大谷吉継の生涯 三成に誘われたのではなく自ら三成を西軍挙兵に引き込む【どうする家康】

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  • čas přidán 30. 10. 2023
  • 参考文献
    外岡慎一郎『大谷吉継 (シリーズ・実像に迫る2)』
    amzn.to/47eqAvc
    石畑匡基『秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰』
    (日本歴史学会編『日本歴史 772』)
    外岡慎一郎『二日酔いの大谷吉継』
    (日本歴史学会編『日本歴史 820』)
    乃至政彦 高橋陽介『天下分け目の関ヶ原合戦はなかった』
    amzn.to/3tmb8Ph
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    大谷吉継は石田三成との友情で知られますが、江戸時代に三成を悪者に仕立てるにあたり吉継を持ち上げたことが大きく影響しており、その実態は多くが謎に包まれています。
    秀吉死後はむしろ徳川家康の手足となって家康のために働いており、三成失脚後の家康の政治を奉行として支えていましたが、宇喜多騒動の対応をめぐり家康との関係に亀裂が入り、打倒家康に傾くこととなりました。
    西軍挙兵に関しても、当時の状況を見るに吉継が三成を決起に誘った可能性の方が高く、三成とともに西軍の首脳として活動しましたが、あえなく敗北し若くしてその生涯を閉じることとなります。
    今回は、諸大名の信任も厚かった優秀な奉行 大谷吉継の生涯について紹介します!
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    【画像引用】
    大河ドラマどうする家康公式サイト
    www.nhk.or.jp/ieyasu/
    #どうする家康 #日本史 #歴史

Komentáře • 27

  • @Miki_Nanase
    @Miki_Nanase Před 8 měsíci +3

    大谷刑部と言えば大河「葵三代」の細川俊之さん、西軍蜂起直前 三成役の江守徹さんとの面談の場面は歴代屈指のシーン。
    学問上の政治史的には関ヶ原で誰がどう裏切ったというのはワイドショーのゴシップネタに近いものがある(お好きな人々ごめんなさい。
    ただ、昨今色んな史料が出てきて西軍の勝ち筋、というか結果から遡及して「無謀にも必敗の戦に突入した愚かな西軍諸将」という単純思考が覆されてきてるのは
    とっても良い事だと思います。

  • @neko76522
    @neko76522 Před 8 měsíci +2

    これは知らんかった。関ヶ原での小早川のな立ち位置は最初から東軍だったのか。
    これは関連資料を読んでみよう。勉強になります。

  • @user-el2wm1gp1z
    @user-el2wm1gp1z Před 6 měsíci +1

    三成と家康の関係も良好で、越前出兵もですが、大野治長・浅野長政の家康暗殺計画を書状で報せた、関ヶ原前年に大坂に行った家康が宿泊したのも三成の館だったて話が出て来てますね。

  • @shun1670
    @shun1670 Před 8 měsíci +3

    関ヶ原本戦における湯浅五助と藤堂高刑の逸話は泣ける。

  • @user-of1co2fq4j
    @user-of1co2fq4j Před 8 měsíci +11

    西軍というのは吉継が家康に反感を持って出来た実態を伴わない軍だったのですかね。
    三成、寧々ですら当初は家康と戦う意思が無く、毛利も家康に従いたくは無かったものの戦う意思はなかったようです。

    • @DAVIDSILVA-4kw
      @DAVIDSILVA-4kw Před 5 dny

      毛利輝元は家康とは戦うつもりなくても、西日本の領土拡大を狙っており、西軍大将にはノリノリでした。
      実際、会津征伐で主力がいない四国を攻めてます。

  • @user-rf8sr8lg4e
    @user-rf8sr8lg4e Před 8 měsíci +1

    辞世の句が泣ける😢

  • @cancan5892
    @cancan5892 Před 8 měsíci +1

    大谷吉継はかなり親家康だったんですね!今回の大河ドラマで、家康陣営にいるので不思議に感じてましたが、五奉行の内二人がいない状況でそれにに準ずる地位で登用されれば、家康シンパになりますよね。なかなか人望に厚い人物のようですから、宇喜多騒動での決定には難色を示したのも最もだと思います。それが結果として、関ヶ原の戦いでの雌雄を決する発端となるのですから、戦国時代は現代以上に大変ですね。吉継の方が三成を誘ったという史実、最近ではほぼ確定のようですね。吉継はハンセン病ではなく、眼病だったという新説聞いたことがありますが、どうなんでしょう?!

