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自分が天下人になって、周囲に知られたくない低い身分の生まれや育ち、昔からの苦労、中々吐けない弱音を気軽に話せる利家の存在は大きかったのかも目上でも、上司でもなく、部下でもなく、他所の大名でもなく、親族でもない…昔からの馴染みだったからこそ話せる事とかあったでしょうし
戦国の世だと、槍の又左としていくつもの戦場を生き抜いてきたってのは尊敬を集めたでしょうね。
利家は秀長の代わりに台頭した辺り他の大名や武将たちが相談しやすい様な人柄だったんでしょうね。正則、清正ら武闘派からも三成ら官僚派からも敬意を持たれていた印象があります。
今でも大河ドラマ・利家とまつ・のいろんなシーンが思い出されます・・
おなじく😊
数年前に、加賀を訪れました。小京都らしい雰囲気だったと思います。有名な「兼六園」も訪れました。素敵な庭でした。江戸の徳川時代になっても、「加賀百万石」として、栄えていましたよね!!あの「東大の赤門」は加賀に徳川将軍家から姫君を迎えるために作られたものが今でも残っているのですよね!!
大河ドラマ利家とまつ観てました。まつ役の松嶋菜々子さん、利家さん役唐沢としあきさん演技とはいえ凄かったです。大河ドラマ大好きな、私は、利家とまつも、最終回迄観てましたよ。🐰🐰🐰ちなみに今どうする家康では、松嶋菜々子さんは、家康さんのお母さんおだいさん役です。
家康って最終的には豊臣家を滅ぼしたけど、信長と秀吉は裏切ることはなかったから当時の人からは信頼できる人物だと評価されてそう
織田家臣団の中でも、利家は信長の若い頃からの子飼いの弟分。家康も信長の舎弟のような関係で、姉川の戦いや長篠の戦いなどにも味方として同陣しているし、信長の死後、秀吉に臣従したということで、年も近い家康と利家にはお互いに通じるものがあったかも。若い頃は傾奇者、槍の又佐として歴戦の勇士である利家にとっては、石田三成などの官僚タイプの武将より、同じ歴戦の武将である家康の方により親しみを感じたでしょうし。また足利将軍家や武田家、今川家など数々の名門大名が次々と滅び、信長、秀吉と実力ある者が天下人となったのを真近に見てきた家康、利家にとって、やはり戦国の天下人は名よりも実力ある者がふさわしいという共通の認識があったのでしょうね、同じ五大老でも毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝は、偉大な先代(毛利元就、宇喜多直家、上杉謙信)から家と領土を引き継いだ第二世代。家康や利家は自らの実力で上り詰めてきた創業者タイプなので、いわゆる「最近の若いモンは・・俺らが若い頃は・・なんて会話でも気が合ったのでは」
😮
落ちぶれた時に声を掛けてくれる人こそ信用できる人だと利家は言っているけど 利家は落ちぶれ時に助けてくれた勝家を裏切って壊滅させて、落ちぶれた勝家に先陣切ってトドメを刺しに行ったのだからとんでもないクズだよなw 本人も自虐のつもりで言ったのかもしれないが...
@@user-zp6nk1eh5o軽いな。何千もの侍が前田家に人生を賭けて集まっているのに、賛成してない戦で意地を張って彼らの生きる場を失わせるのは殿様の選ぶ道か。
利家が創業者タイプとは違う気がします。会社員が執行役員まで上り詰めたってイメージのほうが自分的には合ってる気がします。
前田利家は徳川毛利らよりは存在感ないけど影の大物って感じがしてめっちゃ好き
かつての織田信長軍団の同盟軍の指揮官と遊撃軍の司令官同士の家康と利家はお互いによく知る相手だったはず。婚姻問題の折の両者のやり取りはまさに名優同士のエチュードで、戦に至ってないから賤ヶ岳や関ヶ原ほど注目度は高くないけど、政治戦の凄みを物語るエピソードですね。政治戦で圧倒的優位に立つことの大事さは賤ヶ岳の戦いで理解できますが、豊臣一門の一員としての利家の晩年は政治戦の戦上手さが際立ってますね。
尊敬する人物🎉
利家とまつ 初めて観た大河ドラマでした。まつが前田家を守る為…徳川へ人質になるシーンが印象的でした。
利家って人から頼られるいい人だったんだろうなってこの話をきいて思いました。
利家とまつ。これ見ると利家の生き様よくわかります👍
秀吉が利家を重要視したのは、秀吉の子飼武将とも関係性が深い事とも関係していますかね?有事の際には秀頼の旗の元に利家を中心として、集まりやすいと考えた事もあったのでしょうか。。。
気の置けないって言葉をちゃんと使える人を初めて見ました。流石です。
