【江戸幕府の部屋 26】江戸幕府の旗本になった戦国武将福島正則ゆかりの旗本家について、霊夢&魔理沙にゆっくり解説してもらいます。
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- čas přidán 24. 07. 2024
- 昨年は皆さまに大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくおねがいいたします。
今回も旗本になった戦国武将の家について、魔理沙と霊夢にゆっくり解説してもらいます。この説明の最後に今回紹介した旗本家当主たちの職歴等を書き出しましたので、ぜひご覧いただきたいと思います。
タイムスケジュール
0:00 「江戸幕府の部屋第26回」
0:46 ●福島正則について●
2:44 ●関ケ原の武功について●
5:56 ●江戸大名の福島家について●
10:42 ●旗本福島家について●
18:30 ●福島正則ゆかりの②福島家について●
20:56 終了画面
終了時間 22:17
当チャンネルは、江戸時代の中でも旗本関連の話を、霊夢と魔理沙による座談会的な雰囲気で深堀りして、ゆっくり解説するチャンネルです。
私の独りよがりな考えや勘違いなどそのまま発信していることも多いので、特に魔理沙には間違った発言をさせることもあるとは思いますが、コメント等でご教示いただけたら、大変ありがたく、今後の参考にさせていただきたいと考えています。またご視聴してくださる皆さま方には、今後もご視聴・応援いただけるような動画を作成し、投稿していきたいと思っています。
今回は豊臣恩顧の大名福島正則ゆかりの旗本家について取り上げてみました。ぜひ当チャンネルにお付き合いしていただき、ご視聴くださいますようよろしくお願いします。
最後に今回紹介する①福島家と②福島家(改易)の当主について職歴等を記載しておきますので、興味のある方は、参考にしていただき、ぜひ動画視聴にお付き合いいただきたいと思います。
①福島家(2000石両番筋)
(1)福島正則(~寛永元年7/13死去)
慶長 5年 関ケ原の功績により安芸国広島498220石余を領する
元和 5年 6/ 9 広島城の石垣無断改修により所領を没収
元和 5年 7/22 越後国魚沼郡25000石および信濃国川中島20000石を宛がわれる
元和 6年 9/14 嫡子忠勝死去により越後国魚沼郡25000石を幕府に返上
寛永元年 7/13 死去64歳(20000石は没収となる)
(2)福島正利(寛永元年跡目~寛永14年12/8死去)
寛永元年? 父遺領のうち3000石を賜い寄合入
寛永14年12/ 2 死去37歳無嗣絶家
(3)福島正勝(天和元年3/21召出(再興)~元禄9年4/9死去)
天和元年 3/21 召出
天和 2年12/23 上総国長柄・夷隅郡内に2000石を賜う
天和 3年 1/ 9 寄合に列する
元禄 2年10/15 御小性組番頭
元禄 2年12/27 従五位下伊豆守叙任
元禄 9年 4/ 9 死去33歳
(4)福島正視(元禄9年7/9跡目~寛保元年1/4死去)
元禄 9年 7/ 9 跡目相続寄合入
享保12年 4/ 6 御使番
享保12年12/18 布衣
享保14年 9/28 小普請組支配
享保19年11/15 御小性組番頭
享保19年12/18 従五位下日向守叙任
享保20年 5/ 6 辞任寄合入
元文 5年 5/15 御旗奉行
寛保元年 1/ 4 死去52歳
(5)福島正森(寛保元年4/2跡目~延享3年4/27死去)
由良刑部貞長次男 母某氏
寛保元年 4/ 2 跡目相続小普請組長谷川久三郎支配入
延享 2年 5/19 西丸④御書院番戸田近江守組御番入
延享 3年 4/27 死去34歳
(6)福島正韶(延享3年7/2跡目~寛政9年11/28隠居)
延享 3年 7/ 2 跡目相続小普請入(竹田周防守支配入?)
