Komentáře •

  • @yh6146
    @yh6146 Před měsícem +13

    3:16 佐土原藩は2代藩主は忠興だけど三男で朝鮮出兵で亡くなった長男がいて、長男の息子が一門の垂水島津家を継いだ。だから薩摩藩では佐土原島津家は垂水の分家扱いで藩内では垂水島津家の下扱い。でも対外的には大名の佐土原が陪臣の垂水より上。

  • @78hirohiro35
    @78hirohiro35 Před měsícem +12

    島津家は古い家だから、そこら中に一族がいる。信濃の一族は武田家と戦ってたし。私の地元の播磨にも一族がいた。薩摩の島津家が参勤交代で播磨を通るときは挨拶等していたそうだ。

    • @user-zp2hk8xf5g
      @user-zp2hk8xf5g Před měsícem +6

      播磨の島津氏は、揖保郡の地頭で当主島津忠之が織田方の龍野赤松氏について、当時幕府に反抗していた小寺家の黒田官兵衛に敗れて戦死し、以後逼迫。島津忠之の遺児の名前が義弘・・・なのだが、島津義弘は浪人後に大坂の陣に加わって敗北。徒党を組んで播磨に逃走後に姫路藩に鎮圧されるが、命だけは助けられる。
      以降、一族は播磨で帰農し、参勤交代の際に本家に挨拶していた。
      島津義弘は同時代に二人いたという話。

    • @73moto
      @73moto Před měsícem +1

      映画の天と地とで上杉軍に島津家の家門が有ったから納得した。

  • @MedakaNoBoo
    @MedakaNoBoo Před měsícem +2

    佐土原(さいどばる)の直轄地は薩摩藩の流刑地あつかいで、そこの代官は分家の中郷(ほんごう)氏の中級役人が務めた、実質のとこ旗本島津氏は江戸育ちということになり小説であればスパイ説にしたいところだが、病気の治療といった江戸詰めのためにつくられた家禄だったように思える。平和な時代にキレやすいやつがいらんのは昔も今も同じだね

  • @user-zv1hd9hy8k
    @user-zv1hd9hy8k Před měsícem +2

    更新ありがとうございます。説明が丁寧だから内容が理解しやすいです。こうして続いてきたお家が幕末に薩摩島津の江戸藩邸が騒がしかった時代などはどんな気持ちで日々を送っていたものか想像妄想が掻き立てられました。話は変わりますが動画のほぼ全編で使用されている曲、曲は大変心地よいのですが、私の古いスマホで再生するとハイハットの音?が(タッタ♪タッ♪と)少し目立って気になる印象があります。再生環境や個人差によるところ大きいと思いますが念の為ご報告させて頂きます。

  • @user-ts1kp3tb5o
    @user-ts1kp3tb5o Před měsícem +1

    初代旗本島津家当主が長生きしていればもう少し家格が上がっていたのかも😊

  • @user-kr4rg1vp2l
    @user-kr4rg1vp2l Před měsícem +1

    こういう故ありてという場合は、おそらく官僚制あるあるで若手の優秀な人や上のお気に入りの人に押し出されたケースなのかなと思います。

  • @sonchuzan
    @sonchuzan Před měsícem +2

    大名から分封されたら普通ただの大名分家じゃないの?
    なぜ「旗本」になれたのかが説明ではわからないのですが補足願えますか?

  • @user-nv3go8qp9f
    @user-nv3go8qp9f Před měsícem +1

    この特殊な経歴の島津家は戊辰戦争で(恐らく所領も当初のまま日向国)どう動いたのでしょうか?

