【ゆっくり歴史解説】楽毅『斉を壊滅状態にした名将』

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  • čas přidán 30. 07. 2020
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Komentáře • 71

  • @GG-mw9ph
    @GG-mw9ph Před 4 lety +27

    楽毅の最後の身の振り方に
    敬意をもっている。
    この頃は手柄をたてると
    懺悔が多くて身の振り方が
    難しかった。

  • @my-eg8ge
    @my-eg8ge Před 4 lety +26

    楽毅が斉を攻めた時、燕軍の占領を覆すほどの反乱が起きなかった事は楽毅の行政能力の高さを証明していると思います。中山も燕も一度滅びましたが反乱をきっかけに復興していますし、田単が即墨で騎劫を破った後、次々に燕軍に反旗を翻す勢力が現れたのは、斉に心を寄せる人々が多かった事を証明していますが楽毅の統治下ではそれが表面化しませんでした。諸葛亮が楽毅に憧れたのは昭王への忠誠心と、万能であるという2点でしょうね。それゆえに諸葛亮は劣悪ではなくても得意とは言えなかった軍事をもこなそうとして、苦悩したのだと思います。

  • @user-xm7jh4wv6k
    @user-xm7jh4wv6k Před 4 lety +19

    郭魁先生の渾身の自薦
    まさか現代にまで逸話が残るとは…
    本人もビックリでしょうね

  • @osyo3
    @osyo3 Před 4 lety +13

    長いけれど楽毅の一生を余すところなく、しっかり解説されていてとても良い動画でした感謝

  • @kan_igo
    @kan_igo Před 4 lety +17

    子孫が大変なことになっておる。
    燕の見どころは最後(太子丹が荊軻に政の討伐をお願いするところ)も迫力があっていいと思う。

    • @user-kq2hj6wq3y
      @user-kq2hj6wq3y Před 2 lety

      後に楽間も趙に亡命してしまう。恵王と同じ様に帰国を促す手紙を送ったのが燕王贏喜。しかしよほど酷かったのか楽間は趙に留まった。贏喜は恵王よりも酷い暗君である事を楽間は良く分かっていたのだろう。事実、暗君の2番どころか3番煎じの太子贏丹が荊軻を使って秦の始皇帝(贏政)を暗殺しようとしたのを止められなかったうえ、秦が報復として燕を攻めると慌てて贏丹を攻め殺し、その首を秦に引き渡している。だが秦は燕を端から許す気などなくわずか半年後に燕は秦に滅ぼされた。楽間も趙と秦の戦いの中で戦死。というか秦と通じていた郭開と対立して激しい戦場へ送られてしまったのかも。秦に滅ぼされた燕は悲惨そのもので王族は贏喜も含め皆殺し。しかも始皇帝は燕が自分と同じ姓であることを嫌い燕の姓を侮蔑的なものに改めさせたうえで皆殺しにした。燕の民は秦の強制労働(万里の長城・阿房宮・始皇帝陵その他)に容赦なく動員されおびただしい犠牲者を出した。更に匈奴対策で万里の長城付近で兵役へ付かされそこでも多くの犠牲者を出し、楚漢戦争に乗じて攻めて来た匈奴に国土を蹂躙された。ようやく燕の地が安定するのは漢の文帝から武帝にかけての事。

  • @user-kd9yf7tl6n
    @user-kd9yf7tl6n Před 4 lety +28

    楽毅もまた、「馬鹿な味方は敵より恐い」のセオリーから逃れられなかった・・。軍事も外交も、占領地の統治まで見事にこなす上に、節義を重んじる人格者。孔明が憧れるのも当然という気がする。

  • @user-sb8mn9di3b
    @user-sb8mn9di3b Před 3 lety +13

    楽毅が亡命した後はあまり活躍しなかったと言っていたけれど、やっぱり名声と実績というのはすごい大事で、趙にしてみれば楽毅ほどの名将を敵に回さずに済むというだけでリターンの大きな話だったのだと思います。

  • @user-gt2wy7dg5t
    @user-gt2wy7dg5t Před 4 lety +9

    昭王には斉に復讐という明確な目的があったからね。
    若い時からそういう苦労もあって魅力となったのだろうと思われる。
    優れた人物は目的があって行動が出来る人に魅力感じるしね。
    楽毅は晋の士会みたいな宰相としても優れていた可能性はあったから惜しい。