    • @rekishock
      @rekishock  Před 8 měsíci +2

      眼病については、直江兼続宛書状に「眼相煩候」とあるのが元になっています。
      具体的には眼病を患っているので印判を使用します、という内容ですね。
      他の書状では「悪疾」とのみ記されており、「悪疾」の症状の一つとして眼病も患っていたと考えられます。
      ハンセン病については明確な根拠があるわけではないですが、たちの悪い腫れ物を長年患っていたという記述もあり、これを基に長年通説的に扱われているものと思われます。

    • @cancan5892
      @cancan5892 Před 8 měsíci

      @@rekishock さん 詳しく解説下さり、ありがとうございます。

  • @jacksparow8100
    @jacksparow8100 Před 8 měsíci +1

    三成たちが小早川を討伐するために関ケ原に向かったという一次資料はあるんですか?
    もしそうなら小早川の参戦が合戦直後じゃないと筋が通らないですよね。

    • @rekishock
      @rekishock  Před 8 měsíci +5

      こちらの参考文献に詳しく記載がありますのでご確認いただけると幸いです!
      amzn.to/3tmb8Ph

  • @kamenriderlove
    @kamenriderlove Před 8 měsíci

    14:12 となると吉継は家康に勝てる事を計算していたのだろうか? 佐和山に立ち寄った吉継(14:01)は三成の無謀な挙兵を聞いて諌めたが、三成は聞かなかったので仕方なく西軍に加わったと思っていた。

    • @rekishock
      @rekishock  Před 8 měsíci +1

      三成経由で上杉佐竹などを引き込み長期戦に持ち込めば西軍有利は間違いないので勝算はあったのでしょう。
      逆に三成を引き込めなければ吉継もそのまま毛利とともに会津征伐に従軍していただけかと思います。

  • @user-og8kx4ih7c
    @user-og8kx4ih7c Před 8 měsíci +1

    (-⊙ω⊙-)ゞ関ヶ原以外よく知らんかったから助かる

  • @shun1670
    @shun1670 Před 8 měsíci +5

    確か会津戦争の白虎隊士の中に吉継の子孫を称する人物が居たな。

  • @vianeplus
    @vianeplus Před 8 měsíci +2

    えっ小早川秀秋が陣地築いてたのって最初から東軍だったから?
    脇坂・赤座・小川・朽木ってどっち向いて戦争してたんだ?

    • @rekishock
      @rekishock  Před 8 měsíci +4

      最近の説によれば、小早川秀秋は戦いの途中で裏切ったのではなく少なくとも開戦前日の夜には裏切りが発覚、三成らは小早川が裏切ったと判断して大垣城を出たとされているようです。
      松尾山に入った時点でどちら側だったかは様々な説が主張されていますが、、

    • @WearstFaker
      @WearstFaker Před 8 měsíci +7

      もしかしたら小早川は、手前の脇坂・赤座・小川・朽木の説得するために攻勢を遅らせたんじゃないのかな?
      あくまで想像だけど、小早川から脇坂らに、「徳川家康が大谷刑部の背後に迫っていて挟み撃ちにされるぞ。」とか言ったのかもしれない。
      はじめのうちは脇坂たちは「 んなわけあるか。」って思っていただろうけど、大谷刑部の陣から鉄砲の音が聞こえてきて、小早川の話を信じざるを得なくなって急いで東軍に寝返った。
      そういうならまぁまぁ話は通るし、それがやがて「問い鉄砲」として脚色された・・・。とか?

  • @user-dq3tn3mg2i
    @user-dq3tn3mg2i Před 6 měsíci

    大谷吉継は癩病の影響で顔が浮腫んでおり頭巾を被っていました。茶会でのエピソードで大谷吉継の番になっときに膿が茶器に入ってしまい、次に飲む武将は躊躇っていましたけど石田三成は膿が入った茶を躊躇なく飲み干しました‼️

  • @user-co4uy9zu1s
    @user-co4uy9zu1s Před 8 měsíci +3

    うーん
    どうも吉継が三成を誘ったと言うのは違う気がするなぁ
    やっぱり従来の説が正しい気がします

  • @WearstFaker
    @WearstFaker Před 8 měsíci +7

    未明~早朝までに関ヶ原に陣を敷いた東軍がヤバすぎる。
    そして霧がかかったまま敵にぶつかったわけだから、西軍は虚を突かれたな。・・・関ヶ原の戦いは、いつぞやの小牧・長久手の戦いだな。
    徳川家康は、本当に大人げない。西軍が可哀想だろ(´;ω;`)ウッ…

    • @user-ml5px7br2j
      @user-ml5px7br2j Před 8 měsíci +1

      家康は本心三成と戦いたくなかったと思いますよ。家康の方から出した味方につく密書よりも、秀頼の為に三成をなんとかして欲しいという家康の元に来た密書の方が多かったかも知れません。だから仕方がなく始末することにしたと。
      本多正信は徳川政権を確立させる為に敵味方をはっきりさせるべきと提案し、西軍に付いた側は領地縮小か没収して改易されました。三成は処刑されましたが子孫が生き延びていますから、本音三成の手腕を使いたかったのでは。

    • @user-el2wm1gp1z
      @user-el2wm1gp1z Před 6 měsíci

      ​@@user-ml5px7br2jさん
      三成の孫娘が家光の側室になってますからね。

  • @user-gb3lk1wm5l
    @user-gb3lk1wm5l Před 8 měsíci +3

    吉継は梅毒じゃなくて癩病だったのは知らんかったナー

    • @CHAOS-qs5py
      @CHAOS-qs5py Před 8 měsíci +4

      それ昔の言い方な。今はハンセン(氏)病という方が普通。梅毒だったのは加藤清正でなかったかな?