【ゆっくり解説】島津義久・義弘相克編その13ー関ケ原後の和睦交渉をめぐる島津と徳川の駆け引きの攻防

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  • čas přidán 2. 05. 2024
  • 今回は関ケ原後の島津家と家康との和睦交渉について、義久の上洛を求める家康サイドとそれを拒む島津側の駆け引きを、義久・義弘・忠恒の「三殿」間の関係性も交えながら解説していきます。
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Komentáře • 56

  • @user-ii9wu7fn7p
    @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci +5

    【訂正】26:07~義弘→義久です

  • @user-th8rx3uq3z
    @user-th8rx3uq3z Před 2 měsíci +19

    動画楽しみにしておりました
    ネットなどでは、義久が巧みな外交で家康からお咎めなしを勝ち取ったと書かれがちだけど
    こうしてみてみると、綱渡りの様な危険な外交をしていたのですね……
    そもそも東軍が勝利して、東軍が島津領に迫っていた状況からみても、既に島津の運命は家康の手の中なんですよね……
    結局は家康に島津を罰する意思がなかった、もしくは低かったという事
    そもそも家康は当初は伏見城の留守居を義弘に頼む位なので信頼しているんですよね
    その後の動きも義久の動かない姿勢以外は
    家康の「西軍にいたけど何かの間違いだよね?謝りに来てくれたら水に流すよ?」といわんばかりの出来レースの様なムーヴをしている様に見える
    生き残ったというより、生かされたというのが真相に近かったのかもしれませんね

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci +4

      コメントありがとうございます!次回でも解説する予定ですが、おっしゃるように家康は最初から島津を処分する意図はなく、島津側が過剰反応していた感がありますね。

  • @schnellbart
    @schnellbart Před 2 měsíci +19

    関ヶ原合戦が終了した後、家康にとっては島津よりも絶対に豊臣家を見限らない加藤清正・福島正則の方が要注意人物ですね。だからブラフで島津に主君チェンジの忠誠を誓わせて豊臣と衝突するときに加藤を動けなくする方が得策という価値判断があったのでしょうね。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci +7

      コメントありがとうございます!確かに危険な清正の牽制役とするためにお咎めなしにした可能性はありそうですね。

    • @user-dn3uo4bb6m
      @user-dn3uo4bb6m Před 19 dny +1

      結局空気読んでお家の存亡賭ける覚悟の蜂起もしてないからね…豊臣恩顧だからお家潰してでも蜂起しろって意味ではないよ。
      状況次第ではあったんだろうけど恩顧と言えど秀吉没後の豊家に自らの家の存亡を賭けてまで動くつもりは最初からなかったと思うわ。
      秀吉没後の豊家にお家存続を賭けるれほどのものが豊家にはなかったんだろうね。

  • @change0324
    @change0324 Před dnem +2

    立花宗茂ミッターマイヤー説は激しく同意

  • @user-yw1hh7wt3t
    @user-yw1hh7wt3t Před 2 měsíci +1

    いつも義弘が苦労していたけど、今回は義久が苦労しなくちゃ行けなくなる展開好き。義弘を売ることもせずなんだかんだしっかりしてる。忠恒もつっこみつつつっこまれる人だから、三殿体制がこんなに魅力的なものだったとは全然知らなかった。(笑)

