天武天皇と壬申の乱の真相!日本書紀は何を隠そうとしたのか
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- čas přidán 20. 07. 2024
- こんにちは、むらくも歴史チャンネルです。
長年、日本書紀の編纂を命じた天皇であるから天武天皇の事績は正しいだろうと信じてきましたが、実はそうではなさそうだということがわかってきました。
そんな天武天皇と古代史最大の争乱といわれる壬申の乱についてご紹介します。
まずは天武天皇の出自を日本書紀の記録からみていきましょう。
■天武天皇の出自
天武天皇は、日本の第40代天皇です。
日本書紀では天武天皇紀が上下の2つに分けて記載されるほど特別な存在としています。
天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひと)です。
天武天皇は、天智天皇と母が同じでその弟です。
天智天皇の女の菟野皇女を迎えて正妃とされました。
天智元年に立って東宮(皇太子)となられました。
斉明天皇紀において、斉明天皇(皇極天皇重祚)は、初め用明天皇の孫・高向王に嫁いで漢皇子を生まれ、後に、舒明天皇に嫁いで三人の御子(天智天皇・間人皇女・天武天皇)を生まれた、としています。
この記述を見る限り、斉明天皇と舒明天皇の間に生まれており、天武と天智は同母兄弟です。
ところが、天武天皇と天智天皇の関係には異論が多くあります。
■天智・天武異父兄弟説
先程見たように、日本書紀で天武天皇は、天智天皇の同母弟となっています。
しかし、これについては異論が多く、下記のような異説が存在します。
・天智・天武非兄弟説:佐々克明氏、小林恵子氏
・天智・天武異父兄弟説:大和岩雄氏
・天武天皇非皇族説:小林恵子氏
天智・天武非兄弟説を主張する小林恵子(こばやしやすこ)氏は、『天武は高句麗から来た』という著書で、天武天皇を高句麗の将軍、淵蓋蘇文としています。
しかし、外国の将軍様や王族が、いきなり倭国にやって来て、天皇となることはほぼ不可能であると言えます。
やるのであれば、ヤマト王権を廃止して政権奪取でしょう。
■壬申の乱が始まるまで
日本書紀で唯一上下に分かれて事績が記載されているのが天武紀です。
それも壬申の乱に絞って記載されているのが上巻で、壬申紀と言われています。
日本書紀によると、天智十年、大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣、蘇我果安、巨勢人、紀大人を御史大夫に任命します。
大友皇子、蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人の6人が天智・大友グループです。
天智グループの結束を意味する人事です。
大友皇子は、内裏の織物の仏像の前で、5人を前に「心を同じくして、天皇の詔をうけたまわります。もし背反することがあれば天罰をうけるでしょう」と結束を誓いました。
日本書紀は、この大友グループ対天武天皇を対立軸として記述します。
天智天皇が崩御するとすかさず童謡が流行ります。
さらに、四本足のひよこが生まれ、八つの釜が独りでに鳴ったり、不吉な前兆が起こりました。
なにか災いが起きる前兆なのか、悪行が行われたのか、日本書紀は天智の死と童謡の関連性を強調しています。
【目次】
00:00 スタート
01:45 天智・天武異父兄弟説
04:08 天武天皇は古人大兄皇子
08:50 天智東征
10:46 壬申の乱が始まるまで
14:33 壬申の乱が勃発
16:21 近江朝庭側
17:19 大伴吹負が挙兵
18:55 奈良の内乱
20:27 瀬田の戦い
21:52 壬申の乱についての評価
日本古代史の謎を紐解き、すこしでも本来の日本建国の姿を再現できればと思い、ご紹介させていただきました
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【参考書籍】
・『日本書紀上下』宇治谷孟 著 講談社学術文庫
・『大化改新を考える』吉村武彦 著 岩波新書
・『偽りの大化改新』中村修也 著 講談社現代新書
・『万葉集があばく 捏造された天皇・天智』渡辺康則 著 大空出版
・『埋もれた巨像』上山春平 著 岩波書店
・『消された王権・物部氏の謎』関裕二 著 PHP文庫
・『天武天皇の企て 壬申の乱で解く日本書紀』遠山美都男 著 角川選書
・『天智・天武天皇の謎「日本書紀」の虚偽と真実』大和岩雄 著 六興出版
#天武天皇 #日本史 #歴史チャンネル #壬申の乱 #蘇我氏 #乙巳の変 #大友皇子 #日本書紀 - Zábava
深みにハマると蟻地獄。知れば知るほど、ミステリーでサスペンス。
名張夏見廃寺の近所に春日大社奥の院がー
柘植は大彦命の敢國神社がー椿大神社の猿田彦・多度大社の天照大神三男・鳥取国造の鳥取神社。南宮大社の金山氏に・・・
大海人皇子は神社がお好き説(笑)
