平安貴族の1日ルーティン|闇が深すぎる!紫式部や藤原道長の過酷な日常生活とは?!【光る君へ】

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  • čas přidán 19. 02. 2024
  • 大河ドラマ「光る君へ」の舞台、平安時代の人々はどのような暮らしを送っていたのでしょうか?
    庶民や貴族はそれぞれ現代人からは全く想像もできないような生活を営んでいました。
    毎日の占いに縛られたルーティンや仕事のやり方、蹴鞠や食生活など幅広く文化の違いをご紹介していきます。
    また、摂関政治の最高権力者だった藤原道長や、源氏物語の作者で藤原彰子に仕えた紫式部の1日にも密着します。
    紫式部に対するいじめが日常茶飯事だったその実態とは?
    藤原定子に仕えた清少納言をなぜ紫式部はライバル視していたのか・・・?
    平安貴族の1日ルーティンを知ることで、大河ドラマ「光る君へ」がこれまで以上に楽しめること間違いなし!
    ぜひ最後までお楽しみください!!
    #大河ドラマ #光る君へ #紫式部
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Komentáře • 11

  • @kazu1854
    @kazu1854 Před 5 měsíci +4

    中央官庁のエリート女性官僚たちの苦悩が分かりました。
    立場なりに大変だったのですね。

  • @user-gw8sq4xh8y
    @user-gw8sq4xh8y Před 5 měsíci +6

    いやいや、定子の人生の辛い部分を伏せて、明るく輝いた所を書き残す。家柄で言えば、
    紫式部の方が上で、道長の後ろ盾もある。
    そんな恵まれた状態でも尚、隣の芝生は青かったのでしょうか?

    • @user-oz9ne7su8e
      @user-oz9ne7su8e Před 2 měsíci

      当時日記は人に見られるものだったので紫式部日記の清少納言批判は政治的に定子サロンを貶める意図があっただけだと思います(道長の差し金か空気読んだかどっちか)紫式部は清少納言本人はたいして気に止めてなさそう

  • @user-jv1lp5dn7g
    @user-jv1lp5dn7g Před 5 měsíci +10

    竜馬や勝海舟が聞いたらどう思うだろう?

  • @tonkatsu007
    @tonkatsu007 Před 5 měsíci +6

    紫式部は気苦労が多くてかわいそう。紫式部が先輩や同僚に気を使い天然やアホっぽく振る舞わないといけないのは精神的ストレスだったでしょうね。いつの時代も人間が集まれば必ず妬みや嫉みって渦巻いているのだなあ。
    占いを信じすぎるのも不便ですね。実際には隠れて短い距離で移動した人も居たのではないのでしょうか?だって時間と労力の無駄なような気がする。絶対に危険をおかしてもあえて行ってはいけない方向へ向かったのだと思います。確率の問題で不幸に遭う場合もあれば何事も起きず平和だった日もたくさんあったはず。
    現在ほど海外で生活する人が大学の中でも数名だった時代、自慢していると思われたくなくて極力、日本の大学に入るまでの13年間は話さないようにしていました。今でも「帰国子女枠」で大学へ入ったと楽したみたいに思われたくないので言わないことにしています。そもそも英国の私立は厳しく大学へ入る前に8〜12科目のアドバンストレベル(試験)をAかB判定で合格しないといけません。一応C判定までは許容範囲です。朝4時に起床して課題の100ページ前後の歴史書を読み、エッセイにまとめたり消灯後こっそりトイレかバスルームで試験勉強していました。それ以外に水泳とラウンダーズ(野球みたいなもの)のチームに入っていたから練習もあり、今よりゲッソリ痩せていました。平安貴族の生活ほどストレスは無かったけど、お気楽な高校生活ではありませんでした。それに自分が行きたくて海外に住んでいたわけではないから大学時代も社会人になってからも他人から「いいね」と言われても複雑な気分にしかなりません。

    • @175thkky9
      @175thkky9 Před 5 měsíci +6

      定子に仕えていた清少納言は、当時漢詩の知識があっても女性がそれをひけらかすのは下品だったので、漢詩の意味を分かっていながら、その内容にあった和歌を即興で返したりするのが上手かった人だったので、道長の友人の藤原斉信や藤原行成から非常にモテたみたいです。
      彼らから送られてくるセクハラめいた和歌にも気の利いた内容の返事をすぐ返すので、人気があり、現代で言ったら小池栄子さんみたいなイメージでしょうか。清少納言が居たせいか、定子のサロンは男性貴族からも楽しいと非常に人気がありました。
      対して紫式部は、清少納言よりも格上の貴族の出で、漢文も出来る優秀な女性でしたが、性格が内気なので、他の出仕している女房から虐められても上手く言い返したり出来ない人だった様です。
      また、顕子のサロンでは他の女房は嫉妬は凄いくせに仕事はあまり出来ない人が多かった様で、男性貴族からは定子のサロンに比べて誰も気の利いたことが言えず、顕子のサロンは詰まらないと比較されてしまい、紫式部がそのプレッシャーで日記に愚痴を書きまくり「早く辞めたい、辞めたい」という感じだったみたいです。

    • @veilchen1846
      @veilchen1846 Před 5 měsíci +1

      ​@@175thkky9さま 顕子?賢子中宮では?

    • @175thkky9
      @175thkky9 Před 5 měsíci +5

      @@veilchen1846 失礼しました。紫式部が仕えたのは中宮彰子でした。漢字の変換を間違えてしまってごめんなさい。
      紫式部が彰子に宮中で仕え始めたのは、既に定子が亡くなってしまって清少納言が宮中の宮仕いから去ってしまった後なので、実際にはこの二人は直接対面したことは無い様です。
      しかし、「昔の定子のサロンは面白かったな…」と、地味で面白みのない彰子のサロンは常に比較されてしまい、それが紫式部の耳にも入ってくるので「私は清少納言の様な目立ちたがりのキャラじゃないのに、どうしろっていうのよ!」と、やたらと日記で愚痴っていた…という話です。

    • @veilchen1846
      @veilchen1846 Před 5 měsíci +2

      @@175thkky9 さま  そうなんですか!何も知りませんでした。お勉強になりましたm(_ _)m