【鹿児島市交通局】さようなら 鹿児島市電上町線 1985(昭和60)年9月
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- čas přidán 2. 06. 2020
- 【あの頃の鹿鉄】シリーズ第10弾、1985(昭和60)年10月1日の鹿児島市電上町線(市役所前~清水町間2.3km)の廃止を前に撮影した写真とビデオを車内外の録音に合わせて編集した動画です。
9月30日夜に清水町電停で行われた最終電車『お別れ式』の花束贈呈は涙でピンボケです(泣)!
手ぶれ•ピンぼけ•ノイズ•画質劣化などお見苦しい点やお聞き苦しい点が多々ありますが、”あの頃の鹿児島の鉄道”にタイムトラベルして当時を懐かしんでいただけると幸いです。
#鹿児島市電
#鹿児島市交通局
#路面電車 - Auta a dopravní prostředky
伊敷線と今回拝見の上町線の画像、もう見ることができない貴重なものですね。前回も書かせていただいたかもしれませんが、こういうものは一度廃止されてしまうと二度と復活されないのでそれだけ画像や映像というのは重要な証言者となります。それにしても鹿児島市電がこれほど路線数を持っていたとは思いませんでしたし、これらの動画を拝見するまでは不勉強故存じませんでした。静岡県民の目にも馴染み深い湘南色っぽいカラーリング、南国らしい冷房装置付きの車両(当時静岡口の113系は非冷房だったです)、好ましいスタイリングなど廃止が惜しくてなりません。『お別れ式』の挨拶のアナウンスには万感の想いがこもっていて当事者ではない自分でも涙がにじみ、現場で必死に頑張っていた職員の皆様や愛用していた市民の想いが伝わってくるようでした。
この80年代は国鉄不採算路線の民営化へ向けての事前廃止を筆頭に、まるで釣られるように全国の赤字地方私鉄や路面電車が廃止の憂き目に遭うという鉄道にとっては受難の闇黒史的な時期でもありました。国や議員の勝手な思惑で路線を作り、赤字だから、合理化だから、あるいは「自動車が売れる、自動車の邪魔だから(自動車関連の票が欲しい某政党)」という理由でどんどん廃止されていき、当時高校生から専門学校生だった私は臍を噛む思いでニュースや鉄道雑誌を見ていたものでした。
画像の中で桜島バックに立体交差を走る市電の画像がとても好きです。いかにも「鹿児島」といった感じですが、これももう見られないということでしょうか。途中出てくる半ズボンの小学生も今では懐かしいですね。いつも長文になってしまいスミマセンです。
内山千詔さん、コメントありがとうございます。
鹿児島市電の黄色い塗色を蜜柑色にするとホント湘南色ですね〜それは気づきませんでした!
市電の冷房化は桜島の降灰に配慮したサービス向上策で80年代から取り付け改造が進んだと記憶しております。
仰られる通り、当時は私鉄の鹿児島交通南薩線、そして市電の上町・伊敷線と相次いで鹿児島の鉄路が廃止されていきました。
沿線の利用者の方々には本当に申し訳ないと思いつつ最後の記録撮影に夢中になっていたあの頃でした。
桜島バックの立体交差を走る市電、それは皆さまと一緒に心に残る鉄道遺産になりましたね・・・。
@@猫鉄動楽
猫鉄道楽さん、いつもご丁寧な返信をありがとうございます。
80年代は私も地元の静岡で友人と飯田線の旧型国電や東海道本線の153系、165系、EF58の荷物列車などを追いかけていましたが、いずれもモノクロの静止画しかありません。しかも殆どが形式写真的なものばかり。とても発表できるような代物ではありませんが、こうして他の方々の貴重な写真や動画、音声が気軽に楽しめるようになったのはいい時代になったなと思ってしまうのはやはりジジイになった証拠でしょうか?(笑)
浜松には遠州鉄道が走っておりましたが、かつては遠州鉄道奥山線とか静岡鉄道駿遠線、秋葉線などナロー鉄道が存在していました。いずれも昭和30年代後半前後に廃止の憂き目に遭いましたが、今残っていれば絶対ドル箱路線間違いなし的に言われることがあり、特に奥山線は電化され、沿線にあたる「姫街道」を現在では交通渋滞の中を遠鉄の路線バスが数珠つなぎになって走っている様を見ると、仲間内では「本当に惜しいことをした…」と言い合うこと度々。やはり定時性では鉄道に敵うものはものはありません。
これからも、もしも他にアーカイブをお持ちなら拝見できればうれしいです。
ところであの電車の色合いの緑と黄色の「黄色」ってもしかして夏ミカンとかデコポンとかザボン(こりゃ長崎か?)をイメージしたってことはないんですかね?いずれにしても南国鹿児島っぽっくて好きです。
@@user-yx3wd6xs7f
内山千詔さん、こちらこそ情趣あるコメントをいただき大変感謝しております。
飯田線の旧型国電や東海道本線の153系にEF58の荷物列車など、鉄道趣味誌で興味深く拝読しておりました。
青春時代に体験した地元鉄路の相次ぐ廃止、浜松でも鹿児島でも情勢が変わった今日まで存続でき無かった事が悔やまれますね・・・。
鹿児島市電の黄/緑塗色の由来ですが、当時市街地に緑が少なかった事から緑色、黄色は「南国の太陽」からと聞いたような記憶があります。
ピンボケや撮影センスの悪い写真や動画で皆様に申し訳ないのですが、これからもアーカイブをアップロードしますのでご乗車ください!