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci

      コメントありがとうございます!三者三様の個性があって面白いですよね😄😄

  • @user-ic9qj9ez2s
    @user-ic9qj9ez2s Před 2 měsíci +7

    投稿お疲れ様です。関ヶ原の戦いの前に重病で苦しむ伊東祐兵の所に出かけて我々の仲間になれよと味方になるように島津豊久が交渉したというお話しがあります。立花宗茂が和睦交渉で島津家の面目が立つようにあなたが上洛すればいいと助言した相手の島津忠長は伊集院忠棟と共に岩屋城の戦いで主将として立花宗茂の父親高橋紹運を討ち取った因縁のある人でもあります。こうした点が立花宗茂という戦国武将は創作を超えているので面白いのですが
    義久公が頑なに上洛を忌避するのを頑迷だと切り捨てるのは簡単なのですが立花家や長宗我部家は条件は違えど交渉した上で生命は保障してもらえたけれどもお家の改易は避けられなかった実例があるので躊躇せざるを得ないかとそれに島津家は伊達家とは違って室町幕府の頃から上洛しようとはしないお家でしたからそんな追い込まれた状況で忠恒公がどう打開するのか次回が楽しみです。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci +1

      コメントありがとうございます!おっしゃるように義久の判断自体は一概に責められるものではないと思います。

  • @7011F
    @7011F Před 2 měsíci +5

    山口直友って島津家との交渉時にしか名が出てこない不思議な武将なのですが
    調べてみると赤井直正の甥で、赤井直正が近衛家と婚姻関係を持っていた関係で近衛家縁者で使者に選ばれていたそうですね
    この方病弱で60歳まで独身でしたが、妻を娶ると子が出来ており、最終的に78歳まで生きているのでどこが病弱なんじゃいと突っ込みたくもなります

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci +1

      ご教示ありがとうございます!山口直友はそんな素性の人物だったんですね。勉強になりました😄😄

    • @toshis3972
      @toshis3972 Před 2 měsíci +4

      やる夫関ケ原でも描かれていましたね。60超えて二度も結婚、しかも最初の結婚は妻に先立たれてもっと若い妻がいいと10代の娘と結婚した と言う展開に仕立て上げて居ましたW
      あの方も今の時代ならつべで動画にしていたのでしょうか。秀吉エタったのが残念です

  • @user-nr7qd5vh3l
    @user-nr7qd5vh3l Před 2 měsíci +5

    引きこもりニートvs家族&追い出し屋のバトルかな?

  • @zuyafour
    @zuyafour Před 2 měsíci +2

    「九州では関ケ原合戦いまだ終わらず。」と書状にしたためて家康殿に送るのがいいかもしれませんね。
    (治部殿にもこっそり伝えてあげて)
    家康殿の建前
    「寒気を理由に年内に島津攻めを強行する必要はない。」
    家康殿の本音
    「如水殿、まかり間違っても野望を抱くことが無いように。」

    • @user-ml5px7br2j
      @user-ml5px7br2j Před 2 měsíci

      某チャンネルの妄想ですが伊達家の片倉小十郎が黒田如水は危ない云々…実は関ケ原の戦の本当の目的は秀吉死後の豊臣家内紛に乗じて不届き者(如水、真田昌幸辺り)に乗っ取られないよう三成から訴えられた家康のヤラセ戦だったと。
      和睦交渉でも心底島津家を思う立花宗茂とは違い、黒田如水は己の野望の為に島津家を利用しようとしたんだろうなぁ

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci +1

      コメントありがとうございます!官兵衛のほうが好戦的で家康が先手を打って制したという説もありますね🙄🙄

  • @diopresario
    @diopresario Před 2 měsíci +2

    本当に政治って難しいですねぇ。義久・家康と北条は同じ選択をし、一方は殲滅され、一方は名誉の安堵を勝ち取れたという。
    後世の後付け知識で色々言うことはできますが、所詮政治の本質なんて運否天賦のギャンブルなんでしょうね。どんなに有能な政治家にも等しく失政のリスクがある。
    そう考えると義久の権力分散&責任回避ムーブも現実の政治においては合理的な行動なんですよね。運否天賦の失政が起きても君主の権威を損なわずに済み、家中の崩壊を防げる。言わば工学での冗長性みたいなもの。
    逆に末期勝頼のように自身と側近に実権が集中した状態で高天神崩れのような失政を起こすと一気に領国崩壊が起こるのが戦国のデフォです。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci

      コメントありがとうございます!おっしゃるように島津と北条の命運を分けたのはぶっちゃけ運の要素が強いですね。政治は結果が全て的なことは言われますけど、小田原合戦だけで北条氏政を無能扱いするのは不当な評価だと思います。

    • @diopresario
      @diopresario Před 2 měsíci

      その通り北条や武田の失政は結果責任ですし、裏を返せば状況という運に見放されてしまえば誰が責任者であっても失敗は変わらなかったということでしょう。実権を君主が握っていようが部下が握っていようが結果は同じ。
      …正直なところ、大名自身に権力を集中させる必要性なんてあるのでしょうか?むしろ自身の失政で主家の権威を失って家臣離反というのが戦国大名滅亡の黄金パターンである事を考えれば悪手と言わざるを得ない。例えるなら単発の航空機で唯一のエンジンが故障するようなもの。
      勝頼や氏政の責められるべき点は"大名自身が政策決定コストを払ってしまった"その一点に尽きると考えます。

    • @diopresario
      @diopresario Před 2 měsíci

      率直な話、戦国の真実さんとしては義久の権力分散ムーブは義久自身が①意図したものだったのかor成り行きだったのか、②当主の権威維持という政治的判断だったorただの責任回避だった、どちらの印象を持っていらっしゃいますか?これらは史料から推し量る他ない部分なので、論者の解釈と思想に依ると思われますし自由に考えて頂きたいです。
      私個人としては①意図的だった、②政治的判断だった、と考えます。
      島津家は近衛家と太いパイプを持っていますし、義久がこういう政治観になるのも必然かな、と。(藤原家は伝統的に、権限と責任は人臣が負うべし、という政治観を持っています。失政によって天皇の権威を損ねないため、陛下は政治に口を出してはならない、という。近代の三条実美や西園寺公望の政治姿勢に端的に現れていますね)

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Před 2 měsíci +3

    近衛家に伝手があって良かったね島津さん…

    • @user-is9gx8ij5k
      @user-is9gx8ij5k Před 2 měsíci +4

      近衛とのパイプはその後も島津家が徳川幕府との関係を構築する上で活かされてますよね……。
      特に茂姫や篤姫の輿入れの件とかで……。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci

      コメントありがとうございます!島津は意外に中央にコネがありますね。

  • @user-yp9oo3qm4s
    @user-yp9oo3qm4s Před 2 měsíci

    九州における島津はオセロにおける角石みたいで、東軍と西軍では無く鍋島家の様に何かどっちにでも転ぶような…。北陸もそんな家(前田と丹羽)がありましたし。最終の東軍認定を誰が取るかで外交合戦があったように思います。関ヶ原って物凄く巨大な局地戦で敗将が西軍になった気配すらありますよね…。関ヶ原を生き残って辿り着いた義弘のせいで頭が沢山あるし気勢は上がるし、家康も清正の牽制もあるしオーナー会長義久も謎だし困ってたフシがあって楽しめました

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci

      コメントありがとうございます!関ケ原時における九州諸大名の生き残りと勢力拡大を兼ねた外交戦はとても面白いですよね😃😃

  • @user-eq1kh7ts1j
    @user-eq1kh7ts1j Před 2 měsíci +2

    この間ずっと宇喜多秀家をかくまってたという...

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci

      コメントありがとうございます!その理由については次々回で解説する予定です😄😄

  • @user-ik8yc9qq9s
    @user-ik8yc9qq9s Před 2 měsíci

    引き篭もりタァーイム!

