Velikost videa: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Zobrazit ovladače přehrávání
Automatické přehrávání
Přehrát
臼井駅から上山田駅付近まで毎日通勤で車を走らせていますが、今とあまり変わらない風景が広がっていて驚きました。とても素晴らしい映像だと思います。ありがとうございました。
ありがとうございます。景色が変わらないなら位置感覚が分かりやすいですね。
本当に貴重ですCZcamsから削除されないように月2で観ていますだってこの風景はどんなに大金を積んでも二度と観れませんものね
懐かしい大隈川鉄橋幼少の頃、大隈川で家族で水遊びや水泳をしましたね確か近くの小さな神社のお社で着替えたり、おにぎりを食べた記憶があります
ありがとうございます。線路がなくなり汽笛も聴けなくなったと思うと切なくなりますね
1983年生まれの者です。記憶には無いのですが、小さい頃汽車が好きで大隈から飯塚まで祖父と一緒に乗っていたと母から聞きました。この動画と同じ景色を見ていたと思うと泣けてきます。
ありがとうございます。当時はCZcamsなんてものが出るとは思わず、お蔵入りになる所でしたが、そうやってこの動画に思いを馳せる方がいるとわかり嬉しいです
自分は今30で地元を離れてますが、産まれる前に配線になったけど、電車が走ってたんだよと学校で教わったのを急に思い出し調べてたらたどり着きました。今は道路なのに風景は変わらなくてすごく不思議な気持ちです貴重な映像ありがとうございます
spring pond up ありがとうございます。いったん廃線になると元からなかったようになってしまいますね。当時の記憶があれば、ここだ!とわかることも多いのでなるべく残そうとしていました
なんという貴重な映像!永久保存版ですよ!これは!アップしてくださり、ありがとうございます。
ありがとうございます。そう言っていただけると助かります
貴重な動画をありがとうございました。九州管内の廃止路線の中では唯一、廃止線路が残っています。よく訪問させていただく場所ですが、現役時代の影像は貴重です。
昭和28年上山田の炭鉱の社宅で生まれ、小4の時に三重県に引っ越ししました。20才の夏に上山田線に乗り、山田市を訪れました。当時の事が大変懐かしいです。全ての停車駅と大隈川を渡る鉄橋が懐かしい、大隈川ってこんなに小さな川だったんだ❗
昭和37年に生まれてから昭和57年くらいまで上山田に住んでおりました。小学校低学年頃まで炭坑もあり蒸気機関車が石炭運んでた記憶があります。永久保存版の画像ありがとうございます。
地元の方に見ていただけると、価値ある事と再確認できます
特に後年開通した区間が足を引っ張って営業係数を悪化させていたイメージで、飯塚~上山田まではこの頃はまだ割と乗客がいた印象でした。上山田までなら第三セクターでも存続できたかもしれません。この時代はまだバスも山田には多数乗り入れしてて飯塚はもちろん田川や桂川・福岡の天神とも直通している便も1日にわずかでしたがありました。この地域は過疎だけでなくモータリゼーションが起こりました。いまや筑豊地域では公共交通離れが深刻です。特にこの山田地域では21世紀に入ってから急速に民間バスがほぼ全滅しました。貴重な映像、ありがとうございます。
r massa そうですね。神山田までは客車列車運転されるくらいの需要があったんですからね。その先は四本/日でしたかね。
炭鉱全盛期に上山田の炭鉱社宅に住んでいました。廃線前に一回、廃線後に車で線路後の道路を走りました。先日、このお盆にも行って来ました。あの頃の思い出が徐々に薄らいでいきます。
ありがとうございます。その薄れゆく記憶をこの動画で取り戻していただけると幸いです
凄く懐かしい風景だ😆平恒駅近くの上山田線の脇の溝でよくザリガニ釣りしてました。当時小学生😂
そうなんですね。この日は光線と音が非常に懐かしい感じを出してくれました。切ない動画になったように思います
86歳には貴重な映像ですね、当時は上山田駅が終点でした。当時の思い出は抹消したい所ですが今では懐かしさと食糧難の空腹だった当時を偲んでいます。S 18年(9歳)佐世保から山田高校前に一時期疎開先です。「9:09」に大きな建物はM市長さんの家?、だった記憶、「9:18」の踏切、右は市民病院、山田高校、猪ノ鼻炭鉱、左方は町の市街地、猪膝、田川への道、です。「9:45」駅構内の貨車の荷下ろし場(三菱上山田炭鉱)でした、捨てられたミカンをより分け食していました、当然不登校でしたのでH先生(女性)には心労を煩わせました。父の実家は荒平でしたから、熊が畑トンネルの先です。当時は線路など無く(駅前の役場、小学校の丘裏手一帯は三菱上山田炭鉱住宅)住宅街を通り筑紫炭鉱から辺りから峠を越し荒平に向かっていました。こんな感じでしたから食せるものは何でも食べました。
ありがとうございます。昭和末期でも戦前の風景を思い出さされるものが残っていたんですね。そしてそれを一つ一つお覚えておられるというのも驚きであり、またその足がかりになった事を誇りに思います
@@user-tabiichiro ご返事有難う、実母は4歳の時亡くなり父は戦地と継母も私を連れての疎開で大変だったろうと思いますね、戦後の映画で”実の母より育ての母”の言葉をよく聞き実感します。こんな感じですから「家庭愛」を?です。草根逞しく生きているを実践ですね。
幼少の頃乗っていたキハ35が懐かしい。ガラガラというアイドリング音、乗り込む際に一段上がること、なんとも言えない車内臭…。記憶が蘇ってきました。貴重な映像ありがとうございます!
