【ゆっくり解説】家康の首に最も近づいた男・武田勝頼の謎!!

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  • čas přidán 16. 03. 2024
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    #ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説

Komentáře • 36

  • @user-kx2bp9dm6k
    @user-kx2bp9dm6k Před 4 měsíci +11

    御館の乱で景勝に味方した事で北条を敵に回したが仮に景虎の味方をしていても越後一帯も北条の影響下に入り甲相同盟の力関係が崩壊する可能性もあり一概にどっちかに肩入れするのも難しい。

    • @user-bq3tj7dl3w
      @user-bq3tj7dl3w Před 4 měsíci +1

      氏康ならともかく氏政で景虎や越後を統制するなんて不可能だと思うがね。それに佐竹や宇都宮、里見がいるんだから北条にそんな余裕はないよ

    • @user-qc2lq4gu8q
      @user-qc2lq4gu8q Před 3 měsíci +2

      そうですね。 景虎が勝ったら越後までも北条勢力になり、武田領が北と東を北条に挟まれてしまうから、真田とかの北信濃とか西上野に所領を持つ家臣達が離反してしまうかもしれませんね。
      それどころか、この状態で北条が織田や徳川と手を結べば武田は史実では景勝の上杉からは攻められない状況でしたが、完全に袋の鼠になってしまいますから。

    • @user-bq3tj7dl3w
      @user-bq3tj7dl3w Před 3 měsíci +1

      秀吉の時にあれだけ外交でしくじった北条にそんな真似ができるかな?
      家康も小牧長久手後は、上田合戦で敗れて西は豊臣、北は上杉や真田に囲まれたけど、家臣の離反は石川くらいしかいなかったがね

  • @kobabim9903
    @kobabim9903 Před 4 měsíci +18

    後継者ですらない立ち位置で、全方位敵・敵・敵という超絶ハードモードでスタート。これを一時でも凌いだのは一考に値する。
    勝頼の欠点は、血族が少なかったこと、自身も子供が少なく外交や家臣との交渉カードが少なかったことくらいで、あとは信玄の対応一つで評価・結果が全て引っくり返っていたかもしれません。

    • @user-si9gf6uf6b
      @user-si9gf6uf6b Před 4 měsíci

      😊😊

    • @user-qc2lq4gu8q
      @user-qc2lq4gu8q Před 4 měsíci

      外交の交渉カードも、信玄が同盟や和睦を平気で破って他国への侵攻を繰り返し、周辺諸国の武田家への信用が地に落ちていたからほとんどない状況でしたよね・・・

    • @user-bq3tj7dl3w
      @user-bq3tj7dl3w Před 4 měsíci +1

      毛利元就「そうか?」
      上杉謙信「甘え過ぎ」

    • @user-bq3tj7dl3w
      @user-bq3tj7dl3w Před 3 měsíci

      勝頼相続時の武田親族
      武田信廉
      武田信豊
      穴山信君
      一条信龍
      武田信実
      仁科盛信
      望月など他多数
      これで少ないとか言ったら、上杉謙信なんか子なし、兄弟も兄貴以外は実在怪しいで少なくともやっているのに、甘えすぎだよ

    • @kobabim9903
      @kobabim9903 Před 3 měsíci +1

      @@user-bq3tj7dl3w それだけ列挙出来るなら書いてて気づかなかった?じゃあ果たしてどんだけ勝頼の手先で動かせる立場だったか。上杉を引き合いに出すと確かに下には下がいるとは思うが、結局上杉も没落寸前まで追いやられているわけで、勝頼下げの例として適当ではないだろう。

  • @too669
    @too669 Před 4 měsíci +5

    偉大なる父の後は不幸なのよ
    平家しかり毛利しかり武田しかり上杉しかり

    • @user-gyunyuda1ma0u
      @user-gyunyuda1ma0u Před 4 měsíci

      頼朝の子供たちも暗殺されて源氏滅ぶし、豊臣も一番有能な家臣どころか5人集と大野三兄弟、木村岡部塙以外のほぼ全ての大名や武将に裏切られて滅んでる。織田に至っては元家臣の豊臣秀吉に飼われてるような状況になってる。マジで皆悲惨だねえ…

  • @tanima-gn3zm
    @tanima-gn3zm Před 4 měsíci +1

    噴火も影響したかも。

  • @daisuke7199
    @daisuke7199 Před 4 měsíci +17

    武田家には毎年12月に支城主クラスの重臣が甲府に集まって、各地の情報交換と翌年の戦略をどうするかの超重要会議がありましたが、そんな会議に勝頼は信玄存命中参加させてもらえなかったようなんですね(丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち』)。信玄死後は当然勝頼が会議を主催するわけですが、それじゃあ重臣たちに軽く見られますよね。信玄が生前から勝頼を参加させていればこんな事態は避けられたでしょうに、何でこんな中途半端なことをしたのか疑問すぎる。