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci

      コメントありがとうございます!義久の奥の手😦😦

  • @tarowchan96
    @tarowchan96 Před 2 měsíci +3

    領国内だけど三成の領地もらってるから実質加増まであるよね

    • @user-is9gx8ij5k
      @user-is9gx8ij5k Před 2 měsíci +3

      泗川攻防戦の論功行賞ですよね確か……。
      あと、三成の領地だけじゃなくて、太閤蔵入地と細川幽斎の領地も返してもらってたんですよね……。

    • @user-ub7tt4gl8y
      @user-ub7tt4gl8y Před 2 měsíci

      最終的に義弘派を完全解体してその分を忠恒派に返還(領地トータルではほぼノーダメージ)って考えると幕府に恨みなんて全く無いという

    • @MUSASI40
      @MUSASI40 Před 2 měsíci

      しかも 伊集院家の領地まで含めれば実質16.、7万石は増えてるんですよね

  • @4BLOCKERS
    @4BLOCKERS Před 2 měsíci +3

    26:07 義久が義弘になっちゃってるな。

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci

      ご指摘ありがとうございます!これは恥ずかしいミスですね😥😥たまにごっちゃになってしまいます😅😅

  • @user-lw6gn7uu8r
    @user-lw6gn7uu8r Před 2 měsíci +3

    和睦交渉中に旅行に行く義久さすがですね😂
    ただ一緒に旅行行った相手が次女の新城だったのが気になりますね
    新城の子の忠仍(久信)は義久の家督継承者とも目された人物で忠恒にとっては警戒するべき人物であり、義久の従弟で忠仍の祖父である以久は加藤清正らと繋がってる可能性のある島津家としては警戒するべき有力一門の人物である
    関ヶ原の和睦交渉は義久義弘の身柄の保証と本領安堵と共に、忠恒の家督継承の確約を求めていたらしいので、このタイミングで義久が長女や三女ではなく次女の新城を伴っての旅行は、祖父以久に島津家の新たな代表としての旗頭にされかねない忠仍を手元に置いとくための、政治的な意味合いとかもあったのかな?というかあってくれ!!!

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci +1

      コメントありがとうございます!このKYな旅行の話結構好きなのですが😆😆おっしゃるように忠仍擁立を目論む不穏分子の蠢動を抑えるためという動機があったと考えるなら、やはり義久はしたたかな男だなと思いますね😃😃

    • @user-lw6gn7uu8r
      @user-lw6gn7uu8r Před 2 měsíci

      @@user-ii9wu7fn7p
      義久なので何も考えてない可能性が高いですけど、その後の鹿児島行きの拒否も含め、島津家の代表として何かしら思惑があっての行動だったと信じたいです😭😭

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci +1

      @@user-lw6gn7uu8r この捉えどころのなさが義久の真骨頂なのかもですね😯😯

  • @user-bz6hq4tx9r
    @user-bz6hq4tx9r Před 2 měsíci

    福島池田等が岐阜城を早々に落としたこと、真田昌幸が秀忠の徳川本隊を足止めしたこと
    これらが原因で関ヶ原が徳川の完全勝利とならず、家康は拠点の関東がある東側は固められたけど西側では油断ならない大名たちに大領を与えざるを得なかったおかげですね

  • @kirin4126
    @kirin4126 Před 2 měsíci

    昔 最近亡くなった鈴木アナの番組でお咎めなしが島津の交易妨害の海賊行為というオチがあったのだけど

    • @user-ii9wu7fn7p
      @user-ii9wu7fn7p  Před 2 měsíci

      コメントありがとうございます!お咎めなしの理由については次回で解説します😄😄

    • @toshis3972
      @toshis3972 Před 2 měsíci

      なつい、歴史への招待でしたっけ?当時はNHK出版から出ている本まで読んでいました。その回も覚えていて島津と明との意外な関係を初めて知りました
      ただ今思うと歴史”小説家”の自説を元にした番組構成で『その時歴史が動いた』と同じでトンデモ説も平気で紹介していましたね

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu Před 2 měsíci

    引きこもりの星。義久公😙

  • @user-affffrussia
    @user-affffrussia Před 2 měsíci

    義久1万人で関東?断られて義弘千人で関西?兄弟の嫌がらせで、あの軍隊なんでもするようなってきたで。