【武将解説】#04:朝倉義景 織田信長に最後まで楯突いた守護大名の生き様とは?
Vložit
- čas přidán 25. 01. 2020
- 武将解説動画の第四段は、鎌倉・室町時代に越前の守護代として君臨した朝倉家を滅亡においやった当主「朝倉義景」をユキムラ目線で解説したいと思います
彼が求めていた朝倉家とは? 彼の戦国大名としての資質とは? ぜひご覧ください!
よければチャンネル登録お願いします!→ / yukimurachannel
<武将チャート図説明>
統率力
主にいくさでの軍団や部隊をまとめる力 がどの程度かを表す数値
武勇
文字の通り、合戦時にどれだけの活躍や結果を残せたかを表す数値
知略
戦場での戦略や外交面での交渉力など、どれだけの策略家であったかを表す数値
政治力
国や城の財政面や城下町整備など、統治を行う力を表す数値
魅力
主に主君や家臣、そして領民にどれだけ慕われたかを表す数値
野心
いずれは天下人になるという野望を表す数値
戦国時代って、名参謀がいるかいないかで全く違ってくるよね。
戦に向いていない人間が、武将の家に生まれてしまった悲劇。 僧になって平和に暮らせばよかったのに、自分の性格に合っていないことをして、案の定失敗し、一族が亡び、全員が不幸になってしまった。 かわいそうな人。とても無能とかいう気にはなれないね。
最後は小山田信茂に裏切られた武田勝頼と同じような終わり方なのね。切ない
ユキムラチャンネルさんに、出会えました。
ありがとうございます。
番組のリズミ感が、とても素晴らしい!!
歴史の内容も、固っ苦しさが無く飽きが来ないです。
そして、内容も充実してるのには、ただただ素晴らしいの1言です。
改めまして、御礼申し上げます。
ありがとうございます。
とても分かりやすいです!
他の武将もいろいろ見てみたいです!
お願いします
ありがとうございます^^
また折を見て続編作成していきますね
朝倉家が滅んだ後の越前で起こった内紛がまたすごいんだよなぁ
まともな死に方した人が誰もいない
家の近くに朝倉義景の末裔から発祥するというお寺がある。でも朝倉家と縁を示すものが一切ないんだよなぁ
その中では富田長繁がダントツにおもしろいと自分は思いますねw
79歳でも働かせるとかどんなブラック一族だよwそれに耐えてた参謀も凄いなw歳聞いて笑った
やっぱり武士は誇りが大事
もうちょっとしっかりしてくれてれば歴史も違っていたかもね
家系図出た瞬間に宗滴探した!
このシリーズ待ってましたぁ!!
やはり敗軍の将というものは惹かれますなぁ〜
この手がお好みなんですね〜^^
何で平和な室町幕府の時代に生まれなかったんだ… と嘆いていた義景を想像しちゃいます笑
@@YUKIMURACHANNEL
はい!ロマンを感じますね〜
最近ユキムラさんの動画にハマりまして城紹介もどハマりしました!
これからも楽しみにしてます!!
ありがとうございます^^
ご期待に添える様な動画作りに邁進してまいります!