ありがとうございます。冬に乗ると隙間風がありましたがそれも含めていい思い出になっています
ありがとうございます。音楽なし版希望します
BGMですか?
上山田線は書類上は1本の路線ですが実態は上山田を境に分断されていたのを、ギリギリ漆生線が残っていた時代の時刻表を見て確認した覚えがありますね。本数も極めて少ないヤル気が無い方の東半分は更に油須原まで延伸する予定で、路盤も工事しましたが国鉄や自治体が引渡しを拒否するレベルの赤字見込みだったとの事。漆生〜豊前川崎間は1日たったの3往復ですから、乗りつぶしには酷な路線だったでしょうwそういう点では貴重な動画に感謝です。
Top Matsu 漆生線ってそんなに少なかったですか。廃止直前に乗りましたが、全く忘れていました。
今晩は。貴重な動画を拝見しました。本当にありがとうございます。私事ですが、キハ35は故郷の唐津線や筑肥線で運用されていました。特に、唐津線では、途中の厳木~多久間の笹原峠では、あえぎながら登り、サミットを越えると軽やかに多久駅に進入するのが印象的でした。上山田線は、乗れたのに、乗らずに廃線になってしまいました。バカな事をしたものですが、動画を見て、懐かしい思いがしました。ありがとうございます。
ありがとうございます。唐津線にもキハ35が運用されていたのですね。いまとなってはこの殺風景な車内にも逆に温かみさえ感じてしまいます
幼少の時期、下山田に住んでました。昼12時ちょうどに嘉穂信号場と下山田駅の間をDE10が牽引する貨物が山田方面に毎日走ってたのが記憶にあります。貨物と言っても1両、その後ろに車掌車って感じでした。たまに貨車が無くて車掌車だけを牽引してた日があった記憶があります。一度だけでしたが早朝に下山田から出る漆生線にも母親に乗せてもらった記憶があります。又、大隈駅の近くに親戚がいて、この動画が撮影される前年にNHKの朝ドラ「いちばん太鼓」の撮影でDD51牽引の旧型客車を用いて大隈駅で撮影が行われていました。
沿線の方だったんですね。この動画を撮る2年?前にも漆生線や佐賀線に乗るため九州に行ってました。まだビデオカメラがない頃で動画はありませんが。
@@user-tabiichiro さまコメ返信、ありがとうございました。漆生線の動画、残念です(笑)元々、本数も少ないし仕方ないですね。佐賀線も残念な路線でしたね。今も残っていれば別の観光路線とか策があったかも知れません。
うちの地元の路線でした。当時はまだ一歳でしたので乗ること出来ずじまいでしたが貴重な資料で当時の風景が見ることができ大変嬉しく思います。特に碓井地区から嘉穂地区の風景また上山田駅から熊ヶ畑駅間の百々谷付近の線路の場所が判明し長年の謎が解けた気分です。今では上山田より飯塚はすっかり道になってしまっているのでこういった資料がある事が非常に嬉しいです。ありがとうございました❗
この動画にそのような資料的価値を見出いしていただきありがとうございます。撮っておいてよかったです、もう一本別にアップしているのもあるので、そちらもぜひご覧ください。
漆生線が既に廃線となってた時なので、ある意味レアなタイミングでの映像ですね。
漆生線時代は、まだビデオがありませんでした。佐賀線も写真だけになっています。
九州のキハ35系は私が旅を始めたことには殆ど無くなっていましたが、長崎近辺で九州色のキハ30だったかな? わずかに残っていました 不思議なもので、同じロングシートでもキハ32や54は嫌いなくせに、キハ30, 35は喜んで乗っていましたね タイフォンの音もそうですが、DMH17系の哀愁あふれる走行音も好きでした 当時の風景が思い浮かび、楽しませてもらいました
MAT MAT キハ32.54にはやはり郷愁を感じないですね。キハ35のしかも首都圏色は昔は避けていました。この時もたまたま乗ったのですが、「えー」と思いました。そんな事言えたほど贅沢な時代でしたね
模型では他の車両の引き立て役として必要ですね。ボックスとロングが連結されている場合は、他の人同様、ボックスに座ります
3pokoさん、旅一郎さんキハ35の話題で盛り上がってますね おっしゃる通りキハ35とキハ40等の併結ではキハ35の方がガラガラ、他の車両はボックスが埋まってるような状況でしたが、ロングシートに足を伸ばしてくつろぎ、それはそれで快適でした ビール飲んでもキハ35にトイレついていますし、キハ32ほどがっかりしなかったです
MAT MAT ビールのためのトイレ必須という観点、完全同意です。
3poko 三角線も今は1両なのに、そんなに繋いでいたんですね。
懐かしい。
ありがとうございます😊
上山田線の客車列車を牽引機DE10は、室木、香月線と共通運用
坪田精一郎 この時代には室木線、香月線とも廃止でした。残念です。
昨年まで元上山田駅裏に居住してました。現役時代は知りませんが駅舎跡は図書館になり図書館裏にある団地には元上山田駅に渡る跨線橋跡の土台のみ残ってます。団地も当初は駅近くの好立地を売りにして赤字の上山田線の利用促進考え造成したらしいですがルート的に碓井から桂川繋ぐ短絡線が計画のみで終わって上山田線も終わってしまった予感です。桂川繋げてればまだまだ上山田まで利用者居たはずでもしかしたら福岡の通勤圏内になってたかも?残念です
福岡近辺の廃止ローカル線はどこも発展の余地があったようですね。あれだけ網の目のようにあった路線が今は寂しい限りです
私は上山田線は50系で乗りました、先はキハ20と23の2両でした動画ではキハ35のロングシートですね、ご希望50系は暖房が余り効いてなくて寒かったですよ、筑豊地方の国鉄線は難攻不落で時刻表を何度も見ながらスケジュールを決めましたね、現在は筑豊線や篠栗線は電化してますし本数増えてます、しかし消えていった路線も多いですね。
自分でもなせ50系に乗らなかったのか不思議なんですが、そんなに乗りにくいダイヤでしたか?
