【ゆっくり解説】島津四兄弟九州統一戦その12ー九州征伐~義弘、根白坂で最後の抵抗を試みるも…
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- čas přidán 25. 01. 2024
- 今回は豊臣秀吉の九州征伐軍が本格的に進攻してくる状況下で島津軍が豊後から困難な撤退戦を敢行し、根白坂の合戦で島津義弘たちが豊臣秀長軍に唯一の組織的な反抗を試みる過程を解説していきます。
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やっぱり秀長が生きている時の秀吉軍の盤石っぷりは違うなぁ。
家康派だった秀長が小牧長久手の戦での反省点を上手くアレンジして鉄壁にしたのと、立花統虎(宗茂)の素質を見抜いて利用できたのも大きい(秀吉は本多忠勝が欲しい欲しい!だったからね)
島津義弘の名誉の為に付け加えるならこれ以降立花統虎と妙なライバル関係が生まれて朝鮮の役で大活躍出来た、と。
秀長さん長生きしてたら、徳川も天下取れんかったやろうな
@@sper3439 秀長晩年って秀吉との仲が冷え込んできてるからなぁ
いやマジで面白い…毎週楽しみにしてます。
ありがとうございます!そう言っていただけると大変励みになります😄😄
毎回楽しみに見てます。
今までの11回は何だったんだ?ってくらい唖然とするカタストロフィでした。
今回の義弘のgdgdぶりは「鬼島津」とはまるで別人のような黒歴史っぷりも
ゆっくり真実さんの丁寧な解説のおかげでとても分かりやすく理解できました😊
コメントありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです!義弘はこのシリーズの基本参考文献の一つ新名先生の『「不屈の両殿」島津義久・義弘』だと、このころ武将として最大のスランプに陥ってたと書かれてます😥😥
豊臣軍の物量もさることながら、討伐軍の大将が基本に忠実で、派手さはないが確実に勝ちに行くタイプの秀長
さすがに寄り合い連合軍の状態だったこの時の島津勢では、分が悪い相手だったといえる
コメントありがとうございます!冒険をせず手堅い秀長は大軍を率いて必勝を期すときには最適の指揮官ですよね。
最初からこの人だったら、長宗我部家は・・・
@@user-fx9zh8ec2d 秀吉からしたら長宗我部、十河は死んでくれても構わない(それどころか討死歓迎まである)戦力なので、どのような世界線でも秀長が四国軍を率いることはなかったかと。
@@DylanThomas2015 私もその説は賛同できますね。
うまく行けばそれでよし、壊滅したら四国の有力者が消えてくれるから
後釜に自分の家来や親族を大名にすればいい
仙石もある意味捨て石だったのかもしれませんね
江戸時代で8公2民って言われた島津家でしたから、新たな領地でも酷い税率を領民に科したのだろうな
そりゃ恨まれるわ
コメントありがとうございます!薩摩藩は表向きの石高と比べて実収はかなり少なかったという話もありますしね。
九州の島津と関東の北条との決定的な違いは、島津氏は本拠地以外の九州で嫌われている、北条氏は関東の領民、関東の小大名に慕われている点。その土地に住んでいる人間に好かれていないとあっと言う間に領土を失う。
でも地域の統一に近かったのは北条ではなく島津ですね。大友以上に佐竹が奮闘してました。
九州って支配苛烈じゃね。キリスト教が付け入るスキがあったんだろ。北条は四公六民だがバカ殿松倉勝家は九公一民って頭おかしくね?そりゃ一揆起こすよ。
分かりやすい解説ありがとうございます。
九州侵攻は成功したけど、治めることは出来ていない状況がよく分かりました。
コメントありがとうございます!そう言っていただけると嬉しいです!
義弘って典型的な現場監督タイプという感じですね
天正末期から名代やら豊臣政権下での本家と中央政権との板挟み役とか慣れない役回りさせられる事多くて本人ストレス溜まっただろうなあと💦
コメントありがとうございます!義弘は苦労性というか貧乏くじを引かされることが多いですよね😥😥
この辺りの戦になってくると、ノブヤボの終盤と同じく、オールスターズが綺羅星の如く並んでくるから高揚感半端ない
戸次川の戦いも 戦国大名同士の 戦いなら 致命傷になったのかもしれないけど
秀吉からしたら指先をちょっと切った程度に過ぎなかったんでしょうね
一発殴ったら100発殴り返される感じですね
コメントありがとうございます!面子は傷つけられたかもしれませんけど結局は局地戦での一敗北ですしね。
義久は事態を何とか丸く収め様として、西郷は現場に丸投げしたという違いがあるだけで、薩摩って西南の役の頃と何ら変わらないんだな
コメントありがとうございます!基本的なメンタリティは確かにあまり変わってないかもですね。
司馬遼太郎、吉川英治、山岡荘八あたりの小説史観に縛られてた自分にとって、一次資料を重視したこの動画はめっちゃ面白くて、全部拝見しました。更新を毎週楽しみにしています。
ただひとつ気になってるのが、「真実の戦国史」ってタイトルが凄く陰謀論者っぽくて損してる気がします。
いっそ「一次資料で見る戦国武将の実像」(固いか(笑))みたいなのもイイかも知れませんね。
コメントありがとうございます!そう言っていただけると大変嬉しいです!タイトルはチャンネルを立ち上げるとき適当につけてしまったんですよね😅😅
信長なら多少の融通はきけたかも分からんけど秀吉は融通もクソもないわな
兎にも角にも秀吉を甘く見てたのが島津家の運の尽きだよね……。
あとは魔理沙が言ってたように場当たり的な征服戦争(15:57)の中で積もりに積もったひずみとか歪み、矛盾の連続がいっぺんに噴出したんじゃないかな?
