内部抗争した柴田・織田信孝くらいだろう。佐々だって降伏後取り立てられてるし)。

  • @kanagawa-jin
    @kanagawa-jin Před 4 lety +14

    長篠の合戦もそうでしたが、とてもわかりやすいです!
    氏政がダメだったんですねえ〜

  • @user-ms5rv2pt5r
    @user-ms5rv2pt5r Před 4 lety +6

    小田原城以外の見捨てられ方がひどいと感じたのは私だけでしょうか・・・・。武田の動画と比べてすごくあっさり感がありました。

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 4 lety +3

      こめておく兵力がなかったですからね。

  • @Coyote7ZPM
    @Coyote7ZPM Před 4 lety +28

    北条5代で大河ドラマやって欲しいなぁ

    • @user-sk7yj9hn9c
      @user-sk7yj9hn9c Před 4 lety +2

      Coyote7ZPM やらない理由が「北条家はもうやったから(時宗のことらしい)」という説があるみたいだけどマジかもしれないな。

    • @user-hm2tz4pd9y
      @user-hm2tz4pd9y Před 3 lety +1

      パンダーXパンダー 全く関係ない家なのに。…

    • @user-to8yb8cn2w
      @user-to8yb8cn2w Před 3 lety +2

      大賛成します‼️

    • @user-gh8hd2pj8y
      @user-gh8hd2pj8y Před rokem +2

      @織田大和守敏定 後北条氏の事やろ

  • @luigiapolloni4541
    @luigiapolloni4541 Před 4 lety +34

    この狭い日本で20万とか動員できる秀吉は鬼やな
    東北の小大名達は従属して正解やわ

    • @takahase904
      @takahase904 Před 4 lety +3

      従属してませんよ。
      この後に奥州仕置が行われた。

  • @user-wv3bo9rh7t
    @user-wv3bo9rh7t Před 4 lety +6

    1589年12月13日に出陣布告か……
    なお、その425年後の12月13ニチィは…おっと、誰か来たようだ。

  • @takuyakoseki21
    @takuyakoseki21 Před 3 lety +2

    忍城って映画のぼうの城?

  • @user-gh8hd2pj8y
    @user-gh8hd2pj8y Před 4 lety +18

    9:49末 期 ベ ル リ ン

  • @KiTSon11281025
    @KiTSon11281025 Před rokem +30

    早雲、氏綱、氏康があの世で悲しんでるよ…

    • @user-uq1kz9ic5g
      @user-uq1kz9ic5g Před rokem +1

      なんで?

    • @user-MidoYoko_Midorimushi4545
      @user-MidoYoko_Midorimushi4545 Před rokem +2

      早雲 氏綱 氏康 氏政 氏直

    • @user-dk4hl3he3c
      @user-dk4hl3he3c Před rokem +8

      @@user-uq1kz9ic5g 室町時代終盤に今川家に客将として東駿の領土を頂き苦労に苦労を重ねて3代にわたって関東一帯を領したのにそれがあっという間になくなったらそりゃ亡き先祖も悲しむだろうよ

    • @user-lw4xj3lx4f
      @user-lw4xj3lx4f Před rokem +2

      氏康は多分やはりなと思ったのでは(笑)

    • @user-ne1qz8rk7f
      @user-ne1qz8rk7f Před rokem +2

      玄庵が生きていれば...

  • @user-kt1xe6mw5u
    @user-kt1xe6mw5u Před 4 lety +17

    名胡桃城の件は真田昌幸の仕向けた謀略でしょう。北条が消える事で領土が回復される。沼田は真田にとっては聖地だからね。

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 4 lety +5

      秀吉というか石田三成あたりも噛んでるでしょうね(笑)北条のような大勢力はどうしても滅ぼしたいですから。討伐の大義名分うぃ探していたと思います。

    • @user-jn7gq5up6g
      @user-jn7gq5up6g Před 4 lety +1

      長野業正との約束ですね。

  • @leizei-in8dha
    @leizei-in8dha Před 4 lety +9

    北条の家紋、トライフォースみたいでかっこいい

    • @giantnioinoba2023
      @giantnioinoba2023 Před 4 lety +8

      元は鎌倉幕府の北条得宗家からパクったもんだけどねw

    • @user-ry4dw7hz6p
      @user-ry4dw7hz6p Před 3 lety +2

      得宗北条家は三つ鱗、戦国大名北条氏は北条鱗というらしいです。(知ってるかもしれないけど)

    • @umakara55
      @umakara55 Před 2 lety +1

      「伊勢」だといかにも西国っぽいし、当時は「関東に侵略してきた外敵」みたいな扱いだったから、昔の関東の支配者の名を借りた。奥さんが北条の血筋を引いてるという理由で。