@@user-tabiichiro 50系は朝夕中心のダイヤだと思いますね、牽引機は主にDD51だと思います、そんなに乗りにくいダイヤではなかったと思いますけど私は朝に乗りましたよ、急行日南から乗り継ぎして乗りました。
茂幸山本 そうですか。まだ50系は普通に走っていたのでノーチェックだったのかもしれません
この線は最後まで見向きせず乗る事が無いまま漆生線と共に天に召されていまいました。朝は客車が有ったけど50系ですしキハ35が多かったから、奈良線でキハ35は毎日乗ってたから、でも今のロングシート車ほど嫌では無かった(通学の時だけですョ) 外吊りドアのキハ35とキハ30は冬は隙間だらけて非常に寒かったですね、座り続けたらお尻とふくらはぎだけ熱かった、
奈良のキハ35は乗ってみたかったです 和歌山線や桜井線も105系ではつまらないのに、昔のキハ35なら楽しいと思う、同じロングシートなのに不思議です
新居義浩 同様に旧客があるうちは見向きもしませんでした。11月に旧客が無くなり、九州のローカル線を抑えようとして旅した際、乗ったものです。当時はキハ35なんて、これ以下もない存在でした。今でもロングシートなので乗る気はしませんが、久々にみたら、タイフォンがいい感じだと感じました。
MAT MAT キハ35にはまだ郷愁がありますね
MAT MAT さん旅の途中では敬遠したキハ35.30通学ではあまり気にならなかったのは何故か不思議なんですね、クロスシート車は少なく.たまにキハ45が編成に入る位でしたから当たり前と考えていたんでしょうね窓が全開出来た事とロングシート車なのに喫煙可能だったからでしょうか(高校生でしたが笑)、当時途中に駅の無かった奈良〜木津と桃山〜稲荷(下り勾配多い京都行き)は80キロ以上で走ってました奈良区にキハ30の配置は有りませんでしたが片町線運用のキハ20が廃車になり両運転台車の必要からキハ30が伊勢から転属して来ました16時台の奈良から片町線直通列車はキハ30がたったの1両で今の平城山駅付近で85キロでぶっ飛ばすのは印象が強く残ってます車両もそれぞれのクセも多く毎日乗ってるとそのクセも覚えてました、冬に暖房の効きの悪い車や.完全にドアの閉じない車両(車側灯は消灯するから普通に発車してました)乗客の誰かがドアを蹴飛ばすとバタンと完全に閉まってました、一番強く印象に残っているのは(キハ35-27)でこの車両だけなぜか桃山〜稲荷の高速運転の区間に有る踏み切り付近でお尻が座席から浮く程ドカンと跳ねてました以前どこかで書き込んだと思うのですが、同級生も全員知っていて「出た〜27番や」激揺れ踏み切りが近づくと「来るぞ.来るぞ!」と身構え.ドカンと跳ねたら皆が「ウオリャ〜」て湧きかえってました高校生最初の1人旅は九州で夜行普通の「ながさき」で念願の寝台車に乗りましたが長崎線の鳥栖行きは今では考えられない7両編成でキハ35や20.55.58が混ざってました、この時はキハ35だけ空いていたから窓全開でキロ35のロングシートに横向きに足を伸ばして座ってました、保存車も殆ど無いですね、鍛冶屋線跡に保存されてる位しか記憶に有りません、整備したら動ける状態で残っていて津山鉄道学び館なんかに保存して有ったら懐かしく車体を撫で回わすでしょうね、
新居義浩 思い入れが深いようですね。僕の記憶の限りでは母親と奈良に行った時、行きはキハ20で良かったので、帰りも期待してたら、キハ35でがっかりしました。中学の時宇治に行くのに乗ったのも、バス窓キハ20でした。それがいつのまにかかキハ35しか見なくなりましたね。大回り乗車でも奈良線に乗るのは嫌でした。
ホームベル、車掌さんの笛の音、そしてタイフォン... やはり発車シーンはこうでなくちゃ、と思いました。音色の少ないJRは、どこか味気ないですからね。キハ35のロングシートからの外部撮影、さぞかししんどかったと思います。ありがとうございました。
ありがとうございます。ロングシートなので身体を支えるところが無く、当時の大きなビデオカメラでは大変でした。またキハ35系は寒かったで
昭和の時代はマイカーが普及していなくて移動には列車バスそれと自転車だった。通学するのに列車だったのでそれなりに楽しかった。特にディーゼル音が心地よく居眠りしてしまった事もあった。客車やディーゼルは人が動かしている。今は架線レスのバッテリー電車や都会の電車はコンピューターで動かしているので乗っているより乗せられている感じだ。
三毛猫 そうですね。エンジンのカラカラ音窓が開いて外とも繋がっている感。生活の延長のようでした
広大なヤードが石炭最盛期のときを物語ってますね。9600の旧客連結とかあったら見たかったな。
石井勉 流石にこの動画から10年強前になるので、残念ながらありません。その時代にも生きていましたけどね
宮脇さんの著作を読みましたが、かなり複雑怪奇な地域で乗りつぶすのが大変みたいでしたね。