    • @user-bq3tj7dl3w
      @user-bq3tj7dl3w Před 3 měsíci

      勝頼ってコミュ障だったのかな?
      参加できないから軽くみられる
      普通はそういう場合、謙虚にして家臣団と仲良く協調していくはずなんだけど…………毛利元就も次男で甥から相続という変則的な継ぎ方したけど、井上以外に家臣団とトラブったのは聞かないよ。勝頼には周りと仲良くしたり、環境に合わせていく力が決定的に欠けていたんじゃないの?
      それに少なくとも1572年の西上作戦中に開催されていた軍議には出席していたはず。もし参加を許されてなかったとしたら、それは信玄が悪いね

    • @user-iw4pl9qx5h
      @user-iw4pl9qx5h Před 3 měsíci +2

      @@user-bq3tj7dl3w
      コミュ障って...。勝頼は生まれが諏訪で諏訪の家督を継いでいたんですよ。本来は武田ではなく昔、敵として滅ぼした諏訪の出身とみられてたんです。武田の重臣からしたら武田家が諏訪氏に乗っ取られたように思えるし昔滅ぼした諏訪の者と侮られる。勝頼は20代~30代で重臣たちは50代~60代。合うわけないし、これでもかと侮られる点が多すぎる。信玄が勝頼に家督を譲らなかったこと、武田の旗を使うことを禁じたこと、これもまずいですよね。正直、勝頼がかわいそうなくらい無理ゲーですよ。かなりうまく立ち回った方だと思いますけどそれが信長を本気にさせて和睦も許さず自害となりました。この数か月後に信長・信忠も本能寺ですので因果なものです

    • @user-bq3tj7dl3w
      @user-bq3tj7dl3w Před 3 měsíci +1

      諏訪じゃなくて高遠だよ
      諏訪は頼忠とその兄貴が継いでいた。勝頼が継いでいたのは高遠
      年齢差がどうこう言ってもねえ
      確かに勝頼は4男庶子のハンデはあるが、信玄だって長男じゃないし、そもそも母親は正室とはいえ大井信達という武田と何度も戦った敵将の娘。
      信玄はしかも家臣団に擁されて父親を追放して家督を継いだ。板垣や甘利らは正確な年齢は不明だけど、多分信玄よりは年上だったはず。だけど板垣や甘利とは戦死するまでは大した対立も何もしてない
      そもそも家臣団が勝頼を侮った、という具体的な史料は二次史料でもない。軍鑑には「勝頼は諏訪の生まれで呪われた子」と思われたと書かれてるけど、家臣団がだからって勝頼を侮ったとは書いてない
      そもそも勝頼を侮っていたなら、長篠でなぜ勝頼が決戦を決めた際にわざわざその命令に従って突撃するのか。侮っていたなら最初から逃げるなりしたらいい。だけど彼らが逃げ出したのは敗戦が確定してから
      勝頼にしても、真田兄弟や土屋兄弟など若い家臣はいたんだから、彼らと仲良くなっていけば老臣にも侮られないと思うけど? そもそも真田幸隆とはかなり仲が良く、幸隆が死ぬ前後に出した手紙すらあるんだけどね

    • @user-iw4pl9qx5h
      @user-iw4pl9qx5h Před 3 měsíci +2

      @@user-bq3tj7dl3w
      高遠諏訪氏ですね。若い家臣団を重用したらそれはそれで家臣団に対立が生まれます。それで老臣に侮られないというのがよく分かりません。反感を生むだけだと思います。勝頼は自らが若いから重臣たちと年の近い跡部や長坂らを重用しバランスをとるとともに、関係構築の努力をしていました。内藤氏にも関係改善を図り手紙を出しています。これがコミュ障のためだとは思いません。仰る通り、勝頼には呪われた子という偏見があります。義信事件があるまで後継ぎと思われていなかった忌み子と積極的に仲良くなろうとする家臣もそういないでしょう。高遠の人々とは良好な関係を築いておりますし、やはりコミュ障とは思えませんね

    • @user-qc2lq4gu8q
      @user-qc2lq4gu8q Před měsícem

      @@user-iw4pl9qx5h
      当時の武将や公家とかは血筋を重んじるらしいですからね。
      穴山梅雪は信玄の姉の子であり、信玄の正室の娘を妻にしているから、信玄の子であるとはいえ側室の子である上にかつて武田と敵対した諏訪の血を引く勝頼よりも武田家宗家との血の繋がりが深いですから、それを理由に勝頼に従う事をよしとしなかったのかもしれません。
      そんな価値観の中で謙虚にしても、こちらが強く出ればすぐに下手に出ると味を占めて余計に勝頼は穴山梅雪や他の家臣達に舐められて、求心力が落ちていたと思います。

