なぜ頼朝と義経は仲が悪くなってしまった?日本の歴史を変えた兄弟喧嘩【鎌倉殿の13人】

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  • čas přidán 26. 02. 2022
  • 勢力を拡大する頼朝のもとに現れた頼朝の腹違いの弟、源義経。
    義経はその天才的な軍略で平家軍を次々と打ち破り、源氏の悲願であった平家滅亡を成し遂げます。
    しかし頼朝は義経の大活躍に喜ぶことはなく、やがて義経は頼朝の追討対象となってしまいます。
    なぜ頼朝と義経は仲が悪くなったのか、義経のどこが問題だったのか、紹介します。
    #大河ドラマ #鎌倉殿の13人 解説動画です。
    〜鎌倉時代をもっと深く知りたい方におすすめの本9選〜
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Komentáře • 76

  • @yoshii871
    @yoshii871 Před 2 lety +29

    のちのちもう一人の兄弟 範頼も処分されてしまうから、おとなしく従って平家討伐したとしても義経も処分されてたんだろうね

    • @user-jr3px8zk5e
      @user-jr3px8zk5e Před 2 lety +5

      伊藤パパが言っていたが、アイツは、坂東武者を見下していると
      というより自分以外見下している。足利尊氏のように両親や、家来にきちんと
      武士としての人としての教育を受けていないからしゃあない

  • @user-yz4um8sg2z
    @user-yz4um8sg2z Před 2 lety +27

    よく義経は政治センスが無かったと言われますが私は少し違うと思います。義経は幼少から今日で育ちました。そんな彼にしてみれば武士が朝廷に官位を貰い朝廷に従うのは当たり前の事の感覚だったと思います。だから頼朝から自分に許可を得ず官位を貰うなという命令も然程重要視しなかったのだと思います。一方頼朝は京と関東両方に長期間住んでいたので朝廷の恐ろしさも西から搾取される関東の不満も理解していたのでしょう。だから、頼朝は武力による強引な独立ではなく、朝廷から徐々に権力を奪っていくソフトランディングな相互不干渉の独立を目指したんだと思います。この両者の育った環境の違いが視点の違いを生み、仲違いに繋がったのではないでしょうか?

  • @japanese_watermelon
    @japanese_watermelon Před 2 lety +12

    奢れる平家を滅ぼしたけど結果実行した側も誰一人幸せにはなってなくて諸行無常やん

  • @user-uu6jg4iv4c
    @user-uu6jg4iv4c Před 2 lety +20

    母系が違えばやっぱり赤の他人に近いもんで兄弟の情も薄かったのでしょうな。

    • @user-xh6jm3ci9y
      @user-xh6jm3ci9y Před rokem

      頼朝は正室の子供義経は側室の今でいえば愛人の子供なので、義経は家来扱い‐喧嘩の発端は、義経が政治に疎かったから、後白河法から,官位もらうときに頼朝の鎌倉殿の許しもらわなかったから

  • @user-tb5pi2is5u
    @user-tb5pi2is5u Před 2 lety +8

    東国平氏の北条氏は、まず源氏一族や他の東国武士団を利用して西国平家や奥州藤原氏を殲滅し、その後は源氏一族や他の東国平氏を次々に殲滅、北条の幕府を完成させた。
    あの時代で最も賢いね❗️

  • @user-yf8jl1tt9l
    @user-yf8jl1tt9l Před 2 lety +10

    両雄並び立たず…ですね。
    猜疑心の強い頼朝が義経の存在をよしとする
    ことはなかったと思う。

  • @user-wb3mm1nq5l
    @user-wb3mm1nq5l Před 2 lety +4

    頼朝は山木兼高の目代屋敷の夜襲で勝ったくらいで、石橋山の戦いで敗けて安房から鎌倉に移動中に多くの荘園領主を御家人にしていった。義経は木曽や平家を壊滅させて大きな武功を挙げたので頼朝の存在感が薄くなった。

