【EAS Scenario】12.15戦争 初期報道 1987.12.15【日本分断】
Vložit
- čas přidán 3. 07. 2024
- 【注意事項】
この動画は創作(フィクション)です。架空の物語としてお楽しみください。
動画内では警告音の素材等が使用されています。ご視聴の際にはご注意ください。
また、動画内に登場する人物の氏名、画像はすべて架空のものです。
【動画概要】
この動画は創作(フィクション)です。『日本が太平洋戦争後にアメリカとソ連によって南北に分割占領され、その後南北に分断された世界。南北日本の間で1987年12月15日に発生した12.15戦争の初期報道の様子を録画した映像。』という架空の設定に基づいて動画を制作しました。
◇おすすめ動画
• 仮想世界研究所「日本南北分断IF」シリーズ
◇X(Twitter)
/ kasousekai_pr
◇音声
音読さん
ondoku3.com/ja/
◇画像、映像
・Pixabay
pixabay.com/ja/
・ぱくたそ
www.pakutaso.com/
・AudioStock
audiostock.jp/
・イラストAC
www.ac-illust.com/
・フリー素材chキャターズアイ
• 【フリー素材 / HD】 アナログ風テレビノ...
・FlagWaver
krikienoid.github.io/flagwaver/
※動画内一部画像はAIにより生成。
0:00 第一報
3:16 報道特別番組開始
5:54 列島有事宣言発令
7:47 退避命令対象地域の拡大
#EAS #南北分断 #統一庁 #仮想世界研究所
南日本で《12.15战爭》として知れる動乱事件が米中央情󠄁报局による自演策動であったことは世界に遍󠄁く認󠄁知されてゐます。对話と融和に依る祖国統一を揭る社会党属の大統領就任を苦々しく見た米国は自らの利权を護ろうと、南日本人民が我々共和国に敵忾心を抱くよう《北が南に攻擊した》と騷立てたのです。又、米国は度々列島平󠄁和統一交訬を妨碍し、破綻させました。米国は統一後の列島に米軍の継続駐󠄁屯を求めながら蘇中朝軍抶退󠄁を一方的に求めてゐましたが、是を列島の中立性を失せるとしてソヴェト联盟や中国は强く反発してゐました。米国は自らの利益󠄁を固守する爲に北南日本の平󠄁和を碍げ、この時の北南国际联合同時加盟交訬も《北匪間諜事件》を捏造󠄁して決裂に追󠄁遣󠄁ったのです。
今回も北日本人の方からコメントを頂きました。正直に言うと南北における歴史認識の違いを実感して大変ショックを受けました。なんと、12.15戦争の責任がアメリカにあるというのです。大変驚きました。ですが、北日本の方からの貴重なご意見としてありがたく受け止めさせていただきます。
12月戦争、米CIAによる工作か?北日本国民が真実を明かす【南北共同通信】
12月戦争、米CIAによる工作か 北日本国民が真実を明かす【南北共同通信】
北日本在住の方、いつも貴重なご意見をありがとうございます
北朝鮮🇰🇵🇰🇵🇰🇵🇰🇵🇰🇵
緊急時特有のニューススタジオが騒がしくなるのリアルで好き。
「明日のことはとても考えられる状況じゃない」という言葉を聞き逃さなかった
5:39
多摩急電鉄の話、懐かしいですね。当時多摩急の電車に乗っていましたが停電から1時間程度電車から降りられず、凍えていたのを思い出します
@@y-ange8018
私はあの当時、群馬県の伊勢崎市に住んでいました。12.15戦争の際は数日間続いた停電でテレビを見られなかったので、この動画で当時の初期報道の様子を知ることができてよかったです。このような報道がされていたのですね...。当時夜10時前ごろに突然停電が起こり、真っ暗な家の中で家族とともに待機していました。何が起こったのか不安な中で、突然防災無線が鳴り響きました。おそらく非常用電源で稼働したのでしょう。何事かと思い、耳を澄ますと「利根川の水位が上がっているので避難しろ」という内容の放送が聞こえてきました。私たち家族は急いで高台の避難所を目指し、何とか非難することができました。その後は恐怖の中で12月16日の早朝を過ごしました。私たちがさっきまでいた街からは利根川からあふれた水が家屋を倒す音が聞こえ、遠くの隣街からはおそらく北日本からのミサイルによるものと思われるぼんやりとした光と音が聞こえてきました。幸い私たちの地域は北日本軍による直接攻撃を免れましたが、あの戦争のあと、結局私たち家族は大阪への移住を余儀なくされました。今でも思い出すと夜も眠れません。
文才(定期)
めっちゃ生々しいの草
国語の教科書に載っても違和感ないかも
存 在 し な い 記 憶
母や祖父母は逃げ延びましたそうですが、家が低地帯にあったため流されてしまいました…
あの事件で利根川と広瀬川流域の市街地は壊滅しましたからね…
1987年ということはきっとゴルバチョフはせっかく融和ムードを推し進めてたのにこれのせいで冷戦続行になって頭抱えただろうな。
小林源文の架空戦記漫画でそういうのあったぞ
ゴルバチョフマジギレしそう
金日成は思い出に浸ってそう
日本人民陸軍出身です。
私は当時、第5管領区域の第26自動車化狙撃兵連隊に所属していました。
当時は国境沿いでの総合軍事演習だと聞いていましたが、実際行ってみると砲弾や銃弾が飛んでくる戦場でした。
私の任務は当時最新鋭のBMP-2に搭乗し、兵員を強襲輸送する任務を受けていました。
高崎方面へ進出し高崎攻略戦に参加しましたが、南日軍の激しい抵抗により私達が乗っていた装甲車は大破炎上。操縦士以外はなんとか後部から脱出して一命を取り留めましたが、私は一番最後脱出し、その間に胴部と脚部に銃弾を浴びて歩くこともできなくなり、仲間に置いていかれました。自決用の弾丸も長い作戦行動で駄目になっていたのか不発。
そのまま殺されるかと思っていましたが、南日軍の野戦病院に連れて行かれ、そのまま捕虜として収容所に入りました。