利家はほぼ一兵卒から上り詰めた武将。家康として苦労と実力を認めてたんだろう。
妻(まつ)がねね(秀吉の妻)と仲が良い。利家は、味方に対し騙し討ちをしない。(律儀者)でも、敵に対しては、トコトン潰す。
利家はもっと評価されて良い武将ですよね。もし、天下を望めば取れた可能性が最も高かった武将。若い時の信長軍の中枢を担っていたこと、さらに長篠では鉄砲隊を指揮するなど個人の武力だけではなく、最先端の戦術も熟知していて、武力・武功はTOPクラス。さらに、晩年は武将として多くに信用・信頼・尊敬を集めていた。おそらく対家康で勝てたのは利家だけだったのではないだろつか。もし対家康となった場合、上杉・宇喜多・毛利の他の五大老は利家に付く、蒲生も利家側、奉行衆も基本利家側となると流石の家康も勝てなかったと思う。それをわかってるから家康も決戦を避け、利家と関係を壊さないように尽力したと思われる。利家が天下を取らなかったのは、あくまで豊臣政権の維持がベースにあったこと、自分の命数を考えたことなどがあると思うが、律儀者としての性分が前に出たのではないだろうか。もう少し野心があったらと思うが、それが利家の魅力だと個人的には思う。そんな利家の前田家だから、結局、家康・徳川も信用して、外様ながら最終的には御三家につぐ格にし一門衆以上の待遇をしている。結局利家の人柄が、江戸時代には新井白石にして「天下の書府」と言わしめ、現在の工芸王国石川県に繋がるもの礎を作ったと思う。ほんと偉大な武将だ。ほんともう少し世の中で評価されてほしい。
天下を取るのは無理でしょう。家康を大義なく攻めたら負けるでしょうし、家康は利家が元気でいる状況では隙を見せず、無理はしなかったでしょう。言っては悪いですが家康、秀吉とは能力が違いすぎます。
@@user-ow1ww6cf7p 返信どうもです。大義の面では、秀吉の遺言である大名同士の婚姻を禁じていたのに勝手に進めるなど、遺言破りをしていた家康に大義はなかったでしょつね。また、秀頼の後見人は利家で、さらに五奉行は利家側となれば、完全に大義は利家でしょ。実際、家康の掟破り家康を処罰しようとして、利家派と家康派の対決機運が高まり、お互いに武将が集まった時に、利家に参集した武将が、家康を圧倒しですよね。それで家康が、折れて頭を下げて誓紙を出してます。その時にもし、決戦となってた場合はほぼ確実に利家が勝ってたと思いますよ。もし反論あるならどうぞ。
大江輝元(毛利輝元)とありましたが、大江とは、鎌倉時代のあの『大江広元』ですかね。
そうだよ。書籍に書いてありましたね。ご先祖が誰かという記述が。
なるほどです。深い話でした。
織田家中で犬、猿と呼ばれて大の仲良しだった利家と秀吉の友情は熱い。秀吉がねねを娶って一番に喜んだのは利家だし、子のない秀吉に娘を養子に出したり、もはや親戚よりも深い絆がある。賤ヶ岳で敵前逃亡したのも秀吉と戦いたくないから。勝家パイセンを裏切ったのは義にもとる行為だけど結果は加賀100万石なのは戦人として優れていた証拠だろう。前田慶次も好きだが、水風呂だけは許せない。利家の生涯は熱いロマンがあるね。
子供がいなかった秀吉と高台院に溺愛された豪姫の影響は大きいでしょうね。
賤ヶ岳の戦いでの加増について武功を上げていない利家に対しての不満が、後世の柴田勝家への裏切りとして語られたのですね。理由はちゃんとあり、秀吉と利家との密接な関係が大いに起因していますね。親類衆が少なく本当に心を許せ信頼できる者がわずかだった秀吉にとって、利家は昔から知っている気心の知れる相手だったろうと思います。特に、立て続けに一門衆を失った晩年は、秀吉の唯一とも言える存在だったはずです。利家が北陸を守ってくれていることも、大きな安心を与えていたと思います。戦国大名は互いに、婚姻を基にして関係を強化していくものですが、麻阿姫(利家の娘)を自邸に住まわせながら秀吉の側室にするという離れ業が可能だったのも、二人の信頼関係の強さあったればこそでしょう。家康はを、ここでも流石ですね!利家との関係を良好にして、息子秀忠にご指南を願うと利家に頼めるあたり、只者ではありません。表立って誰とも対立関係にならない、これが家康のポリシーで成功の秘訣かもしれません。個人的には、秀吉死後の2トップとして、家康と共にもう少し長生きして欲しかったと感じます。彼が存命であれば、関ヶ原の戦いはあの時点では起こらなかっただろうし、唯一茶々を説得できたのは利家だと思うので、あのような悲劇的な大坂の陣は起こらなかったのでは?!と感じます。
誰とでも仲が良い家康、敵をつくらない、憎めない性格だったのかも。