廃止になって何年になるのだろう明石屋本店で働いてた時明石屋本店の裏の道路を路面電車が走ってました清水線に乗って成人の挨拶に先輩の家に行った記憶があります廃止の最後の日の花束を貰った運転手さんお元気なのでしょうかめちゃくちゃ懐かしく涙が出てきましたこの頃の電車の形が好きで今でも展示してると聞いたので9月に帰省するので行こうと思います
@@user-kw2ku3og4hさん、コメントありがとうございます。
今年で廃止38年になります。ふるさとの温もりを今も伝える軽羹の明石屋本店で働いていらっしゃったのですね。
当時の運転士さん、今もお元気になさっていると良いですね。
神田に移転した交通局に資料展示室がありますので帰省なされた際に、そちらもあわせてご覧になってみてください。
とても懐かしくて胸が
熱くなりました。
今年なくなった姉の嫁ぎ先が上町線に乗って行く所で
良く甥と姪に会いに行きました。。。
今回の映像で姉の若き日に
出会えたような気がしました。
ありがとうございました
村尾満弘さん、コメントありがとうございます。
お姉さまも甥っ子さまや姪っ子さまと一緒に上町線をご利用されていたのですね!
私の拙い動画で若き頃を懐かしんでいただき、ありがとうございます。
こんな貴重な物をUPして下さって
ありがとうございます!
グレートムタさん、コメントありがとうございます。
今もあってほしかった 貴重な動画に感謝!
Saka-Worksさん、コメントありがとうございます。
令和の時代も走り続けて欲しかったですね!
上町線の終点・清水町が地元で、大変お世話になった市電。廃止後、清水町界隈の廃れぶりは「ココまで寂れるのか」と思う位、悲惨なものです。上町・伊敷の両線を切り捨てたのが功を奏し市電は黒字化。センターポールや芝生路面、新型車両の導入など今でも市民の足として存続している事は喜ばしく思う一方で一抹の寂しさを感じる、生誕半世紀のオッサンでした。
貴重な記録、有り難う御座いました🙇
北野俊雄さん、コメントありがとうございます。
上町線をご利用されていたのですね。沿線の方々は本当に残念で悔しい思いをなされた事だと察します。
また清水町界隈に市電が走っていた頃のような賑わいが戻るといいですね!
猫鉄道楽様、温かいコメント有り難うございます。本当に涙モノです。鹿児島市は、この時の約束通り市電を今に残し赤字体質から脱却しました。これは評価すべき事と思います。赤字路線の切り捨てが成功した数少ない例でしょう。ただ残念なのは、いわゆる「上町地区」の振興が図られずに市街区域の発展から取り残されている事。1993年の水害で殆どが水没、そこから更に寂れた感じがします。先日、久々に帰郷したのですが、あまりの寂れ方にショックを受け、泣きそうになりました。残念ですが、あの賑わいが戻る事はもう無いでしょう。悔しいですが清水は「死水」になってしまいました。これを生き返らせるには、想像を絶する程の物凄いエネルギーが要ります、人もおカネも。今の鹿児島市にそれが出来るとは到底思えませんし、そもそもやる価値が見いだせないと思います。産まれ育った町が寂れ行く姿は本当に見ていて辛い。でも、どうする事も出来ない…あー残念無念。
@北野俊雄様の仰る通りだと思います。でも「死水」なんて言わないでください。
悲しすぎます(T ^ T)私の心の中では「清水町」のままで走り続けています・・・。
すげー貴重な写真と音源ですね お金では買えない価値がある。
素晴らしい動画ありがとうございました幸せです。
Ka Aaさん、コメントありがとうございます。
私もお褒めのを言葉をいただきとても幸せです。
私はずーっと待っていました、
本当にありがとうございます!