もしかしたら甲府の捕虜収容所あたりであっていたかもしれませんね、あそこには26自狙の捕虜が集められていましたから、よろしければ詳しい所属部隊と氏名はいいので階級をお教え願えないでしょうか?自分も26自狙の自動車整備中隊にいました。当時自分たちも比較的軽い損傷を受けた装甲戦闘車の前線修理のために第11中隊のBMPに便乗し、高崎駅より数キロ地点の中学校の体操場に位置し、待機していました、もう日もまたごうかというころ、当時我々は整備3小隊として弾を撃ち尽くして退却してきたBMPの補給任務に従事していたときです。ようやく弾薬と燃料の補給を終えて、休めると思ったその時、たしか11時48分頃と記憶していますが、付近で警戒と休息を行っていた第96警察連隊の上級警察軍曹と上等兵一等兵の3名が逃げてきて、なんだろうと思ったら我が整備中隊の陣地がある学校の柵を乗り越えて南日軍機械化部隊が陣地内に突入してきて、我々を攻撃してきました、しかし我々のいたところは比較的前線から離れていたのもあって、付近には警察連隊の2個中隊と、我々自動車整備中隊、それとたしか高射機関砲の小部隊しかおらず、運の悪いことにBMPの搭乗員は全員降車しており軽戦車とと機械化歩兵を有する有力な敵部隊を前に雑多な後方部隊しか持たない我々は蹴散らされ、本来戦闘を行わないはずの整備中隊の兵も手榴弾や爆薬で敵戦車に肉薄攻撃をしたり、敵と銃火を交えることになってしまいました。そんな緊迫した状況下で運がいいのか悪いのか足に敵弾を受け痛みにもがき苦しみ、意識が遠のいていたところを南日軍の捕虜となり、今に至ります。いまでは埼玉県南部の地方都市でカフェを営んでいますが、今でもあの日のことは夢に見るほど私の中で強く印象に残っています。結局あの日捕虜になったのは自分を含め整備中隊の2名と警察部隊の1名のみで、他は南日軍部隊が撤収する頃にはほとんどが倒れていて、生死は不明なんだそうです。あなたもきっと捕虜となって色々思うところはあるでしょうが貴方は一人ではありません。来月に行われる高崎攻囲戦参加部隊の戦友会には参加されますか?されるのであればそこで又会えることを楽しみにしています。元第26自動車狙撃連隊自動車整備中隊第3自動車整備小隊所属整備伍長より
「東京放送局は何らかの原因により放送を接続できない状況のため、大阪放送局から放送を再開します」の絶望感
異次元世界の公共放送で列島ニュースを大阪からやってるのは東京のバックアップのためなんだな
工作員が乱入したのか。
工作員か、それともミサイルの着弾か、はたまた……!?
12月15日の北日本軍による大規模テロと関東広域空襲は30年経った今でも昨日の事のように覚えています。当時中学2年生だった私は市原に住んでおり、家族でドラマを見ていたところ、激しい爆発音がした後停電し、外を見ると発電所から火の手が上がり、夜空を真っ赤に染めていました。
その後空襲警報が街中に轟き、家族と小学校の地下シェルターに避難しました。父は遂に戦争が始まった街は終わりだと言ってました。避難が解除された後、外に出ると街は破壊され、家は無くなっていました。母は涙を流し、父は無言で立ち尽くしていました。
あの日、関東地域だけで30万人以上の命が奪われ、関東甲信越は北日本に奪われ、私たち家族も名古屋に移住しました。
当時、父がNCTに勤めていました。私はまだ保育園生で、その日はたまたま保育園で早めのクリスマス会があり、わざわざ休みを取って父は参加してくれました。残業が当たり前の時代、父と夕方には一緒に家にいられたのが嬉しかった記憶があります。
報道があった頃には私はもう寝ていたのですが、突然母に叩き起こされました。その時すでに父は家におらず、最近になって聞いた話では停電の報道があった時点で母に私と避難するよう言い残してテレビ局に向かったのだそうです。「これは間違いなく有事になるだろう、局に戻らないといけない」。母は止めたそうですが町内放送で警報が流れ始めた頃には動かない国電に乗るわけにもいかず、走り去っていったそうです。報道の人間として何かしなければ気が済まなかったのかもしれません。
こんなことを書くと父が亡くなっているかのようですが、今も存命です笑!電車が動かないので局にたどり着くことができず攻撃を回避することができたのだそうです。「同胞の民間施設を攻撃するなんて、メディアの重要性は頭で分かってはいたが信じられなかった」と私が二十歳になった時当時の心境を語ってくれました。結局がむしゃらに走っているところを自衛隊に発見され、危うく射殺寸前というところで身分を明かし近くの避難所で夜を明かしたそうです。
その後、第二次暫定軍事合意が成立する頃にやっと東京放送局に出向くことができ、数名の同期が亡くなったこと、当分東京放送局での仕事が無理なことが分かり、他の放送局への単身赴任も考えたそうですが結局家族のことを考え転職し今に至っています。当時真っ先に駆け出した父は今もそれが正しかったのか考えているようで「俺はもしかしたら怖くなっただけなのかもしれない。報道に携わる自覚が足りていなかった」とこぼしたことがあります。
長々と書いてしまいました。この動画をきっかけにまた父と話すことができました。祖父はいわゆる特別在住者で元々青森の戸籍を持っています。いつか家族で青森に旅行に行くことがささやかな夢です。現在も南北分断は解消されていませんが、一刻も早い戦争の終結と祖父のような人の故郷への帰還が実現されることを願っています。貴重な動画をありがとうございました。
多分この一週間前くらいから
NTTやアクアラインで火災が起きたり
軍事施設に侵入者が出たり
軍及び政府関係者や右派の弁護士、評論家が行方不明になったりと
連日色々なことが「起きすぎている」状況だったと思う
アクアラインは87年には開通してません。
あと、NTTじゃなくて電電公社な
レイドオントーキョーだ
@@m16a2p90 分断されて千葉が孤立しないようにそういうの作ってるんじゃないかな….って考えた
@@keiichihemicuda1224 普通に間違えた….