早くから秀吉とともに信長に仕え長屋では隣同士でお互いの祝言では仲人をつとめあった仲秀吉にとっては唯一無二の友だった(メロスで言うセリヌンティウス)
家康、秀吉はいろんなタイプの俳優が演じるけど、犬千代様はいつでもイケメン俳優❤
秀吉では渡辺徹だったぞ…まぁイケメンか
@@user-co4uy9zu1s さんへう~んwww
今回も、解説ありがとうございました!!今回は賤ヶ岳の戦い以降の利家の生い立ちについてが中心でしたが、武士道さんに質問です。若き頃に、信長が目をかけていた茶坊主を感情から切り捨てて出奔し、手柄を立てて帰参したと多くの歴史モノで語られていますが、信憑性と言うか一次資料としてはどうなのでしょうか?真実はともかく、確かに利家らしい?エピソードではありますが。
やっぱり石田三成かなぁ織田信長時代の前田利家が1番好き
大江輝元って一瞬誰のことかと思いましたが、毛利氏の祖先は大江広元でしたね。
鎌倉殿の十三人の一人ですね。
@@user-nj1ss3wv6z おっしゃる通り、まさか毛利氏の祖先が出た大河の翌年にその子孫が出ようとは思いませんでした。
利家についてよくわかった👍
家康の肩 ❌家康と肩⚪
太刀周り(?)、かっこいいです。
信雄が「平」で、家康が「源」というのは、本当だったんだ。
信雄の内大臣はなんとも言えないですね。宇喜多秀家は一時期前田利家よりも上だったのですね。
前田家は豊臣家から絶大な信頼を置かれてたからこそ秀吉死後真っ先に家康暗殺計画のイチャモンをつけられて切り崩されたんだろうな
0:42: 📚 前田年は静ヶ岳の戦いで柴田克軍から秀吉側に離反し、加賀北2軍を稼働させたことで加賀100万石の第一歩を踏み出した。4:45: 👧 豪姫が秀吉の幼女になり、都家が秀吉に味方していた理由と個人的な関係が特別扱いされた。8:50: 📜 豊臣政権の序列には織田信勝、豊臣秀吉、徳川家康、秀永、橋秀後、浮田秀家の順に並んでいた。13:12: ! 豊臣秀吉の後継候補が次々と失脚し、多くの家臣を失ったことにより、都市の立場が急激に変化した。17:24: 🏰 家康と秀吉の関係性や秀吉の権力の絶頂期について語られています。Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
利家は「男の中の男」と呼ばれ、信長・秀吉・家康の皆から信頼が厚かった…と聞いたことがある。2002の大河「利家とまつ」では、与力として勝家につくものの秀吉とはかねてからの親友だとして勝家自身が、秀吉に付くように勧めていた。あれはドラマなので演出ではあろうが、利家が信長の茶坊主を斬った際に、打ち首を免れて追放で済んだのは勝家の説得のおかげだったと思うので、個人的には勝家を裏切ってほしくなかった。
利家は信長の小姓でもあったようですが、今世間を騒がしているジャニー喜多川に対してのジャニーズJr.のように信長の夜の相手をさせられていたと聞いたことがありますが、どうだったのでしょうか?
三島由紀夫流に言ったら、我が友上総介だったから、茶坊主を斬っても追放で済んだんだの〜。
秀家の5番目が結構上の方だと意外に思いました。まだずいぶん若かったと思いますが。めっちゃ期待されていたんだなと思います。活躍をもっと映像や書籍で見てみたいですね(ᵔᴥᵔ)
秀家は秀吉の猶子でしたから可愛がられていたのでしょう。
秀吉が頭の上がらなかった人物が数人いる。妻のねね、利家の妻のまつ、秀吉夫妻の最初の子供でもあり利家・まつの子でもある豪姫。秀家の妻はその豪姫だからね。豪姫は名前の如く秀吉に負けず豪華絢爛な女性で、あまりの散財で、宇喜多家が秀吉に泣きついたエピソードあるくらいの女傑。当然、秀家は優秀な武将だけど、血縁的にも大事にされる立場にあったと思う。豊臣・前田と関係がかなり深いからね。そんな状態だから、利家自身が天下を取ろうと思ったら取れたと思うし、秀家を旗頭にして対家康しても勝てたと思うけど、利家にしても秀家にしてもちょっと人が良すぎてその世界線にはならなかったのが残念。余談として、大阪夏の陣後に、前田家の中で十万石で家の再興を打診されたが、徳川に仕えるのをよしとせず流刑になったと言われてる。宇喜多秀家は八丈島に流されたけど、前田家が明治まで援助し続けたから、前田も宇喜多も律儀者だと思ういますわ。
秀次事件で豊臣の一門衆支配が崩壊、利家は十分野心家と思うけどその嫡男がなあ。あと利家だけでなく秀吉も諸大名も家康の寿命が長いことを悟り恐れながら行動していたように思う。あの時代に家康の長命、見るからに元気だから皆がそう思っていたのだろうか?