グレートムタさん、お待たせして「まこてすんもはん」です!
上町線利用していました。最寄りは岩崎谷でした。長田町の電停近くに「まるしん」っていう駄菓子屋があって,よく利用していたのが懐かしいです。まるしんのおばちゃんは元気かな。
知覧太郎さん、コメントありがとうございます。
「まるしん」のおばちゃん、今も元気になさってると良いですね!
貴重な音源を、ありがとうございました。臨場感がある、良い音です。
Posted on Jan.18, 2021.
里_慎一郎さん、コメントありがとうございます。
嬉しいです。音源の皆さまと使用機材に感謝です!
貴重な映像をありがとうございます。先日鹿児島へ行き、路面電車を堪能してきました。
鹿児島の路面電車の歴史を垣間見る事が出来て勉強になりました。
私も路面電車を中心鉄道関連の動画を掲載しております。よろしければ遊びに来て観てください。
しん田くん鉄道さん、コメントありがとうございます。
鹿児島市電を堪能していただき嬉しい限りです。
近いうちに「しん田くん鉄道」さまへ乗車いたします!
函館市民です。
鹿児島市電の上町線・伊敷線廃止の7年後に函館市電の東雲線が廃止され、翌年にガス会社まわり線が廃止されました。
これらの路線縮小後、鹿児島市電は再浮上し、函館市電も何とか踏ん張り続けています。
両市電共、健在なのは嬉しい限りです😊
czcams.com/video/3Jt3lEVcR4w/video.html
軽いミッドフィルダーさん、コメントありがとうございます。
仰る通り、函館市電も鹿児島市電も悲しい路線縮小はありましたが今も健在で市民の足として欠かせないものとなっていますね!
いただいたリンク先の動画を拝見して、惜しくも廃止された東雲線の風景が何処と無く在りし日の上町・伊敷線と重なって見えました(泣)
懐かしいですね~(>_
コメントありがとうございます。
昭和50年代後半から冷房取付け工事が始まり冷房化された電車の前後に「冷房」マークが掲出されるようになりました。
あの路面に書かれた電停からの乗車はさぞ怖かったかと思いますが、古き良き時代の思い出ですね!
懐かしいです😊子供の時母と一緒に街に行く時は良く電車乗ってました。
さとぽさん、お母さまと乗られた市電を懐かしんでいただきありがとうございます。
この写真では比較的新しい建物に見える岡村電気商会は無くなり、
跡地に出来たかんまち尾辻病院も近年廃業したようです
10年一昔とは言いますが、35年という時間の長さを改めて感じます
mokren ajaracaさん、コメントありがとうございます。
あれから35年、電器店跡地の病院も廃業されたとのご報告で、更に街並みが変わりますね。
懐かしい。小さい頃母に連れられ市電に乗って稲荷町の祖母の家に行ったなぁ。途中小さい橋みたいなのがあってワクワクして乗ってたな。
God takayaさん、コメントありがとうございます。
思い出の途中にある小さな橋、それは岩崎谷にあった鹿児島本線を跨ぐ橋だったかもしれませんねぇ。
45年前に稲荷町に住んでいました。
当時の終点の清水町駅の前には、不二家のケーキ屋があった記憶があります。
それと家族風呂が併設された銭湯もあったと記憶していますが、確かでしょうか?
@masatoshi fujimotoさん、コメントありがとうございます。
不二屋ベーカリーというお店が清水町電停前にありましたね!銭湯は未確認です。
見落としました。すみません。
不二家はこの映像で確認できました。ありがとうございます。
余談ですが、ここのお嬢さんがもの凄い美人で、清水小高校ではマドンナ的な存在であったと記憶しています。
あとは、NHKで放映していたファミリーツリーでは、西田敏行さんのルーツが清水町だそうです。
どこら辺の話なのでしょうか?
