【ゆっくり解説】上杉景勝激闘編その11ー家康、上杉征討に動き出す!それは直江状がきっかけだったのか?
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- čas přidán 31. 08. 2023
- 今回は景勝が家康の上洛命令を拒否して会津征討を招くまでの過程について、一般的にその直接的なきっかけを招いたといわれる直江状の問題とも絡めて解説していきます。
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大老同士でこれだけの強圧外交しといて自身不在の間、毛利宇喜多が嬉々として協力してくれると思ってたのは
何だか家康らしからぬと思うことがある…まあそれだけ政権内で上杉が軽く見られてたって証拠かも知れんが
コメントありがとうございます!最近では家康にも少なくない誤算があったという見方が強くなってますね。
上杉謙信さんや上杉景勝さんの家系ではないのですが、同じ上杉姓なので興味はありました。
パート1から見ています。
ずっとご視聴いただいて本当にありがとうございます!今後もご覧いただければ幸いです!
0:42 直江は山城守だけに「京だ」ってことですね()
😆😆
石田三成が失脚してから会津征伐の期間には他にも、①加賀征伐②宇喜多騒動③毛利秀元の処遇問題の解決④庄内の乱(島津氏)と大事件がいくつも発生しています。ただでさえ交際に消極的な景勝がこんな時期に会津に帰ってしまったら、情報を正確に取捨選択したり状況に対応するのは無理ではないでしょうか。徳川からの詰問に対して兼続と景勝は武門の意地というよりは、上方を出発する時点での感覚で対応してしまったのだと思います。
コメントありがとうございます!北の関ケ原でも上方に対する情報収集能力の弱さが露呈してましたしね。そういった部分も含めて北条氏政と少し重なる部分がある気が個人的にしたんですよね。
虚飾を排した素晴らしい内容だと思いました。歴史は過去から未来へ流れていくものであり、当事者の立場に立って、その当時の取りうる選択肢を検討することにこそ歴史を学ぶ意味があるのだと思います。結果だけ見れば判断ミスなのかも知れませんが、言いがかりをつけられているわけなので、時代背景的にも自分なら決戦の選択肢を取るかもしれません。
コメントありがとうございます!結果論だけで歴史を語ることは(もちろん結果から教訓を得るというのは大事なのですが)後世の人間の傲慢さな感はありますね。
本当に、ただの言いがかりですね。豊臣政権になって、徳川は260万石になり、力を蓄えただけで、上杉は、その前から日本海の利権を握っていましたし、上杉軍は強かったと思いますよ。徳川対上杉の戦なら、地の利がある上杉にも勝算があるかと思います。家康も分かっていたから、他大名を巻き込んだんでしょうね。結果的に家康は、秀頼を自害に追い込み、江戸幕府を城築ましたからね。
藤田の出奔について津川はへき地って言われる。確かにそうかもしれない。だけど当時巨大な川湊だった津川は財を成すには最高の場所だったと思う。津川に赴任する前に調略で落ちていたんじゃないかなと私は思う
秀吉死んでから家康、利家以外の大老たちが政権にあんま協力的じゃなくてなぁ…上杉は領国に割拠するつもりもあったんかな
コメントありがとうございます!景勝は秀吉が死んで戦国乱世に戻ると思ったのかもしれませんね。
このチャンネル最近一番好き。
もし可能なら 睡眠用にまとめ動画とか 再生リストに全動画 入れて欲しいです
ありがとうございます!そう言っていただけると大変嬉しいです。ご要望については今後検討してみます。
讒言があったとのことですが
実際のところ堀と上杉ってどんな関係だったんすかねってのは次回ですかな?
コメントありがとうございます!それについては次回の上杉遺民一揆のところで触れる予定です。
動画の最後の方の、景勝の対応が秀吉の上洛命令を拒否った北条氏政と被る。中央政局に興味を持たないローカル思考の持ち主で似たもの同士だったのかも。は印象的に感じました。
コメントありがとうございます!本当に直感的に思っただけなんですけどね。
今や有名無実になった関東管領の自負があったからなのか?