朝倉義景は文化人としては優秀だったのか。
公家として生まれたなら、朝倉家は今に続く名門だったかもね
朝倉孝景と宗滴が有能すぎたからね
ここまで詳しく義景を説明している番組は初めてでした。
大変勉強になりました。
これからも いろいろな武将の説明 解説お願い致します。
ご視聴ありがとうございました^^
勉強になりました?笑 ありがとうございます♪
武将シリーズは時間を見て続編を考えておりますので、またアップしましたらご覧いただければと^^
若狭武田氏って9代140年続いたし、家格も武田一門で最高レベル。将軍家の血も入った名門なのにいまひとつ地味よな
織田信長の覇業の過程であっさり滅ぼされた朝倉氏、その朝倉氏にあっさり若狭を奪われたのが印象良くないのかな
足利義昭にとって数少ない信用できる大名だったから、義昭の行動の多くに若狭武田氏が関係していてかなり重要なのに
暗君なんだろうが、辞世の句がかっこいい。宗滴が20歳くらい若ければね。
三國志でいう袁紹みたいなキャラですな
袁術のほうちゃうかな
仕事せず遊んでた、なんて聞くと只の駄目武将じゃねえか、と単純に考えてしまいそうになりましたが、
文化人保護のくだりを聞くと、文化を理解して都落ちした人々を遇してたことが「遊んでた」という
イメージで捉えられてしまったのかなと考え直す余地もありそうだなと思えます
とはいえ、信長相手の戦も最初は人任せだったり、家臣の人望なかったのはそのままみたいですが・・・
それでも、もし治世の頃に生まれていれば、文化興隆の祖となれる素質があったかもしれないですし、
人の評価って本当に難しい
信長の忍びでも見たけど 一時は、信長は 天下は朝倉殿にと、謝罪したこともある。 我が家の春もあったのさ。
この時の土下座外交からの、落ち着き次第、浅井朝倉を庇った延暦寺を焼き討ちですよw さすが第六天魔王。動きがやはり、他の大名とは違うw
初めましてです。
以前NHKのブラタモリで一乗谷の城下町の特集があって、当時としては非常に最先端な都市機能を有していたといったような話をしていました。後半にも触れられていましたが、やはり内政向きというか綺麗好きな人だったのだろうなと、家臣くらいの地位であったらもしくは成功したのかなと思う人でした。
チャンネル登録させていただきました。
今後も面白い動画をお願いします!
投稿お疲れ様でした。
もし信長と手を組んだり配下になることがあってもすぐに切り捨て要員になってしまう気がする
戦国最大の優柔不断大名
これ見たら信長の野望久々にやりたくなってきた
齋藤龍興と朝倉義景・・・類は友を呼ぶのナレには吹きました(あまりにも的を得ていたので・・・w)
ありがとうございます^^
最高の褒め言葉です!
晩年の斉藤龍興をそのように評価するのは、少し違う気がします。刀根坂合戦での龍興の戦い振りから最後までご存知ですか?地元ですが、義景は戦国時代にあっていなかったのに対し、龍興は大器晩成型(めちゃくちゃ遅いですが)だったのだと思います。
まあ色々残念な人なのはそうだけど
めちゃくちゃ強い一向一揆とかいう集団と常に戦い続けてるという足枷背負ってるし
冬の北陸は厳しいから長期戦は厳しいから撤退はしゃーないしで思ってるほどアホで弱くはないんだろうなぁとは思う
家系図の宗滴のところの肖像画、今川家の寿桂尼の肖像画じゃない?
この動画と比較する形で守護大名・大内義隆をやってみてほしいです。
北の京、一乗ヶ谷があったように、
西の京、山口がありますし、
大内義隆も朝倉義景と同様に文化人としてはいろいろとやってはいたものの、軍事においては自ら出陣する機会はあまり無く、専ら家臣である陶晴賢に出陣させまくるなど、更に大内家も朝倉家と同様、将軍足利義稙を庇護するなど、よく似てるという点では比較してみると面白いかもしれませんね。
宗滴か先代がもっとしっかり教育すべきだったのかも。
まぁ信玄があと3年くらい長生きしていれば死ぬことは無かったと思う。
愚君が出るのは、どの家でもある。
その時に一族(名門朝倉家は重臣=一族)がどう動くかで、その後の趨勢が決する。と思う。
義景ばかりが無能扱いされるが、朝倉一族自体が旧態依然の名門気質だったんだろうな思う。
それが当時の常識だから、後世の人が偉そうに批判できないが。。。
時代の変節に疎かったけど長持ちした守護大名だからこそ後世の批判の対象になった。
同様の守護大名は、駆逐されるか自己変革で生き残るしかなかった。。。
最近このチャンネルを知り、はまってしまいました。福井県在住です。福井は彼をはじめとして派手に負けた歴史上の人物が多くてちょっと悲しいのですが、取り上げていただきありがとうございます❗
一乗谷にもぜひ一度おいで下さい。上流には佐々木小次郎がつばめ返しを修練したといわれのある滝も有りますよ。
一乗谷をTVで見ました。当時としてはとても洗練された都市だったことが解りました。勿体ないですよね。政務も戦も人任せで一流の文化人と言われてもね〜。遊興に耽ってただけですよね。取り柄が見つからないんですけど…
織田も越前に縁(劔神社)が深く、共に斯波の被官でしたから従うのを拒否したのも無理からぬ事でしょうね。
ライバルの家の出でしかも守護代の家宰という家柄(格)ですから見下していた部分も有ったんじゃないかな?