石井勉 当時の筑豊の路線はそれこそ網の目のようで、乗り潰すのも大変だったようですね。僕が乗れたのは、漆生線と上山田くらいで、勝田線は乗れませんでした。その他の伊田線、糸田線などは第三セクターで残っているので、割に残っているなーと思います
まあ、九州は善戦していると言っていいかもしれませんね。本音は観光列車より路線維持の方が大事だと思いますが。
石井勉 路線維持のための観光列車なら仕方ないですね
お金がなく、飯塚のユニードで、コーヒー牛乳と菓子パンを買ってしのいだ想い出があります
n o 同じようなことしてました。フランスパンと牛乳でした
@@3poko ホントですね(。・_・。)
食費と宿泊費を削って長期間旅行、懐かしい思い出です 私は1日の食事がカロリーメイトとポテトチップと水、たまにうどんと缶コーヒーくらいでした 宿泊もほとんど夜行かフェリー、行程の都合でどうしようもない場合に駅寝かホテル、究極の選択でした
昨日通った場所がまさに電車が通ってた場所で驚かされるばかりです。まだ残っている鉄橋やトンネルを見るとまだ自分は産ませてませんが当時の事を想像してしまい少し切ない気持ちになります。当時の家がまだあるなど景色は本当に変わってないです。
ありがとうございます。線路がなくなると一気に草に覆われて跡を探すのに苦労しますが、周りの建物から位置が確認でき、改めて愕然とすることがあります
@@user-tabiichiro この列車に乗ってた方から返信が来たことにとても嬉しく思います。このような貴重な動画を残して下さりありがとうございます。
飯塚って市庁舎が豪華でD60だったかな。保存がボロかった印象しかないです。
この前、某銀座の老舗の鉄道模型屋のC11蒸気機関車のプラ製の16番ゲージを諭吉5人の大枚を叩いて買ってしまった。プラ製の模型と言えどもやはり蒸気機関車の魅力に取り憑かれてしまったのだwww黒光りして如何にも国鉄が家にやって来ては角電池でロットの動きを楽しんでいる。やはり電車のNゲージにはない大人のホビーだなと感じた。
三毛猫 天賞堂は骨董品ですね
他の方がアップした上山田線の映像も見ましたあの旧漆生分岐点の信号場は最後まで残ってましたね今の時代なら漆生線廃止の時点で信号場も廃止されてたでしょうほぼ意味無いですし同じようなタブレット交換ありの信号場はこの近くの内田信号所もありましたね
情報をありがとうございます。人員配置を変えたりするのが大変なのでそのままだったのでしょうかね。
飯塚の市役所はかなり、立派なのに、Ⅾ60はぼろすぎてがっかりしましたね。
石井勉 D60とは、羨まししすぎます。
静態保存ですよ。
福岡市内住んでいたので国鉄時代は大回り乗車や18きっぷ消化で筑豊ウロウロしてたなぁ、朝から結構楽しめました。今は昔に比べたらあっさり回れますね。勝田線の御手洗駅って名前に無駄なインパクトがありましたね。路線廃止後住宅地として栄えた場所なので残っていたら、香椎線同様便利な路線だったでしょうね
勝田線は乗れませんでした。最後まで旧客列車がある路線でしたね。客レが残っていたころは大回りも楽しかったですが、いまは何だかなーと感じます。
旅一郎 香椎線からも国鉄型車両が消滅しました。なんか架線で充電して非電化区間は蓄電池で走ると言うシロモノになってしまいました。
ゆいまーる書記長 もうオモチャ見たいな車両(名前もオモチャのような)で乗る気は全くでません。
臼井駅から上山田駅付近まで毎日通勤で車を走らせていますが、今とあまり変わらない風景が広がっていて驚きました。とても素晴らしい映像だと思います。ありがとうございました。
ありがとうございます。景色が変わらないなら位置感覚が分かりやすいですね。
本当に貴重です
CZcamsから削除されないように月2で観ています
だってこの風景はどんなに大金を積んでも二度と観れませんものね
懐かしい大隈川鉄橋
幼少の頃、大隈川で家族で水遊びや水泳をしましたね
確か近くの小さな神社のお社で着替えたり、おにぎりを食べた記憶があります
ありがとうございます。線路がなくなり汽笛も聴けなくなったと思うと切なくなりますね
1983年生まれの者です。
記憶には無いのですが、小さい頃汽車が好きで大隈から飯塚まで祖父と一緒に乗っていたと母から聞きました。
この動画と同じ景色を見ていたと思うと泣けてきます。
ありがとうございます。
当時はCZcamsなんてものが出るとは思わず、お蔵入りになる所でしたが、そうやってこの動画に思いを馳せる方がいるとわかり嬉しいです
自分は今30で地元を離れてますが、産まれる前に配線になったけど、電車が走ってたんだよと学校で教わったのを急に思い出し調べてたらたどり着きました。
今は道路なのに風景は変わらなくてすごく不思議な気持ちです
貴重な映像ありがとうございます
spring pond up ありがとうございます。
いったん廃線になると元からなかったようになってしまいますね。
当時の記憶があれば、ここだ!とわかることも多いのでなるべく残そうとしていました
なんという貴重な映像!