多分、島津墓地の辺りだと思うのですが? 放映時は確認できたのですが、失念してしまいました。
懐かしい貴重な映像をありがとうございます。高校はバスより安い市電で通いました。最寄の電停は堅馬場で安全地帯が無く、電車が見えて来たら走って道路を渡りペイントのところで待ちました。車がすぐ横をビュンビュン走り抜けるので怖かったです。私学校を左に曲がって坂を上り専用線に入ると別世界で、空を飛んでいるよう気分になり毎日楽しみでした。高校を卒業した翌年に上町線は廃止。車で専用線だったところを通っても、あの空を飛んでいるような気持ちは味わえません。いい時代に高校生活を送れてよかったなあとしみじみ感じています。
モモパンダさん、コメントありがとうございます。
本当にいい時代に高校生活を送られましたね!仰る通り、堅馬場電停はバリアフリー過ぎて白線で囲まれただけの簡素な電停でしたので利用者にとっては危険きわまりなかったですが、私の記憶の限り大きな事故も無く、今となってはそれもいい思い出になりますね。国鉄鹿児島本線を跨いでフライト気分を味わえた岩崎谷電停界隈。もう一度、市電で飛んでみたいですね!
伊敷線はやり方次第で残せたかも知れませんが、上町線は厳しかったでしょうね。シティービューで岩崎谷の専用橋から磯庭園へ向かうと寂しさを感じます。清水町から磯庭園方面への延伸計画があったと聞きますが、実現したとしても………………。
てるすたあ様、コメントありがとうございます。
いろいろ策はあったかと思いますが当時の状況から判断して廃止に至り残念ですね!
鳥越トンネル付近が、市電には、きついでしょうね。 海岸回るにも、今度は日豊線越えないとならない。
@Kマサヒロ様の仰る通り鳥越トンネルがネックだったようで、日豊本線の旧鳥越トンネルを活用する案も検討されたようですが実現に至らず、時代は変わりJR磯駅設置へと発展していきました!
@@猫鉄動楽 さんへ。
磯駅、もしかしたら地下駅とか。10号線削れないし、海方向は台風の時が怖い(毎年数回、建物に被害が出るかも)笑
@Kマサヒロさんへ
地下駅なら10号線の渋滞解消にもなるしグッドアイデアですが費用対効果を考えて地平駅ですね!
画質が綺麗すぎて最近のことようですね笑
サンエーというスーパーらしきものが写り込んでますね。タイヨーと似ていますが違うんでしょうね?
鹿児島市は市報アーカイブとしてweb公開しています。
なんと昭和25年から閲覧できます!
そこには市電延伸要望(まだ伊敷村で鹿児島市に合併前)の話や、交通局が市民と語り合う記事、運転士が辞めてしまう問題などが見られます。
理由は、「まだ運転士なんかしてるのか?」と言われてるようで、社会的地位の低さ、職業差別なんかも感じ取れます。
また、バスを充実させてくれ、なども出てきます。
鉄道やバス、交通インフラ好きな方は鹿児島市民問わず楽しめるかと思います。
とにかく行政、市民一丸となって良い街作りをしようと熱気に溢れていたのがわかります
@tokyof4113さん、コメントありがとうございます。
また、鹿児島市報アーカイブも紹介していただきありがとうございます。
鹿児島のサンエーさんは当時タイヨーさん系列のスーパーだったと記憶しております。
市電運転士という職業は憧れでもありましたが、そういう時代もあった事を知り残念に思います。
全国的に運転士さんが不足している状況の中で鹿児島も大変だと思いますが、交通弱者に優しい公共交通機関であり続けて欲しいですね・・・。
首都圏では、国鉄(→JR)埼京線開業および川越線電化開業で湧きかえった1985[昭和60]年9月30日に、南国・鹿児島市電の上町・伊敷の両線が惜しまれながら姿を消してしまったけど、どちらの路線も情緒があっただけに、本当に惜しまれます。
上町線といえば、西郷隆盛どんゆかりの地をガタゴトはしり、とくに西郷どん最期の地・岩崎谷付近の専用軌道と、鹿児島・日豊線の陸橋ごえは印象深かったです。
みやのこさん、コメントありがとうございます。
ちょうどその頃、あの埼京線が開業したのですね!
西郷どんゆかりの地を走り鹿児島本線をオーバークロスする上町線、惜しまれます(泣)
昔は、西郷銅像前にも、路面電車が居たらしいですね。(どこかで写真見ました、西郷銅像の前で鶴丸城方向から、左折?してました。)
@Kマサヒロさん、コメントありがとうございます。
戦前の上町線は朝日通から分岐、西郷銅像前を右折して私学校跡へと続くルートだったそうですので、仰る通り「鶴丸城方向から、左折?」です。
久々にコメントいたします。
旭相互銀行(南日本銀行)本店さん手前に、かつて引込線があったけど、この引込線こそが上町線の旧路線跡の名残りと知るなり、なるほど納得したのを覚えてます。
@みやのこだべさん、コメントありがとうございます。
有形文化財にも指定されている南日本銀行さん本店前の引込線石畳みを山形屋バスセンターから出て来た鹿児島交通が各方面へ向かっていたあの頃が懐かしいですね!
