【ゆっくり解説 】弥生時代に突然消滅した超巨大遺跡...
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- čas přidán 17. 05. 2024
- 「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
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古代からの日本海側の大陸との交易交流はすごかったんだろうなって思えるのに教科書では殆ど教わってないよね
妻木晩田遺跡の四隅突出型墳丘墓から副葬品が出ないのが本当に謎
いわゆる『国譲り』が伯耆国(東)から出雲国(西)への「国」ゆずりであって、文献からは、それに伴い技術や産業移転が起きていた可能性を考慮すると、その中心地は考古学では「忽然と消えた都市」にみえるあたりが面白い。世界の古代史でも、都市が消えて人々はどうなる、消えるわけないだろといつも悩んでいたからね
妻木晩田遺跡と出雲大社の話は分けてくれたら良かったかも
妻木晩田はどこに行ってしまったんですかね・・興味深く面白かったです
出雲勢力の中心地とされる遺跡ですね
投馬国候補としても有力ですね
大阪府南部に住んでると呆れるくらい多くの古墳が町のあちこちに点在するのを知るので「また古墳かい」みたいな贅沢な感想を抱きます。
でも弥生時代の「弥生」は現東京都文京区ですよね。なんで古墳時代は関西に遺跡が集中するんでしょうか。
出雲大社と熊野大社の宮司家は実際には別の家系になります。熊野大社は杵築台車が出来る前からの神社で、あの辺りの神社としては、神魂神社が用明期以前からの社で一番古く、次いで熊野大社。最後の杵築大社は記紀成立時期に建てられています。
杵築大社の元宮は雲南市の三刀屋神社。つまり、杵築大社もアメノホヒとは無関係の神社です。故に祭神がホヒではなく、大国主になっています。
妻木晩田遺跡の名は、松江の神魂神社に王宮のあった「向家」から来ている地籍名です。
ホヒと、本来の大国主やスクナヒコの家系の向家と、も一つの大国主とスクナヒコの家系の郷戸家の区別がつかないと、伯耆の国と出雲の国の関係性が薄れてくるのは仕方のない事と思われます。
妻木晩田は大きく分けて二度の大きな戦に巻き込まれており、一度目は倭国大乱期初期。吉備国に攻め込まれました。故に、あの近くにある山は吉備勢の陣地に「孝霊山」と名がつくことになりました。
二度目は卑弥呼の魏書の時代の戦いです。
その際に、郷戸家の振根は杵築大社近くのクナコ神社の近くで戦死。
つまり、ホヒ家の中には、向家と郷戸家の人間が隠されています。
故に、関東方面の国造にはいきなりタケヒナドリなどが出てきます。
その関係で、イセツ彦の家系にもホヒとタケヒナドリ、そしてホヒ家のサマナ姫が出てきます。
妻木晩田遺跡で焼失家屋が20基ほどみつかっているが「戦火」によるものは1基もなかった。時期的にはありげな話だが「二度の大きな戦さに巻こまれ … 」とはどこ情報なのだろうか
@@MedakaNoBoo さま
何とレスポンスがあるとはww
まず、妻木晩田から東へ40キロ、鳥取県のほぼ中央部には、戦闘の痕跡で有名な遺跡がありますね。
鳥取市の「青谷上寺地遺跡」です。
杵築大社上官家はやられちゃった側の家系で現在も続いています。その家の伝承と、吉備津彦が攻め込んだ経路のササフク神社には戦闘の様子が記録として残されているそうです。
後の吉備国は東側から攻撃を開始。新庄から十曲峠を越え、伯耆国に侵入。日野川を北上して出雲を攻撃しましたが、当時の妻木山に居た出雲人はいったん母塚山の西側に拠点を移動。戦後にまた元居た地に戻ったそうです。(つまり戦線移動を行い、人が居なくなることによる焦土作戦を行ったという事ですね。)
要は、戦闘の痕跡とは、常に戦場になってるとは限らないという事ですね。
吉備兵の移転した場所にはササフク神社と祖先の徐福からとった「福の字」の地名が残ることになりました。(福島、福居、福岡福岡原、倭など)
高塚山や、鬼住山は出雲側の陣地になりましたがここも終盤では戦地となった様です。要害山での戦闘は一番の激戦となったようで、出雲の人口の約1/3が亡くなったそうです。
不思議と考古学的事実と杵築大社上官家の伝承は符合する処があって面白いです。
大国主にされた出雲の大穴持は、全部で17人。15代目のトリナルミ(向家)のあたりが倭国大乱期と思われます。
二度目の戦闘は所謂邪馬台国事件です。現在の神魂神社の社家である秋上氏は物部トオチネの直系子孫です。
物部トオチネ、物部朝倉、宇佐の兎上王、タジマノモリの連合軍により最後のトドメが打たれます。
ここから先の妻木晩田の情報は口伝の書籍には書かれていませんでしたが、基本的に郷戸家、向家の領地は出雲の国のみに縮小される事で終戦を迎えたので、恐らく戦闘終了後には人口の急減もあり、元居た地に戻れなかったのかもしれません。
魏書などの大陸の史書には、基本的に政権交代レベルの事が書かれるのだそうですね。
出雲から東北に移住したのでは?
この遺跡は元々スサノオの一族で
大和政権成立に伴い大和の支配層の
オオナムチの一族が大和から出雲へ
移住させられスサノオの一族は
東北へと言わば玉突き国譲りかと
こう書くと流浪のスサノオ一族と
イメージされるが弥生初期の
大陸から
渡来移民が来る前の日本列島の
(朝鮮半島の一部も含みます)
主流はスサノオ(ツクヨミ)一族と
考える説が最近出てきてますし。
こういう集落があったって知りませんでした
サムネの埴輪の口がチョビ髭に見えてヒトラーの埴輪かと思った
ここをムキバンダと呼ぶこと自体、不思議な気がします。渡来人だったのですかね。
出雲地方には大国主命がいました。
記紀が事実である証拠ですね。
いずもたいしゃ? いずもおおやしろ
杵築大社なんだよなぁ…
@@yappym2898
延喜式にはそう書いてあるけど、それより古い日本書紀には出雲大社の記録もある。
どっちも正解。
@@user-yo6vh2oi9b うん、だから明治時代まで杵築大社だったことが重要だと思うんだ。明治政府が現在の出雲大社を出雲大社だと定めたのは間違いない
@@yappym2898
だから日本書紀にも出雲大社の記録はあるし、明治政府が公式にそう決定したなら、出雲大社も間違いではないよねって話