  • @taknar4020
    @taknar4020 Před 4 lety +8

    隗より始めよの一言で優遇されるようになった郭隗
    他に特別エピソードも無いのにそこそこの能力付けて古武将として登場させてしまうコーエーテクモ。

  • @user-gk8xp4ed8o
    @user-gk8xp4ed8o Před 4 lety +9

    楽毅好きなので助かる

  • @Kyoui_Kannouchou
    @Kyoui_Kannouchou Před 4 lety +14

    33:34 今まで斉を倒す事だけを目標にしてきた昭王にとって、この時は凄い嬉しかっただろうな。

  • @user-dx9st6bd4q
    @user-dx9st6bd4q Před 3 lety +3

    目的を果たすことが最も大事ながら、果たしたピーク後の歴史の舞台からの降り方も大事ですね。趙に亡命した楽毅が史書に残るような活躍をしなかったのは、あえてそうしたようにも思えます

  • @user-tkc-1985
    @user-tkc-1985 Před 4 lety +68

    宮城谷さんの楽毅が好き

    • @user-konroso
      @user-konroso Před 4 lety +8

      あれは名作やな…趙への使者として向かってそこから帰るあたりとか好き。

  • @hidemitutakechi735
    @hidemitutakechi735 Před 4 lety +15

    人の心を理解している田単好き。

  • @user-dr2yc4zl6l
    @user-dr2yc4zl6l Před 4 lety +7

    強大な敵を倒すために、まずは内部を崩壊させ、皆で一気に叩くのか、、、
    さすがは楽毅

  • @user-zf4ys5hp5z
    @user-zf4ys5hp5z Před 4 lety +6

    ここのゆっくりのプルプルかわいい

  • @user-ux6jh1ze6x
    @user-ux6jh1ze6x Před 3 lety +4

    歴史にたらればはないけれど、たらればを考えられるのが歴史の面白さの1つであるし、後世の人が温故知新とできる特権であるとも思う。

  • @AT-mp6ws
    @AT-mp6ws Před 4 lety +12

    楽毅最高!解説ありがとうございます。

  • @user-sl8fs5fp1k
    @user-sl8fs5fp1k Před 4 lety +11

    騎刧の咬ませっぷりが半端ない

  • @user-mp1bs1bb9i
    @user-mp1bs1bb9i Před 4 lety +5

    歴史上一番好きな武将

  • @haouseiso1683
    @haouseiso1683 Před 3 lety +4

    「尊敬して止まない」(諸葛孔明)。

  • @kirin4126
    @kirin4126 Před 4 lety +7

    これにより強国は秦のみとなり斉は対抗もしなくなり静観の道をゆくんですよね
    それとなんとなく宋の領域が広いような?康王がいろいろ背伸びして拡張したのか?
    両人とも最後は趙にいたわけだが何を語ったか記録があれば知りたいですね

  • @user-cj9ju2nb6q
    @user-cj9ju2nb6q Před 4 lety +5

    昭王は、更に人の言に耳を傾ける人だったのもあったんだろうね。
    だからこそ、私怨をもって戦をしそうな時にも耐えた。
    私怨をもって戦をしてはいけないと昔の偉い人も言ってたしね🎵←(今後の主の動画ネタの為にも見ている人が興味持って調べて欲しい為にも誰かは伏せておきますね(笑))
    ふと、三國志の様な忠誠心は?と思う人も居るかと思いますが、昔は当たり前に国鞍替えしたりしてましたから。
    人に仕えて国に仕えずと言えば解りやすいかなぁ🎵

  • @tfujisaki72jp
    @tfujisaki72jp Před 4 lety +7

    さすがに孔明が憧れる人物ですね。

  • @tntintuittion3504
    @tntintuittion3504 Před 4 lety +5

    横山先生の昭王の悔し
    涙は忘れません…あと楽毅の文章を上手い事を言って載せないもいい。

  • @drill2949
    @drill2949 Před 4 lety +1

    うp主のれーしさんは好きな偉人に布都を当てることが多いのでわかりやすいのぜ!

  • @user-wf9di7ye9x
    @user-wf9di7ye9x Před 4 lety +6

    楽毅きた!

  • @mocchi2643
    @mocchi2643 Před 4 lety +3

    楽毅は史書の中でいったん評価が下がったものの、三国時代に魏の夏侯玄が『楽毅論』を著し再評価されるようになったと言われている。

    • @AtoZ37828
      @AtoZ37828 Před 4 lety +2

      何年前か、国立美術館で『書聖』王羲之展があり、彼が書いた楽毅論のクリアフォルダを買って、重要書類を保管するために使っています。
      読むたびに人の評価とは何なのかを考えさせられます。

  • @user-og9rj9kf1c
    @user-og9rj9kf1c Před 4 lety +4

    うぽつです。横光の史記では楽毅の活躍は燕に居た頃くらいしか描かれませんでしたが、この動画によって其れ以外の頃の楽毅が何をしていのかが よく解りました(^ ^
    一応、楽毅が斉の残り二城をなかなか落とせなかったのは、横光の漫画では田単が防衛の指揮を執っていて手古摺らされたからとなっていますが……
    にしても、輝夜は曹操をはじめ名君役で、チルノは暗君役、小傘は側近役と色々と安定してますね(^ ^;