  • @user-pl7gn2hc7r
    @user-pl7gn2hc7r Před 4 lety +32

    この戦のあとの信雄への秀吉の理不尽さはやばい、北条征伐で大活躍したのになぜか尾張伊勢100万石から三河遠江50万石に移れと言われたので当然拒否したらほぼすべての領地を召し上げるという

    • @user-qb7dd3kz5q
      @user-qb7dd3kz5q Před 3 lety +14

      違います。
      正しくは、北伊勢尾張30万石から、この戦いの論功で三河遠江55万石に加増転封です。
      それを蹴ったのは事実ですけどね。

    • @user-pl7gn2hc7r
      @user-pl7gn2hc7r Před 3 lety +8

      @@user-qb7dd3kz5q 尾張一国だけでも60万石はありますよ、北条攻めの時の信雄の率いた兵力から見ても30万石はまずないです
      伊勢も本来は小牧の戦い後に返還される約束でしたが秀吉はこれを反故しているので北伊勢だけになりましたがそれでもこの時の信雄は北条攻めの動員兵力から見てかなり低く見積もっても70万石以上はあったはず

    • @user-qb7dd3kz5q
      @user-qb7dd3kz5q Před 3 lety +3

      @@user-pl7gn2hc7r あれ? そうでしたっけ?
      多分こちらが間違えてるような気がします。 すいませんね。

    • @miyakoshim.4443
      @miyakoshim.4443 Před 2 lety +7

      いまさらですが
      家康→旧北条領、信雄→旧家康領へのところてん方式の転付であり、畿内から遠ざけるのが目的でしょう
      信雄の場合は、小牧長久手の織田、徳川連合軍の敗戦により伊賀と伊勢半国を割譲していたので100万石には足りないが、旧家康領は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五か国(約150万石)なので、家康と同じく大幅な加増となる。それを受けた家康(家中では反対が多かった)は残り、指導力を発揮できなかった信雄は消えたというだけの話だ。

  • @hymn13
    @hymn13 Před 3 lety +5

    こう言う戦史や戦記って、話をどこから始めるかが結構重要だと思うんだけど、このチャンネルはそこのセンスがず抜けてると思う。
    あと、氏政は実は名君とする説もあるけれど、後詰の全く期待出来ない本城への包囲戦を許した時点で、名将ではないと思う。

    • @user-zy3jk2je6e
      @user-zy3jk2je6e Před 3 lety +3

      名君と名将は、必ずしも一致するとは限らない。農民の年貢負担を下げるなど、内政家や北条家を今までのような戦国時代であれば、存続できただろうが、豊臣秀吉という天下人を甘く見たのは失策ですね。

    • @hymn13
      @hymn13 Před 3 lety +2

      @@user-zy3jk2je6e 「今までのような戦国時代」だったら、いつかは他国に侵略されて領民撫で斬りもあり得ますよ。
      戦国だからこそ、明君と名将が同時に成り立たなければ危ういと思います。
      平時の江戸時代は確かに名将である必要はありませんが。

    • @user-zy3jk2je6e
      @user-zy3jk2je6e Před 3 lety +1

      @@hymn13 江戸時代であれば、名君だけで済んだ分、氏政は名君として一生を終えられたでしょうに。乱世の場合はやはり、奸雄でなければ乗り越えてはいけないということでしょうね。

  • @user-pz6jw3ix2v
    @user-pz6jw3ix2v Před 4 lety +14

    殆ど全方向(全大名)が秀吉側だったのに、良く戦おうと思ったな。

    • @user-yd5kt2iu6f
      @user-yd5kt2iu6f Před 4 lety +16

      伊達か徳川来ると思ってた説

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 4 lety +17

      @@user-yd5kt2iu6f
      説と言うか実際そうだったらしい…
      北条と徳川は親戚だし、伊達も反豊臣で北条と一致してたから
      北条がこの2人を頼ろうとしてたのは間違いない

    • @user-yd5kt2iu6f
      @user-yd5kt2iu6f Před 4 lety +3

      @@user-co4uy9zu1s 徳川とは天正壬午の乱の後に婚姻したんだっけ?