歴史的資料ですね。当時の空気が伝わってきて鳥肌が立ちます。
境界線の位置が違うけど
同じようなことをやっているチャンネルの世界とオーバーラップさせてみると面白い
自分は当時千葉県船橋市在住でしたが、あの日突如発射されたミサイルが習志野の駐屯地の方向に次々と落着していったのを何がなんだか理解できずに居た覚えがあります
その後侵略してきた北軍によって逃げる隙もなく街は制圧され、自分の近所にあった中山競馬場や船橋競馬場は北軍の物資集積地として次々とトラックが入って行きました
自分は親が競馬場関係者だったので物資集積地となった競馬場に入り込んでいましたが、政治将校と思わしき人達は横暴でしたが末端の兵士には良くして貰ったのを覚えています
殆どの兵士たちは東北や北海道の農村出身者ばかりでしたので馬の扱いにも慣れたもので、戦利品としてどの馬を持って帰ろうかと物色していた幹部達を皆侮蔑していました
年明けの自衛隊の反撃で北軍は総崩れとなって引き返していきましたが、両競馬場に係留されていた競走馬を略奪して我先に逃げていった北軍の士官たちの姿を今も覚えています
その略奪された競走馬の中に87年の三冠馬サクラスターオーが居たそうですが、まさか北政府によって飼育され両日本統一で発見されるとは思いもしませんでしたね
今となってはサクラスターオーの父の系譜の馬は珍しいそうですが、北では舶来品の馬として重宝され、北日本系のサラブレッドの大半にその血が流れていると聞きます
追記ですが、略奪されたサクラスターオー号は北政府によって北海道安平町の中央畜産センター(現在の社台ノーザンファーム)に輸送されたそうです
北日本でも農業の機械化などで農耕馬需要は無いに等しかったそうですが、軍事訓練として乗馬などを国家が奨励していた為、種馬として国家財産に編入されました
ですが名前の「オー」が「王」から命名されたと言う事から「反動的」だとされた為、宣伝の意味も込めて父馬の名前から「戦勝号」と改名されたと資料にあります
それから北政府がとうとう経済破綻から西政府への合併を承認、国有財産の整理の過程で見つかり、元オーナーであったモランボンの全演植氏に返還されたそうです
しかしながらオーナーは「北の皆さんに丁寧に扱って頂いた以上、今更返して貰うのもおかしい」と、その後設立された北海道軽種牡馬協会に彼を寄贈されたようです
その後のサンデーサイレンス旋風が北に吹き荒れたことから、スターオーの血統であるパーソロンの血は衰退していますが、それでも地味に残っているそうです
なんでコメントまで世界観の構築が重厚なんだよ
ついに北日本が動いてきた感じがするし、果たしてこの戦争を全世界がどう捉えるのか非常に気になったし、フィクションと分かってても怖すぎる。
各国視点の動画、国際社会の反応の動画も作ってほしい...!
フィクションとは不謹慎ですね。
1987年の北日本侵攻なんて最近の社会科の教科書には必ず載るような大事件なのに…
投稿主の製作クオリティえぐいよなコレ
@@KAWACHI102 彼は別の世界線の日本から来た方のようです
@@user-zz7st1dy9kきっと
天皇陛下が生存ルートから来たんだろうな
西長野市の中でも沿境付近に住んでいた私は、退避命令が出る前に爆発音?銃声?と緊急車両のサイレンで飛び起きました。訳も分からぬまま家でブレーカーを弄っていると警察官が息切らしながら家にやってきて、ここでは直ちに北日本との交戦の可能性があるとマイクロバスで数キロ離れた退避シェルターまで送ってくれました。しかし東京方面に逃げる渋滞のせいで全く動かず結局歩くことになりました。松本の方の空を見ると炎の光りで夜の雲がくっきりと浮かび上っていた風景を今でも覚えています。
私も同じく西長野市に住んでました。
北日本の長野県飯山市から
小さな頃に西長野市に脱北した者です。
私はたまたまその日は
大阪(畿内方面)へ旅行をしていたのですが…
松本城が焼失した原因はこの時のミサイルが着弾したからでしたっけ?