あの初めの方にでてきた信長と一緒に家康いじめてた赤シャツ軍団に犬千代さんも池田恒興とか丹羽長秀と一緒に居たんだろうなぁそれにしても中川秀政って信長娘婿なのになんで侍従に任官してないんですかね
豊臣政権の序列(8:45)で何故、家康を豊臣一族より上にしてしまったのか。2代3代と世代を重ねてゆけば変わったと思われますが、単純に見ると脇の甘さを感じますね。
というか家康は正室が秀吉の妹で秀頼の義祖父になる人だから豊臣一族だよ
@@user-pt5ld2nu7g …秀吉の血族で男子のことですね。秀次は後に関白ですが。
たいへんためになる動画、ありがとうございます。ただ、一点だけ、縦書きの場合は、右側から書き始めますので、左が序列が高いに若干の違和感を感じました。最も官職が上位である内府を筆頭に右から記した方が自然かなと思いました。
12歳で嫁いできたまつにすぐ子供産ませてるの破天荒でいいですよね
ハタチ前後の青年が12歳の子供を性的な目で見れるのは中々の才能
@@subuya428 数え12だから中2か中3、現代でも全然アリかと。
@@neo-chinidone逆ですよ。数え12で結婚だと小5か小6。まつは誕生日もわかっているので満年齢だと11歳11ヶ月で出産しています
@@user-fs4pk5mu3c ホントだ❗私何て马鹿な间違いを(恥)
前田利家君、羽柴秀吉君と柴田勝家君の、板挟み状態で、勝家君の顔を立てる、意味合い?、裏切りでは無くて、織田信長君の女壻としての、息子さんや、娘さんが、養女だったしってのの、関係ですか、
40年前は信康
家康に次ぐ実力者に違いはなかったが、寄る年波に勝てず豊臣の天下を家康に預ける形になってしまった印象が強いかな?仮に両軍が対峙しても前田が敗走しそう。
勝家ファンからすると利家なんて裏切り者以外の何者でもない
前田利家は所領が少なすぎる。越中・能登・加賀・越前・若狭・飛騨の6カ国の180万石くらいないと対抗できないよね。
官位ばかり昇るなと秀長が藤吉郎に言ってるんだの〜。
旧織田家中の結集核にはなれないあたり利家らしいと言えばそうかな
金沢に生まれ金沢に育ちはや⁉️57年金沢市民は利家様 リスペクトしている方が多いと思います実際は先祖が一向宗でなぶり殺されている方が多いですけどね現在地元の北國新聞で安倍龍太郎先生の銀嶺のかなたという時代小説が掲載されております今現在 賤ヶ岳柴田様を裏切ったのではないという見解で進んでおりす佐久間盛政の三兄弟の抜け駆けで利家の裏切はなかった!というけん
小牧長久手の戦いで完全敗北したはずの徳川家康がその後めっちゃ優遇されている理由は何なんでしょう?最新学説ではどうなってるか知りたいですね。不思議です。
大河で話に出る頃にはたいてい死にかけてる地味に不遇のお方
ワタシはちょっと違って、ボンボンってイメージがあって、ボンボンなのに、お松様が尾張の下級将校の利家に嫁いだと関ヶ原の原作に描いて有って疑問に思っていたのですが、慶次郎が有名になってから、四男で慶次郎を追い出して、前田家を乗っ取ったのが解って、合点が行きました。
前にも前田利家の解説しなかったっけ?
家康にとって目の上のたんこぶだった男。
叔父御が死んで前田慶次が和平の使者になるんですね。
秀長と刑部は、又左は大したことないと知っていたんだの〜。秀長は官位ばかり昇るの可哀そうだの〜、刑部はあの老人には荷が重いんだの〜。
利家ほど過大評価な武将はいないと思う これといった手柄はなく最大の武功?が柴田勝家への裏切り逃走… 家康とはそもそも格が違いすぎる
実に内容の薄い回ですね。何故、取り上げたの?
批判をするならば持論を述べて批判をするのが良いんじゃないですかね?ただダメだと言うんでは言いがかりなりますよ。
何回同じことやる?