宝暦11年 9/21 ④御書院番藤堂肥後守組御番入
安永 6年 1/11 御使番
安永 6年12/18 布衣
寛政 5年 8/ 8 仙洞附
寛政 5年12/ 1 従五位下備後守叙任
寛政 9年 5/ 5 辞任寄合入
寛政 9年11/28 隠居59歳
(7)福島正聖(寛政9年11/28家督~文化13年■/■死去)
寛政 3年 9/10 部屋住から⑦御書院番駒木根大内記組御番入
寛政 7年10/ 6 進物番出役
寛政 8年12/10 御書院番7番組が6番組に変更される
寛政 9年11/28 家督相続
文化13年■/■ 死去53歳
(8)福島正敷(文化13年8/3跡目~)
文化13年 8/ 3 跡目相続⑩小普請組酒井多宮支配入
文政元年 5/27 ⑤御小性組小堀下総守組御番入
文政 6年12/10 進物番出役
文政13年 1/11 御使番
天保元年12/16 布衣
②福島家(500石両番筋(改易))
(1)福島高晴(~元和元年改易~寛永10年9/25死去)
慶長 5年 関ケ原の功績により大和国宇多30000石を領する
慶長19年 駿府城大手において家臣召取騒動を起こし閉門
元和元年 所領没収蟄居
寛永10年 9/25 死去
(2)福島忠政(天和3年6/29召出(再興)~元禄11年5/14死去)
天和 3年 6/29 召出
天和 3年10/25 蔵米500俵を賜わり寄合に列する
元禄10年 7/26 蔵米500俵→下野国那須郡内500石に高直し
元禄11年 5/14 死去
(3)福島定正(元禄11年7/18跡目~寛延元年12/29死去)
前田右近大夫利意八男 母某氏
元禄11年 7/18 跡目相続小普請入
元禄13年 3/26 御書院番御番入
のち 辞任小普請入
寛延元年12/29 死去
(4)福島正武(寛延2年2/29跡目~宝暦8年11/14死去)
享保15年 8/15 部屋住から御小性組御番入
享保16年 8/18 西丸御小納戸
享保16年12/23 布衣
延享 2年 9/ 1 御小納戸
寛延 2年 2/29 跡目相続
宝暦 6年閏11/15 二丸御留守居
宝暦 8年11/14 死去
(5)福島正胤(宝暦8年12/27跡目~天明8年8/29改易)
宝暦 8年12/27 跡目相続小普請入
明和 3年11/ 9 御書院番御番入
明和 6年 2/23 御小納戸
明和 6年12/18 布衣
安永 2年 5/29 西丸御小納戸
安永 8年 4/18 寄合入
天明 8年 8/29 遠流改易47歳
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福島正則といえば蟹江敬三さんが浮かんでしまう・・・。
大河ドラマ「葵徳川三代」で演じてますね。
猛々しい雰囲気と戦国大名らしいギラギラが印象的です
福島正則の改易に至る経緯は相次ぐ無断での巨大支城の建設が根底にあります。正則は毛利が完成させたばかりの巨大な広島城に入った後鞆城と亀居城と東西に巨大な支城を作ります。まだ対毛利の前線基地になる亀居城はともかく小早川→池田と親徳川大名が入った東の鞆城は家康の不信と怒りを買います。鞆城は命令により破却、亀居城も自主的に破却することになります。ただこの時点では破却と言っても軍事建物だけで代官所は残し両城郭も肝心な縄張りはそのままで幕府も許しています(他の支城には文句を付けていない
所が正則はこれに懲りず秀忠の代に広島城より巨大な支城を無断で作り始めます。しかもこれを幕府に知らせたのが本来福島家が監視対象だった毛利家。秀忠は支城の即全面破却と広島城も本丸を含め一部縄張り毎の破却を命じます。これを正則が二の丸の櫓の屋根を一部破却だけでお茶を濁そうとします
これに対し秀忠は正則の江戸での釈明を求めますが正則が病を申し立てて中々上江しようとしない。ならば と秀忠は嫡子忠勝を人質として上江させようとしますがこれも拒否
ここまでされて秀忠はやっと大ナタをふるいます
ちなみに秀忠は秘密裏に処断せず江戸に在江していた大名を数日に分けて登城させ全員に経緯を説明しています(ですので各大名家にはこの経緯が記録されています
福島正則への処断は後の本多正純の処分にも繋がりますが同じくらい長くなるので
戦国時代の感覚が抜け切らなかったのかなぁ。
そういえば中学の同級生に福島正則の子孫がいました。
丁寧な調査ご苦労様。現代には「正則小学校」として、しっかり名が残っています。
2:13 与力大名は家臣では無くて有力大名に付属された大名だから意味が違うのでは?