5:39
大雪の小田急電鉄みたいなこと言ってる
この世界だと東武が大手私鉄で唯一列島分断で路線網が縮小してるってことになるんかな
もしかしたら北日本と南日本を結ぶ唯一の鉄道会社として東武は儲かって仕方ない大企業に成長してるかも
この報道を生で観ていたはずなんだよなぁ、私の曾祖父ちゃん。なのに何で未だに統一を望んでいるのか良く解らない…
弟が産まれるから母がいなくて、遅く帰ったオヤジのきまぐれでラーメン屋に連れてかれて、ラーメン食べてたら店のテレビが急にこんな放送して、大人達は丼と箸持って外に出て空を見てて、そしたら黄色い庇の店の上を黄色い光を放ちながらミサイルが飛んでったのを覚えてる…。
店の前は道路工事しててその発電機の照明で明るかったけどさらに明るかった。
家族は無事だったけど、どうもその思い出からラーメンが食べられない。
当時は大阪に住んでて戦火には巻き込まれなかったけど、空襲警報の真っ赤な画面からの砂嵐がいまだにトラウマ
静岡に住んでる電力会社員(関東電力じゃないほう)です。
勤務を終えた帰り道に外食していたらこのニュースを見て、
「これは大変なことになる」と思った矢先に招集がかかり、
慌てて会社に取って返しました。そのあとはしばらく泊まり込み。
関東電力管内に応援職員として送られた仲間も大勢いましたが、
皆あの日々の事には口を閉ざします。
こんな速やかに情報流せない
あの時私は軍需工場の仕事から国電で帰宅していました。停電して車内で待機していると、警報が聞こえてきて何が起きたのかわかりませんでした。外を見ると、遠くの空が赤く燃えているのをみました。とてもあの時は怖かったです。
当時(17)も今も横須賀に住んでます。この時は港からみんな一斉に笛を鳴らして出航されました。うちは停電してなかったのでテレビでこれを見たのですが、「ああ本当の出来事なんだ」という絶望感が漠然と襲ってきました。空襲の被害はどうやら横浜の一部ではあったようですが、こちらは基地がある関係もあってほぼ爆撃の被害はありませんでした。いやしかしNCTが大阪と東京でいきなり分裂?してて、私は詳しくなかったので今も分からずじまいですが、同じ電波帯で別の放送を互いに流してるから電波強度によって表示のされ方が変わるとか。とにかく言ってることがめちゃくちゃだったり伝わってなかったんですよね。だからもう専らラジオ。ラジオでニュースとか聞いてました。この日の21:00に統一庁から発表があって、その時初めて北日本当局が宣戦布告もなしにテロ行為から軍事侵略を始めたのだと知った時には怒りで震えていました。結果今こうなっている現状として、我が国のために努力なさった全ての国民に、米兵にも、今一度感謝を申し上げます。天皇陛下におかれましても宮内庁の発表では20:30に皇居を離れられたと拝聴したのですが、実際には東京都から逆に戦場近くまで行って鼓舞なさっていたと聞きましたのでそれはもうとんでもない驚きでした。今の評論家は愚かな行為だと言っているようですが、私は心底陛下を尊敬しました。あの後僅か2年でご崩御あらせられたとは…陛下は全国行幸を果たせられなかったことを悔やみながら崩御されたと聞きます。でも、陛下は間違いなくこの国をお救いになられた。その力の一つでありました。
後書き
今でこそ南北統一は美談になっていますが…正直言ってこんな卑劣な政府があったことは今でも怨恨に限る次第です。横須賀に住む者として防大も目指したのですが…結局落ちてしまい、今は某一般企業で働いてます(笑)でもまあ。結局平和になってくれたのが何よりも幸せです
後書きの後書き
そういえばあの後、3年間ぐらいかな?復興庁ができて、私はそれに志願して横浜の復興を手伝ったんですよ。確か…あっ!そうだ!今となっては有名かもしれませんが、ランドマークタワーは横浜復興のランドマークとして建てられたんです!私もまあほんの少しですけど手伝ったんですよ。あの時はほんと大変で。でも楽しかった…不謹慎ですよね。横浜でもあの忌まわしい空襲のせいで何人も死者が出て…みんな大変だったのに…炊き出しにも参加しました。横浜出身の方がいて、その方と一緒に炊き出しをしたんですけど、確か寿町だったかな?そこでもともとホームレスとかが多かったらしいんですけど、空襲で家を失った人とかがまた集まってもっと酷くなってたみたいです。確かに横入りとかはあの時の人らはして、その方に怒られてました「横入りする卑怯者には飯なんかねえ!」って。今思えば酷いですよね。炊き出しだって聞いて歩って来た人もいっぱいいたと思うんですけど。でもやっぱ腐ってないんですよ。そう言われた人も悪態とか吐かずに周りの人に謝ってたんですよ。いやあれを見て日本に生まれてよかったって思いました。結局私は半年も手伝わずに横須賀に帰っちゃったんですけど、でも今でも子供に話したりします。この間なんて丁度公民かな?で習ったみたいでしきりに聞いてきましたよ。空襲は酷かったの?とか停電したの?とか。でもうちはそんな被害受けなかったんだよって言ったら複雑な顔して、まあ「よかった?ね」っておかしくなっちゃって笑っちゃって。あれ?何の話でしたっけ?そうだ復興庁だ。3年ぐらい民間から募集して10年ぐらいで無くなったわけですけど、あれは大きな復興の原動力でした。「官僚もやりゃあできるじゃん!!」