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 4 lety +10

      @@user-yd5kt2iu6f
      家康の娘が氏直に嫁いでいますね
      そのお陰で氏直は切腹を免れましたが

    • @user-yr3ng8bh7v
      @user-yr3ng8bh7v Před 4 lety

      オリンピックまでに登録者2020- 宣伝コメント見苦しからやめような

  • @user-zv5ug1rj7v
    @user-zv5ug1rj7v Před 4 lety +15

    秀吉がガチで小田原城を攻めていたらどうなっていたのだろう。

    • @kinnginnrimeiku
      @kinnginnrimeiku Před 4 lety +13

      秀吉は農民出身なので死者が多く出る力攻めはあまり好みませんでした
      小牧長久手の戦いで中入をしようとして敗走した秀次を叱責した例もあります

    • @user-jn7gq5up6g
      @user-jn7gq5up6g Před 4 lety +8

      徳川家康、織田信雄は総構に攻撃しましたが、70mにもなる堀に全く歯が立たず、1000人以上の死者を出したそうです。
      強攻は全軍で攻撃しても厳しいと思います。

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety +8

      秀吉は小田原攻めで豊臣の力を見せしめにしたかったのがあるから本気ではあるけど、諸公のやる気は皆無よ。
      「こんな戦をしなくても北条を降せば平和な世の中に出来たのに…」と言う前田利家を始めとする諸公や自身の天下への盤石な準備の下ごしらえをしたい家康…
      決して士気の高い戦では無かったから北条に押される戦も合ったりで逆に豊臣の天下の陰りを作ってしまったしな。

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru Před 3 lety

      後の大阪冬の陣で徳川軍は大砲を駆使して和平を結んでいるが、秀吉を本気にさせたら、大砲で陸からも海からも撃ち込んで、北条の内部の士気を低下させて、降伏させていただろう。
      ハリボテのすぐ崩れる城が目の前に出来て、士気を落とした連中だしな。勝ち目なんてもうない、と理解していたはずだ。

  • @user-dt2xn4bf8j
    @user-dt2xn4bf8j Před 3 lety +2

    秀吉はなんで北条親子を上洛させようとしてたのですか??
    教えてください🙇‍♂️
    あと、なぜ氏政は先延ばしにしてたのですか??嫌だったんですよね

    • @miyakoshim.4443
      @miyakoshim.4443 Před 2 lety +1

      上洛して臣下の礼を取れば滅ぼされることもなかったでしょう
      秀吉は基本的には敵を攻め滅ぼすのではなく、臣下の礼を取れば自分の家臣にして利用するタイプです
      毛利、長宗我部、徳川、上杉、島津などは秀吉と戦っていた者ですが臣下になっています
      北条の上洛が遅れたのは夜郎自大、田舎大名だったからでしょう
      織田・徳川連合軍は小牧・長久手で一時的な勝利は収めたものの(他の戦線では敗北ばかり)伊賀、伊勢を攻略され家康は秀康を人質として差し出したのですが、なかなか上洛して臣下の礼を取りませんでした
      秀吉は天正十四年に傘下の大名に東国出馬(徳川・北条討伐)の直書を発し、上杉に信濃に出陣するように指示した書状も残っていますが、おそれをなした家康は上洛し家臣となりました(東国出馬中止)。
      北条と同盟していた家康でさえ秀吉の威勢に服するしかなかったのに、北条はバカしかいなかったのでしょう。

  • @1999wakaya
    @1999wakaya Před 4 lety +20

    うちの先祖は北条氏の御家人だったらしいです。この戦に破れて、現在のさいたま市緑区に当時の名字を捨てて移り住みました。

    • @user-gf6ig1rl5i
      @user-gf6ig1rl5i Před 3 lety +11

      嘘付いてんじゃねーよ!
      水呑百姓がぁ〜!

  • @user-xu8hp7re9g
    @user-xu8hp7re9g Před rokem +1

    事実上天下統一の北条征伐は最後の出世争いで各大名は遅参しないよう秀吉の北条征伐の御触れが出たとき急いで戦支度をしただろうね。

  • @bose8539
    @bose8539 Před 4 lety +21

    戦国大名と言えば家督争いだけど、北条家は五代も続いてそういう話あんま聞かんね

    • @Kei-zh9fh
      @Kei-zh9fh Před 4 lety +7

      当主が皆長生きして、後継者に家督をゆずったあとでも
      ある程度実権をもつというプロセスを繰り返せたことが大きいのではないかな。

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 4 lety +6

      北条幻庵の存在も大きかったと思う

    • @user-ye7um5te8q
      @user-ye7um5te8q Před 4 lety +4

      家が平和っていいね

    • @tmotchy93
      @tmotchy93 Před 4 lety +1

      伊勢宗瑞公の教えを子孫が守り通したからでしょう。

  • @user-sx7vs3il6l
    @user-sx7vs3il6l Před 4 lety +11

    22万の糞尿処理大変だろうね

    • @user-xj1sg4mk6o
      @user-xj1sg4mk6o Před 4 lety +25

      この様な付け城戦法の時には、陣地内の臨時のトイレの場所を決めて穴を掘り、用を足したら腐葉土を含んだ土を被せる事で匂いを抑えていたそうです。通常の野戦の場合、立ち小便と野糞をする暇がないので食べ物から便秘になり易い物にして大便の回数を減らし、戦闘中ならそのまま垂れ流していたそうです。足元の脚絆の所にコロコロのウンコが溜まるようになっていました。