伊敷線でもコメントさせて頂きましたが思い入れは上町線の方がありますね。堅馬場のこの小さい郵便局の裏に好きな女の子の家がありました😅。今思えば沿線に鶴丸城や薩摩義士の墓や西郷終焉の地、南州墓地など見所は一杯あるのに鹿児島市の戦略が乏しかったのかなと思います。鹿児島のニュースを見るとパース通りとかナポリ通りなど市電を走らせる計画があるんだとか。こんな計画に反対してる奴等って一体なんなんだろうと記事をみて思います。
鹿児島に限らず市電のある風景って本当に良いですよね。新線が出来たらまた乗ってみたいです。それにしても長田町から柳町にかけて病院が多かったなぁ😅
神田力生さん、コメントとあの頃の『甘い思い出』ありがとうございます。
ホント沿線には病院が多かったですね!現医療センターの場所に大学病院があった時代もありました。
通院の足代わりに市電を利用されていた方も多かったと思います。
沿線に名所旧跡が多く点在する今はなき上町線、観光電車を走らせたかったですね(>_
富山市のように環状線を作れる可能性はありましたし、磯庭園への路線延長も面白かったかも。大都会鹿児島市の路線廃止はもったいない。
@茨城出身九州在住さん、磯庭園への路線延長は実現性あったのに夢物語に終わって残念です(>_
確かに「病院通り」笑笑
南風病院→尾辻脳外科→今給黎→八反丸→吉村と、大きいのだけでもこれだけ。今考えたら凄い❗
ウチの母親も茨城出身鹿児島在住笑笑
来年1月には後期高齢者の仲間入り。
すんでいました それはmom むかし みれたことmom そだつところ ありがとう thanks!
Clark Miyukiさん、コメントありがとうございます。
上町線沿線にお住まいだったのですね!
昭和61年生まれです。
小さい頃に国道10号線の伊敷線の線路跡は見たことがありましたが、
上町線は人から聞いて、有ったらしい位しか知りませんでした。
現在清水町の先の吉野に通って居るので今と比べながら見ていましたが、
昔は片側一車線だったんだ!
というのが驚きました。
あと地元の方は分かると思うのですが、清水町の先のバス停が原因で吉野住宅地〜清水町の間で大渋滞が起きているのですが、
近隣の方からすると昔便利だったから不便になると困るという強い要望・理由でバス停の移動が困難だから
渋滞問題が何十年も解決されていないのかな?と思いました。
歴史を知らないと分からないことが知ったことで少し勉強できたと思います。
ありがとうございます!
@user-hv8cd5oi1zさん、コメントありがとうございます。
伊敷・上町線廃止の翌年にお生まれになったのですね!
市電利用者減少による路線見直しと国道渋滞緩和策として両路線が廃止に追い込まれたと記憶しております。
歴史ある市電軌道敷は車道となり、それなりに渋滞は緩和されたかと思いますが、支障するバス停は利用者の利便性をはじめ様々な要因から移設困難になっているのでしょう。
私も年老いて足腰が弱くなってきました。近くにあるバス停のありがたみが少しずつわかってきだした今日この頃です。
どちらの線も単線化で残せなかったのかな。
長崎とか広島は狭い道路は単線化で残しているけどね。
やっぱり民営化しないと市民の足とはいえないのかな。
@user-rc9zs3sf5oさん、コメントありがとうございます。
鹿児島はどちらかと言うと車社会。当時は公共の路面電車より移動手段に車を最優先、苦渋の選択だったのでしよう。
黄色+濃緑色の市電々車、見なく成りましたね。泣
Kマサヒロさん、コメントありがとうございます。
そうなんですか?
@@猫鉄動楽 さんへ、
少なくとも、先日市内に出た時は、一台も見ませんでした。(約4時間の間)
@Kマサヒロさん、詳報ありがとうございます!
一時期別の塗色が標準になってましたが、今はまた昔の黄色と緑の塗色が標準色になってますよ。
@kagoshimanoutaさん、ありがとうございます!
阪堺電車に似てますね
伊野尾志摩ライナーさん、コメントありがとうございます。
そうですね!阪堺電軌さんのモ501形に似てますね。