永久保存版ですよ!これは!
アップしてくださり、ありがとうございます。
ありがとうございます。
そう言っていただけると助かります
貴重な動画をありがとうございました。九州管内の廃止路線の中では唯一、廃止線路が残っています。よく訪問させていただく場所ですが、現役時代の影像は貴重です。
昭和28年上山田の炭鉱の社宅で生まれ、小4の時に三重県に引っ越ししました。20才の夏に上山田線に乗り、山田市を訪れました。
当時の事が大変懐かしいです。
全ての停車駅と大隈川を渡る鉄橋が懐かしい、大隈川ってこんなに小さな川だったんだ❗
昭和37年に生まれてから昭和57年くらいまで上山田に住んでおりました。
小学校低学年頃まで炭坑もあり蒸気機関車が石炭運んでた記憶があります。
永久保存版の画像ありがとうございます。
地元の方に見ていただけると、価値ある事と再確認できます
特に後年開通した区間が足を引っ張って営業係数を悪化させていたイメージで、飯塚~上山田まではこの頃はまだ割と乗客がいた印象でした。上山田までなら第三セクターでも存続できたかもしれません。この時代はまだバスも山田には多数乗り入れしてて飯塚はもちろん田川や桂川・福岡の天神とも直通している便も1日にわずかでしたがありました。この地域は過疎だけでなくモータリゼーションが起こりました。いまや筑豊地域では公共交通離れが深刻です。特にこの山田地域では21世紀に入ってから急速に民間バスがほぼ全滅しました。貴重な映像、ありがとうございます。
r massa そうですね。
神山田までは客車列車運転されるくらいの需要があったんですからね。
その先は四本/日でしたかね。
炭鉱全盛期に上山田の炭鉱社宅に住んでいました。
廃線前に一回、廃線後に車で線路後の道路を走りました。
先日、このお盆にも行って来ました。
あの頃の思い出が徐々に薄らいでいきます。
ありがとうございます。
その薄れゆく記憶をこの動画で取り戻していただけると幸いです
凄く懐かしい風景だ😆
平恒駅近くの上山田線の脇の溝でよくザリガニ釣りしてました。
当時小学生😂
そうなんですね。
この日は光線と音が非常に懐かしい感じを出してくれました。
切ない動画になったように思います
86歳には貴重な映像ですね、当時は上山田駅が終点でした。
当時の思い出は抹消したい所ですが今では懐かしさと食糧難の空腹だった当時を偲んでいます。
S 18年(9歳)佐世保から山田高校前に一時期疎開先です。
「9:09」に大きな建物はM市長さんの家?、だった記憶、「9:18」の踏切、右は市民病院、山田高校、猪ノ鼻炭鉱、左方は町の市街地、猪膝、田川への道、です。
「9:45」駅構内の貨車の荷下ろし場(三菱上山田炭鉱)でした、捨てられたミカンをより分け食していました、当然不登校でしたのでH先生(女性)には心労を煩わせました。
父の実家は荒平でしたから、熊が畑トンネルの先です。
当時は線路など無く(駅前の役場、小学校の丘裏手一帯は三菱上山田炭鉱住宅)住宅街を通り筑紫炭鉱から辺りから峠を越し荒平に向かっていました。
こんな感じでしたから食せるものは何でも食べました。
ありがとうございます。
昭和末期でも戦前の風景を思い出さされるものが残っていたんですね。
そしてそれを一つ一つお覚えておられるというのも驚きであり、またその足がかりになった事を誇りに思います
@@user-tabiichiro ご返事有難う、実母は4歳の時亡くなり父は戦地と継母も私を連れての疎開で大変だったろうと思いますね、戦後の映画で”実の母より育ての母”の言葉をよく聞き実感します。
こんな感じですから「家庭愛」を?です。
草根逞しく生きているを実践ですね。
幼少の頃乗っていたキハ35が懐かしい。ガラガラというアイドリング音、乗り込む際に一段上がること、なんとも言えない車内臭…。記憶が蘇ってきました。貴重な映像ありがとうございます!