    • @syugyoso
      @syugyoso Před 3 lety +12

      @@user-xj1sg4mk6o こういうガチ勢の解説を読みたくてコメント欄探索がやめられないんだよなあ。

  • @user-fe7of7hx8v
    @user-fe7of7hx8v Před 3 lety +8

    小田原攻略後に家康に蝦夷一国に転封と言ったらどうなっていたかなw

  • @user-iv2fs3br7w
    @user-iv2fs3br7w Před 3 lety +1

    そらあ秀吉キレるわなぁ

  • @user-ws8qz4yf2s
    @user-ws8qz4yf2s Před 2 lety +2

    小田原攻めは秀吉の天下統一の総仕上げ。天下人の力を見せつける謂わば「横綱相撲」だから無理せず消耗せず侮らせずだよ。

  • @DGsoldier
    @DGsoldier Před 4 lety +13

    この戦は面白かったろーなー。
    絶対勝てるし、旅行気分だよ

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety +5

      絶対と言う訳でもないぞ。
      全国の諸大名はやる気無かったのに秀吉の見せしめの戦の為に呼ばれてるから士気は低かったから押し返されてる戦もあるんだよな…

    • @user-dh1og7tg8m
      @user-dh1og7tg8m Před 2 lety +5

      秀吉方も補給が続かず…とか言う人いるけどそんな事もなく
      士気を下げない為に妻妾呼んで、娯楽施設も建ててるから楽しさのあまり2年でも3年でもいたい
      って手紙が残ってるんだよなぁ

    • @umakara55
      @umakara55 Před 2 lety +8

      もうこの時点で北条以外はすべて下して、事実上の日本国王だったからな。ウイニングランみたいなもんだ

  • @user-cc6mw8ew6i
    @user-cc6mw8ew6i Před 3 lety +20

    氏康の代が一番強かった説

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 3 lety +8

      そんなことはない。氏政は実力で謙信を関東から追い出し、勢力拡大したんだから。氏康時代には出来なかったこと。

    • @kusu-
      @kusu- Před 3 lety +8

      別に、領土の広さという観点だけで強さを測れるわけではないのでは?

    • @user-zj9lp6zm1z
      @user-zj9lp6zm1z Před 2 lety +3

      @@pianochandaisuki 武田信玄 今川義元 上杉謙信と、やはり氏康時代の方が領土拡張は難しかっただろうに
      1575年頃になれば、上杉は北陸を西へ戦略し始めた頃だし、氏康時代よりは上杉からの侵略を受けずに済んだだけでは?

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 2 lety +3

      @@user-zj9lp6zm1z 事実は氏政に関東での足掛かりを阻まれたので、謙信は北陸に目を向けざるを得なかったのです。謙信の氏政への怒りというか憎しみは凄まじいものでしたが。無論甲相同盟破棄されたのが原因ですが。この辺の話は平山優氏や黒田基樹氏の研究にもあるので著者を読まれてみれば分かります。勿論武田勝頼、北条氏政同盟が効いていたのはあります。流石の謙信も信長とある時期まで同盟してこれに対抗してましたから。

    • @miyakoshim.4443
      @miyakoshim.4443 Před 2 lety +1

      氏康が最強というのは確かでしょう
      氏政は領土を一時は最大版図に広げたのは確かですが、最終的には領土ゼロ、滅亡させたのですから最強どころではなく最弱、凡将です。
      天正十四年に景勝、家康が上洛して秀吉に臣従しているのに、関東で独立できるという甘い考え?
      井の中の蛙、夜郎自大というべきか?頭が良くないのは確かだろう。

  • @kinomotiyo
    @kinomotiyo Před rokem

    後北条はロマンある
    また民に対し後北条は
    善政をしてた

  • @haljack9220
    @haljack9220 Před 2 lety +1

    高野山が必ず出てくる。
    大名が来るたび、一体いくらお金をもらっていた?