あけましておめでとうございます。今年も応援してます。
ところで福島家改易の件。間に入った本多正純の面目を潰すことが秀忠サイドの主目的だったという説もありますね。福島家は完全なとばっちりだったという悲しすぎる説。正則も、関ヶ原で勲功のある福島家が幕府内の主導権争いのだしにされたことに腹を立てて、上手く立ち回れば残れたところを意固地に振る舞って家を潰したんじゃないかと妄想しちゃいます。
いつもご視聴ありがとうございます。
そのような説もあるのですね。
確かに本多正純は、福島正則の3年後の元和8年(1622)に所領没収されていますし、福島正則も意固地になりそうな感じですもんね(笑)
いつも応援いただきまして大変励みになっております。
これからも頑張りますので、今年も当チャンネルをよろしくお願いいたします。
その説で書かれた歴史小説を読んでるけど、作者は誰だったかな。幕府の重役である本多正純に届けた以上、許可が下りたも同然と福島正則が考えたという話。正式な改修許可を下すよう上申する正純を無視して、秀忠と側近衆が福島正則、本多正純に引責させる陰謀だったとか。
福島正則は広島藩の初代のお殿様であるにも関わらず、びっくりするほど広島市民からの認知度は低く、毛利、浅野の方が知ってる人が多いです…
武家諸法度違反の件は闇が深いですが、広島の街を整備しようと必死になってくれた正則公の事をもっと知って欲しいと思います。
広島城や広島城下町は毛利が作ったし、浅野は200年以上広島城主だったから知名度は上。
@@yh6146
毛利輝元は広島城作って一年くらいで萩に飛ばされとるけんねw
ほとんどおったのは吉田郡山城だし。
本格的な城下整備は福島正則が行ったけど、また信濃川中島に飛ばされた後、和歌山から浅野長晟が来たけど、浅野のお殿様の名前言える広島人おらんと思うわ
もっと広島人は福島正則、浅野のお殿様についても学んで感謝すべきだと思う
福島正則は広島城の無断改修を理由に、徳川幕府から改易されます。安芸・備後両国は召し上げられ、正則は信濃国高井郡(川中島)・越後国魚沼郡に移されます。正則は現在の長野県上高井郡高山村の堀之内に陣屋を設けます。
福島正則の廟は長野県上高井郡小布施町の岩松院に現存しています。
岩松院の福島正則の霊屋見ました。割りと小さく質素でした。😢
新年あけましておめでとうございます!
今年も宜しくお願い申し上げます!
いつもご視聴ありがとうございます。
今年も当チャンネルをよろしくお願いします。
いつも詳しい解説で丁寧な動画ありがとうございます!
(18:06 天保元年(1630)となっていますが、天保元年(1830)かなぁ。
ご視聴ありがとうございます。
そしてご指摘ありがとうございます。
前の文政13年/天保元年(1830)なので、文政13年(1830)と一回出していたので、気が緩んだのか間違ってしまいました。
ご指摘の通り「天保元年(1830)」と訂正いたします。新年早々申し訳ありませんでした。
本年も当チャンネルをよろしくお願いいたします。
石垣改修事件は、むしろ当初幕府は穏便に済ませようとしてますよ。にもかかわらず福島側がなあなあに済ませようとしてそれが発覚しアウト。肥後加藤家もそうだけど「豊臣恩顧」を幕府が警戒し隙あらば滅ぼそうとした、というのは既に古い歴史観かと。
ご視聴ありがとうございます。
寛政譜には、広島城の石垣修復は違反行為であるため、ことごとく破却することと命じているにもかかわらず、一向に取り壊しを行わないことから、所領没収されたことが記載していますが、これがそうだったんですね。
あとは、自分なりに豊臣恩顧を使うと分かり易いと解釈していましたが、ちょっと勉強不足でした。
今後ともご視聴いただけるようがんばりますので、当チャンネルをよろしくお願いいたします。
この時代の武将は家名存続より意地を優先する武将多いよね。
本多正純とかも減封の上の家名存続拒否するし、織田信雄は国替拒否したり
加藤家に関しては幕府が介入しても統制困難の家中対立の深刻化と加藤家の後に熊本藩主となった細川家が転封前の事前調査で頭抱えたほどの領内荒廃ぶりで統治不能とみなされて譜代外様関係なく改易されるような状態だった。
改易されるのは豊臣恩顧とか感情論でなく無嗣や為政者として失格の烙印押されたケースが圧倒的に多いんだよね。
豊臣温故の大名、難癖を付けて改易を受ける可能性は、有ったかも、
ネタとしたは面白くないかもしれませんが平安からの武家で江戸時代は交代寄合の那須氏は個人的には気になります。
自分の領地の周りは大田原藩や大関藩に囲まれるような形になってたけど、その2藩は戦国時代までは那須家の家臣だった。家臣だった家が小祿ながら大名になり、自分の家は旗本千石。しかも交代寄合だから自領の陣屋に基本的には滞在。那須も大田原も大関も、お互いにやりずらかったんじゃないかと推測しちゃいます。
明けましておめでとうございます。
ご視聴ありがとうございます。
本年も当チャンネルをよろしくお願いいたします。
福島正則は時代の移り変わりに適応出来なかったのね。
無理からぬ事と察します。
しかし、江戸開府後の振る舞いはどこか石田三成にも似ている。
皮肉なものです。
それにしても生きづらそうな時代ですね。
福島正則の子孫はいますが加藤清正の子孫は断然してしまいました。
まあ、旗本として福島家は残りましたが。
大道寺直秀ってのも福島正則直系。子孫がいるのかはわからんけれど。
三英傑の中だったら一番秀吉に仕えたいな
正則は酒を飲まなければ良い人なんだが
こんばんわ、伊藤です、無理難題かも、知れませんが、1620年に、改易になった、村田権右衛門重政の事を、調べて、もらえないでしょうか?