ありがとうございます。冬に乗ると隙間風がありましたがそれも含めていい思い出になっています
ありがとうございます。音楽なし版希望します
BGMですか?
上山田線は書類上は1本の路線ですが実態は上山田を境に分断されていたのを、ギリギリ漆生線が残っていた時代の時刻表を見て確認した覚えがありますね。
本数も極めて少ないヤル気が無い方の東半分は更に油須原まで延伸する予定で、路盤も工事しましたが国鉄や自治体が引渡しを拒否するレベルの赤字見込みだったとの事。
漆生〜豊前川崎間は1日たったの3往復ですから、乗りつぶしには酷な路線だったでしょうwそういう点では貴重な動画に感謝です。
Top Matsu 漆生線ってそんなに少なかったですか。
廃止直前に乗りましたが、全く忘れていました。
今晩は。
貴重な動画を拝見しました。
本当にありがとうございます。
私事ですが、キハ35は故郷の唐津線や筑肥線で運用されていました。
特に、唐津線では、途中の厳木~多久間の笹原峠では、あえぎながら登り、サミットを越えると軽やかに多久駅に進入するのが印象的でした。
上山田線は、乗れたのに、乗らずに廃線になってしまいました。
バカな事をしたものですが、動画を見て、懐かしい思いがしました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
唐津線にもキハ35が運用されていたのですね。
いまとなってはこの殺風景な車内にも逆に温かみさえ感じてしまいます
幼少の時期、下山田に住んでました。昼12時ちょうどに嘉穂信号場と下山田駅の間をDE10が牽引する貨物が山田方面に毎日走ってたのが記憶にあります。貨物と言っても1両、その後ろに車掌車って感じでした。たまに貨車が無くて車掌車だけを牽引してた日があった記憶があります。一度だけでしたが早朝に下山田から出る漆生線にも母親に乗せてもらった記憶があります。又、大隈駅の近くに親戚がいて、この動画が撮影される前年にNHKの朝ドラ「いちばん太鼓」の撮影でDD51牽引の旧型客車を用いて大隈駅で撮影が行われていました。
沿線の方だったんですね。
この動画を撮る2年?前にも漆生線や佐賀線に乗るため九州に行ってました。
まだビデオカメラがない頃で動画はありませんが。
@@user-tabiichiro さま
コメ返信、ありがとうございました。
漆生線の動画、残念です(笑)元々、本数も少ないし仕方ないですね。
佐賀線も残念な路線でしたね。今も残っていれば別の観光路線とか策があったかも知れません。
うちの地元の路線でした。
当時はまだ一歳でしたので乗ること出来ずじまいでしたが
貴重な資料で当時の風景が見ることができ大変嬉しく思います。
特に碓井地区から嘉穂地区の風景
また上山田駅から熊ヶ畑駅間の百々谷付近の線路の場所が判明し長年の謎が解けた気分です。
今では上山田より飯塚はすっかり道になってしまっているので
こういった資料がある事が非常に嬉しいです。
ありがとうございました❗
この動画にそのような資料的価値を見出いしていただきありがとうございます。
撮っておいてよかったです、もう一本別にアップしているのもあるので、そちらもぜひご覧ください。
漆生線が既に廃線となってた時なので、ある意味レアなタイミングでの映像ですね。
漆生線時代は、まだビデオがありませんでした。
佐賀線も写真だけになっています。
九州のキハ35系は私が旅を始めたことには殆ど無くなっていましたが、長崎近辺で九州色のキハ30だったかな? わずかに残っていました 不思議なもので、同じロングシートでもキハ32や54は嫌いなくせに、キハ30, 35は喜んで乗っていましたね タイフォンの音もそうですが、DMH17系の哀愁あふれる走行音も好きでした 当時の風景が思い浮かび、楽しませてもらいました
MAT MAT キハ32.54にはやはり郷愁を感じないですね。
キハ35のしかも首都圏色は昔は避けていました。
この時もたまたま乗ったのですが、「えー」と思いました。
そんな事言えたほど贅沢な時代でしたね
模型では他の車両の引き立て役として必要ですね。
ボックスとロングが連結されている場合は、他の人同様、ボックスに座ります
3pokoさん、旅一郎さん
キハ35の話題で盛り上がってますね おっしゃる通りキハ35とキハ40等の併結ではキハ35の方がガラガラ、他の車両はボックスが埋まってるような状況でしたが、ロングシートに足を伸ばしてくつろぎ、それはそれで快適でした ビール飲んでもキハ35にトイレついていますし、キハ32ほどがっかりしなかったです
MAT MAT ビールのためのトイレ必須という観点、完全同意です。
3poko 三角線も今は1両なのに、そんなに繋いでいたんですね。
懐かしい。
ありがとうございます😊
上山田線の客車列車を牽引機DE10は、室木、香月線と共通運用
坪田精一郎 この時代には室木線、香月線とも廃止でした。
残念です。
昨年まで元上山田駅裏に居住してました。現役時代は知りませんが駅舎跡は図書館になり図書館裏にある団地には元上山田駅に渡る跨線橋跡の土台のみ残ってます。
団地も当初は駅近くの好立地を売りにして赤字の上山田線の利用促進考え造成したらしいですが
ルート的に碓井から桂川繋ぐ短絡線が計画のみで終わって上山田線も終わってしまった予感です。
桂川繋げてればまだまだ上山田まで利用者居たはずでもしかしたら福岡の通勤圏内になってたかも?