    • @yh6146
      @yh6146 Před měsícem +2

      更に大変だったのが盛岡藩の分家八戸藩に婿養子に行った信順。当時の薩摩藩主忠義の4代前の藩主重豪の14男だったから戊辰戦争の時には周り全て敵だったから大変だった。

  • @4126iku
    @4126iku Před měsícem +1

    分知されて旗本に成るのか・・・
    島津家の家臣に成るのかと思っていたわ

    • @yh6146
      @yh6146 Před měsícem +3

      薩摩島津家の有力分家4家は佐土原島津家よりも本家相続権が上だけど陪臣扱い。

  • @jodasow
    @jodasow Před měsícem

    落ち度もないのに旗本に降格は珍しいと思ったけど、そもそも落ち度があっても本人の代で大名から旗本に降格したという例すら思い出せない…

  • @bakermaria3231
    @bakermaria3231 Před měsícem

    つぎは、土屋家かも?

  • @user-gm4qi7oo9s
    @user-gm4qi7oo9s Před měsícem +1

    旗本の島津家ですか。

  • @user-js9ev4no8p
    @user-js9ev4no8p Před měsícem

    領地が本家からの分与だったので幕府も口出しにくかったのでしょうね。これが関東あたりに新封を与えられてたら扱いも全然違ってたかも。
    ことほど左様に分家旗本は本家の影響を受けるので、久般のお役御免もそれかなと思ったけど、同時期の本家当主はそこそこ名君の忠持だし違いそう。いやまて、薩摩藩が重豪隠居直後だけどそれが関係した?

  • @73moto
    @73moto Před měsícem +2

    島津氏には旗本に成ったので、この動画に紹介された島津氏以外にも後藤島津家が有り、島津家の分家で相州家に島津運久が居るが、同族の伊作善久が下男に殺されてしまい、伊作善久の未亡人に島津運久が惚れて後妻に迎えたが、未亡人は自分の子を相州家の跡継ぎにする事を条件として再婚して連れ子は相州家を継いで島津忠良に成り、忠良の子で有る島津貴久が島津宗家を継いで貴久の子が戦国時代に最強と言われている島津四兄弟で、相州家の島津運久の実子で有る島津忠貞は廃嫡されて出家して長徳軒として薩摩から出されたので下野の足利学校に向かったが駿河沖で嵐に有って遭難して、今川氏親に助けられて、今川家に使えて還俗して島津忠貞と名乗り、忠貞は軍学や医術に精通していたので今川氏親の従兄弟で有る北条氏綱の病気治療に小田原に移り氏綱の病気を完治させたので、氏綱の強い勧めで今川家に戻らずに小田原に残り北条に使えた。北条が滅んだ後に島津忠貞の子は、徳川家に使えて旗本に成ったが、姓は後藤に成ったが、後藤家は島津の姓を名乗りたいと島津宗家に申し出たが、島津宗家は島津氏を名乗る事は認めたが家系図に乗せる事は拒否した。

  • @user-hc8pl4is7v
    @user-hc8pl4is7v Před měsícem

    今川さんや、武田さんなら、まだ分かるんだが、島津君は、徳川さんの旗本に、成っちゃってるのは知らなかったし、宮崎県に分家は、薄々だが、鹿児島県の本家筋の歴史で、チラでしたな、そういやね。

  • @user-ue5tc3mo1w
    @user-ue5tc3mo1w Před měsícem

    佳子さんの見合い相手と言われる分家島津家の宣伝か?😮😮😮😮😮

    • @user-lw6gn7uu8r
      @user-lw6gn7uu8r Před 5 dny

      この動画で紹介されてる旗本の島津家は『島之内島津家』と呼ばれる分家です。
      佳子内親王殿下とのお見合い相手と言われている島津家の分家は『玉里島津家』と呼ばれる分家です。
      後者は幕末の薩摩藩主の父親により興された分家のため島津家本家にかなり近い分家になるのに対し、後者は薩摩藩の支藩とされる佐土原藩の分家になります。
      両者が系図的に別れたのは16世紀前半になるため、この動画が「佳子さんの見合い相手と言われる分家島津家の宣伝」になるとは、私は考えづらいと思います。