  • @user-yy2in5di4z
    @user-yy2in5di4z Před 4 lety +3

    話がゆっくり過ぎて眠くなります…

  • @user-gr6ec1ng1x
    @user-gr6ec1ng1x Před rokem +1

    北条家は江戸時代通じて大名として存続してる。→狭山藩

  • @user-do5sn6ys7o
    @user-do5sn6ys7o Před 4 lety +18

    一番悲惨だったのが八王子城の戦い。

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety +5

      朝には死体の山になった八王子…

    • @tikokun
      @tikokun Před 4 lety +5

      降伏さえ許されなかったからなぁ…

    • @user-do5sn6ys7o
      @user-do5sn6ys7o Před 4 lety +4

      @@tikokun そうだねー。北条の城を攻め落とす(降伏して開城ではない)。それが目的。スケープゴートにされたね。八王子城にも忍城にも行った事が有るけど、山城の八王子城は大軍に攻められたら防ぎきれないね。

  • @user-it9tb4um2p
    @user-it9tb4um2p Před 2 lety +1

    こうして見ると、忍城は割とどうでもいい位置にあるのがわかるな。あの辺は平野だからいくらでも脇を抜けて移動できるわけだし。

  • @user-gw2bf9hu9u
    @user-gw2bf9hu9u Před 3 lety +6

    銘家あるが故に時勢の判断を誤ったのだろうね。
    対照的にいえば、前田家は伝統が無いだけに、時勢の判断を最優先して江戸幕末までNo.2でいられた。

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 3 lety +1

      前田家は覇権争いはしなかったからね。

  • @user-ye7um5te8q
    @user-ye7um5te8q Před 4 lety +24

    氏政は有能だったけど、東武者の独立志向といつも小田原本城での籠城でやり過ごしてきたから、出城がやられても降伏しなかった。また、直接信長や秀吉の強さを見てなかったから事情を見誤った。そのせいで評価の低い武将ですよね。なんか可哀想by神奈川県民

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 4 lety +16

      信長には一時臣従しましたがね。そのときにぞんざいに扱われたトラウマが北条にはあったのでしょう。秀吉に容易に従わなかったのは中央政権への不信感からだと思います。

    • @user-ye7um5te8q
      @user-ye7um5te8q Před 4 lety +11

      それもあるだろうし、農民の秀吉に従いたくないというプライドもあったろうね。

    • @user-ux9fq6ug7m
      @user-ux9fq6ug7m Před 4 lety +11

      織田家時代の宿敵だった毛利はもちろん長宗我部も島津も織田信雄も徳川も抗戦後降伏して元々の所領は安堵されてるし、秀吉を舐めてたんじゃないか。
      意地で一戦は交える。うまくいけば百戦錬磨の上杉武田も撃退した小田原城で持ちこたえられるし、もし敗戦しても相模、伊豆、武蔵くらいは保持できるんじゃないかって。

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 Před 3 lety +3

      思ったほど一方的ではなかったらしい。
      小田原そのものは落城の気配はなかった。
      以外と手こずったらしい。

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 3 lety

      滝川一益と同格だった頃とは違うのが理解できなかったのだろうか?

  • @user-ty8tu6dr5s
    @user-ty8tu6dr5s Před 4 lety +22

    北条を攻めるにこれだけ20万以上の兵を出さないと勝つ自信なかった秀吉に恐れを抱いた北条の力もすごいということ
    を思い知ったw

    • @user-zv5ug1rj7v
      @user-zv5ug1rj7v Před 2 lety

      秀吉が伊勢宗瑞の幻影に怯えていた証拠でしょうね。恐らく北条の当主が氏政ではなく伊勢宗瑞だったら秀吉は戦死、秀吉軍は全滅し大坂城は火の海になっただろう。

    • @abcdefgghcnok
      @abcdefgghcnok Před rokem +8

      20万動員したのは天下人の威信や逆らった時の見せしめとしてでしょ。
      秀吉が恐れていたかは分からない。
      恐らく兵力差や今までの経験から恐れてはいないと思うけど。

    • @user-bu2rj9bg5o
      @user-bu2rj9bg5o Před rokem +11

      @@user-zv5ug1rj7v 氏康でも早雲でも氏綱でも20万の大軍がやってくればどう足掻いても勝てません、さらに言うと20万の大軍を全滅させても秀吉はさらに20万以上編成出来る力を持ってました、小牧・長久手の戦いまでの秀吉ならまだしもこの時の秀吉に勝てる大名は居ません、

    • @user-zv5ug1rj7v
      @user-zv5ug1rj7v Před rokem

      @@user-bu2rj9bg5o
      秀吉が北条に討ち取られていたらどうなったか。ネルソン提督を失って尚戦い、勝利したトラファルガーの戦いでのイギリス軍や30年戦争のリュッツェンの戦いでスウェーデン王グスタフを失いながらも最後まで戦い勝利を掴んだスウェーデン軍のように戦うことがこの時の豊臣軍にできたのか?北条が勝てるとしたらそこにかかっていると思うのだが。