家康以外の五大老、または石田三成の蜂起まで考えていたのか疑問。
コメントありがとうございます!景勝は中央情勢に暗かった感じで三成蜂起は予期してなかったかもですね。
織田軍による越後侵攻時は悲壮感いっぱいだったのに、会津攻めに対しては何故あんな強気でいられたのか不思議。
後の戊辰戦争での会津藩の強気な態度と言い、会津と言う地域はそこに住む人間に自信を与える何かがあるのか。
コメントありがとうございます!確かに会津征討時は絶望感みたいなものはあまり感じられませんよね。
織田の、越後侵攻の時は、織田のオールスター、徳川、後北条、伊達と周りが敵だらけですからね。上杉と徳川だと、元々は上杉は戦国大名、徳川は織田の与力大名ですからね。その辺りもあるんじゃないですか?それに、上杉からしたら徳川にどうこう言われる立場ではないですから。越後の豪族、真田昌幸、佐竹氏と、井伊直政に組み込まれていた、旧武田家臣が上杉に付くように調略されていたんでしょうね。家康も、最上、伊達は好戦するとは考えていませんし、佐竹氏が上杉と内通しているのも知っていましたからね。
大政奉還は、上杉が天皇陛下と謁見して、海外の力を借り、スパイ行為をし、卑怯なクーデターをする薩長に、錦の旗印を渡すなら、上杉は幕末軍として最後の1人になっても戦う。そうなれば、罪の無い民が沢山死にますよ。それでも構わないんですか?と進言し、天皇陛下が確かにそうだとご理解され、ただ薩長が力で幕府を倒したいと聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをして欲しいと、仰っしゃられ、上杉からの要望は、慶喜公の命の保証、新政府での重要なポストでした。だから、江戸城の無血開城。少しだけ戦って撤退したんです。会津藩は上杉の説得に応じ無かったんですね。上杉が慶喜公に、天皇陛下のお考えを伝えると、最初は勘違いして、薩摩、加賀に続いて上杉までも長州に付いたか?と言い、上杉は違う、天皇陛下が理解を示したんだ。だから戦う必要はない。上杉は幕末軍として戦うと伝えると、梅(前田)じゃなかった杉(上杉)だった。260年間虐げて申し訳なかった。100万石も与えてキツネ(長州)一匹見張れない、情けないと。北海道の五稜郭に上杉の先鋭部隊が沢山付いて行ってますよ。上杉の若や、若の部隊が。若杉って名字ですね。薩長が俺達は侍に勝った、俺達は強いと、大はしゃぎするのを見た天皇陛下は、清(セイ)と一喝し、幕府を本気にさせるな、幕府が本気なら、お前ら皆殺しにされていると。お前達は、海外の力を借り、卑怯なクーデターをしただけだと。薩長は皆、下向いて黙ったと聞いています。これが、本当の天の声です。
・・・何故だろう。会津を領有した大名家は多くが碌な目にあってないよな・・・
個人的には直江状は事実で、当時米沢藩はほぼアンチ直江だった事もあり、幕府と結託して事実を捻じ曲げて家康激怒物語にシフトした説を推します。
とにかく本当に米沢藩から直江山城は嫌われてたんですよww
上杉鷹山が擁護にやっと回ったくらいで、鷹山登場前は特に酷かった。
一族の樋口家の身分まで捏造されるくらいなんだから余程根に持ってたんでしょうねw
水原親憲なんていい例ですよねw
コメントありがとうございます!鷹山が出てくる前は兼続は奸臣扱いされてましたしね😥
なんでや中日関係無いやろ!
ヤバいところに移された影響を諸に被る訳ですな!
🤣🤣
楽しく拝見させていただきました
よろしければ参考文献を教えていただきませんか?
コメントありがとうございます!返信が遅れてしまい申し訳ございません…基本的には今福匡先生の『「東国の雄」上杉景勝』(角川新書、2021年)を参照していますが、直江状の解釈部分については専門の論文にはなってしまうのですが、白峰旬先生の「直江状についての書誌的考察」(史学論叢41、2011年※ネット上で見られます)を参考にしています。
橋なんて整備しなくても堀なんてワンパンってところ好きすぎる笑
😆😆
義を重んじるる上杉と、信長亡き後、一方的に同盟破棄した、後北条と同じは無いでしょう?戦国時代に戻るのが、嫌だったんじゃないですか?景勝公は、上杉謙信公、家訓16箇条(心)を守っていたんでしょう。ただ、攻めて来るなら、迎え撃つのは、当たり前ですよね?家康の家臣ではないんだから。景勝公は、戦国大名、徳川は織田の与力大名、前田は織田の宿老の武将でしたからね。家康も、上杉と前田の違いを見余ってましたね。大政奉還で、上杉家がどういう武家だったか証明されていますよ。