  • @user-hf5cn1mi9z
    @user-hf5cn1mi9z Před 2 lety +15

    頼朝が嫉妬深すぎて
    ここらへんが3代で無くなってしまった要因だと思うんだよなあ

  • @user-dt4wb2pw7y
    @user-dt4wb2pw7y Před 2 lety +3

    どんな理由や事情があれど、兄弟喧嘩は良くない。事実上、兄弟が居ない現代の一人っ子の弁・・・。

  • @Sugiura_Kenji
    @Sugiura_Kenji Před 2 lety +1

    足利尊氏と直義の同母兄弟が争って長期の広域の戦乱(:「観応の擾乱」1350-1352)になったことを考えると、源頼朝が治承寿永の乱の間だけ (戦上手なだけ?の)異母弟義経を利用し、乱が終わったらさっさと切り捨てた事を、我々国民は感謝すべきなのかもしれない。

  • @mykst2008
    @mykst2008 Před 2 lety +7

    母親違いの兄弟というものはやはりどこまでも他人と言っていい存在だったのでは。
    永井路子に言わせればスタンドプレーが過ぎた結果だという(これも半面教師で義時がNo.2として頼朝から信頼され、粛清を逃れる手本となり、同時に自分への追い落としを防ぐ手立てとなる)
    勝手に官位をもらったり、頼朝からつけられた眼代の意見を無視したりと「自分は弟だ、文句はあるか」とやってはならないことをしてしまったということに気が付かず「悲劇のヒーロー」と呼ぶのは大間違い

    • @maksight503
      @maksight503 Před 2 lety +4

      父が健在であったら、兄2人を越えて嫡男扱いだった正室の子頼朝と雑仕女の子の義経は同列の兄弟として扱われたかどうかわかりませんよね。

  • @hiroyuki5920
    @hiroyuki5920 Před 2 lety +6

    敵を倒すためには戦の才のある弟は歓迎だったかもしれないが、世を平定すれば軍事の才ある者など危険分子になりかねず、為政者とすれば排除したいに決まってる。それに異母兄弟は仲が悪い事が多い。頼朝にすれば異母弟を都合よく使い捨てにしたというだけの事。

    • @rekishock
      @rekishock  Před 2 lety +6

      範頼ですら最期は排除されるあたり、義経がどれだけ上手く立ち回っても、頼朝の考えは変わらなそうですよね。

  • @user-it9tb4um2p
    @user-it9tb4um2p Před 2 lety +27

    そもそも、最初から仲なんかよくない気がするんだが。

  • @user-nd7hf4mf2n
    @user-nd7hf4mf2n Před 2 lety +5

    武士からは嫌われたんやないの?
    戦い方が卑怯だからね!
    やから、いざ頼朝と戦おうとしても、兵が集まらなかったやろ!

  • @user-ct1zg6bh8n
    @user-ct1zg6bh8n Před 2 lety +16

    梶原景時が評したように、源義経は「猪武者」でしかない。謀叛に参加する者がいなかったのが、人徳も無かった証拠だろう。後世「追われ者の代表」に祭り上げられたせいで、悲劇のヒーローになってしまった。
    最近史実がクローズアップされて、義経の実像が明らかになってきたのは良い傾向だ。今までの英雄譚はエンターテイメントとして楽しめば良い。

    • @user-ke1xz7lw3m
      @user-ke1xz7lw3m Před 2 lety +8

      義経は少々、ヒステリックなところがあったようだね。
      平家討伐後には遊び惚けていて人心も離れたのだろう
      頼朝の方は政治家で優れた人物だったようだが猜疑心が強くもあったようだ

    • @user-jr3px8zk5e
      @user-jr3px8zk5e Před 2 lety +7

      鎌倉殿の13人の九郎判官は、殺されてもしゃあない
      いきなり無抵抗の人を殺すんだからな
      三谷幸喜は、源氏に怨みでもあんのか(笑)介殿と九郎判官を貶めて描いているとしか・・・・