    • @user-bu2rj9bg5o
      @user-bu2rj9bg5o Před rokem +1

      @@user-zv5ug1rj7v どうやって秀吉の本陣に達するんですか?それに軍師官兵衛が居ますから本陣が突破されそうなら退却しますよ、

  • @dxspex2292
    @dxspex2292 Před 8 měsíci

    忍城成田流石だな
    よく持ち堪えたよ

  • @namuamiodabutsu
    @namuamiodabutsu Před 4 lety +7

    なにげに真田昌幸を破った猪俣邦憲すごいな

    • @user-bm1li7nf4c
      @user-bm1li7nf4c Před 4 lety +11

      namuamiodabutsu
      北条家を滅亡させるための真田方の
      策略じゃないかな

    • @user-zy3jk2je6e
      @user-zy3jk2je6e Před 3 lety +7

      ツィデルマン電報事件や真珠湾攻撃並みの悪手だよな。名胡桃城の攻撃は。これで北条と戦争する口実が豊臣側はできた訳で

  • @user-ox6jo1zy7d
    @user-ox6jo1zy7d Před 4 lety +13

    しっかし、250万石ってすごいな。

    • @izawaakechi
      @izawaakechi Před 4 lety +4

      同盟 関八州は手にいたからな

    • @user-nc2vf5ko4q
      @user-nc2vf5ko4q Před 3 lety +5

      検知したらもっと増えたんだからエグいよね

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru Před 3 lety

      検知したら…それもせず、なあなあで慣らしていた大名としては当然の結末であった。

    • @user-ox6jo1zy7d
      @user-ox6jo1zy7d Před 3 lety

      @@izawaakechi 上杉や毛利ですら、120万石ですからね。

  • @Kei-zh9fh
    @Kei-zh9fh Před 4 lety +7

    行動方針が終始一貫しないのは、やはり氏政さんの優柔不断のせいですかね。
    名胡桃城の件は、映画や小説だとよく秀吉の陰謀扱いされますが、
    少なくとも当初は秀吉に北条家を潰す積極的な理由はなかったはずなんだけど、
    実際のところはどうなのか。

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 4 lety +3

      家康と北条を切り離したかった秀吉としては思う壺だったはずです。

    • @user-xj1sg4mk6o
      @user-xj1sg4mk6o Před 4 lety +1

      最上と敵対していた伊達や、秀吉に楯突いた親戚でもある徳川が味方になってくれると思っていたのでしょうね。籠城して両者が起つのを待っていたのでしょう。また、籠城して秀吉の大軍を引き付けて時間稼ぎを為ていれば、九州では島津が起ち、東北では伊達が最上にしかけ、同時多発的に、軍事行動を起こし秀吉の手に余る事態になれば、間違いなく徳川が裏切ると確信していたのでしょう。様は外交手腕で、北条が秀吉に負けたのです。秀吉にとって兵を動かすのは最終段階だったでしょう。秀吉の凄みは北条が籠城している間に、周囲の領民達を全て懐柔して見せた事です。二十万の多国籍軍に掠奪暴行を許さなかったその統率力は凄まじいと思います。北条方の国人領主達も自分達の領民が離叛すれば、城だけ残っても意味が無い事に気付いて次々と降伏しました。

    • @user-ux9fq6ug7m
      @user-ux9fq6ug7m Před 4 lety +2

      名胡桃なんてどう転ぼうが秀吉はどうでも良かったが最高権力者としての裁定にケチをつけて武力行使する奴は日本に新たな秩序を打ち建てる支配者として裁かなければいけないって立場でしょう。
      戦国時代のマインドから抜け出られなかった北条家は所領の奪い合いこそが戦国大名としてのレーゾンデートルだったが、
      戦国時代に秩序をもたらすものが現れたっていうパラダイムシフトについていけなかったってことじゃないかと。

  • @dutj9ehr
    @dutj9ehr Před 10 měsíci

    後々豊臣家にとっては後北条は滅亡させなかった方がよかったね。家康があそこまで力つけずに済んだし😎

  • @rosan6179
    @rosan6179 Před 4 lety +10

    滅亡しても救いは目立った裏切り者が松田憲秀だけだったことです
    武田氏の最期が悲惨だったのに対し北条氏は氏直、氏邦、氏規が助命されるなどまだましな方ではなかったか

    • @myofficialchannel3068
      @myofficialchannel3068 Před 3 lety +4

      でも島津、長宗我部とかと比べるとかなり厳しい処罰に見える。それに武田は信長の時代だから訳が違うかも。

  • @syugyoso
    @syugyoso Před 3 lety +4

    なんでそんなに上洛をしぶってたの?