長政を救出するために2万もの兵を率いて出陣するも結局何もせず撤退する途中で織田軍の奇襲に遭い殆どの兵を失い、終いには一乗谷を捨て従兄弟に打たれると言う流れが悲惨すぎるよな
何がしたかったんだろ(笑)
そこそこ偉くなると、同じくらいの偉い奴と競合して結局どっちかが死んでいく感じ、が歴史
羽柴秀吉を!、
朝倉宗滴は色々なことをしてて鷹の飼育や鮭の卵の人工孵化の研究をしていたようですよ。
ユースケ・サンタマリアさんがどう演じるのか、楽しみです。ただ、昨今の撮影中断の影響で、登場シーンが大幅に削られないか心配です。
財閥リーダーの朝倉義景さま。お金も女も有り余っていて他国を侵略して領土を拡張する気もなかった。でもその頃、長い戦乱に疲れた日本人は新しいリーダーを求めていたのだ。この要求に応えて信長が秀吉が現われた。時代が読めなかった朝倉義景さま。
読み上げソフトに「ありがと♪」っておもしろい☆ (✿╹◡╹)
今川氏真と比べてしまうのですが、氏真みたいに親の敵・信長に蹴鞠を披露するほど、プライドを捨てて生きれてたら、もっとまともな死に方ができたのではと思ってしまいますわ
越前も尾張も元々守護は斯波氏であり
朝倉と織田は守護代だったので義景は
織田に対して同格の意識があり、
風下に立つのを良しとしなかったのかな?
信長の親父さんが美濃を攻めた時は援軍出したりしてますから、守護代として同ランクの時は対抗意識もなかったような感じがします。義昭をかっさらわれた辺りから変に拗らせた感が…
能力値が完全に野望厨
BGMで話が聴こえにくい
やはり、秀吉さんには、かてないですか。
最後に裏切った景鏡の甥っ子(又はその子)の宣正が徳川忠長の筆頭家老になっているので、多少でも触れて欲しかったけど、動画は面白かったです
サスケ!が楽しい🎶ー!もっと出番があれば😂凄く嬉しい😄ですー💗(笑)!✨
宗滴の画像女性に見えるけど❔寿桂尼のものじゃないですよね?
今は田畑しか無い一乗谷も、当時は京や堺に次いだ大都市だったんですよね。一乗谷の町の一部を復元した朝倉氏跡の学芸員が出土品や埋没した家屋の基礎を調査したところ、谷の大半が城下町でした。織田信長が三日三晩かけて焼き尽くさなかったら、寂れた地方都市くらいには残ってたのかも知れませんね。
焼き尽くして、放置した結果、遺構がきれいに残る… かと思えば、その後再建されて発展した都市もある。どっちの方がいいんでしょうね
@@user-jm4dk5tj5w
越前、能登は京都から戦果を逃れた文化人の多くが避難してきましたから、そう言ったものが発展したのだと思います。職人も多くが移り住んでいて陶器、漆器、染め物などが発展しました。
@@user-qi4zh4wf8h はい。例えば越前打ち刃物は、たしか京都から来た職人により伝えられ今ではすっかり地元の伝統産業に昇華されました。大野市は城下町で今でも小京都の美しい街並みを残しています。返信ありがとうございました。
ほーんと宗滴が謀反起こしてたら、もう少しまともだったんだろうな。
嫡流を大事にする宗滴だったのでしょうね、だからこそ本格的な隠居はせず最前線で朝倉家を支え続けた。せめて足利義昭が朝倉を頼ってきた頃まで生きていたら… あ、でもあと10年も長生きしなければならんのか
@@YUKIMURACHANNEL とか見せかけつつ、実は6回ぐらい謀反を企んで実行せず、一緒に企画した者をチクって処断させてるのは草。
家に潜む反乱分子殲滅の作戦だったのかな?