    • @yh6146
      @yh6146 Před 2 lety +3

      手塚治虫の漫画では義経は最低なクズとして描かれていた。

  • @fwhf0162
    @fwhf0162 Před 2 lety +22

    大河ドラマ、鎌倉殿の13人では、義経=正義ではなく、範頼をもっとピックアップしてほしい。序盤こそ義経の奇策で戦いに貢献していたが、終盤は兵力で圧倒した力攻めで十分。勝ちを急いで三種の神器を海に落とすとは大失態だ。範頼のように地味でも着実に行動する方も評価されるべきだ

    • @user-ok5ut2qi1j
      @user-ok5ut2qi1j Před 2 lety +6

      大いに同感です。三種の神器の件もそうですが、何より、当時わずか6歳であった安徳天皇を直接手を下したのでないにせよ、結果的に弑逆のような結果になってしまった。
      安徳天皇(と身の回りの侍従達)だけでも逃がすようにしていれば、と思います。
      兄の頼朝に追悼された事や、その頼朝の血筋が3代で絶えたことも因果応報ともいえるかもしれません。

    • @user-tl7jt7rm5h
      @user-tl7jt7rm5h Před 2 lety

      壇ノ浦の時点で範頼は陸上から平家勢力を攻撃していました。
      九州を制したのも範頼、入水も想定される中戦場が海上に移った時点で安徳天皇はやむなしと考えていたでしょうね。
      頼朝的には『もうちょっと上手くやれよ、、、』
      とは思っていたと推察できます。
      最終的に範頼は流罪になれますからね。

  • @user-ih8zr9om6o
    @user-ih8zr9om6o Před 2 lety +4

    信長も政宗も弟殺しの武将なのに、頼朝だけやけに冷酷男扱いが強いですよね。
    弟が有名人だからと、平家を滅ぼしたら用済みポイ~のイメージがあるからでしょうか。

    • @rekishock
      @rekishock  Před 2 lety +4

      確かに、その2人も弟殺しという点では同じですね。
      頼朝は2人に比べて、自身の天下が確定してから義経を追い詰めたので、余計にイメージがついているのかもしれません。

    • @to4342
      @to4342 Před 2 lety

      信長の弟何か活躍した?
      何にもしていないし知名度も0に近いね。

  • @user-jl6sq3ke6h
    @user-jl6sq3ke6h Před 2 lety +8

    義経の性格が大河みたいな感じだったら困る

  • @user-ft1bh4xe7v
    @user-ft1bh4xe7v Před 2 lety +3

    自分的結論、今までの義経像はいい子ちゃんすぎる。史実の義経(実際に分かっていることは少ない)と、フィクションの義経の解離が甚だしいので、矛盾が生じて当たり前。

  • @ooamisannmu7690
    @ooamisannmu7690 Před 2 lety +8

    頼朝が島抜けをした時 奥州藤原氏討伐の祈願の仏像を寄進したと聞いています
    その手先とも言える 義経と仲が悪くなるのはあたりまえです
    それにしても源氏3兄弟と藤原氏が奥羽・奥州を平定したのに 頼朝のあくどさは 家康と似ています

  • @user-ie2nn5dt2f
    @user-ie2nn5dt2f Před 2 lety +6

    簡単なことで劉邦と同じケースでしょ?結果全員やっているし・・・しょぼ官職の検非違使の位をゴシラJKから勝手にもらったのも粛清チャンスだって思っただけだし

  • @kenkinu123
    @kenkinu123 Před 2 lety +3

    肖像画が本人のものなら、義経は源氏ではないんだよね
    義朝の子供じゃなく、兄弟でも何でもなかった

  • @kN-bx1so
    @kN-bx1so Před 2 lety +11

    頼朝は他の兄弟や同族同様に将来の謀反の禍根となる者は何かしらの理由をつけて粛正したかったのでしょうね。
    なので特にこれがきっかけというのはなく邪魔になったから消したからではないでしょうか。

  • @masamika3443
    @masamika3443 Před 2 lety +18

    今回の義経は、いわゆる史実に近い雰囲気ですね。せっかち、奔放、爛漫!