切腹改易ではないようで、1623年に、尾張藩廻船惣庄屋として、中村源右衛門重政と、名乗って、一応は、尾張藩士には、なりましたが、よろしく、お願いいたします。
福島正敷以後は分かりますか?
あと3代ほどで明治維新、、、
ご視聴ありがとうございます。
とりいそぎちょっと調べてみました。
福島左衛門正敷は、柳営補任の御使番の項目を見ると天保13年10/2病気により御使番を辞任し寄合入し、その後は続徳川実紀の弘化2年3/28の条に「寄合福島左衛門子市松。…父致仕して子家つぐもの」の記載があります。また、国立国会図書館デジタルコレクションの柳営日次記 年録487の106枚目には「寄合福島左衛門実子惣領市之丞」の記載もあります。
福島左衛門正敷は天保13年10/2御使番を病気により辞任寄合入し、弘化2年3/28に隠居しました。そして実子の福島市松(市之丞?)が家督相続して小普請入したと思いますが、ここから先については、調べるのにちょっと時間がかかりますね。申し訳ありませんが、ちょっとお待ち願いますね。
これからも当チャンネルをよろしくお願いいたします。
@@user-uv9wk6qt6l ありがとうございます。福島市松、この名前は代々世子には受け継がれてたんですかね。また左衛門の呼び名も正則ゆかりの名前と記憶してます。こういうところに福島家の意地を感じます。歴史に消えていった名族、本当に興味があります。逆にお時間取らせてしまい申し訳ございません。待ってますのでぜひお願いします!もし、もし可能なら配流された大名家で追跡可能なら、小野寺義道、宮部長煕なども調査していただけると嬉しいです。江戸期の様々な職制等もいつも有り難く視聴させていただいてます。とにかく時間はかかって当然です。応援しつつ待ってます!
福島正則は脳筋
あけましておめでとうございます🎌
国民の義務である、納税の義務を履行しない議員が、免職されない不健全より健全ですね
いつもご視聴ありがとうございます。
今年も当チャンネルをよろしくお願いします。
脳外科の世界的権威 福島ドクター に繋がりがあるのかな🤔
子孫達が短命過ぎんか…
加藤清正は、会津上杉討伐には加わっていない
火葬したのは誤ったんじゃなくて
勝手に切腹したから
それを隠そうとしたんだろうな
そんなん幕府にも見当がついたから
改易なんだろうな
動画では触れてないが、家康が高く評価していた伊奈昭綱と、家康の婿である福島正之、家康と縁の深い人間を二人も死に追いやった福島正則を徳川幕府が許すはずはないのだな。(≧∇≦)b
因果応報
福島正則が秀吉の従兄弟だったとは知りませんでした。本家を裏切ることになって本当にダメな武将だったんですね。
ご視聴ありがとうございます。
福島正則は、石田三成憎しその想い一筋だったんでしょうね。
豊臣家を裏切ったとは思っていないと思います。
猛将にありがちな、ただ思い通りに突っ走る感じの武将だったと思います。
今後とも当チャンネルをよろしくお願いいたします。
ダメとは言えないのでは?
自家が生き残るのが基本でしょう。
朝倉滅亡時に義景を裏切った景鏡はいとこだったし、武田滅亡時に裏切った穴山梅雪は母親が信玄の姉で正室が信玄の娘だった。
ダメなのは部下を切り捨てるばかりのダメ会長の秀吉でしょう。浅野、黒田、蜂須賀、この辺はぎり生き残りましたが他はみな使い捨てに近い扱いですよ。(≧∇≦)b
福島正則は家康に利用されて豊臣家滅亡に力を貸した愚かな武将。という評価が定着しているなあ。むしろ、こんな単純な人物を親類のよしみで抜擢し続けた秀吉こそ愚かだったのだが。(≧∇≦)b