四条天皇の謎!とことん悲劇過ぎた天皇...【ゆっくり解説】

Sdílet
Vložit
  • čas přidán 19. 01. 2024
  • ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    17:14 サムネの悲劇
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    にっぽんぽんTwitter 【制作の裏話など】
    nipponppo/status/...
    にっぽんぽんInstagram【偉人の名言】
    pCcP2FQDva...
    歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
    過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
    先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
    こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
    このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
    ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
    ※動画内の素材はすべて引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的はございません。
    著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願いします。
    osigotoiraihakotira@gmail.com
    #ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説

Komentáře • 26

  • @user-xt4fg8ln4z
    @user-xt4fg8ln4z Před 5 měsíci +16

    現代なら間違いなくダーウィン賞獲得。未来永劫語り継がれる事間違いなし。

    • @de9124
      @de9124 Před 5 měsíci +2

      語り継がれてますが笑

  • @user-tx5ge2nw7t
    @user-tx5ge2nw7t Před 5 měsíci +10

    四条天皇が長生きして子孫を残していたら、南北朝の動乱は
    起こらなかったかも知れない

  • @user-ur7hl5ek6z
    @user-ur7hl5ek6z Před 5 měsíci +4

    四条天皇陵の紹介で「滑って転んで崩御」とダーウィン賞ノミネートものの文にツボったけど、
    結構大変なことが周りで起きてたんですね、タメになりました。
    崇徳院「ふふふ・・・後鳥羽院など我ら怨霊の中では最弱。」
    朝廷や公家の中では権謀策略讒言冤罪が跋扈してたから政敵を陥れた後ろめたさが怨霊説を生み出したのかもしれませんね。
    (今年の大河「光る君へ」も史実を交えると胸糞展開が多くなるかも(汗))
    余談ですが、仲恭天皇は在位わずか1年未満という史上最短だった上「九条廃帝」「半帝」と称され欠番扱いにもされてた
    (「仲恭天皇」の諡号も明治になってから)のを見ると滑って転んで崩御でも比較的在位は長かった四条帝や壇ノ浦の
    波の下の京に行った安徳帝の方がマシだったのかも。

  • @nipponpon
    @nipponpon  Před 5 měsíci +1

    17:14 サムネの悲劇 はこちらです。。。
    ご視聴ありがとうございました!