コメントありがとうございます!秀吉のほうがやり方がはるかにエゲツないですしね😨😨
征服が上手くいっているときはそうした矛盾は表には出てこなかったんでしょうけどね…
この辺知らないことが多かったので助かる
コメントありがとうございます!お役に立てましたら何よりです😄😄
侵攻先をくじで決められたら、防衛側にしてみたら侵攻先を予測して防御なんて無理になるね。
まあ 普通は こちらも現実的な判断で動くから相手もそう 動くはずだと思いますからね
コメントありがとうございます!相手の意表をつく効果はあったかもですね。
南北朝の昔から大友の最終ラインは高崎山なんだよなあ
高崎山に籠って中央の援軍を待つのが大友家のドクトリン
高崎山と浜脇が落ちてなければ援軍は幾らでも上げられる
元々大友自身も征服者だしね
北九州攻防戦で名前が出て来ませんでしたが、大友宗麟の豊前統一をずっと阻んで来た元大内氏家臣の長野氏はもっと評価されても良いと思いますね。
長野氏は宇佐八幡宮焼き討ちで逃れて来た大宮司を小倉北区の到津で庇護をして、門司氏と一緒に強大な大友軍と激戦を続けで来たのです。
もっとも毛利氏と組んでの事ですが、
北九州攻防戦で苅田・松山城で大友軍を撃退し、小早川軍と共に門司城を死守しました。
大友・毛利の手打ち以降はやむなく大友氏に従いましたが、耳側合戦で大友軍が大敗すると挙兵し島津家と同盟しました。
結局、このために毛利軍に攻められて長野氏は滅亡しました。
長野氏は豊臣軍迎撃の為に小倉南区長野にハリネズミ城と呼ばれる縦堀の長野城を築いていましたが、ここでの戦闘は起きず。
小倉南区志井の椎山城では5万の毛利軍に包囲されましたが家臣の堀越太郎が背後から僅かな手勢で突撃をして朝から夕刻まで果敢に戦い、夕陽が沈む頃には堀越太郎以下13名となり、堀越で全員自決しました。
ここには珍しい土饅頭の墓が13基ありました。
残念ながら現在は病院の敷地になって取り壊されました。
さらにその南の小三ヶ岳城・大三ヶ岳城(現三岳梅林)で激しい攻防戦が行われました。
ここに長野氏は滅亡しました。
ですが、大友宗麟の北九州統一の野望を砕いたのは長野氏だと思います。
長々、失礼致しました。
島津のドタバタ劇、面白いですし
コッペパンのBGMもピッタリですし
戦争時のBGMもドタバタ劇にマッチしててBGMだけでも笑えます😂
戦国時代でドタバタ劇で1番面白いのは島津なのかもですねw
大友の家臣団ってほんと有能なんだよな。キリシタンかぶれにさえならなければ余裕で九州統一してただろうに。
まぁキリシタンになったから多くの火器を手に入れられたってのもあるんだろうけど。
コメントありがとうございます!大友家臣団の面子はエグすぎです😆😆
「島津、ザマァwww」って声が聞こえてきそうだ。
😭😭
長期的な戦争計画なしに現場のノリと勢いで戦争は意外と起こる。
コメントありがとうございます!戦争に限らず偶発的な要因で起こるトラブルは結構多いですね。
次回で家久とお別れかぁ、寂しくなるな(笑)。でもたしか死ぬ直前に最後っ屁かましてたような。
談合に籤と一見義久と同じ事をしているように見えますが、義久は自分の考えをしっかり持っていて自身の望む方向へ誘導するために談合や籤を使っているので中身はまるで違いますね。
コメントありがとうございます!あらゆる意味で一番存在感を放ってたのが家久でしたしね😨😨確かに義弘は形だけやり方を真似ている感じで、政治家としての経験や力量は義久には遠く及ばないですね。
徳川家康は、島津維新入道義弘を、「非常なる器量人」と評した。
武将としての戦略眼は兄をはるかに凌ぐ。
豊後攻略の際の義弘の悠長に見える動きは
秀吉と島津の戦力比を計算した上でのことだろう。
やがて到着する秀吉の大軍には到底勝ち目がない。
豊後より
すでに手に入れた領土の保全が重要だと考えはじめていたはず。
くじ引きの絶対的な信頼性✨
現代人からすれば「ウソやろ〜」感だけど、
信長の桶狭間の時の熱田神宮のように、
士気をあげるために有効な手だったのは、