朝倉氏は最初から守護ではなく、守護代。守護は斯波氏ではなかったか。守護職は朝倉孝景以降ではないか。
そうですよ。その説明有りませんでした?
三好三人衆の2人が秀吉の親戚www
面白いです!分かりやすくまとめてくださりありがとうございます!
ただ、バックミュージックが少々大きく、解説が聞こえづらいので、調整していただけるととても嬉しいです🙏
よくある話
朝倉未来からきました
3:40頃からある年表だけど、1569年 「信長が臣従を促すために出した招集状を無視」とあるけど、そもそも、そんな事実はないよね?
みんな朝倉家を名門とかいっているけど、応仁の乱で下克上の先駆けだったんだけどな。
そうですよね。どこからそのイメージが来て、張り付いてしまったのか 応仁の乱における朝倉氏の動きは、当時の貴族が評した通り、本当に天下の大悪人ですもんね
信長にしてみれば凄い嫌な相手
信長と戦わなければ、浅井と共にチャンスはあったろうに。
遠祖が「朝倉家滅亡でサムライ辞めて山奥の農家して300年(明治以降下山転々)」の家系です。
信長の家系は元々、越前の神社神官の家系発祥なので朝倉家から見れば格下以前の身分違い、
となりますが、一乗谷の様な「中央政界や世俗の煩雑を離れた別天地に安居」してると
どうしても時勢時流に乗り遅れる様ですね。
生まれた時代を間違えたとしか思えない大名だな。義景が室町時代初期あるいは江戸時代に生まれていたならば文化人としてそれなりの地位や名声を獲得していただろうに。
足利義輝の死で足利義昭を保護し上洛を決断してたら歴史は変わってた、しかし決断出来ないまま時間が過ぎて足利義昭は織田を頼る(光秀が誘ったか?)結局織田が上洛を果たしお役御免され、織田に冷遇されて反発。信長包囲網を結成し信長を相手に合戦、しかし大将にならず代理を立てて挑むも敗北、そこに浅井が味方して挟み撃ちに成功するも逃がして失敗。続いて姉川で決戦となるも勝ちきれずにジリ貧。スキを突いて比叡山を補給線として侵攻しかし、調停されてしまいまたしても勝てず。この調停の間に比叡山焼き討ちして完全に形勢逆転、更に武田信玄上洛という絶好の好機を逃がし戦わず、そうして信玄の死を迎え包囲網は崩壊、足利義昭も追放され詰み。朝倉家は滅亡
越前には織田郷や織田神社など尾張織田信長のルーツですね。朝倉からみれば地元の家臣が食いっぱぐれ遠い尾張に逃げた末裔の信長に頭を下げるのは屈辱なんだろう。
あのさあ
そもそも越前守護代の織田氏は、朝倉氏より格上だから
@@user-hc9zc9ss2r 地元の家臣とは織田のことを指しているんだよ。
越前の雄、戦うに及ばず。下剋上の認識の甘さか?確かに家格からしたら織田家とでは比べ物にならないのだが…チカラこそ正義の時代に文化人大名では。。
基本、積極性のない人なんだと思う。
一方では、経済感覚はあったので大名よりも三成みたいな官僚武士が向いていたと思う。
案外、信長の部下だったら安土とかの街づくりに尽力していたかもしれない。
山口の大内氏に近い
どちらも、嫡男の死から、おかしくなると言う共通点はありますね
うぷ主:戦国武将「朝倉義景」と聞いてどんな印象をお持ちでしょうか。
ワイ:相手方からは「アホ景」と呼ばれていた
この動画を見ている人のうち99%はこう答えるはず。
しかも味方側からも…(主に浅井長政)
武田信玄との逸話の解釈は、信玄を美化しすぎです。雪国の越前は、雪降ったら、今庄辺りの山は越えられませんし、兵站が止まります。兵站が止まれば、最悪全滅しますよ。それに、武田信玄も、雪の影響で、上杉謙信が信濃出兵ができない時期に、織田領内に侵攻していますからね。八つ当たりするくらい信玄も焦ってたってことだと思います。
今でも北陸道の難所
この人江戸時代ならまだ良かったんかな?どっちみち徳川家に歯向かって潰してたんかな?