天武、天智の出自はともかく、壬申の乱は日本書紀に書かれている通りである、という解釈でよろしいのですね。
考古学的な証拠が出ない限り、ほぼ日本書紀どおりだという認識です。大友軍を倒したのは天武天皇の事績なのでそのままではないかと考える次第です。
天武天皇は記紀に書かれているとうりです。
ここにも不比等の手が入っているのか?悪だ
面白い解釈ですね。
天智vs天武
であれば、私は天智推しです。
天武皇統の平城京造営の際の古墳破壊の事実。
いったいどんな人柄だった100年前、200年前の100m超えの古墳複数を破壊してその上に長安を模した平城京を作れるの〜😢
この古墳破壊と言う考古学的事実は動かし難いので。
天武は白村江の戦いの敗北をも画策したのでは…と。
40代天武から48代称徳までの位牌が泉涌寺に安置できていない事実もあるし。
なるほど、白村江の戦いで敗北を画策したというのは、そうかもしれませんね。
戦争に反対していたということでしょうか。
まあ、無謀な戦いだったと私は思っていますが。
泉涌寺の天皇家の話は聞いたことがあり、何らかの事情があるのか、調べてみたいテーマです。
@@kumao01nigi
あらま、大変〜
主さんがお返事をくださった?!
ありがとうございます。
ただの素人の妄想です。
謎に包まれた古代史は面白いので妄想も止まりません。
私は天武は皇統簒奪者だと仮定しています。
倭国連合と奈良政権、
倭国崩壊連合と日本国、
は併存期間がかなり長かったように思います。
晴れて皇統も戻り、平安京遷都からが本格的な日本国の歴史では?と。
そして天武以降9代続く天皇が、神武からの血脈を受け継ぐ人物ならば、御先祖様の眠る古墳を潰し自分の寝食をする内裏を作れるか?
縄文から続く死者への弔いの気持ちが皆無としか思えない行為です。ただの酷い人、暴力的な人だったからでしょうか?
たまたま元明天皇がただの人格障害的に酷い人だったのかな…?
他にどんな状況下で先祖の前方後円墳の破壊を躊躇なくできるか考えてみました。
①唐か新羅の人間だった。
②倭国連合から日本国への人質だった。
①の場合
目的は日本国を中華の支配領域とし中華の傀儡政権樹立。
で、あれば他所の国の貴族だか王様だかの墓は彼らにとって何の意味もない。
長安コピーの新都造成の邪魔になる野蛮人の墓の1つや2つの破壊は造作も無い。
②の場合
当時は百済の王子や縁者が人質的に大和に滞在していた事を見ると、
紀元後すぐに国家外交を始めた先進国倭国連合に追いつけ追い越せでやって来た奈良政権が卑弥呼没後求心力を失った倭国連合から沢山のバイリンガルや技術者を引き抜き国家形成に励むと、当然倭国連合のそれぞれも衰退、形勢逆転。
奈良政権側は人質要求となり倭国連合の王子や縁者を数世代に渡り奈良政権下に留め置いた…かも…
九州に戻ってももう縁者も居なく、母国は滅び、その痕跡も虚しい状態。(浦島太郎状態ですね)
で、あれば奈良政権の躍進のシンボル前方後円墳を嬉々として破壊し、その上に内裏を建て溜飲を下げた事でしょう。
白村江の戦いは
安曇軍17000隻、
後詰めの安倍軍19000隻、
安曇軍だけで戦闘し、結局後詰めの安倍軍は無戦闘で日本は大敗を喫した。
これを作戦ミスとしているようだが、"安倍軍は動かない作戦"で大敗に導いたのが大海人皇子だと私は妄想中です。
その後安曇一族は各地に散り、安泰な新天地で発展し、中央には戻らなかった。(よっぽど政権周囲の醜聞や悪行に呆れ果て、ついには海洋民を放棄したって事。…残酷過ぎです。)
日本の水運関係は安曇一族を失ってから造船術、航海術、見事に先祖返りしてしまいました。
命がけでの渡航、遣唐使の時代がやってきます。
白村江に30000隻を超える船団を送った実績がある国と 、同じ国とは思えないほど退行したのも事実。
私の最近の妄想は②に傾いております。
天武以降9代がモチベーションを保つにはやっぱり
『先祖の恨み、亡国の恨み忘れまじーーーー!!』
の方がしっくり来るかも…と。
ごめんなさい。
主さんのお返事に喜び勇み過ぎて長文となりました。
本当に古代史は楽しいですよね。
これからも色々な考察を楽しみにしています。
@@kumao01nigi
あら〜ビックリ〜
古代史妄想大会があったらで成績優秀者になれそうなくらいの私に、主さんからお返事が〜
ありがとうございます。
「天武は戦争に反対していて敗戦を画策したか?」
について少し。
戦争反対の平和主義者として白村江の戦を敗戦に導いたわけではなく、白村江の開戦と敗北の混乱に乗じての皇統奪取が最終目標だったと妄想しております。
妄想の出発点は皇統を天智系に戻さないようにしながらの平城京造成時の古墳破壊行為です。
破壊した前方後円墳の石室には当時まだ遺骸があったのではとも言われています。
縄文時代から続く、死者を弔い祀る精神性をも破壊する行為です。
いったいどんなバックグラウンドがあれば死者が眠る墓を破壊し、その上に内裏を建てその中で寝食できるのか?
