【ゆっくり解説】島津義久・義弘兄弟相克編その9ー庄内の乱(後)思わぬ苦戦を強いられ家康の干渉にも翻弄される島津
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- čas přidán 4. 04. 2024
- 今回は忠恒に斬殺された伊集院忠棟の嫡男忠真が起こした庄内の乱を、島津軍が伊集院軍の粘り強い抵抗に苦しみながら家康の干渉もあってなんとか鎮圧にこぎつける展開を、義久・義弘・忠恒の「三殿」間のやり取りを中心に解説していきます。
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このチャンネル、毎回本当に分かりやすすぎる..自分が唯一応援してるチャンネルです、これからも頑張って下さい。
ありがとうございます!そう言っていただけると大変励みになります😄😄
家康としては九戸政実の乱みたいに天下の軍で従わぬ陪臣を成敗することで自身の権威が秀吉に匹敵すると言う事を示したかったのかな。成敗にしろ和解成立にしろ豊臣政権の筆頭大老の権威を見せつけたかったのだろうが伊集院家側が頑なにすぎたな
もし伊集院家が家康の要請に従って上京→関東へ人質になっていたら関ケ原後の島津家処分にも相当影響与えたでしょうね。外交上島津家の改易は無くとも伊集院家が独立した大名として領地分割があったかもしれませんね
しかし、島津家に宗家に松前家と境目の家はやらかししまくっても取潰しが難しいですね。柳川一件とか普通宗家の取潰しものでしょう。東洋の外交は君主同士が行うと格の上下問題が出てくるからこう言う大名が便利だったのでしょうけどね…
中央から離れてるのと明と琉球って2つのパイプを持つ強みで生き残ってる感。近世大名になるには庄内の乱は避けられなかったし、島津の中央集権化を成した事は若さゆえの無謀さで勝ち取った戦略的勝利。しかし、引きこもりとかイメージを付けられがちな義久の手紙は戦上手のような将器を感じさせるのが傑物だなあ。
コメントありがとうございます!義久の説諭は経験に裏打ちされた実感がこもってますよね。
何故だろう、悪久はやらかししかしてないのに結果がついてくるという不思議
コメントありがとうございます!チャレンジ精神が旺盛だった…と言えるんでしょうか😨😨
次はいよいよ関ヶ原ですね。伏見城の守りに島津が出向いたけど、鳥居元忠に追い払われたという話は、関ヶ原敗戦後付けの言い訳としか思っていなかったけど、庄内の乱で家康にさんざん仲介を受けていたので、そのようなこともありうるのかなと思いました。
コメントありがとうございます!次回も乞うご期待です😄😄
関ヶ原の戦いの時の前後に義弘公が手紙で義久公や忠恒公に島津家の体面の為に援軍をお願いすると要請してもなしのつぶてだったのは仕方がないですね。元々家臣団が国外に出て奉公する考えが希薄なのに庄内の乱が終結したからといってもまだ不穏分子の伊集院家は健在ですし、
周辺の加藤清正さんは状況が許せば島津家に侵攻してもおかしくないですからこの情勢では国内の防衛を疎かにはできなかったのでしょう。
新納忠元さんが関ヶ原の戦いの後に肥後にいる加藤清正さんの動きを警戒して兵士達に数え歌の兵子歌を歌って士気を高揚させたと聞いて昔は大袈裟な事をすると思いましたが庄内の乱に際しての加藤清正さんの怪しい動きだと警戒するのも無理もないと思います。
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コメントありがとうございます!加藤清正が肥後に居残ってしまったことが関ケ原での島津家の動向に大きく影響しましたね。
豊久、遂に登場!
コメントありがとうございます!次回以降の活躍に期待ですね😄😄
@@user-ii9wu7fn7pそれと北条早雲と北条氏綱と北条氏康の領土拡大の解説をお願いします。
当時の家康からすれば既に関ヶ原に向けて多数派工作をしているタイミングですね。
伊集院忠真も、上手く立ち回れば生き残る可能性もない訳じゃなかった。
残念なのは、太閤検地は必要だったにせよ、三成と忠棟のしてきたことが嫌われていて、島津家中に伊集院をかばう声が少なかったのかな?
つまり、伊集院が生き残る道があったとすれば、庄内の乱が起こる前に伊集院忠棟・忠真が結託して家康の元に逃亡する「石川数正作戦」くらいだったのでは?