って親もはしゃいでましたし(笑)既に申し上げてはありますが、本当にみなさま復興に苦心なさって、最上の努力をなさって。日本に生まれてよかった。本当にありがとうございます。お疲れ様でした。
Just a reminder, I think in this timeline South Japan was a republic instead of a constitutional monarchy, so the emperor shouldn't be there, FYI
@@user-lc2nj2cn8d ご指摘ありがとうございます。一応そのつもりです。と言いますのも、さすがに天皇制をいきなり破棄するのはもう不可能なんですよね、神話でないにせよ1000年を越える歴史ですから。神道の長、言ってしまえばローマ法王のようなものです。ローマ法王を君主に置く国家はバチカンくらいでしょうが、欧州各国などキリスト教国は彼を尊んでいると思います(詳しいことは分かりませんが)。故に、まあ現代日本のように宮内庁があっても何らおかしくはない。と判断したので天皇陛下の話題を出させていただきました。
日本が分裂した後でも放送休止中の動画に出てくる国旗は日章旗のままなのいいね
幻想列島放送に触発されたのか、動画クオリティが劇的に上がってる。
当時、私は福島県の沿岸部に住んでいて、まだ7年生でした。
深夜に磐城街道(旧国道6号)を、大量のT62が南に移動して行ったのを目撃しました。
親が懇意であった人民班の班長に話したところ、演習だと聞かされました。また、善意ゆえか班長には厳しく口止めをされていて(民警に目をつけらてしまう)、脱北するまでは人に話したことがありませんでした。
脱北してから初めて事実を知りました。まさか戦争になっていたとは・・・
ついに北日本が仕掛けてきたか...
親が奈良県出身ですが半月たった12月30日関東から避難してきた人々で溢れていたそうです大阪などの大都市ならともかく奈良のような地方都市で避難民で溢れていたというのは想像できないですね。
結局4年後のソ連崩壊によって北日本と講話したそうですが
北日本政府はその後10年ともたず打倒されたそうですが北日本政府は何がしたかったんでしょうね
初期報道ということなので次回作を期待してます!
東海地方の私鉄沿線の商店街育ちなんですが、隠してた軍刀を出して表を見張ると言って聞かない魚屋のじいちゃんがいたり、もっと物騒なものを持ちつつタバコを吸ってた近所のヤクザを夜襲の的になると殴ってタバコを消さしたお医者さんがいたりと不謹慎ですが前の大戦を知る年寄りが妙に張り切ってた覚えがあります。
そんな被害があった場所の方々とは違う、教科書には載らない変な話もありました。
当時、木更津市に住んでいた者です。小学生だった私は、両親に連れられ避難所となっていた小学校へ行きました。外は昼間と錯覚してしまうほど真っ赤な空でした。避難所に着くと多くの同級生がおり、不謹慎ながらもその非日常にワクワクしたことを覚えています。しかし、時間が経つに連れ、異様な臭いが漂ってくるようになりました。プレハブで作られた簡易校舎が遺体安置所となっており、空襲で亡くなった人々が運び込まれていたのです。すすり泣く遺族の姿、血と何かが焼けたような臭いは今でも鮮明に覚えています。
あの戦争が始まった時私の父は南日本陸軍の第5師団の戦車中隊長、私は陸軍士官学校を出たばかりでした、
非常招集が掛かり、父が勤務する基地に共に向かう中で今後どうなるか等頭の中で考えていた記憶が蘇ります。
そして父のいた戦車中隊は国境での戦闘で壊滅し、父も戦死したと言う知らせが
開戦から1ヶ月後に届き、私も死を覚悟しました。
私のいた部隊は対戦車猟兵中隊で、部隊名は第42機甲猟兵中隊、私は新任の小隊長でした。
戦争が終わるまでの半年間、北日本の戦車(T-72、T-64、T-62等)を計100両近く撃破したものの末期の前橋奪還作戦(作戦名暁6号作戦)にて中隊の半分が戦死、私自身も1ヶ月以上生死の境を彷徨う程の重傷を負いました。
ですが、生きていました。
そして南北統一が成された今思う事は、
こんな事はもう懲り懲りだと、
そんな私ももう老いぼれのジジィです、
あの戦争の功績と元々の家系的な繋がり(代々軍人の家系、曾祖父は師団長まで努めた)で参謀次官まで勤め上げましたが、