    • @YH-nu7wc
      @YH-nu7wc Před 4 lety +1

      チルノやきめぇ丸はたまにまともな役をやることがありますが。

  • @2ytku723kp
    @2ytku723kp Před 4 lety +2

    何故楽毅が斉の残る城は莒と即墨の二つとなったのに猛攻を仕掛け落とすこともせず、
    数年間も二城を囲んだままにしていたのか永遠の謎ですねぇ
    楽毅による占領統治での善政で燕が併合しやすいよう和合を図っていたとも思えるけど、
    攻め滅ぼして斉人に恨みを残すのではなく二城が降伏するまで待ってたのかな、と。

  • @user-fw4qj5xo3u
    @user-fw4qj5xo3u Před 2 lety +1

    楽毅が中山の生まれであるという証拠はないんですよね
    ぶっちゃけ趙には楽池がいたし、、

  • @junichi1993
    @junichi1993 Před 4 lety +7

    楽毅も素晴らしい将軍ですが楽毅を不屈の精神と知略で退け斉を救った田単が大好きです。次回はぜひ田単を!

    • @kirin4126
      @kirin4126 Před 4 lety +3

      動画でも触れていますが楽毅が罷免されたあとに城を取り返しています
      ただ両名とも晩年は趙にいくのは共通

  • @user-rf1ff5kf7e
    @user-rf1ff5kf7e Před 4 lety +5

    郭隗先生の「隗より始めよ」は超有名ですね

  • @user-ph4ot7tu6u
    @user-ph4ot7tu6u Před 4 lety +3

    管仲、楽毅か

  • @kneumann4012
    @kneumann4012 Před 4 lety +5

    魏は人材流出が激しいの

  • @goma2534
    @goma2534 Před 4 lety +6

    功績をあげすぎたものは 自分が王になる もしくは殺されるってなるよなー

  • @mitsuhoshi817
    @mitsuhoshi817 Před 4 lety +4

    賢明な王でも、太子の人選・教育に失敗する例は多々ある。難しいね。

    • @YH-nu7wc
      @YH-nu7wc Před 4 lety

      失敗した人達でも、失敗したくて失敗した人はいないと思いたいですが。

  • @frogrok1
    @frogrok1 Před 4 lety +25

    宮城谷昌光の「楽毅」を読んだばかりの俺にタイムリーな動画

    • @user-konroso
      @user-konroso Před 4 lety +10

      楽毅の斉への攻勢を退けたのが留学時代の親友の子っていうのがなんともまぁ…って感じですよね!

    • @user-kq2hj6wq3y
      @user-kq2hj6wq3y Před 2 lety

      @@user-konroso そして田単と范雎も因縁深い相手で田単が趙、范雎が秦の宰相として互いに敵同士になる。

  • @ozone7554
    @ozone7554 Před 4 lety +2

    楽毅を信頼して使いこなした燕の昭王もすごいですが、楽毅自身も人を見る目に優れていたんでしょうね。
    莒と即墨の件は謎ですね。
    斉をギリギリ生かしておいて、燕が以前斉から受けた屈辱を味合わせたかったんですかね?

  • @user-vr5it3jo2q
    @user-vr5it3jo2q Před 4 lety +1

    43:19 楽毅が変事を・・・?。返事かw。

  • @user-ct9ym1od1d
    @user-ct9ym1od1d Před 4 lety +1

    昭王が「優秀な人材を求めたいと思う」という言葉に反発を感じた郭隗が皮肉を込めて進言した事を昭王が実行してしまった。
    そして、結果オーライとなった・・・と思っていました。💩

  • @YH-nu7wc
    @YH-nu7wc Před 4 lety +1

    今回は、比較的まともな役のきめぇ丸。
    話は変わりますが、横山光輝版史記では燕の恵王は楽毅の文を読んで、後悔してたから少しはマシになったかと思ったんですが、現実はそうではなかったんですね^^;

