榊原康政の子孫のその後 藩主すり替えまで行うも譜代の大藩として残る【どうする家康】
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- čas přidán 3. 01. 2024
- 参考文献
村山和夫『高田藩 (シリーズ藩物語)』
amzn.to/3H8mV7s
小宮山敏和『譜代大名の創出と幕藩体制』
amzn.to/3H75mEM
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康政の跡を継いだ榊原康勝は、大坂の陣後に跡継ぎを残さず亡くなり一時断絶の危機に陥るなど、順風満帆とはいえない藩政が続いていました。
その後も吉原での太夫身請けを原因とする藩主の隠居処分、早世した藩主のすり替えなど綱渡りの藩政が続きますが、15万石の領地を維持し越後高田藩主として幕末を迎えます。
長州征伐では旧式装備で長州藩に大敗するという不名誉もあり、戊辰戦争では長岡藩 会津藩討伐に先鋒として駆り出されるなど苦労の末に家名を守っています。
今回は、困難に見舞われながらも15万石の領地を守り切り康政の血筋を現代まで残し続けた榊原康政の子孫のその後について紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマどうする家康公式サイト
www.nhk.or.jp/ieyasu/
#どうする家康 #日本史 #歴史
康政流榊原家は家祖榊原康政の徳川家に対する功績で、子孫のしくじりでも、左遷はされども改易処分はされなかっただけでも有難いよな。
特に忠勝の本多家は典型的な例ですよね。
関ヶ原遅参で秀忠を庇って秀忠から、「今後そなたの子孫は、失敗があっても謀反でもしない限り、永遠に守ってつかわす。」って言われたからな。
家康『股肱之臣』であっても時を経れば、将軍家にとってはただの家臣でしかないという哀しい現実を見せつけられる思いですね。
死して尚、墓石にまで懲罰を受けたのが德川宗春以外にもいた事に驚きでしたね。
幕府創業期の榊原 本多 大久保…
重臣であっても家臣は家臣…各家の末は寂しいものです。
どうする家康の若くて賢い康正と、大坂の陣頃のよぼよぼの康正もすごく印象に残ってて、
今回の動画で順風満帆に血筋が活躍してるかと思ったら、、、
大変だったんですね。
時代の流れに乗れないってのは、
本当に大変ですね
大阪の陣の数年前にはすでに亡くなってますが
@@user-yu2dv8ur1q ご指摘どうも
姫路藩は忠次時代の新田開発や治水事業で表高15万石を実高24万石にまで引き上げていて
榊原忠次は歴代姫路藩主の中でトップクラスの名君という評価です
政岑の女好きは正妻を亡くしてから始まってるので寂しかったんだろうなと思います
高尾太夫(連昌院)のお墓は榊原家の奥方の菩提寺で同列に弔われてますね
跡継ぎがいなければお家断絶の時代、当主が若年で没すると大変ですが、異母弟を入れ替えて身代わりとすることまでしていたとは、驚きました。明治期、石高が華族令の伯爵の基準にわずかに足りず、子爵となったというのは、皮肉ですね。徳川四天王と言われた名門も、代を繋いで行くことが大変だということがよく分かりました。
斗南藩を解説してほしい