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru Před 3 lety +4

      秀吉は浮浪者出身だし、京都の朝廷の影響も理解していなかったから。
      下克上の一家であるから、名誉、権威を全く考えなかったので時代遅れそのもの。
      名誉も権威も知らないから、弱者から領土を奪う事しか考えてない無法者集団。弱くなったらすぐ同盟を破り侵攻する一家。そんな無法者集団が「俺達を安心させる為におめーのかーちゃんと身内の娘を人質に寄越せや、そしたら上洛してやるよ」という態度。
      ちなみに関白は今の大臣の地位に近い。それ以上かもしれない。
      第二次大戦のソビエトみたいな感がある。

  • @user-zv5ug1rj7v
    @user-zv5ug1rj7v Před 3 lety +6

    秀吉と北条の板挟みになった家康。一番辛い立場だよな。

    • @user-ey8uu5gv8p
      @user-ey8uu5gv8p Před 3 lety +1

      でも結果的にこれが天下を取るきっかけになりましたね。

  • @user-hs4gf9fn4q
    @user-hs4gf9fn4q Před 4 lety +1

    唯一の勝ちらしい勝ち戦、忍城攻城戦、あの北条氏直の無血兜で開城したって本当だろうか?

  • @refine3714
    @refine3714 Před 3 lety +5

    豊臣の作戦勝ち、北条は過信し過ぎた。

  • @MM-tb6hp
    @MM-tb6hp Před 4 lety +6

    北条氏は関東進攻で勝ちすぎていたのでは?河越合戦等での逆転大勝利は智勇随一のプライドを生み、秀吉にも対抗しうると感じてもおかしくない!

  • @user-eg4be2ln9m
    @user-eg4be2ln9m Před 4 lety +6

    北条氏は、時代の流れを読んでなかったんだと思う。

  • @manwong9931
    @manwong9931 Před 4 lety +10

    個人意見🤔日本戰國最堅固小田原城

  • @user-cj8kl6dd4q
    @user-cj8kl6dd4q Před 4 lety +8

    信長には従属する意思を示しながら、秀吉には徹底抗戦するというのがよく分らん

    • @user-yd5kt2iu6f
      @user-yd5kt2iu6f Před 4 lety +8

      多分農民出身の秀吉に関東の覇者が頭を下げるのは関東五代百年
      北条氏のプライドとしてできなかったんじゃないかな?

    • @user-cj8kl6dd4q
      @user-cj8kl6dd4q Před 4 lety +9

      @@user-yd5kt2iu6f でも信長の家も元は守護代の家臣筋だから武士身分の中では決して高くないよなぁ。
      後北条氏の初代早雲の方が織田家より遥かに家格も身分も上だったと思う。
      同じ武士カテゴリなら頭を下げるのは気にならないんだろうか?

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s Před 4 lety +14

      信長は北条に
      「家臣じゃなくてあくまで大名同士の同盟関係の付き合い」を提案
      一方の秀吉は「北条を自分の家臣にしよう」としていたから
      この違いだと思う

    • @user-oh8sb6qx5v
      @user-oh8sb6qx5v Před 4 lety +8

      もふもふ
      信長も武田滅亡後は北条家に対しては
      やたら冷たかったので
      或いは北条家も潰す予定だったのかも

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Před 4 lety +6

      従属したけど信長にぞんざいに扱われたトラウマがあったのでしょう。秀吉に容易に従わなかったのはそれも要因かと。関東の支配は北条に任せてほしいというのが命題ですから。

  • @user-ry4dw7hz6p
    @user-ry4dw7hz6p Před 3 lety +1

    伊達政宗が北条側に参陣していたらどうなっていたたんだろう...

    • @user-mp8vm7xv9d
      @user-mp8vm7xv9d Před 3 lety

      家康まで来たらワンチャンあったかもね。
      多分氏直も秀吉の力を見誤ったのも有るけど、伊達徳川北条の3人がこちらに味方してその上で何人か裏切りが出るとでも考えてたんだろうな。

  • @user-ch4nj8eh9y
    @user-ch4nj8eh9y Před 4 lety +3

    信玄も謙信も
    落とせなかった難攻不落の名城
    信玄は牽制という意味があって
    本気で落とそうとは考えてはいなかったみたい
    秀吉はこの城を軍事力で落としたのではない
    経済力・物流の力で落とした