多分江戸期なら徳川に逆らうことはなかったんじゃないですかね?
朝倉は徹底して、義景の情報を伏していたと思える節があり、いろいろと談話や記録から見ても乏しい能力と噂はされていますが、経済力、家中統制、義景の書状による、門徒衆を味方つけた影響力からも、なかなかの大将とも思う
義景も龍興も最期は立派だったと思うけどな。
朝倉景鏡が個人的には好きだな。
最期がカッコいい
確かに武田に味方しなかったことが後で朝倉の命運を分けたね。奥美濃、飛騨の勢力を味方に出来ないことで結果として織田につかざるを得なくしてしまったからね。
でもね、宗滴の家系は阿保が多いけどね。
もっと能力値低いと思う。良いところが思いつかない。
そうですよね いいところが見つからない笑
こないだ「一乗谷城」登ってきたのですが、なぜあんな素晴らしい山城があったのに活用しなかったのか… あ〜義景だからだな!と思った^^;
@@YUKIMURACHANNEL 前週一乗谷行ったんですが、確かに上下2つ固めたら落ちにくい地形かな?と思うけど。福井から九頭竜線で二時間間隔の電車かそれに近いバスの移動手段のところに都があったとはと思った。何しろ雨がポツリポツリしてたからまあ駅前のコンビニで傘買おうって思ったらそんなん何処よって雰囲気やし。登録したから。いまから色々拝見します。高天神も3月に行きました。
YUKIMURA CHANNEL 刀根坂合戦の後は、供回り数奇だけだったらしいですからね…全く一乗谷は使われないまま土の下に埋められましたね…
@@user-zw2jh6in5w 今年一乗谷に行って来ました。あの場に都が合ったとは思えない位のどかですよね。
鬼伏見 織田軍が来る前に、ボロボロの義景たちを見て、民衆は、皆逃げてしまったようです。そして、そのまま燃やされ、放置…のちに、越前再建を図った柴田勝家は北ノ庄に拠点を構えたので、廃れてしまったという感じです。一乗谷の遺物を田んぼの下から農民が見つけたことで、認識されたそうです
永い、
戦国時代にタイムスリップして義景にプライド捨てないと滅ぶよって諫言して磔になりたい
BGMがでかいな(>_
て
ネット検索で表面に出てくる、よくある信長至上主義なステレオタイプな意見ですな。あそこまでの国を当時保つ事も、またすごい事ではないかと思うけど。見方を変えれば各国から頼られて何度も出兵していること、その耐力を持つ国というであるわけで、評価できる点も多いと思いますがねぇ。またこれも味方を変ればですが、宗滴が出家してもまだ先陣に付く時点で、後継者作りをサボったという事も、また大きな要因かと。今の社会でも能力のない世渡り上手が評価されることもあるし、表面だけの情報集めた差別的なものじゃぁねぇ・・・
えっ?