息子や孫は軍人にはなっていません。
それでいいのです。
あの日私は大阪にいました。16日に呉で参謀をしていた同期が結婚式を挙げる予定だったので、それに友人代表として参加するはずだったのです。久しぶりに地元の穏やかな雰囲気の中で気を抜いて過ごせると思った矢先に緊急速報が入ってきたときの絶望感は今でも鮮明に覚えています。仕方なく新幹線を使って呉基地に行くと、同期がうんざりした顔ながらも最初に「お疲れ様」と言ってくれました。私はそれに「せっかくスピーチを考えてきたのに悪いな、戦争が終わったら聞かせてやるよ」と返し、敬礼を交わして別れました。
今でも夢に見ます。なぜ、あの時彼ともっと話さなかったのだろう。彼は戦争末期の、北日本が半ば自棄になって行った呉への反応弾搭載型ミサイルの攻撃で、結婚する予定だった奥様もろとも亡くなってしまいました。読み上げるはずだった手紙は、今でも私の鞄にしまってあります。彼を、そして伝えるべきことを伝えられなかった愚かな私を忘れないために。
もしソ連とアメリカで日本が朝鮮半島の様に分断されていたら起こりえたかもしれない。
やはりトルーマン大統領とマッカーサー元帥がソ連からの要望を受け入れなかった事で日本は救われた。
ルーズベルトがあと1年か半年ぐらい長生きしてたら、歴史は変わってたかもしれん・・・
トルーマン大統領就任の遅れによりヤルタ密約が実行され日本が地政学的に緩衝地帯と化してしまった世界線。
30年戦争後の神聖ローマ帝国みたいだな
WW2後に分割統治されていたら発生してもおかしくない事態ですね…
確かこの数日前から脱北者が続発してて
なんとなく当局が攻勢が近いと把握してたんだけど
そんな事ないって政府が判断して対応が遅れたんだよね
NCTはCMが入っているのに呼称が全国で統一されているというのは、こちらの世界で「放送網」を名乗っている局が構想していた形ですかね。もしくはフランス2みたいな形か。とりあえず、大阪からの発信で「蛍の光」が使われているのが不穏です。
あと、最初の天気予報でも多摩県が独立してましたね。
続きがあれば見たいです‼️
西日本で高校生してたな、翌年に入学した短大時代に夏季休暇返上し国防軍の施設でカッター訓練・報告訓練・集合訓練等を受けたのを思い出す。
北日本空軍の元軍人ですけど懐かしいですね…
まだ鹵獲F-14乗る前の話ですね、これ
その日は酷く眠くて基地で爆睡してたら上官に叩き起こされてmig-25で爆撃機の援護したっけ…なんか朝から頭痛が酷かったり吐き気がしたりして嫌な予感がしてたんですよね…
ホントに上の連中がこんなことやるとは思ってもいなかったんで驚いたし正直上の連中を許したくありませんでした
これ以降何回か亡命しようと思ったけど度胸がなくて結局亡命できませんでした
お盆に神奈川の親父の実家に行くときに統一記念慰霊碑へ墓参りしに行きたいと思っています
それに、陸軍所属でアーマードトルーパーのパイロットだった友人が神奈川での戦いで命を落としたので…
友人の名前キリコさんではないでしょうか?特殊部隊レッドショルダー時代の戦友でした。。
@@user-vm8no5og4yさん、残念ながら違いますね…
ですけどキリコ君みたいに何度も乗機が爆破してもしぶとく生きてましたよ
最後は敵軍の機甲猟兵にパイルバンカーでコクピットごと頭部を貫かれたそうです…
ホント、戦争って良くないですね
彼の乗機だったラビドリードッグは俺の家のガレージにしまってありますよ
というかあなたレッドショルダーだったんですか…最強のAT部隊に所属してたのはすごいですね
関東電力社員忙しすぎてブチギレやろなぁ
南北に分断した場合、位置的に東京が首都のままなのはヤバそう...と思ったけど、ソウルがそんな感じだったか。
北側は何処が首都になるんだろうか?
ソビエトに近い札幌
ただし憲法上は東京
当時仙台直轄市で初級中学の2年生でした。人民空軍のミコヤンが松島から飛んでいくのはよく見かけましたが、この日は「下校してからは外に出るな」とだけ言われ、寝る時間になって何分かおきに轟音が北から南に聞こえたので、幼心に何かとんでもないことが起きていると思ったものです。後から考えるとあれは三沢と千歳の部隊だったのかもしれません。南に逃げて「同胞殺し」と罵られて初めてこの事件を知りました。
停電が起きてる家にテレビが呼びかけてもほとんどの家庭はテレビが見れないという…
当時はワンセグも無かったしな。ただ、当時はFMラジオの受信機でテレビの音声は聞けたよ。
@@user-zz7st1dy9k そういえば当時ラジオも発展してましたね。
電池が使えるラジカセ懐かしいです。
公園とかにラジカセ持って曲とかの流してる人いましたね❗
ジョンタイターがこれを持ってきてたら絶対信じてたなぁ
そうか..戦争の初期段階ってそうなんですね、蓄電池買っておかないと...