  • @user-xm6kb4pz2p
    @user-xm6kb4pz2p Před 4 měsíci +3

    こんにちは

  • @GORGON13DEBIAS38
    @GORGON13DEBIAS38 Před 4 měsíci +1

    武田の騎馬武者か
    あれは、例えば長篠なんかの場合、長野南部(南信)の伊那郡の武士達が騎馬武者として動員されていて、身分は足軽ということも多かったと聞いているね。
    当時の伊那郡は落武者が住みついたケースも多くて、騎乗できる人達が大勢いたので、こういった人達を騎馬武者として動員していたんだよ。
    記録上も騎馬武者を1000騎だか何だか出せという指示が来たそうで、馬の世話をする従者が2~3名必要なので、4000名くらいの住民が動員されたと言われてる。
    もう30年近く前に下伊那郡史という郷土史の本を読んだ時に得た知識なので(その本自体は更にその数十年前の刊行物)、
    日本史の研究が地方に残っている郷土史で正史に反映されていなかった情報をかなり反映するようになった、という事なんだろうね。
    鉄砲に関しては、川中島以前の対小笠原戦(信濃攻略)の際に小笠原の鉄砲隊に山の上から撃たれて、
    竹束(盾)で防ぎながら戦ったそうで、鉄砲の発砲音に関しても、驚かないように馬を慣らしてあったと言われてる。
    長篠なんかはその何十年もあとのいくさだから、鉄砲隊なんかでいくさの勝敗が決まるわけがないんだよね。

  • @shin_taka
    @shin_taka Před 4 měsíci +1

    勝頼の敗因:人生の運の全てを妻子ガチャに注ぎ込んでしまったこと

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Před 4 měsíci +2

    戦に強いタイプなのは確か
    勝頼側も家康が宿敵であったろう

  • @user-52-mickey
    @user-52-mickey Před 4 měsíci

    1:10
    当時は敗将の娘を妻にするなんて珍しくないですが?

    • @user-bq3tj7dl3w
      @user-bq3tj7dl3w Před 3 měsíci +1

      問題はその敗将との間に生まれた子供を世継ぎにすることだろうね…………

  • @user-qc2lq4gu8q
    @user-qc2lq4gu8q Před 4 měsíci +2

    織田と戦う羽目になったのは信玄の今川攻めに起因したのではと感じますね。
    信玄は家康と組んで今川を攻めたが、その時に旧今川領を分ける時の家康との約束を欲を出して破ったらしい。 その為に家康は激怒して上杉や北条と通じて武田包囲網を作ろうとしたり、自身が仲介役として謙信と信長を結ばせようとしたり、信長に武田との同盟を破棄するように何度も言っていたらしい。
    その事で信玄は信長に家康を抑えるように求めたが、信長はスルーしたらしい(大河ドラマ「どうする家康」では信玄は家康の事を信長に従う三河の土豪として見ていて、信長は家康を大名と見ていた描写があるが史実でもそうだったのか?)。 その事で信玄は信長と家康に不満を持つようになる。
    そして極め付けとして信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めて信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしい。
    織田と戦う事になったのは信玄の行動のせいだと思いました。

  • @user-lw7ue3mv2b
    @user-lw7ue3mv2b Před 4 měsíci +4

    逆説ですが武田信玄が別の意味で無能だったのが遠因と思います。結果論ですが信虎の理想通り信繁が継いでいればバランスを考え行動したのではないでしょうか。長男義信の話も聞かず攻め一方、それを成功体験と誤認し勝頼が模倣した、それが悲劇であり必然だと思います。

  • @user-qc2lq4gu8q
    @user-qc2lq4gu8q Před 4 měsíci +1

    長篠の戦いや御館の乱での対応やらで勝頼は貶められてますけど、後世の人が言うように長篠で撤退していたり、御館の乱で景虎に味方し続けたらどうなっていたのか?という議論があまりされてない印象がします。
    長篠で撤退していたら山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら武田の重臣や多くの兵が残っていた、御館の乱で景虎に味方し続けたら北条・上杉・武田の同盟が成立して武田家の滅亡が延びたとか滅亡しなかったとか簡単に考えられている印象がしました。

  • @user-bq3tj7dl3w
    @user-bq3tj7dl3w Před 4 měsíci +3

    何でも信玄のせいにしすぎ
    確かに信玄にも問題あるけど、長篠は完全に勝頼の大失策
    長篠前日にあんな強気の書状出している点からも、連戦連勝で傲慢になっていた可能性が高い