残念です
福岡近辺の廃止ローカル線はどこも発展の余地があったようですね。
あれだけ網の目のようにあった路線が今は寂しい限りです
私は上山田線は50系で乗りました、先はキハ20と23の2両でした
動画ではキハ35のロングシートですね、ご希望50系は暖房が余り効いてなくて寒かったですよ、筑豊地方の国鉄線は難攻不落で時刻表を何度も見ながらスケジュールを決めましたね、現在は筑豊線や篠栗線は電化してますし本数増えてます、しかし消えていった路線も多いですね。
自分でもなせ50系に乗らなかったのか不思議なんですが、そんなに乗りにくいダイヤでしたか?
@@user-tabiichiro
50系は朝夕中心のダイヤだと思いますね、牽引機は主にDD51だと思います、そんなに乗りにくいダイヤではなかったと思いますけど私は朝に乗りましたよ、急行日南から乗り継ぎして乗りました。
茂幸山本 そうですか。
まだ50系は普通に走っていたのでノーチェックだったのかもしれません
この線は最後まで見向きせず
乗る事が無いまま漆生線と共に
天に召されていまいました。
朝は客車が有ったけど50系ですし
キハ35が多かったから、奈良線でキハ35は毎日乗ってたから、でも
今のロングシート車ほど嫌では無かった(通学の時だけですョ)
外吊りドアのキハ35とキハ30は
冬は隙間だらけて非常に寒かったですね、座り続けたらお尻とふくらはぎだけ熱かった、
奈良のキハ35は乗ってみたかったです 和歌山線や桜井線も105系ではつまらないのに、昔のキハ35なら楽しいと思う、同じロングシートなのに不思議です
新居義浩 同様に旧客があるうちは見向きもしませんでした。
11月に旧客が無くなり、九州のローカル線を抑えようとして旅した際、乗ったものです。
当時はキハ35なんて、これ以下もない存在でした。
今でもロングシートなので乗る気はしませんが、久々にみたら、タイフォンがいい感じだと感じました。
MAT MAT キハ35にはまだ郷愁がありますね
MAT MAT さん
旅の途中では敬遠したキハ35.30
通学ではあまり気にならなかったのは何故か不思議なんですね、
クロスシート車は少なく.たまにキハ45が編成に入る位でしたから当たり前と考えていたんでしょうね
窓が全開出来た事とロングシート車なのに喫煙可能だったからでしょうか(高校生でしたが笑)、当時途中に駅の無かった奈良〜木津と桃山〜稲荷(下り勾配多い京都行き)は80キロ以上で走ってました
奈良区にキハ30の配置は有りませんでしたが片町線運用のキハ20が廃車になり両運転台車の必要から
キハ30が伊勢から転属して来ました
16時台の奈良から片町線直通列車はキハ30がたったの1両で今の平城山駅付近で85キロでぶっ飛ばすのは印象が強く残ってます
車両もそれぞれのクセも多く
毎日乗ってるとそのクセも覚えてました、冬に暖房の効きの悪い車
や.完全にドアの閉じない車両
(車側灯は消灯するから普通に発車してました)乗客の誰かがドアを蹴飛ばすとバタンと完全に閉まってました、一番強く印象に残っているのは(キハ35-27)でこの車両だけなぜか桃山〜稲荷の高速運転の区間に有る踏み切り付近でお尻が座席から浮く程ドカンと跳ねてました
以前どこかで書き込んだと思うのですが、同級生も全員知っていて
「出た〜27番や」激揺れ踏み切りが近づくと「来るぞ.来るぞ!」
と身構え.ドカンと跳ねたら皆が
「ウオリャ〜」て湧きかえってました
高校生最初の1人旅は九州で夜行普通の「ながさき」で念願の寝台車に乗りましたが長崎線の鳥栖行きは今では考えられない7両編成でキハ35や20.55.58が混ざってました、この時はキハ35だけ空いていたから窓全開でキロ35のロングシートに横向きに足を伸ばして座ってました、保存車も殆ど無いですね、
鍛冶屋線跡に保存されてる位しか記憶に有りません、
整備したら動ける状態で残っていて津山鉄道学び館なんかに保存して有ったら懐かしく車体を撫で回わすでしょうね、
新居義浩 思い入れが深いようですね。
僕の記憶の限りでは母親と奈良に行った時、行きはキハ20で良かったので、帰りも期待してたら、キハ35でがっかりしました。
中学の時宇治に行くのに乗ったのも、バス窓キハ20でした。
それがいつのまにかかキハ35しか見なくなりましたね。
大回り乗車でも奈良線に乗るのは嫌でした。
ホームベル、車掌さんの笛の音、そしてタイフォン... やはり発車シーンはこうでなくちゃ、と思いました。音色の少ないJRは、どこか味気ないですからね。キハ35のロングシートからの外部撮影、さぞかししんどかったと思います。ありがとうございました。