5:41
一般通過小田急電鉄やめろw
また平行世界のCZcamsからの書き込みがあるな……
急にテレビがこんなのになったらただ恐ろしいだけじゃ済まされない気が…こうならないといいよね
関東は利根川で分断されて刀水橋付近にも規制線が張られてましたね・・・
1:05 トーキョーデイライトニュースすごく好きだ
こんな報道あったなぁ、そういや。
当時小学5年生、上越に住んでたんだけどこの放送見たときは「やべぇ、死ぬかも」って本能が察したのを覚えてる。んで外出たら近所の杖ついた爺さんが顔真っ青にして「戦争だァ、戦争だべ」って呟いてたね(ちなみに、その爺さん生まれが北の方らしい) その後は家族共々シェルターに逃げ込んだ記憶があるなぁ
・・・ま、色々訳あって上越生まれ上越育ちの私はいま京都に住んでおります。
当時、さいたま市の浦和(旧大宮)に住んでました。自分が住んでたところも停電し、近くの消防団員も火災の応援に行っていました。近くの川が氾濫しかけた状態だったので小学校に避難しようとしてたら、自分のガラケーにミサイル警報が出たので死ぬ覚悟でした。だけど友人の家はシェルターを完備していたので奇跡的に助かりました。ろくにテレビの情報を見れなかったので、見れてよかったと思いました。
昔からどんなホラー映画よりも「電波ジャック」の映像の方が怖かった私。
この動画もそんな雰囲気がかなりあって恐ろしくなります。
地元の茨城県が初っ端から虫の息すぎる領土...
追記 栃木の方がガチの虫の息でした
なるほど、、こんなことになってたんですね。
教科書でしか12.15の情報は見たことなかったですが、とても貴重な資料ですね。
学校でもこう言った情報を流してほしいです。
2145 進行前の破壊工作開始による大規模停電?
2200 復旧不可能にするための追加破壊工作、或いは戦闘により火災発生?
2213 ダム放流。攻勢時に進路を水没させるのは不利になるため、南側の防衛策がかなり厳重で抵抗が激しかった可能性?
2221 有事宣言、避難命令まで僅か36分。大規模停電の相当前から侵攻に対して警戒体勢を敷いていて対応が早かった?
2228 避難対象地域追加。水際防衛失敗?
2229 本格攻勢開始。ノイズ、広範囲での放送能力完全喪失は核攻撃?
やたらと恐怖を煽る警報音だったり過剰な演出が無いし、有事用の報道、国防プロトコルに沿って淡々と進む辺りが一番リアリティがあって、裏で何が起きてたのか思うと色々想像できつつぞっとする素晴らしい出来なので明日は小田急に乗って通勤します。
この世界線で首都直下地震おきたら北日本の侵攻誘発して致命傷だろう。
首都圏人口の大半を支える利根川上流も握られてるし、冷戦末期まで生き残ってるのが奇跡。
(なお現実でも同様のリスクはある)
初手で原発をふっ飛ばさないのはせめてもの良心でしょうか。
5:41 ここでコメントがやけくそっぽくなってるの好き
2018伝説の小田急くんすき
@@chopdream942 どこかで聞いたことあるようなと思ったらそれ!ありがとうございます
私の家族はあの日北日本軍の攻撃で亡くなりました。当時私は仕事で大阪に居て戦争が始まった事を知り電話しましたが繋がらなくパニックに落ち入りそのまま私は精神病院で1ヶ月過ごし病院で私の家族、親戚が亡くなったと知らせが電報で届きました。北日本が憎い
緊迫感溢れ、見入ってしまいまさした
当時、
久喜市に住んでいましたが
北の工作員らしき人に
声掛けられました。
これ戦争規模どれくらいだろ。首都圏に打撃与えて政治的に有利にして講和とかとか?
北朝鮮がソウルを火の海にするというかというレベルかな?
突然東京からの放送が停止してるから
下手すれば核攻撃を受けたかピンポイントで放送局に攻撃している可能性が
北日本が目と鼻の先の茨城県南浦市に住んでいるものです。父や祖父母の話によると、この辺りはすぐに北日本に占領され、水戸収容所に連れて行かれたそうです。その後、農業を営んでいたため強制農業生産施設に移され、1日18時間労働だったそうです。私が生まれる少し前の2003年に南日本軍によって解放されました。現在は久慈川、桂川が戦線となっています。私はこの国の戦う兵士のために美味しく栄養価の高いものを作って参りたいと思います。
今だと電気だけじゃなく通信回線関係の大規模障害が…ニコニコのようなのが全回線域で発生するだろうね
私の父親は当時 南日本国家安全保障局(現 国家安全保障省)の創設まもない緊急対応要員(ディビジョン)のエージェントでした、父親に科せられた任務は南日本首都圏の非常時における北日本工作員の排除、通称スカルプハンター(首狩人)で…
仕事で東京に出張していた姉が今も行方不明のままです。
この前、北にいる友達に電話したら「お前は南の人間だからもう二度と電話するな」って言われた。
親戚も同様のことを言ってた。
俺はただお話ししたかっただけなのにな
すごい。
学校の授業でなかなかこういう映像取り扱ってくれないけど見ると当時の状況がはっきりわかりますね。
それと、5:39 JKRがまだ関東国電だった時代。鉄オタとしてこれは見逃せませんでしたよ。
この時長崎市にいたけど今でも忘れられないくらい強烈な印象絵面だったな、、この攻撃で亡くなられた方に御冥福をお祈りいたします、、、
こんだけ停電してたら対象地域では観られないだろうな