そうなったなら、関ヶ原での働きによっては大名伊集院家はあり得たかも。
ま、でも機を逃してくれたおかげで、島津家が大大名として残り、そのおかげで明治維新の原動力になり得た面はあるかも。
わしもそう思います。
これ、反乱の講話条件で伊集院側から、とにかく島津のいないエリアに転封はできないのでしょうかね?なんなら、家康の陪臣に…
コメントありがとうございます!伊集院忠棟は主家に反逆を企んでたわけではないですし、スケープゴートにされた感もありますね。
島津ら他大名視点のこの時期の家康以外の大老って、会津に帰った景勝はもちろん輝元も秀家も影が薄いみたいですね。と言いますかこの二人も自家の問題を解決できずに家康が援助(介入)してるんですが。後に家康に対して宇喜多と毛利が決起したのを「二大老四奉行体制」と評価する識者もいますが、当時の事情に詳しい人からすると「この二人で大丈夫か?」って思っていたんじゃないかなと考えます。
コメントありがとうございます!秀吉死後の豊臣政権は家康がいなかったらもっと早く崩壊していた可能性もあるかもですね。
私達は後の歴史を知っているので家康の野心や脅威に注目しがちですが、応仁の乱後の室町幕府のように大名の統制が取れなくなる可能性もあった訳です。それを防ぐためには危険を承知の上で家康の力を利用しないといけない状況でもあるとも言えます。
ところで島津の次は決まってるのでしょうか?もしよろしければ自分が「毛利の家久」と勝手に呼んでいる吉川広家を取り上げてほしいです。関ヶ原の戦いで毛利家を残すために尽力した忠臣とされていますが、調べてみるとコイツも大概です。
@@user-mq5gx3rh6y 次のシリーズはまだ未定で、引き続き西国の大名を取り上げようとは漠然と考えているんですが😅😅吉川広家の実像はイメージとはかなり違ってますよね😨😨
忠棟お手打ちからの庄内の乱の忠恒の行動は庇いきれないんだよな〜
でも結果的には島津の為になってるんだよな〜
面白え人だよ😂😂
あと義久義弘のジジィ感がいいね👍
コメントありがとうございます!忠恒を説教するときはピッタリ息が合う二人ですね😏😏
@@user-ii9wu7fn7p
元服、初陣の時から見守って来た義久義弘が最近は微妙な関係だったので、ジジィしてる時だけは息ピッタリなの見るとホッコリしますね☺️
最近の若者はこれだから😊
関ヶ原で面白いのは島津にとっては
完全にどっちでも良い争いに巻き込まれる過程とその後経過だよぬ。
どっちもお断りだ!漏れは帰る!
ただ西軍が勝つとこの場合復讐されそうだからあそこに島津軍がちょろっといたのは仕方なかったんだろうし家康もそこは汲んだんだろうな。
あと黒田如水ならともかく他の家からしても旧島津領なんて始末にこまるし琉球を失うのは国益を損なうから
島津は地政学的な勝者でもあるかな
いいね!きてた
ありがとうございます😄😄
こんなんでもなんか上手くいってしまうとこに天命を感じる
コメントありがとうございます!「無法に天に通ず」でしょうか😦😦
僻地で中途半端に力を持っていて面倒臭さで、これからも生き残って行く伏線が既に!
😖😖
協調性ゼロで身勝手な行動が平常運転。短絡的思考で攻め込んでくる…
清正もお前らにだけは言われたくねぇよと思っただろうなぁ
コメントありがとうございます!まさにおまゆうですよね😒😒
薩摩には鏡というものが無いのだろうか?
後世の視点から見ると、このタイミングで伊集院家を抑え込んでおかないと、幕府成立後じゃ良くてお家騒動で幕府に介入されまくるだろうし、本当にタイミングだけは完璧なんだよなあ。
結果論だけど、庄内の乱は島津家にとってプラスにはなったと思う
忠恒が当主になった事で、島津家の権力構造は義久、義弘、忠恒、伊集院忠棟の四人もいるという異常事態で、このまま関ヶ原に突入したら伊集院が独自行動する可能性もあったので、関ヶ原前に伊集院を弱体化出来たのは大きかった
関ヶ原にしても庄内の乱で義久は大きく兵を動かさない&派兵しない口実にも出来たし
義弘は兵数が少数になった事で良くも悪くも戦局での影響力がなくなり、西軍についても咎めを受ける事はなくなった
忠恒にしても、庄内の乱での失態はあるにしても、伊集院を潰さなければ島津家に未来はない、と考えたのは正しい判断だったと思う
というか、秀吉が亡くなっても悠長に伊集院忠棟を残していた義久と義弘にも問題がある
何だか今の義弘と義久には、世情や情勢が汲み取れず島津家内の事しか考えてなさそうな一昔前の人間ぽさを感じる
いやいや、これだけの反乱を島津忠恒許すわけない。おれが伊集院なら転封を家康に直訴するわ。なんで、和睦で留まった?
😨😨