Velikost videa: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Zobrazit ovladače přehrávání
Automatické přehrávání
Přehrát
勾配標とかが廃線後40年近く経っても残ってるのすごい
明治時代の路線が川岸に小千谷駅を設定したのは、水運で上流から運ばれた材木などの資材を貨車に乗せ換えて長岡方面に運ぶ為と聞いたことがあります
1984年までここに鉄道が走ってたのが信じられない
小千谷西高校は昔は女子高で、魚沼線はその当時「女子高生列車」の異名をとっていました。
お疲れ様です💨有り難うございました‼️小千谷イオン🅿️に入る前にある不自然な小道が魚沼線跡だったとは😨💦目から鱗で来迎寺からのルートが分かりやすかったです☆何分新潟に来てまだ25年なので車柏崎から小千谷までのルートは分かってても魚沼線のルートはイメージが出来なかったので有難いです🙏今度は長岡線や魚沼線跡を自分で散策してみたいと強く思いました‼️
コメントありがとうございます。まとまった人口のある地域の国鉄〜JRの廃線跡は清算事業団が処分を急いだせいか、痕跡が綺麗に無くなる場合が多いですが、ここ魚沼線跡はまあまあ痕跡が残っており、かと言って辺境の地(笑)ではないので散策しやすい部類だと思います。
旧西小千谷駅の碑ですが、映像のものは造り直したものです。以前のものは20cm程度の丸みを帯びたたくさんの石をコンクリートで固めて角柱状にしたものでした。それが中越地震で割れてしまったので新しくしたようです。当初は映っている塀の中にありました。それがいつのまにか塀の外に移動されましたが、実はここが本来あった場所なのです。
ご教授ありがとうございます。移設だけでなく作り直されていたのですね。考えてみれば本来の場所から離れた民家の敷地内に記念碑が作られたのも不思議な話しですが、、、
@@user-xw5il7vy1f 返信ありがとうございます。この碑は昔のものも含めて確かその家の方の個人所有のはずです。
@@5kosen この碑は土地所有者や有志によって建立されたものなのですね。色々事情があったのでしょうけど拝見しやすい位置に移設されたことには感謝しなければならないですね。
さて木村松二郎の手掛けた鉄道事業は魚沼、長岡、長尾の三つが成功しました。ただ魚沼立ち上げの際に着目したのが人と貨物のどちらだったのかは私にはわかりませんが、戦後の復活理由が貨物だったようですのであるいは後者だったのかもしれません。これに関連してご参考程度でお読み頂きたいのですが、幻に終わった鉄道計画がありますので簡単にご紹介しておきましょう。現在の信越本線北長岡駅は当時未設置でしたが、界隈にある工場群の物流はある意味「カネになる」という魅力があったようなのです。そこで木村氏は通称〈木村運送鉄道〉なる鉄道事業計画を立ち上げます。但し信越本線の駅設置を前提としたある意味少々ずさんな部分がありました。結局は施工期限切れで計画は頓挫しました。北長岡駅は当初は「新町」,そして「城岡」⇒「北長岡」と改称されていますが設置は大正4年のことでした。かつて北越製紙専用線があったのをご記憶かもしれませんね。にしても、この点に関しては読み違いがあったという解釈は可能でしょうか。以上失礼しました。
コメントありがとうございます。まだクルマというものが一般化する前、物流業界からの鉄道に対する期待は旅客以上のものであったことは想像できますね。木村氏はすでに存在していた信越線という当時最新のインフラと小千谷との間の「ヒトとモノ」をアクセスさせる手段を後の新潟県知事となる岡田氏とともに地元に提唱したのでしょうが、小千谷側が欲していたのは三国街道に沿った東京〜小千谷〜長岡〜新潟のルートだったのかもしれません(のちの上越線)。木村氏は城岡周辺の貨物輸送にも着目されていたのですね。確かに駅がなければ貨車の増解結要員や設備が置かれないのでこれは少々勇足だったのかもしれませんね。小学生の頃、北越製紙の社会科見学に行った時、製品を積み込み中のワムを見たことがあります。
こんにちは。新作拝見させていただきました。再び木村松二郎のお話で恐縮ですが、この魚沼鉄道は彼が初めて手掛けた鉄道事業ということになります。なんでも,十三人兄弟の末っ子という今では考えられない境遇に生まれ、自活の精神は人並み以上だったのではと思います。これに先立っていくつかの建設事業を手掛けています。そして魚沼鉄道の立ち上げとなったわけですがやはり地元の出ではないということからでしょうか、タッグを組んだのが岡田正平だったわけでした。岡田ルートで小千谷側の出資者を募るも冷やかな反応が目立ち、この鉄道の将来に陰を落としていたのかもしれませんね。多少重複あり、失礼します。後程追加入れさせて頂きます。
個性的なラーメン屋って、あの超体育会系の店主の店ですね。
あのラーメンの脂にヤラれながらも中毒症状(笑)を発してリピーターになる方もちらほらいらっしゃる様ですが昔一回だけ利用し髭面の店主の掛け声に心の中でニヤ付きながら食した後、特に中毒症状を発する事もなく無事帰宅し、それっきりです(笑)
@@user-xw5il7vy1f さんネタ話として店主はよく客の目の前でパワハラしているらしく、客もそれを見たいから来るとか多分ネタ話というのがありました。