当時の人としてはあったんでしょうね。
iPS細胞の山中伸弥先生の言葉を思い出しました。
「日本人は一生懸命働くけど、目的・ビジョンを描くのが苦手。ビジョンとワークハードの両方が必要。」
当時から現代まで日本人の気質は変わってないんですかね〜⁉️
コメントありがとうございます!中世は「神仏の時代」と言われてますしね。長期的な戦略を立てるのが苦手というのは確かに戦国時代から変わっていない日本人の気質かもですね😢😢
それじゃあ皆さんゆっくりしてってね😊
島津がホームでここまでボコられるなんて、、、
コメントありがとうございます!それだけ豊臣軍の物量が圧倒的だったんでしょうね😥😥
島津のホームは九州南部です。
他の地域はホームではありません
島津四兄弟は戦術には長けていたが、よりマクロな視点の必要な戦略には苦手で結局九州統一はならなかった。
コメントありがとうございます!何人かの方も言われてますけど旧日本軍によく似ていますね😥😥
罵声を浴びせながら鉄砲を撃ってくる地元住民怖すぎるw
戦国JAPANのロジスティック能力凄いね。半島で15万の将兵が8年近く戦える訳だよ。
島津ってゲリラ戦以外、あんまり強くないイメージ。。
言い訳だろうなあ。。。
常識だが、豊臣方が九州上陸する前に各地を出発した情報が続々と入ってくるからねえ。
諸将の重臣も豊臣方につきたがる者が続出して士気が上がらなくなったんでしょうねえ。。。
コメントありがとうございます!特に譜代家臣ではない国人・国衆は島津に対する忠誠心は希薄だったでしょうしね…
@@user-ii9wu7fn7p さん、
特に北の方はもっと脆いと思っていましたが。。。
人質をとられているのでよく頑張ったんでしょうが、後詰に来なければ家臣が主君をあやめて寝返るケースも出るでしょう。
島津としては、打つ手がなかったんでしょうね。
後は雪崩を打つ様に寝返りの連鎖。。。
北の方の諸将は人質を取られているとはいえ、よく粘ったと思います。
国人や小勢力は城に入らない者も続出したでしょう。
諸将も後詰が来なければ家臣に殺されるか人質を見捨てるか選ぶしか無い状況に追い込まれるので、島津に打つ手は無いと思います。。。
島津の譜代や一門衆も流石に保たない。
武田の一門衆や譜代とは大違いのはアッパレ。
国人などは寝返ったり城に入らない者が続出したでしょうね。
諸将は人質を取られているとは言え、よく粘ったと思います。
もっとも、粘り過ぎると家臣が寝返りの為にあやめる可能性があるので、人質を見捨てるタイミングが重要でしょう。
早過ぎても後々の求心力が低下するし、遅過ぎても豊富支配下での所領が小さくなるし。。。
後詰に行かなければ『一戦交えたのに後詰が来ないから寝返るね』って流れになるから、2方面では島津も手の打ちようがない。
でも、島津の一門衆や譜代の結束力は天晴れだと思います。
武田や朝倉の例を出すまでもなく、瓦解してもおかしくない。
@@bokoboko446 武田や朝倉を例出すなら話はかなり変わると思うが長年圧倒的な織田家に数多の戦争してるのに対してまだ豊臣と一戦中にこのありさまもどうかと思うが。
歳久が出てきたと思ったら島津のライフはゼロよ🥲
😅😅次回は歳久の出番も多くなるので乞うご期待です🙄🙄
最終回早くない、上杉家は大坂陣までやったのに
と思ったが、4兄弟はなうん
コメントありがとうございます!島津「四兄弟」編は次回で終わりです😀😀
ジョジョ処刑用BGMに草
😁😁
総戦力は圧倒的な差があるものの、根白坂では逆に総力を挙げて襲撃した島津兄弟の方が宮部継潤らを圧倒していた。
元より鉄砲の装備率が高い島津勢なので、3倍近い兵力差からしても鉄砲の数でもやはり圧倒していたろう。
双方合わせて5万近い軍勢が射撃戦を演じる中で藤堂高虎や戸次達安ら数百の援軍が実際にどの程度働けたのか不明だが、
島津方の兵の損失の割に諸将が揃って戦死したのは戦術レベルで致命的なミスがあったんだろう。
コメントありがとうございます!戦国時代の合戦はそういった具体的な部分がほとんどわからないのが辛いところです。