    • @user-qc2lq4gu8q
      @user-qc2lq4gu8q Před 3 měsíci

      長篠や御館の乱で失策と言ってもそれはあくまでも結果論に過ぎないと思います。 強気の態度でないと家臣や国衆達に舐められ、最悪離反を招きかねないと思ってます。
      私は長篠で撤退したら、勝頼の長篠城攻めの理由が最初から長篠城奪還だったにせよ、大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取り、三河と遠江の分断を狙った吉田城攻めが失敗したからだったにせよ、まずは信長や家康が「武田は織田や徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と喧伝し、そうなったら三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められても自分達の為に戦うどころか尻尾を巻いて逃げ出す。 しかも少数の兵しかいない長篠城も落とせなかったという事は武田は弱い事になる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 ならば自分達も織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、国衆達が武田から次々と離反する結果になったと思います。
      甲斐や信濃の国衆達も、信玄や信虎、それ以前からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しで撤退したら恩賞が貰えない。
      戦の費用は家臣や国衆達の負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。
      山県昌景や馬場信春らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。
      当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。
      鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門守護大名・武田家に対し、信長の織田家は元々守護代の家臣筋、徳川家も三河の土豪出身。
      武田から見たら織田や徳川は素性が怪しくて身分も低い、卑しくて格下の家柄の相手。 そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと喧伝されたら武田家だけでなく武田家に従う家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。
      これらの事を考え、長篠で撤退していたらお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わり、面子まで潰された家臣や国衆達が「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに、何の恩賞も無い上に乱取りもできないのか。 これじゃあ俺達は今年や来年どうやって食べていけばいいんだ。 俺達の陪臣達からも恩賞が貰えなかった事で不満が出ているぞ。 しかも織田や徳川という卑しい家柄の奴らに戦いもせずに逃げ出したと喧伝されて俺達の面子を潰しやがって」という風に不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。
      今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、勝頼を追放するか殺して別の誰かを武田家当主として担ぎ出そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出るかもしれない。 そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、もしかしたら北条や上杉にも侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。
      仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開いて更に大きくなる一方。
      仕切り直した時には今以上に領土を広げ、国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない。 それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。
      当時の武田家の状況
      信玄が同盟や和睦を平気で反故にして他国への侵攻を繰り返した為に周辺諸国の武田家への信用が地に落ちている。 極め付けに信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。
      徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや、共同で今川を攻めた時に今川領を分ける時の約束を信玄が欲を出して破った事、家康が武田に無断で今川と和睦したり、上杉や北条と組んで武田包囲網を作ろうとしたり、信長に武田と手を切るように何度も言っていたらしい事を考えると無理。
      織田と敵対した事で鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料である硝石が手に入りにくくなる経済封鎖を受けている。
      浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。
      これらの状況を打開するにはどれだけ不利でもまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない今のうちに戦って勝つ以外になかったと思います。 勝って信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与えて「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのはその時しかないと。
      撤退したら次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、普通に調略したところで熱田や津島、堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた土地も少なく、税が重くて貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。

    • @user-bq3tj7dl3w
      @user-bq3tj7dl3w Před 3 měsíci +1

      「強気の態度でないと家臣や国衆達に舐められ、最悪離反を招きかねないと思ってます」
      それを何とかするのが当主でしょ。撤退するかどうかを見極めるのも当主。
      信長は長良川で戦わずに逃げて、その後に弟が反逆して逆に勝った。信玄も4回目は別にして川中島では無理をしなかった。
      あくまで結果論に
      政治家や上に立つ人間は結果が全てですよ

  • @user-el4mj2lz2e
    @user-el4mj2lz2e Před 4 měsíci +3

    ただ単に父親の偉大さが原因で
    滅亡原因を作った勝頼
    (無能ではないけど、やっぱ父親の影響がな…………)

    • @user-qc2lq4gu8q
      @user-qc2lq4gu8q Před 4 měsíci +2

      私は武田家滅亡の原因を作ったのは同盟や和睦を平気で破って他国への侵攻を繰り返し、周辺諸国の武田家への信用を地に落とし、勝頼への権威付けや権力移譲を不十分にし、信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた事で信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させ、織田との和睦を不可能にした信玄の方だと思ってます。
      まぁ、信玄の行動も甲斐が山に囲まれていて海がなく、交易に不利で経済封鎖を受けやすく、農耕に適した土地も少ないから、他国に侵攻してその土地や銭、食料とかを奪う事でしか生きていけないから同情の余地はありますけど。