    • @user-jr3px8zk5e
      @user-jr3px8zk5e Před 2 lety +7

      タッキー義経は、清廉潔白の武将なのに・・・・
      菅田将輝、義経は、サイコパスにしか見えん・・・・

    • @user-yv3ut1fg3n
      @user-yv3ut1fg3n Před 2 lety +4

      @@user-jr3px8zk5e
      滝沢の義経はないです

    • @user-jr3px8zk5e
      @user-jr3px8zk5e Před 2 lety

      @@user-yv3ut1fg3n
      タッキー
      えっ・・・・何、神木の方がエエんか❗(;´Д⊂)

    • @user-yv3ut1fg3n
      @user-yv3ut1fg3n Před 2 lety +8

      @@user-jr3px8zk5e
      いいえ滝沢秀明の義経は品行方正すぎてる

    • @user-xh6jm3ci9y
      @user-xh6jm3ci9y Před 2 lety +2

      @@user-yv3ut1fg3n さんー東山紀之さんのもありますよ

  • @user-cj1td2ik1m
    @user-cj1td2ik1m Před 2 lety +5

    私は、今、「NHKの大河ドラマ 鎌倉殿の13人」を見て、なぜ、いつも仲が悪いのか不思議に思っていました。この動画を見て良く分かりました。大変分かりやすい説明ありがとうございました。

  • @user-og2rj2lg1b
    @user-og2rj2lg1b Před 2 lety

    鎌倉の13人衆を見てると
    後白河法皇のずる賢しさと
    義経の世間知らずから
    不仲を招いたと思ったが、
    自分が頂点に立つ国づくりを
    したい頼朝の逆鱗を尽く
    触れてしまったのも要因だな

  • @user-re7xu1or2y
    @user-re7xu1or2y Před 2 lety +4

    しかし源も崩壊してしまったので、何とも言え無い。源の頼朝がそれ程よい政治をしたのか?弟達を殺して、たかだか4、50年の実権昔も野心の為に兄弟や親でも殺し合ったとか?

  • @harunatakao
    @harunatakao Před 2 lety +38

    義経というのは現代風に言えばある種の発達障害だったのかもしれません。戦術に長けており、戦争に関しての能力は類まれなものを持っていると言えます。例えば馬を騎馬隊としてその機動性に目を向ける辺りは当時の武士たちには思いもつかず、迅速に敵の背後に回り込み不意打ちを仕掛けようとするなどやはり着眼点は天才的です。ところがそれほど戦争に関しては秀でていても、人間関係や社会全体を見通し、武士たちが何を望んで頼朝に味方したかなど義経は考えたこともないでしょう。政治家としては赤子同然であったわけです。関東武士団にしてみれば、鎌倉殿は頼朝だけで十分なのであり、頼朝の連枝にまで威張られる謂れはないのです。義経の頭では、関東武士団が頼朝に従ったのは頼朝が源氏だからであり、自分も頼朝の弟だから主筋に当たるとしか思っていなかったようです。新しい武家の世の秩序を作ろうとしていた頼朝にとって義経は極めて危険な存在でしかありませんでした。自分のすぐそばに時限爆弾が置いてあるような気持ちだったでしょう。

    • @ドナルドトランプ
      @ドナルドトランプ Před 2 lety +3

      根拠なき妄想にしか聞こえない

    • @user-zn2xw6mn8m
      @user-zn2xw6mn8m Před 2 lety

      それな

    • @harunatakao
      @harunatakao Před 2 lety

      @@ドナルドトランプ 聞こえない?喋ってないからな、聞こえるわけないわな。頭悪い奴の文章は論理的でないので読みづらい。根拠って何の根拠だ?

    • @harunatakao
      @harunatakao Před 2 lety

      @@user-zn2xw6mn8m 頭悪い奴の文章は、単語だけだけだから意味不明だ。なんだ「それな」とは?