石高から言っても官位から言っても家康と利家との差は明らかです。
自分が天下人になって、周囲に知られたくない低い身分の生まれや育ち、昔からの苦労、中々吐けない弱音を気軽に話せる利家の存在は大きかったのかも
目上でも、上司でもなく、部下でもなく、他所の大名でもなく、親族でもない…昔からの馴染みだったからこそ話せる事とかあったでしょうし
戦国の世だと、槍の又左としていくつもの戦場を生き抜いてきたってのは尊敬を集めたでしょうね。
利家は秀長の代わりに台頭した辺り他の大名や武将たちが相談しやすい様な人柄だったんでしょうね。
正則、清正ら武闘派からも三成ら官僚派からも敬意を持たれていた印象があります。
今でも大河ドラマ・利家とまつ・のいろんなシーンが思い出されます・・
おなじく😊
数年前に、加賀を訪れました。小京都らしい雰囲気だったと思います。有名な「兼六園」も訪れました。素敵な庭でした。江戸の徳川時代になっても、「加賀百万石」として、栄えていましたよね!!あの「東大の赤門」は加賀に徳川将軍家から姫君を迎えるために作られたものが今でも残っているのですよね!!
大河ドラマ利家とまつ観てました。まつ役の松嶋菜々子さん、利家さん役唐沢としあきさん演技とはいえ凄かったです。大河ドラマ大好きな、私は、利家とまつも、最終回迄観てましたよ。🐰🐰🐰ちなみに今どうする家康では、松嶋菜々子さんは、家康さんのお母さんおだいさん役です。
家康って最終的には豊臣家を滅ぼしたけど、信長と秀吉は裏切ることはなかったから当時の人からは信頼できる人物だと評価されてそう
織田家臣団の中でも、利家は信長の若い頃からの子飼いの弟分。家康も信長の舎弟のような関係で、姉川の戦いや長篠の戦いなどにも味方として同陣しているし、信長の死後、秀吉に臣従したということで、年も近い家康と利家にはお互いに通じるものがあったかも。若い頃は傾奇者、槍の又佐として歴戦の勇士である利家にとっては、石田三成などの官僚タイプの武将より、同じ歴戦の武将である家康の方により親しみを感じたでしょうし。また足利将軍家や武田家、今川家など数々の名門大名が次々と滅び、信長、秀吉と実力ある者が天下人となったのを真近に見てきた家康、利家にとって、やはり戦国の天下人は名よりも実力ある者がふさわしいという共通の認識があったのでしょうね、同じ五大老でも毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝は、偉大な先代(毛利元就、宇喜多直家、上杉謙信)から家と領土を引き継いだ第二世代。家康や利家は自らの実力で上り詰めてきた創業者タイプなので、いわゆる「最近の若いモンは・・俺らが若い頃は・・なんて会話でも気が合ったのでは」
😮
落ちぶれた時に声を掛けてくれる人こそ信用できる人だと利家は言っているけど
利家は落ちぶれ時に助けてくれた勝家を裏切って壊滅させて、落ちぶれた勝家に先陣切ってトドメを刺しに行ったのだからとんでもないクズだよなw
本人も自虐のつもりで言ったのかもしれないが...
@@user-zp6nk1eh5o軽いな。
何千もの侍が前田家に人生を賭けて集まっているのに、賛成してない戦で意地を張って彼らの生きる場を失わせるのは殿様の選ぶ道か。
利家が創業者タイプとは違う気がします。
会社員が執行役員まで上り詰めたってイメージのほうが自分的には合ってる気がします。
前田利家は徳川毛利らよりは存在感ないけど影の大物って感じがしてめっちゃ好き
かつての織田信長軍団の同盟軍の指揮官と遊撃軍の司令官同士の家康と利家はお互いによく知る相手だったはず。
婚姻問題の折の両者のやり取りはまさに名優同士のエチュードで、戦に至ってないから賤ヶ岳や関ヶ原ほど注目度は高くないけど、政治戦の凄みを物語るエピソードですね。
政治戦で圧倒的優位に立つことの大事さは賤ヶ岳の戦いで理解できますが、豊臣一門の一員としての利家の晩年は政治戦の戦上手さが際立ってますね。
尊敬する人物🎉
利家とまつ 初めて観た大河ドラマでした。まつが前田家を守る為…徳川へ人質になるシーンが印象的でした。
利家って人から頼られるいい人だったんだろうなってこの話をきいて思いました。
利家とまつ。これ見ると利家の生き様よくわかります👍
秀吉が利家を重要視したのは、秀吉の子飼武将とも関係性が深い事とも関係していますかね?