ありがとうございます。
ロングシートなので身体を支えるところが無く、当時の大きなビデオカメラでは大変でした。
またキハ35系は寒かったで
昭和の時代はマイカーが普及していなくて移動には列車バスそれと自転車だった。
通学するのに列車だったのでそれなりに楽しかった。特にディーゼル音が心地よく居眠りしてしまった事もあった。
客車やディーゼルは人が動かしている。今は架線レスのバッテリー電車や都会の電車はコンピューターで動かしているので乗っているより乗せられている感じだ。
三毛猫 そうですね。
エンジンのカラカラ音
窓が開いて外とも繋がっている感。
生活の延長のようでした
広大なヤードが石炭最盛期のときを物語ってますね。9600の旧客連結とかあったら見たかったな。
石井勉 流石にこの動画から10年強前になるので、残念ながらありません。
その時代にも生きていましたけどね
宮脇さんの著作を読みましたが、かなり複雑怪奇な地域で乗りつぶすのが大変みたいでしたね。
石井勉 当時の筑豊の路線はそれこそ網の目のようで、乗り潰すのも大変だったようですね。
僕が乗れたのは、漆生線と上山田くらいで、勝田線は乗れませんでした。
その他の伊田線、糸田線などは第三セクターで残っているので、割に残っているなーと思います
まあ、九州は善戦していると言っていいかもしれませんね。本音は観光列車より路線維持の方が大事だと思いますが。
石井勉 路線維持のための観光列車なら仕方ないですね
お金がなく、飯塚のユニードで、コーヒー牛乳と菓子パンを買ってしのいだ想い出があります
n o
同じようなことしてました。
フランスパンと牛乳でした
@@3poko ホントですね(。・_・。)
食費と宿泊費を削って長期間旅行、懐かしい思い出です 私は1日の食事がカロリーメイトとポテトチップと水、たまにうどんと缶コーヒーくらいでした 宿泊もほとんど夜行かフェリー、行程の都合でどうしようもない場合に駅寝かホテル、究極の選択でした
昨日通った場所がまさに電車が通ってた場所で驚かされるばかりです。
まだ残っている鉄橋やトンネルを見るとまだ自分は産ませてませんが当時の事を想像してしまい少し切ない気持ちになります。
当時の家がまだあるなど景色は本当に変わってないです。
ありがとうございます。線路がなくなると一気に草に覆われて跡を探すのに苦労しますが、周りの建物から位置が確認でき、改めて愕然とすることがあります
@@user-tabiichiro この列車に乗ってた方から返信が来たことにとても嬉しく思います。
このような貴重な動画を残して下さりありがとうございます。
飯塚って市庁舎が豪華でD60だったかな。保存がボロかった印象しかないです。
この前、某銀座の老舗の鉄道模型屋のC11蒸気機関車のプラ製の16番ゲージを諭吉5人の大枚を叩いて買ってしまった。
プラ製の模型と言えどもやはり蒸気機関車の魅力に取り憑かれてしまったのだwww
黒光りして如何にも国鉄が家にやって来ては角電池でロットの動きを楽しんでいる。やはり電車のNゲージにはない大人のホビーだなと感じた。
三毛猫 天賞堂は骨董品ですね
他の方がアップした上山田線の映像も見ました
あの旧漆生分岐点の信号場は最後まで残ってましたね
今の時代なら漆生線廃止の時点で信号場も廃止されてたでしょうほぼ意味無いですし
同じようなタブレット交換ありの信号場はこの近くの内田信号所もありましたね
情報をありがとうございます。
人員配置を変えたりするのが大変なのでそのままだったのでしょうかね。
飯塚の市役所はかなり、立派なのに、Ⅾ60はぼろすぎてがっかりしましたね。
石井勉 D60とは、羨まししすぎます。
静態保存ですよ。
福岡市内住んでいたので国鉄時代は大回り乗車や18きっぷ消化で筑豊ウロウロしてたなぁ、朝から結構楽しめました。今は昔に比べたらあっさり回れますね。勝田線の御手洗駅って名前に無駄なインパクトがありましたね。路線廃止後住宅地として栄えた場所なので残っていたら、香椎線同様便利な路線だったでしょうね
勝田線は乗れませんでした。
最後まで旧客列車がある路線でしたね。
客レが残っていたころは大回りも楽しかったですが、いまは何だかなーと感じます。
勝田線は乗れませんでした。
最後まで旧客列車がある路線でしたね。
客レが残っていたころは大回りも楽しかったですが、いまは何だかなーと感じます。
旅一郎 香椎線からも国鉄型車両が消滅しました。なんか架線で充電して非電化区間は蓄電池で走ると言うシロモノになってしまいました。
ゆいまーる書記長
もうオモチャ見たいな車両(名前もオモチャのような)で乗る気は全くでません。