  • @user-zp2vs7hz3y
    @user-zp2vs7hz3y Před 2 lety +16

    個人的に言わせてもらえば、頼朝、義経、どっちもどっちて感じがしますね。頼朝は子供のころから自分の父親が親と兄弟同士で争っていたのを見てきてるから、たとえ自分の弟であっても猜疑心、警戒心をもっていたのでしょう。義経は物心がつかないうちから家族と生き別れになっていたことから、家族愛に餓えていたんだと思います。二人の生い立ちの違いが不仲になった根本的な原因だと思います。お互いが直接じっくり話し合う機会を頼朝がつくってあげればこのようなことにはならなかったと思います。頼朝、義経が対立した原因は、きちんと話し合うべきことを兄がしなかったこと、また弟があまりにも世間知らずで自分勝手な行動が多かったことですね。

  • @user-lq7vc1rz3l
    @user-lq7vc1rz3l Před 2 lety +4

    芝居ですから…

  • @MO-bc3jm
    @MO-bc3jm Před 2 lety +3

    頼朝の元で下手に出てれば良かったのに勝手に官位を受けたのが最後でしたね。

  • @user-wb3mm1nq5l
    @user-wb3mm1nq5l Před 2 lety +10

    頼朝に京都守護職に任命されたが、それは聞き流して、法皇に検非違使の小尉(中国の官名では判官)の官位を受けたので、多くの御家人も法皇から官位を受けた。頼朝を通すことはなくて、頼朝の許可を得ることもなかった。
    義経が真っ先に頼朝の体制からの離脱をしたが、その自覚はなかった。

  • @yh6146
    @yh6146 Před 2 lety +10

    不仲の理由は義経が本当に自分の弟か疑っていたからでは、実際に初対面だから奥州藤原氏が替え玉を仕込んでも気づかない。でも頼朝は長年の流人生活で疑い深くなっていたから気づいた。

  • @user-vu1sn9mi5r
    @user-vu1sn9mi5r Před 2 lety +2

    頼朝の考えは、平家追討の戦いで、坂東武士に少しでも多く活躍させて勝つこと。そして坂東武士の所領を増やす。そうしないと坂東武士が自分の言うことを聞かなくなるから。
    でも義経は坂東武士をほとんど活躍させることなく平家に勝ってしまった。
    そりゃ坂東武士からの義経に対する批判を頼朝は無視できないよ。
    わざわざ遠いとこまで行って、ほとんど何もせずに鎌倉に帰ったのなら文句もでる。

    • @user-xh6jm3ci9y
      @user-xh6jm3ci9y Před 2 lety +1

      義経様が、後白河法皇様から,官位もらうときに鎌倉殿の許可もらわなかったから、義経様は確かに鎌倉殿の弟ですが,義経様は常盤御前さま側室の子供なので

  • @user-ph8td4ut3e
    @user-ph8td4ut3e Před 2 lety +2

    そりゃ権力者は2人はいらんわな。どこの世でも同じ。親兄弟でも同じでっせ。

  • @sundaymoney2958
    @sundaymoney2958 Před 2 lety +14

    頼朝が武家政権を樹立する!って言ってんのに
    朝廷から簡単に官位とかもらったらそりゃいかんでしょ。ってなるよね
    あと、三種の神器を回収できなかったのも痛かったと思う。
    頼朝にとっては平家の滅亡よりもそっちの方が重要だったんだと思う。てか壇ノ浦前には勝敗は決してたし。
    後鳥羽天皇を正式に天皇と認めさせるにはそれらの物と儀式が何より重要で
    頼朝もそっちを重視してたことを義経は理解してなかったんだと思います。

  • @user-py9uf5ty5o
    @user-py9uf5ty5o Před 2 lety +4

    武家政権を目指したのに、朝廷に近づいたからだったと思います!

  • @user-jr3px8zk5e
    @user-jr3px8zk5e Před 2 lety +11

    大泉洋が、頼朝役を引き受けたのを後悔しているぐらい
    頼朝の性格は、最悪(笑)それが全て(笑)

  • @user-jq7wz9cs4b
    @user-jq7wz9cs4b Před 2 lety +6

    全ての元凶は連絡役であった筈の梶原景時の悪意ではないかと思う。
    しかし大河の頼朝は下種過ぎる