有事の際には秀頼の旗の元に利家を中心として、集まりやすいと考えた事もあったのでしょうか。。。
気の置けないって言葉をちゃんと使える人を初めて見ました。流石です。
利家はほぼ一兵卒から上り詰めた武将。家康として苦労と実力を認めてたんだろう。
妻(まつ)がねね(秀吉の妻)と仲が良い。利家は、味方に対し騙し討ちをしない。(律儀者)でも、敵に対しては、トコトン潰す。
利家はもっと評価されて良い武将ですよね。
もし、天下を望めば取れた可能性が最も高かった武将。
若い時の信長軍の中枢を担っていたこと、さらに長篠では鉄砲隊を指揮するなど個人の武力だけではなく、最先端の戦術も熟知していて、武力・武功はTOPクラス。
さらに、晩年は武将として多くに信用・信頼・尊敬を集めていた。
おそらく対家康で勝てたのは利家だけだったのではないだろつか。
もし対家康となった場合、上杉・宇喜多・毛利の他の五大老は利家に付く、蒲生も利家側、奉行衆も基本利家側となると流石の家康も勝てなかったと思う。
それをわかってるから家康も決戦を避け、利家と関係を壊さないように尽力したと思われる。
利家が天下を取らなかったのは、あくまで豊臣政権の維持がベースにあったこと、自分の命数を考えたことなどがあると思うが、律儀者としての性分が前に出たのではないだろうか。
もう少し野心があったらと思うが、それが利家の魅力だと個人的には思う。
そんな利家の前田家だから、結局、家康・徳川も信用して、外様ながら最終的には御三家につぐ格にし一門衆以上の待遇をしている。
結局利家の人柄が、江戸時代には新井白石にして「天下の書府」と言わしめ、現在の工芸王国石川県に繋がるもの礎を作ったと思う。
ほんと偉大な武将だ。ほんともう少し世の中で評価されてほしい。
天下を取るのは無理でしょう。
家康を大義なく攻めたら負けるでしょうし、家康は利家が元気でいる状況では隙を見せず、無理はしなかったでしょう。
言っては悪いですが家康、秀吉とは能力が違いすぎます。
@@user-ow1ww6cf7p
返信どうもです。
大義の面では、秀吉の遺言である大名同士の婚姻を禁じていたのに勝手に進めるなど、遺言破りをしていた家康に大義はなかったでしょつね。
また、秀頼の後見人は利家で、さらに五奉行は利家側となれば、完全に大義は利家でしょ。
実際、家康の掟破り家康を処罰しようとして、利家派と家康派の対決機運が高まり、お互いに武将が集まった時に、利家に参集した武将が、家康を圧倒しですよね。
それで家康が、折れて頭を下げて誓紙を出してます。
その時にもし、決戦となってた場合はほぼ確実に利家が勝ってたと思いますよ。
もし反論あるならどうぞ。
大江輝元(毛利輝元)とありましたが、大江とは、鎌倉時代のあの『大江広元』ですかね。
そうだよ。書籍に書いてありましたね。ご先祖が誰かという記述が。
なるほどです。深い話でした。
織田家中で犬、猿と呼ばれて大の仲良しだった利家と秀吉の友情は熱い。秀吉がねねを娶って一番に喜んだのは利家だし、子のない秀吉に娘を養子に出したり、もはや親戚よりも深い絆がある。
賤ヶ岳で敵前逃亡したのも秀吉と戦いたくないから。勝家パイセンを裏切ったのは義にもとる行為だけど結果は加賀100万石なのは戦人として優れていた証拠だろう。
前田慶次も好きだが、水風呂だけは許せない。利家の生涯は熱いロマンがあるね。
子供がいなかった秀吉と高台院に溺愛された豪姫の影響は大きいでしょうね。
賤ヶ岳の戦いでの加増について武功を上げていない利家に対しての不満が、後世の柴田勝家への裏切りとして語られたのですね。理由はちゃんとあり、秀吉と利家との密接な関係が大いに起因していますね。親類衆が少なく本当に心を許せ信頼できる者がわずかだった秀吉にとって、利家は昔から知っている気心の知れる相手だったろうと思います。特に、立て続けに一門衆を失った晩年は、秀吉の唯一とも言える存在だったはずです。利家が北陸を守ってくれていることも、大きな安心を与えていたと思います。戦国大名は互いに、婚姻を基にして関係を強化していくものですが、麻阿姫(利家の娘)を自邸に住まわせながら秀吉の側室にするという離れ業が可能だったのも、二人の信頼関係の強さあったればこそでしょう。
家康はを、ここでも流石ですね!利家との関係を良好にして、息子秀忠にご指南を願うと利家に頼めるあたり、只者ではありません。表立って誰とも対立関係にならない、これが家康のポリシーで成功の秘訣かもしれません。
個人的には、秀吉死後の2トップとして、家康と共にもう少し長生きして欲しかったと感じます。彼が存命であれば、関ヶ原の戦いはあの時点では起こらなかっただろうし、唯一茶々を説得できたのは利家だと思うので、あのような悲劇的な大坂の陣は起こらなかったのでは?!と感じます。
誰とでも仲が良い家康、敵をつくらない、憎めない性格だったのかも。
早くから秀吉とともに信長に仕え
長屋では隣同士でお互いの祝言では仲人をつとめあった仲
秀吉にとっては唯一無二の友だった(メロスで言うセリヌンティウス)
家康、秀吉はいろんなタイプの俳優が演じるけど、犬千代様はいつでもイケメン俳優❤
秀吉では渡辺徹だったぞ…まぁイケメンか
@@user-co4uy9zu1s さんへ
う~んwww
今回も、解説ありがとうございました!!