@@hamura1993 たしか、当時やたら要領の悪い店員がいて店主とのやり取りがコントにしか見えないと聞いた事があります。
勾配標とかが廃線後40年近く経っても残ってるのすごい
明治時代の路線が川岸に小千谷駅を設定したのは、水運で上流から運ばれた材木などの資材を貨車に乗せ換えて長岡方面に運ぶ為と聞いたことがあります
1984年までここに鉄道が走ってたのが信じられない
小千谷西高校は昔は女子高で、魚沼線はその当時「女子高生列車」の異名をとっていました。
お疲れ様です💨
有り難うございました‼️
小千谷イオン🅿️に入る前にある不自然な小道が魚沼線跡だったとは😨💦
目から鱗で来迎寺からのルートが分かりやすかったです☆
何分新潟に来てまだ25年なので車柏崎から小千谷までのルートは分かってても魚沼線のルートはイメージが出来なかったので有難いです🙏
今度は長岡線や魚沼線跡を自分で散策してみたいと強く思いました‼️
コメントありがとうございます。まとまった人口のある地域の国鉄〜JRの廃線跡は清算事業団が処分を急いだせいか、痕跡が綺麗に無くなる場合が多いですが、ここ魚沼線跡はまあまあ痕跡が残っており、かと言って辺境の地(笑)ではないので散策しやすい部類だと思います。
旧西小千谷駅の碑ですが、映像のものは造り直したものです。以前のものは20cm程度の丸みを帯びたたくさんの石をコンクリートで固めて角柱状にしたものでした。それが中越地震で割れてしまったので新しくしたようです。当初は映っている塀の中にありました。それがいつのまにか塀の外に移動されましたが、実はここが本来あった場所なのです。
ご教授ありがとうございます。移設だけでなく作り直されていたのですね。
考えてみれば本来の場所から離れた民家の敷地内に記念碑が作られたのも不思議な話しですが、、、
@@user-xw5il7vy1f 返信ありがとうございます。この碑は昔のものも含めて確かその家の方の個人所有のはずです。
@@5kosen この碑は土地所有者や有志によって建立されたものなのですね。
色々事情があったのでしょうけど拝見しやすい位置に移設されたことには感謝しなければならないですね。
さて木村松二郎の手掛けた鉄道事業は魚沼、長岡、長尾の三つが成功しました。
ただ魚沼立ち上げの際に着目したのが人と貨物のどちらだったのかは私にはわかりませんが、戦後の復活理由が貨物だったようですのであるいは後者だったのかもしれません。
これに関連してご参考程度でお読み頂きたいのですが、幻に終わった鉄道計画がありますので簡単にご紹介しておきましょう。
現在の信越本線北長岡駅は当時未設置でしたが、界隈にある工場群の物流はある意味「カネになる」という魅力があったようなのです。
そこで木村氏は通称〈木村運送鉄道〉なる鉄道事業計画を立ち上げます。但し信越本線の駅設置を前提としたある意味少々ずさんな部分がありました。
結局は施工期限切れで計画は頓挫しました。
北長岡駅は当初は「新町」,そして「城岡」⇒「北長岡」と改称されていますが設置は大正4年のことでした。
かつて北越製紙専用線があったのをご記憶かもしれませんね。
にしても、この点に関しては読み違いがあったという解釈は可能でしょうか。
以上失礼しました。
コメントありがとうございます。まだクルマというものが一般化する前、物流業界からの鉄道に対する期待は旅客以上のものであったことは想像できますね。木村氏はすでに存在していた信越線という当時最新のインフラと小千谷との間の「ヒトとモノ」をアクセスさせる手段を後の新潟県知事となる岡田氏とともに地元に提唱したのでしょうが、小千谷側が欲していたのは三国街道に沿った東京〜小千谷〜長岡〜新潟のルートだったのかもしれません(のちの上越線)。
木村氏は城岡周辺の貨物輸送にも着目されていたのですね。確かに駅がなければ貨車の増解結要員や設備が置かれないのでこれは少々勇足だったのかもしれませんね。
小学生の頃、北越製紙の社会科見学に行った時、製品を積み込み中のワムを見たことがあります。
こんにちは。新作拝見させていただきました。
再び木村松二郎のお話で恐縮ですが、この魚沼鉄道は彼が初めて手掛けた鉄道事業ということになります。
なんでも,十三人兄弟の末っ子という今では考えられない境遇に生まれ、自活の精神は人並み以上だったのではと思います。
これに先立っていくつかの建設事業を手掛けています。
そして魚沼鉄道の立ち上げとなったわけですがやはり地元の出ではないということからでしょうか、タッグを組んだのが岡田正平だったわけでした。
岡田ルートで小千谷側の出資者を募るも冷やかな反応が目立ち、この鉄道の将来に陰を落としていたのかもしれませんね。
多少重複あり、失礼します。
後程追加入れさせて頂きます。
個性的なラーメン屋って、あの超体育会系の店主の店ですね。
あのラーメンの脂にヤラれながらも中毒症状(笑)を発してリピーターになる方もちらほらいらっしゃる様ですが昔一回だけ利用し髭面の店主の掛け声に心の中でニヤ付きながら食した後、特に中毒症状を発する事もなく無事帰宅し、それっきりです(笑)
@@user-xw5il7vy1f さん
ネタ話として店主はよく客の目の前でパワハラしているらしく、客もそれを見たいから来るとか多分ネタ話というのがありました。
@@hamura1993 たしか、当時やたら要領の悪い店員がいて店主とのやり取りがコントにしか見えないと聞いた事があります。