  • @user-nu3op7zv8l
    @user-nu3op7zv8l Před 4 lety +5

    この戦いは豊臣としては後の愁いをなす戦にしか無い、後に関東は徳川にと、特をした徳川は朝鮮出兵に
    大規模な出兵はせず、兵力の温存に成功した。天下を別けたおお戦は既に始まっている状況の始まりかも?
    北条が徳川を経てと言うのも?と歴史は面白い。

    • @user-nu3op7zv8l
      @user-nu3op7zv8l Před 4 lety

      この戦いの面白いと言う事の、戦国時代的の歴史が好きな人にとって神秘なる事。実在したていた歴史なら面白い事、
      室町時代に伊勢の鞍と、天皇家の教育を司る名家の1つが伊勢家、当時実際に鞍を作っていたのが新九郎とか(今の中国地方ので?)、
      話しは飛ばし、当時の大名、今川氏に嫁ぐのが要が伊勢の血筋の姫、今川家との嫡男が出来るも内乱、危機を知り駿河に身を埋める思いで、と、
      内乱を収め治安維持の為残り領内の東側に一村を起こし、東側からの敵を防ぎ、伊豆に危機あれば、と?駆け巡り、過ぎて早、と、伊豆何とかがの御所風邪、
      息子どもは間抜け、ならばと御免打ちまあそんなこって、伊豆を収めても次に小田原の大森氏、新九郎さんの頑張りはここから、関東の優は多い氏、
      関東の足利何ぞ、都から飛ばされた氏族に振り回せられと?した後に大森氏を打ち破りと。北条早雲と名乗る様にと、皆様ご存じかと、
      前北条と後北条があり早雲は後北条ですね。豊臣秀吉は天皇家に忠義をとは?秀吉自体がその歴史が分からない人物、信長は戦国武将の跡取りとして、
      時代に生きたから、家康は幼少期に今川家で、と、家康に取っては···········。豊臣秀吉に取っては············(·長くなってしまいました)

  • @user-gr3hu1vl2t
    @user-gr3hu1vl2t Před 4 lety +3

    小田原は神奈川県の中でも独自性が強い、何故なら鎌倉幕府や徳川の影響より、北条氏の街だからだ、横浜?、田舎もんだろ、

  • @kokijames6522
    @kokijames6522 Před 4 lety +3

    合戦では無く、小田原攻め!

  • @user-li4pn5rs1d
    @user-li4pn5rs1d Před 3 lety +2

    花の慶次では豊臣の雑兵が女と遊んどるんを見てブチ切れてた北条の雑兵が印象的だったわ🔍

  • @user-on2eb1li7v
    @user-on2eb1li7v Před 4 lety +5

    徳川軍を滅ぼすべきやったかもな…
    この時の秀吉…。でも、過去の秀吉は家康と和解したから、しゃーないかな…。他にもいろいろな説もあるし…。北条氏も、数々の戦国の歴史を持つけど…、豊臣秀吉や徳川家康を攻めようと思えば出来るのに…そう言う野心が北条氏にあればね…

    • @user-ux9fq6ug7m
      @user-ux9fq6ug7m Před 4 lety +1

      元々の織田家時代の盟友のよしみもあったし、降伏した大大名はことごとく所領削ってるのに家康にだけは甘々なんだよなぁ。
      三河から関東に転封とはいえ所領増えてるし。
      小牧長久手だって実際は秀吉対信雄で家康はあくまで援軍に過ぎないから後世で言う家康の勝ちどころか信雄降伏で家康の戦略的敗北だし、腹心の蜂須賀は家康にはもっと厳しくすべきって死の直前まで反対してた。
      五大老筆頭の政務担当まで引き立ててる(同じく筆頭の前田は秀頼の後見人でしかなく豊臣政権の運営は家康に任せてる)し、秀吉は家康には絶対的な信頼置いてたと思う。

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 3 lety +1

      家康は秀吉に意図を読ませない慎重な動きをしていくんだよね。タヌキを騙したつもりが騙されていくんだよね。

    • @user-mz8fg1st3p
      @user-mz8fg1st3p Před 3 lety

      @@user-ux9fq6ug7m 敵になる伊達家もそう。米沢に置けばよいのに、平野部に移封する。逆に、味方となる上杉家を越後から、米沢、会津に移封も仇になる。移封は尽く失敗。他に、徳川家康を親族にしたのも失敗。朝鮮出兵も失敗、後継者も失敗。いくつもの失敗が豊臣家の滅亡に繋がっているよ。

  • @user-gx9pw9op7h
    @user-gx9pw9op7h Před 4 lety

    珍しく「ほうじょう」の発音が正しい。

  • @thienbaoguonghungtruonghoa9725

    The unable butcher essentially offer because preface counterintuitively tumble unto a waiting wool. abundant, colossal clef