広々とした福井平野ではなく、
一乗谷という狭い谷を本拠にした時点で、
朝倉家の度量が現れているとも言えますし、
滅亡のカウントはそこから始まっていたようにも思います。
歴史的にあのタイミングで義景だったのは、
つくづく歴史に「IF」はないんだなと思わざるを得ませんね。
おかげで一乗谷は今、見事な歴史遺産にはなっていますけども。
一乗谷だけが朝倉の重要地ではありませんし、府中 敦賀も抑えていたのでそこまでは言えないでしょ。それに、越前に入った時の当主朝倉孝景は、当時の貴族に「天下の大悪人」と評され、応仁の乱の講話条件に首を要求されたほどの人物ですよ
ていうか、平地を本拠にするなんて、江戸時代からですよ。
谷間に本拠地を構えたのは意味不明ですね。福井平野を見渡す山々にいくらでも適所があるだろうに。
@@user-zw2jh6in5w
ご意見、拝見しました。
>一乗谷だけが朝倉の重要地ではない…
いえ、朝倉氏にとって
一乗谷こそが最重要拠点です。
朝倉孝景が大悪人であろうと
なかろうと、関係ありません。
それを前提としてこそ、
敦賀、大野、武生、金津などの
拠点を維持することが可能なのです。
現地をご存知ですか?
せいぜい10万石程度規模の城下町
としか思えない狭さです。
しかし、実際には
越前は江戸時代に
結城秀康が68万石で
入国したほどの大国です。
その大国を、あの狭い
一乗谷から支配できると
考える根拠がどうしても
わからないわけです。
また、平地での支配は
江戸以降とのことですが、
甲斐の躑躅ヶ崎、
尾張の清須、
駿河の駿府など、
江戸以前から平地を本拠にした
事実はありますので、
その点はどうかなと。
ご意見、ありがとうございました。
@@user-vp9ig3yx7s
朝倉氏は古来からの北陸道の
鯖波からわざわざ山を経由する
朝倉街道を通していますね。
それほどまでに一乗谷に
固執したということですが、
それほどまでの理由は
よくわからないですよね。
経済のターミナルポイントであれば、
足羽川と北陸道が交差する
現・福井市エリアが最適ですし、
元々、朝倉氏の本拠地だった
九頭竜川と日野川が交差する
黒丸町付近でもよさそうな
ものなのに、です。
改めて、謎の戦国守護大名と思います。
ご意見、ありがとうございました。
…おれが信長アンチ武将で最も嫌いなやつだと思います! 浅井長政を浅井パパと一緒に信長にけしかけ(森可成と織田信治が戦死)、自分は酒で高みの見物したり延暦寺に隠れたり、西洋騎士から見ても不快な扇動者と間違いなく評されます。また反信長派主武田信玄にも多大な迷惑かけ足を引っ張っていたとは。ただ、こんなしょーない男でも文化的に将軍から評価される美点は認めます。 …信長に喧嘩売らず彼の逆鱗避け、茶釜など作ったり差し出したり安泰な人生もあったかも… あの世で懲りなく斎藤龍興(権六無双で倒された)と一緒に飲んでるかな。
朝倉未来の祖先説
シリーズを楽しく見てますが、ちょいちょい誤字らしきものがあるのが気になります。この動画で言うなら「吐出」「突出」では?歴史物として、本当に一次資料を読み込んでいるのか疑問になってしまいます。。。
辞世の句については逆だと思います。
散々良い思いしたから死んでも構わないと思ったのではないでしょうか??
ふふ。れはは
年表が小さい
動画も出していない自分が言うのはなんですが、少し知識不足では?それに、基本の歴史は勝者によって紡がれます。それをメインに敗戦の将を語るのはどうかと思います。
秀吉が、いなかったら、かっていたかも、ほ簿買っていたのに、天皇を、持ち出されて、秀吉に、浅井さんと、くんで、もうすこしでした。うんが、ないだけだと、おもいます。