  • @YH-ed1zo
    @YH-ed1zo Před 5 měsíci +3

    病院に4階がないのはそういうことか。

  • @user-ok6tp9up8l
    @user-ok6tp9up8l Před 5 měsíci +5

    三浦義村も、大江広元も、北条政子も70歳以上で死んでるからなあ😅 祟るならもっと早く祟れば?って思う。

  • @user-qr3nv7oi7y
    @user-qr3nv7oi7y Před 12 dny

    鴨居に頭ぶつけてタヒんだ王様と、鳥に亀を禿頭に落とされてタヒんだ哲学者といい勝負だ😂😂😂

  • @user-jy4fc2pm3m
    @user-jy4fc2pm3m Před 5 měsíci +1

    御嵯峨天皇の皇統は後深草天皇と亀山天皇という二つの皇統を生み、呉深草天皇は持明院統、亀山天皇は大覚寺島と言い、南北朝時代を形成してます。

  • @moipa808
    @moipa808 Před 5 měsíci +6

    受け身の練習しとかないと😅

  • @user-vp8pq2pp7p
    @user-vp8pq2pp7p Před 5 měsíci +1

    昔の10歳なら今の8か9歳。
    今の小2か小3。
    そりゃあヤルやろな。ってイタズラ。

  • @user-kv8zk9pj9y
    @user-kv8zk9pj9y Před 5 měsíci

    17:15 天皇だと享年より宝算のほうがよいかと思います😊

  • @qwa_
    @qwa_ Před 5 měsíci

    風が吹けば桶屋が儲かる的な。

  • @rewq1964
    @rewq1964 Před 5 měsíci

    天才って意表を突くよね。

  • @user-wn6ro1jr1d
    @user-wn6ro1jr1d Před měsícem

    五条天皇っていう天皇はいないようですが、この四条天皇の死に方で不吉とされて、それ以後の天皇は条が付く名前は使われなかったのかもしれませんね。

    • @user-ui7ux8gv5e
      @user-ui7ux8gv5e Před měsícem

      六条天皇はいるが、彼も早死にしてる

  • @kei.suzuki
    @kei.suzuki Před 5 měsíci

    こういうことがあるので記紀の一見荒唐無稽な話も無碍に否定はできないと思ってる
    だって記紀にこんな話載ってたら絶対創作呼ばわりするでしょ

  • @user-ri3yz4fc6c
    @user-ri3yz4fc6c Před 5 měsíci +2

    オチャメさん❤

  • @user-fl5yp6oe1o
    @user-fl5yp6oe1o Před 5 měsíci +1

    一番のネタ的天皇😂

  • @Allin20m
    @Allin20m Před 5 měsíci +2

    悲劇? 喜劇じゃん

  • @FREEDOM-vv3wu
    @FREEDOM-vv3wu Před 5 měsíci +1

    四条廃帝…

    • @user-ur7hl5ek6z
      @user-ur7hl5ek6z Před 5 měsíci +1

      仲恭帝(九条廃帝・半帝)のように皇位をはく奪されたのではないですから「四条廃帝」は正しくありません。
      (他には恵美押勝の乱(748年)の責任を取らされ皇位をはく奪された淳仁天皇の「淡路廃帝」、
      皇統史上で「廃帝」となったのはこの2帝のみ)

  • @user-qs4th6mk4s
    @user-qs4th6mk4s Před 5 měsíci

    ただの間抜け。

  • @MIZUHOKAWASIMA
    @MIZUHOKAWASIMA Před 2 měsíci

    Great CZcams⛑Thank you Very Much💐Muchísimas Gracias⛑
    『にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】』様、貴重な講義を視聴させて頂き、誠にありがとうございました。映像も音質も素晴らしい内容でした💐
    『国史大辞典』
    四条天皇・しじょうてんのう
    一二三一 - 四二
    一二三二―四二在位。諱は秀仁(みつひと)。寛喜三年(一二三一)二月十二日一条室町亭で誕生。後堀河天皇の第一皇子。母は藻壁門院藤原竴子(九条道家の娘)。同年四月十一日親王、十月二十八日皇太子となる。貞永元年(一二三二)十月四日父天皇の譲により践祚、十二月五日わずか二歳で即位。母方の縁者西園寺公経・九条道家らが権勢を振るったが、天皇は仁治三年(一二四二)正月九日、在位九年余にして閑院内裏に没した。歳十二。殿舎で顛倒したのが原因で大事に至ったという。陵は京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵。四条天皇に皇嗣なく、道家は順徳上皇の子忠成王の即位を計り、公経も同意したが、鎌倉幕府はこれを拒否、強引に邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させた。この紛争のため空位十一日に及び、朝臣の悲憤は激しかったが、以後、皇位選定権は幕府の掌中に帰した。→月輪陵(つきのわのみささぎ)
    [参考文献]
    『大日本史料』五ノ一四 仁治三年正月九日条、三浦周行『鎌倉時代史』(『日本時代史』五)
    (杉橋 隆夫)
    『日本国語大辞典』
    しじょう‐てんのう[シデウテンワウ] 【四条天皇】
    第八七代の天皇。名は秀仁(みつひと)。後堀河天皇の第一皇子。母は藤原道家の娘竴子。二歳で践祚(せんそ)し、九条教実(のりざね)、九条道家・近衛兼経などが相次いで摂政となる。在位一一年。貞永二~仁治三年(一二三二~四二)
    『日本大百科全書(ニッポニカ)』
    四条天皇・しじょうてんのう
    [1231―1242]
    第87代天皇(在位1232~42)。名は秀仁 (みつひと) 。後堀河 (ごほりかわ) 天皇の第1皇子。母は中宮、藻壁門院藤原竴 (たか) 子(父九条道家)。1232年(貞永1)10月2歳で践祚 (せんそ) 、同12月即位。幼少のため九条教実 (のりざね) 、道家、兼経 (かねつね) らが相次ぎ摂政 (せっしょう) となった。在位約10年間に改元六度、12歳で没。陵墓は京都市東山区今熊野の月輪 (つきのわ) 陵。
    [小野信二]
    『デジタル大辞泉』
    しじょう‐てんのう〔シデウテンワウ〕【四条天皇】
    [1231~1242]第87代天皇。在位1232~1242。後堀河天皇の第1皇子。名は秀仁(みつひと)。2歳で践祚(せんそ)し、九条教実(くじょうのりざね)・藤原道家らが相次いで摂政となった。
    『日本人名大辞典』
    四条天皇・しじょうてんのう
    1231−1242
    鎌倉時代,第87代天皇。在位1232-42。
    寛喜(かんぎ)3年2月12日生まれ。後堀河天皇の第1皇子。母は藤原竴子(しゅんし)(藻璧門院)。父の譲位をうけ2歳で即位。六波羅(ろくはら)探題が整備され,御成敗式目(貞永(じょうえい)式目)の制定などで幕府体制が強化され,朝廷監視がつよまった。仁治(にんじ)3年1月9日死去。12歳。墓所は月輪陵(つきのわのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は秀仁(みつひと)。