今回は賤ヶ岳の戦い以降の利家の生い立ちについてが中心でしたが、武士道さんに質問です。若き頃に、信長が目をかけていた茶坊主を感情から切り捨てて出奔し、手柄を立てて帰参したと多くの歴史モノで語られていますが、信憑性と言うか一次資料としてはどうなのでしょうか?真実はともかく、確かに利家らしい?エピソードではありますが。
やっぱり石田三成かなぁ織田信長時代の前田利家が1番好き
大江輝元って一瞬誰のことかと思いましたが、毛利氏の祖先は大江広元でしたね。
鎌倉殿の十三人の一人ですね。
@@user-nj1ss3wv6z おっしゃる通り、まさか毛利氏の祖先が出た大河の翌年にその子孫が出ようとは思いませんでした。
利家についてよくわかった👍
家康の肩 ❌
家康と肩⚪
太刀周り(?)、かっこいいです。
信雄が「平」で、家康が「源」というのは、本当だったんだ。
信雄の内大臣はなんとも言えないですね。
宇喜多秀家は一時期前田利家よりも上だったのですね。
前田家は豊臣家から絶大な信頼を置かれてたからこそ秀吉死後真っ先に家康暗殺計画のイチャモンをつけられて切り崩されたんだろうな
0:42: 📚 前田年は静ヶ岳の戦いで柴田克軍から秀吉側に離反し、加賀北2軍を稼働させたことで加賀100万石の第一歩を踏み出した。
4:45: 👧 豪姫が秀吉の幼女になり、都家が秀吉に味方していた理由と個人的な関係が特別扱いされた。
8:50: 📜 豊臣政権の序列には織田信勝、豊臣秀吉、徳川家康、秀永、橋秀後、浮田秀家の順に並んでいた。
13:12: ! 豊臣秀吉の後継候補が次々と失脚し、多くの家臣を失ったことにより、都市の立場が急激に変化した。
17:24: 🏰 家康と秀吉の関係性や秀吉の権力の絶頂期について語られています。
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
利家は「男の中の男」と呼ばれ、信長・秀吉・家康の皆から
信頼が厚かった…と聞いたことがある。
2002の大河「利家とまつ」では、与力として勝家につくものの
秀吉とはかねてからの親友だとして勝家自身が、秀吉に付くように
勧めていた。あれはドラマなので演出ではあろうが、利家が信長の
茶坊主を斬った際に、打ち首を免れて追放で済んだのは勝家の説得
のおかげだったと思うので、個人的には勝家を裏切ってほしくなかった。
利家は信長の小姓でもあったようですが、今世間を騒がしているジャニー喜多川に対してのジャニーズJr.のように信長の夜の相手をさせられていたと聞いたことがありますが、どうだったのでしょうか?
三島由紀夫流に言ったら、我が友上総介だったから、茶坊主を斬っても追放で済んだんだの〜。
秀家の5番目が結構上の方だと意外に思いました。
まだずいぶん若かったと思いますが。
めっちゃ期待されていたんだなと思います。
活躍をもっと映像や書籍で見てみたいですね(ᵔᴥᵔ)
秀家は秀吉の猶子でしたから可愛がられていたのでしょう。
秀吉が頭の上がらなかった人物が数人いる。
妻のねね、利家の妻のまつ、秀吉夫妻の最初の子供でもあり利家・まつの子でもある豪姫。
秀家の妻はその豪姫だからね。豪姫は名前の如く秀吉に負けず豪華絢爛な女性で、あまりの散財で、宇喜多家が秀吉に泣きついたエピソードあるくらいの女傑。
当然、秀家は優秀な武将だけど、血縁的にも大事にされる立場にあったと思う。豊臣・前田と関係がかなり深いからね。
そんな状態だから、利家自身が天下を取ろうと思ったら取れたと思うし、秀家を旗頭にして対家康しても勝てたと思うけど、利家にしても秀家にしてもちょっと人が良すぎてその世界線にはならなかったのが残念。
余談として、大阪夏の陣後に、前田家の中で十万石で家の再興を打診されたが、徳川に仕えるのをよしとせず流刑になったと言われてる。
宇喜多秀家は八丈島に流されたけど、前田家が明治まで援助し続けたから、前田も宇喜多も律儀者だと思ういますわ。
秀次事件で豊臣の一門衆支配が崩壊、利家は十分野心家と思うけどその嫡男がなあ。
あと利家だけでなく秀吉も諸大名も家康の寿命が長いことを悟り恐れながら行動していたように思う。
あの時代に家康の長命、見るからに元気だから皆がそう思っていたのだろうか?