    • @YH-nu7wc
      @YH-nu7wc Před 4 lety +1

      ちなみに、きめぇ丸が演じてた劇辛も昭王の優遇策で来た一人。

  • @demiashrui
    @demiashrui Před 3 lety

    「まず塊より始めよ」は、ちゃっかり出世したという見方もできる、そこが魅力だ…と思っていたが、そうではないのかな。

  • @user-asi1qlhlj
    @user-asi1qlhlj Před rokem

    蘇代もすごいよね

  • @user-wf9di7ye9x
    @user-wf9di7ye9x Před 4 lety +1

    さりげに斉出身者と昭王でもこてるになってるな

  • @Kyoui_Kannouchou
    @Kyoui_Kannouchou Před 4 lety +3

    35:38 燕ではなく、斉ですね…。

  • @reizoukoreizouko
    @reizoukoreizouko Před 3 lety

    この時代の趙の武霊王→恵文王が羨ましすぎる。
    しかし、恵文王に仕えたとされてからの活躍が一切ないことを見ると、早くに亡くなったのか、将軍としてよりも外交官のような立場になったのか。望諸君という称号が、望諸という地名があったのか、功績等によるものなのかがヒントになるのかなぁ。

  • @user-nd8bs5vr3r
    @user-nd8bs5vr3r Před 3 lety

    ゲキカラさんは趙からエンに行ったのか。

  • @user-dj5st2zn2m
    @user-dj5st2zn2m Před 4 lety +6

    分かり易い

  • @zc33s73
    @zc33s73 Před rokem +1

    韓が海と同じ色なのが良い😂
    素晴らしい😂
    出来れば、真っ黒がBest😂

  • @8bswaf539
    @8bswaf539 Před 4 lety +3

    趙の恵文王ってあれだけいろいろあったのに秦と友好関係にあったのか…?

    • @AtoZ37828
      @AtoZ37828 Před 4 lety +3

      恵文王は、元々太子であった兄が廃嫡され、弟が後に戦国四君の一人の平原君となるような有能な方だったので、非常に謙虚な人だったのではないかと思われます。
      沙丘の乱で意に反して父を死なせてしまった後悔もあり、臣下の進言もよく聞いたようです。動画の中にも、その後人材がどんどん集まってきたと触れられていますよね。楽毅の薫陶もあってこのような外交感覚を身に着けたのかなと想像するとわくわくします。
      趙国を急速に膨張させた父の武霊王が急死してしまい、領土を維持するには非常に神経を使ったと思います。「完璧」「澠池の会」など故事や逸話にも事欠きません。紛れもない名君だったと思います。
      恵文王がここで頑張ってくれたおかげて『キングダム』の舞台が整ったと考えると、現代の我々にとってもありがたい君主ですね。

  • @user-pd6gx3zo8n
    @user-pd6gx3zo8n Před 4 lety

    20:30 蘇代3回断ってるのか

  • @user-xd4uf9gh6s
    @user-xd4uf9gh6s Před 2 lety

    趙と言えば李同も忘れてはいけない

  • @user-rn7zc3xy3r
    @user-rn7zc3xy3r Před 4 lety +6

    楽毅は優秀ではあったけれども、燕の中に頼りになる味方はいなかったと想われます。
    管仲と楽毅は並び称されるものの、管仲は鮑叔の援けがあって成功者となり、楽毅はしくじった。庇護者が主君だけでは、その主君が死んだ場合、転落してしまいます。呉起がそうだった様に。
    楽毅が燕に戻らず、趙に亡命したのは理に適っています。燕の国内で家族を人質に取られているも同然、楽毅に対する趙の信頼を背景に圧力をかければ、燕は迂闊に楽毅の家族へ手出しは出来ません。危害を加えられたら、楽毅は怒って攻め込んで来ます。名将楽毅を敵に回したら、燕は絶対勝てない。これは、外交の駆け引きです。
    楽毅は外交で主導権を握ってきた戦略家。相手と信頼関係を構築する処から始めています。
    燕にとって、中山国は趙に対する防波堤でした。楽毅はそれが要因で、燕に亡命して仕えたのだと考えられます。滅んだ国を再興させるのは困難。楽毅は現実的な政治家。燕の仇国である斉を倒す為に、私怨を捨てて趙と組んだのでしょう。
    斉を攻略するのに、臨淄を早急に陥落させる必要があったでしょうか?。愚王を放置しておく方が、崩壊を早めたでしょう。結局、莒・即墨は落ちず、持久戦に持ち込まれています。
    不可解な昭王の急死は、暗殺の可能性もあるのです。だから、楽毅は趙に亡命したのではないでしょうか。

  • @user-hj3uv8em9e
    @user-hj3uv8em9e Před 3 lety +3

    宮城谷さんのガッキを読んで、宮城谷さんを好きになり、アンシを読み始めて、面白くて…でも、子供(アンシ)の話になってからは、つまらなくて…
    なんや、この話は‼️
    と、思いつつ、読み進め…
    エンディングでは、涙が止まりませんでした。

  • @user-lg4gt4kn8p
    @user-lg4gt4kn8p Před 3 lety +2

    ゆっくりにせよwwww

  • @user-bp6ez6cn3r
    @user-bp6ez6cn3r Před 3 lety +1

    広告多すぎ 折角のないよえ