浪曲師『桃中軒雲右衛門』思い出の芸(1978年)*前編 小山觀翁撰集

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  • čas přidán 21. 08. 2024
  • 落語が、先行する芸能であった講談から登場人物の「カミとシモをつける」という方法を編み出して、説明主体の語り芸からの独立を果たしたことは、多くの方々がご存知のことだと思いますが、これは幕末から明治の初年のことでした。
    他方、こんにちの歌謡曲の起源になる「浪曲」もまた、講談から曲師(きょくし)と呼ばれる三味線伴奏者をともなって独立したのは、落語にはるかに遅れてのことでした。
    浪曲は、ラジオ放送の発展によって全国で喝采をうける芸能に発達したことは、わたくしも知っていたことでしたが、今年、思わぬ発見をいたしました。
    それは、皇太子殿下の取材を通じて30年来のおつきあいの、
    毎日新聞の記者、岩尾光代さんから、御著書をいただいて、有栖川宮熾仁親王(たるひと しんのう)の妃、董子(ただこ)殿下の御生涯について読むことができたからです。
    有栖川宮妃董子殿下が、その後半生は歌舞伎をはじめ江戸期以来の芸能に通じていらしたとに加えて、忠臣蔵の物語に深く興味をお持ちになっていたのは、ご実家に由来すること。
    そして、義士伝を聴くために「桃中軒雲右衛門」を御殿に召したこと。
    それが新聞を通じて評判になり、後発の芸能であった「浪曲」の格付けを一気に上昇させることになったことを、この本で初めて知りました。
    わたくしは、祖父に日本民俗学のてほどきを受けて以来、歴史研究を通じてリアリティーを追求する思索を続けてきました。
    また、父のおかげて日本の古典芸能の鑑賞眼については、格別の磨きがかかっていると自負しています。
    ところが、浪曲の神様と仰がれる、桃中軒雲右衛門については「どこがいいのかわからない」という評価をしておりました。
    ここに一編の放送を挙げますが、ここで識者が思い出を語る内容に、リアリティーを感じることができなかったのです。
    しかし、岩尾さんのご本を読んで、この人がいたから浪曲が日の目を見た、という意味で尊敬された人物であったこと。
    芸の良し悪しではなく、その存在が多くの浪曲師にとって励みになったこと。
    それ故に、彼もまた無理をして、その英雄像をみずから作り上げたこと。
    その結果、晩年は貧困のなかで寂しく亡くなったと。
    がリアリティーをもって見えてまいりました。
    名人ではないのに尊敬された人物というと、落語では柳亭左楽(りゅうてい さらく)を
    連想できます。
    岩尾さんの件の記述をあわせてお読みいただければ幸甚です。
    なお、この本は、幕末明治の歴史書の名著なので、お求めになることもお勧めします。
    『姫君たちの明治維新』
    岩尾光代 著
    文春新書1184 2018年09月20日初版
    flic.kr/p/QP77qV
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    表紙
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Komentáře • 1

  • @sarabaakagi
    @sarabaakagi Před 2 lety +2

    貴重な音源を、有難う御座います。いい勉強になります。