あの初めの方にでてきた信長と一緒に家康いじめてた赤シャツ軍団に犬千代さんも池田恒興とか丹羽長秀と一緒に居たんだろうなぁ
それにしても中川秀政って信長娘婿なのになんで侍従に任官してないんですかね
豊臣政権の序列(8:45)で何故、家康を豊臣一族より上にしてしまったのか。
2代3代と世代を重ねてゆけば変わったと思われますが、単純に見ると脇の甘さを感じますね。
というか家康は正室が秀吉の妹で秀頼の義祖父になる人だから豊臣一族だよ
@@user-pt5ld2nu7g …
秀吉の血族で男子のことですね。秀次は後に関白ですが。
たいへんためになる動画、ありがとうございます。ただ、一点だけ、縦書きの場合は、右側から書き始めますので、左が序列が高いに若干の違和感を感じました。最も官職が上位である内府を筆頭に右から記した方が自然かなと思いました。
12歳で嫁いできたまつにすぐ子供産ませてるの破天荒でいいですよね
ハタチ前後の青年が12歳の子供を性的な目で見れるのは中々の才能
@@subuya428
数え12だから中2か中3、現代でも全然アリかと。
@@neo-chinidone逆ですよ。数え12で結婚だと小5か小6。まつは誕生日もわかっているので満年齢だと11歳11ヶ月で出産しています
@@user-fs4pk5mu3c
ホントだ❗私何て马鹿な间違いを(恥)
前田利家君、羽柴秀吉君と柴田勝家君の、板挟み状態で、勝家君の顔を立てる、意味合い?、裏切りでは無くて、織田信長君の女壻としての、息子さんや、娘さんが、養女だったしってのの、関係ですか、
40年前は信康
家康に次ぐ実力者に違いはなかったが、寄る年波に勝てず
豊臣の天下を家康に預ける形になってしまった印象が強いかな?
仮に両軍が対峙しても前田が敗走しそう。
勝家ファンからすると
利家なんて裏切り者以外の何者でもない
前田利家は所領が少なすぎる。
越中・能登・加賀・越前・若狭・飛騨の6カ国の180万石くらいないと対抗できないよね。
官位ばかり昇るなと秀長が藤吉郎に言ってるんだの〜。
旧織田家中の結集核にはなれないあたり利家らしいと言えばそうかな
金沢に生まれ金沢に育ち
はや⁉️57年
金沢市民は
利家様 リスペクトしている方が多いと思います
実際は先祖が
一向宗でなぶり殺されている方が多いですけどね
現在
地元の北國新聞で安倍龍太郎先生の
銀嶺のかなたという時代小説が掲載されております
今現在 賤ヶ岳
柴田様を裏切ったのではないという見解で進んでおりす
佐久間盛政の三兄弟の抜け駆けで
利家の裏切はなかった!というけん
小牧長久手の戦いで完全敗北したはずの徳川家康がその後めっちゃ優遇されている理由は何なんでしょう?最新学説ではどうなってるか知りたいですね。不思議です。
大河で話に出る頃にはたいてい死にかけてる地味に不遇のお方
ワタシはちょっと違って、ボンボンってイメージがあって、ボンボンなのに、お松様が尾張の下級将校の利家に嫁いだと関ヶ原の原作に描いて有って疑問に思っていたのですが、慶次郎が有名になってから、四男で慶次郎を追い出して、前田家を乗っ取ったのが解って、合点が行きました。
前にも前田利家の解説しなかったっけ?
家康にとって目の上のたんこぶだった男。
叔父御が死んで
前田慶次が
和平の使者に
なるんですね。
秀長と刑部は、又左は大したことないと知っていたんだの〜。秀長は官位ばかり昇るの可哀そうだの〜、刑部はあの老人には荷が重いんだの〜。
利家ほど過大評価な武将はいないと思う これといった手柄はなく最大の武功?が柴田勝家への裏切り逃走… 家康とはそもそも格が違いすぎる
実に内容の薄い回ですね。
何故、取り上げたの?
批判をするならば持論を述べて批判をするのが良いんじゃないですかね?ただダメだと言うんでは言いがかりなりますよ。
何回同じことやる?
石高から言っても官位から言っても家康と利家との差は明らかです。