国鉄が分割されてる.......(国電呼ばわりな当たり多分民営化はしてないんだろうな。)
当時九州に住んでたんだけど、列島有事宣言出された後の広域空襲警報はマジで鳥肌立った記憶ある
本当なんでこんな軍事境界線に近い所に首都そのままにしておくかなぁ、と
現実のソウルの件を考えると思ってしまう。
藤堂守「たまげたなぁ……」
私の両親が結婚した年だったので、生まれてから当時の事をよく話してくれました。
父は当時箱根土木事務所に勤めていたのですが大規模停電の後、各地で道路の封鎖が相次ぎ三島方面へ向かう道路の封鎖を国から命じられて急遽大型除雪車などを用いて対応にあたったそうです。
どうも後から聞く話によると北日本のスパイが静岡以南への浸透を開始していて、その一環で一時箱根は孤立状態だったそうです😢
ただ、早期の対応の甲斐あってか、父の地元ではその後の北日本のスパイによる拉致・虐殺事件は発生しなかったとのこと。
隣の山梨の身延方面は中央道経由で浸透が早かったため、身延中学校の爆破テロや、市内の女子高校生拉致事件が起きてしまいましたね…😢
母方の遠縁の親戚がこの件に巻き込まれて、いまだに行方不明だそうです。。
当時八戸に住んでたけど、この一週間くらい前から三沢基地へ行き来する貨物列車の本数がやけに増えたので、演習にしても不自然だとはと思ってた
あれから1年、南日本軍の北東北解放作戦の時、北海道へ半強制的に疎開させられるところだったけど、青函連絡船が米軍の空襲で出港できず、そうこうしているうちに南日本軍が進駐してきた思い出
本当にこういう世界線になってた可能性もあると考えると恐ろしいよね
テレ朝っぽさが良い。後ろでわちゃわちゃしてる感じがリアル
東日本大震災の時こんなだったな〜
この事件の約10ヶ月後に私が産まれました。
停電でやることなかったって言うてた。
この世界線の群馬県や茨城県などは北日本に面しているから常に緊迫した空気なんだろうな‥
その地域の街並みや鉄道なども我々がいる世界線と比べて全く違ったものになってそう
自分は実際に栃木県足利に行った事が何回かあるけどそこもこの動画の世界線では北日本のそばだから12.15戦争で少なからず被害を受けると思うとビビる
鑁阿寺などの歴史ある文化財は果たして無事だろうか‥
今回も最高でした!
野暮ですみませんが、リアルの80年代天気予報は、もっとゆーっくり話してたと思います😊
日本の分断統治は連合軍によって実際に検討されてただけに恐ろしい。
この世界線では1987年時点ですでに妙高市が成立してるのか… この市域だったら上越市と妙高市区域で上越市となっていると思われる
なんなら新潟県の範囲が狭すぎるので長野県に組み込まれてそうだな
長野県民悲願の海が存在する世界線
当時生まれる前でしたが、父母共に突然放送が休止したことに大変驚いたと話しています。その後伊勢崎やいくつかの街が洪水で浸水し、住んでいる多摩県にもたくさんの避難者が流れ込んできたそうです。私の友達にも昔伊勢崎に家族が住んでいたと言う人がちらほらいます。沿境界地域には何度か鉄道旅で訪れたことがありますが、現在もその傷跡やモニュメントが残る場所は多いです。北日本の残虐で卑劣な行為に我々は屈してはいけません。
上越で分断されるのか…なるほど
皆さん想像力スゲェなぁ😅
これがハイブリッド戦なのかな?
恐怖心煽る動画作る天才か
これ以上の精度の音声AIあるからもっと使ってほしい
多分不気味な雰囲気を増進させるためにあえてこのような音声にしているんだと思う
確かこの奇襲のあと稚内・能代・名取のミサイル基地と苫小牧・小樽・八戸の海軍基地を破壊したんですよね。実は鳥海山爆破計画もあったけどそこまでは行われなかったんですよ。
追記
本来は名古屋局が放送を受け継ぐ予定も攻撃への対処のため大阪で再開
流れ
21時45分 停電
22時08分 北・ダムを放流
21分 北・攻撃開始
28分 北・本格的攻撃
30分 南・南北紛争対処法による紛争再開宣言
34分 南・前述の基地攻撃開始
37分 南、函館・米沢・平・村上の陸軍基地へ攻撃・空挺降下
三沢と千歳も 断続的に攻撃を受けてましたね…
@@masmo06sova ええ、あそこはソ連駐屯基地でしたのでかなり狙われてましたね....
当時私は外地だった北海道の大学の学生でした。TVでこのニュースを見て大変びっくりしたことを思い出します。
内地に戻ろうにもスカイメイトの座席が取れず家族に連絡を取ろうにも電話は10円で5秒しか話せませんでした。
やっぱり平和が一番ですね。
1980年代っぽさが出てますね。
あと、多摩県が独立してるということは、東京府と東京市の再編は史実とは異なる経過を辿っているので、東京都はなく東京市が特別市(政府直轄市)として存続していると思われます。
多摩県の県庁は、裁判所などの当時の立地を考えると、立川が妥当と思われます。
北日本側の立場にたった番組や映像もつくってほしいです。
ホント、こんなんが来ないとも限らないのが怖い
高崎市民です
北方面へ少し行くとすぐに警備隊が見えます
当時は停電が3日ほど続き
スパイもうろちょろしているため
怯えながら生活しています
実際にソウルまで軍事境界線まで40キロというのはこういう感覚なんだな。よくここまで平然としているものだ
北関東はどのような経緯で分断されたのでしょう?
1987年だと電圧崩壊現象が解明される前だから、無効電力不足で大停電起きても不思議では無い。