①天武(父方母方含め)の出自が唐(または新羅)であり、唐の傀儡政権樹立が目的だった?
②天武は倭国連合が奈良政権に差し出した人質一族だったが母国の崩壊に接し怒髪天を衝いていた。
上記のような状況であれば、古墳の被葬者は御先祖様でもない全くの他人。古墳を破壊するのに躊躇はなくなるでしょう。
①であれば他国の縁もゆかりもない後進国の酋長一族の墓は邪魔であれば破壊撤去するのみでしょうから。
②であれば倭国連合崩壊の怨み骨髄。もちろん御先祖様の古墳でもない他国の王家の墓の破壊行為は天武系には是であり正義であったのかもしれません。
最近は②の人質説に傾きつつあります。
先進国である倭国連合の弱体化。卑弥呼死去による連合の瓦解が始まった。
後進国奈良政権は瓦解の始まった倭国連合からバイリンガルやマルチリンガル、各種技術者のヘッドハンティングで国力アップを測ったでしょう。
一方倭国連合の弱体化は加速します。
その頃に人質となり奈良政権下に留め置かれ、数世代を奈良政権下で余儀なく過ごした倭国連合の王族がいたとしても不思議ではありません。百済の王子も奈良政権下に留められていた事を考えると。
天武が白村江の戦い前に母国の状況を見れば、一族から聞かされていたような繁栄は皆無。
浦島太郎状態に陥り、「許すまじ奈良政権‼︎」と。
この妄想であれば、彼の皇統が代々下って行っても、「我が一族こそが国を統べるべき一族だーー‼︎」と云うエモーショナルなモチベーションを家伝として連綿と受け継いでいた可能性 大。
憎き奈良政権一族の古墳を破壊してその上に人々を歩かせ、住まわせ、踏みつける。天武皇統としてはしごく当然の行いだったのでしょう。
でも結局のところ、南部九州を除く九州一円の王族含む多くの人々は畿内方面へ五月雨式に移住をしていたと思います。
それとは逆に防人として多くの東国人が九州へ、縄文人の血脈が濃く出てくるほどに多くの東国人が九州では入れ替わったと思います。東国から九州派遣され望郷の念にかられつつ、結局故郷に戻れなかった東国人は九州で土着していったのでしょう。
だから畿内の渡来系遺伝子が濃く、北九州の渡来系遺伝子は薄くなったのでしょうね。
そもそも神武東征と言うイベント自体が、外交や九州内での紛争に疲れた一族が見切りをつけたように思います。
最終的には国防の観点で九州北部より引っ込んでいる畿内が安全そうに見えたのでしょう。
後進エリアの畿内の勢力には理解し得ない外交と国防問題が移住へ踏み切らせたのでしょう。
いずれにしても日本列島の外交が一本化して日本国としての本格始動は天武皇統から天智皇統に戻った光仁、平安京遷都した桓武からだと理解しています。
ごめんなさい。
長々お邪魔しました。
脈絡もあってなきが如しの駄文です。
今後とも楽しい古代史の動画を待っておりますね。
BGMもいいですね。
真相は、穴兄弟です。
(笑)
信じていただけないと思いますが、壬申の乱には四国徳島舞台説があります。
大野寺の起源がポイントです。奈良の大野寺は弥勒寺という名前でした。
古事記は縄文時代日本人、日本書・紀は渡来民族の歴史。