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すごいなぁ
ちょうど魚沼線も見たいと思ってたので嬉しい限りです☆片貝花火を米菓工場🅿️から見た事がありますがその際違和感がある道があるなと感じたのを思い出しました(笑)春先の廃線巡りは綺麗な跡を見れるので興味深いです☆
コメントありがとうございます。花火当日はあの工場の🅿️も解放されているのですね。祭り期間中の片貝の交通規制厳しいのでサクッと見てサクッと帰るにはちょうどいい場所なのかもしれませんね(笑)。農免道路の先に廃線跡が未舗装で存在しているのはかなり前から把握していましたが、思ったより獣感(笑)があり歩き応えはありました。こういった廃線敷はじきに藪に覆われますので季節物企画だと割り切っております。
乗り鉄ですが、私が本格的に始めたのが昭和60年なのでここは乗れず…😵
私もこうやって調べていきますと木村松二郎という人物は長岡地域のありとあらゆる鉄道敷設に関係しており、地元での評価が高いと観るのが自然なように思えるのですが、どうもそうではないようだったみたいですね。仰るように長岡と小千谷のいわば「おらが村」的意識に巻き込まれた部分もあったようです。木村・岡田両名の失脚原因となったのは魚沼鉄道の本社をどちらに置くのかといういわば〈綱引き合戦」だったそうです。小千谷側からすると、長岡への対抗意識に加えて、木村という「よそ者」に対する部分もあり、最終的には決算報告書にケチをつけて両名はお縄ちょうだいという事態に…しかしながら木村氏のご子息の回顧録では、全くの冤罪であったとの後日談も…もし長岡地域で木村姓の実業家がおられたら、一族であるのかもしれませんね。後程もうちょっとだけ追加させていただきます。
親戚の家が映ってた(笑)今はコロナで行けませんけど解除になったら境界線見に行って来ます。
こんにちは。新作ありがとうございます。残念ながら、魚沼線に関しては未踏です。しかしこの魚沼線には先般長岡線の項で触れました木村松二郎が深く関わっていたのですね。発起人として後に新潟県初の民選知事となる岡田正平を誘い、免許出願にこぎつけました。ただ木村は大分県出身ということだったからなのでしょうか、よくある〈よそ者に冷たい〉という風潮に巻き込まれていたようでもあるみたいですね。小千谷側の株主とはことごとく対立し最終的には失脚させられてしまいました。その分長岡鉄道に力を入れたということも言えるかと思います。県民気質から観るとどうなのでしょうか。でも来迎寺~小千谷間の人流・物流に着目した点は評価されるべきでしょうね。以上失礼します。
いつも詳しい解説には敬服いたします。魚沼鉄道計画時にはまだ上越線は存在せず、すでに存在した信越線を乗り継ぐことで小千谷と長岡を最速で結ぼうという考えは必然的だったのかもしれません。それにしても鉱物資源の輸送を伴わない盲腸線(可部線、高千穂線など)は大抵壮大な延長話がありそうなもんですが魚沼線に関しては出てきませんね。県民気質という面では「物静か、控えめ」という面が大雑把にありますが(角栄は異端児です(笑))さらに細かく地域気質というのもあるのかもしれませんね。平成の大合併の話は小千谷と長岡との間では早々に消えましたから。
さて木村松二郎が大分県出身であることは先に記しましたが、市町村でいうと中津市です。軽便鉄道法の公布により各地で鉄道敷設熱が高まりを見せる中、その中津市も例外ではなく耶馬溪鉄道(後の大分交通耶馬溪線)の計画が持ち上がり木村氏にもオファーが舞い込みました。魚沼、長岡両鉄道で多忙ではあったものの見事事業成功に導きました。さてお気づきかとは思いますが、先般ご紹介いただいた栃尾線の前身の「長尾鉄道」発起人名簿にも木村氏の名があります。しかしながら役員就任等の記録がないのですね。これは多分前の両鉄道で多忙を極めていたせいなのでしょうか。氏に関してはまだまだ武勇伝がありますけど、今回はここまでにしておきます。以上失礼しました。
返信遅くなりましてすみません。中津と言えば福沢諭吉や村上巧児(元西鉄社長)等政財界に通じる人達を輩出してきましたね。その様な風土に育まれた木村松二郎が何かと腰の重い(笑)越後の人間をまとめながら起業していくのはさぞかし骨が折れた事でしょう。スキャンダルに巻き込まれ、早いうちに退場を余儀なくされたり、再編により“長岡鉄道"の名前が消えて久しくこの地での松二郎の知名度は今一つの様な気がしますが(新潟大学に研究している人はいる様ですね)当時最先端の輸送手段であった鉄道を国の政策によらず各地に広めていった行動力は現代でも学ぶべき所でしょう。
それではもう少し追加させていただきます。ご説明いただいている新来迎寺~深才大島の鉄道敷設権についてなのですが、このルーツは木村松二郎が個人出願の形で立ち上げた「新魚沼鉄道」なんですね。その計画は新来迎寺の手前で分岐して信越本線をアンダークロスするものだったそうです。ところが周囲からわざわざ別会社にするよりは「魚沼鉄道」の延長の形の方がベターなのでは、という提案を受けて改めて発起人を集め今度は「中越鉄道」名で再度出願します。ところがこれまた、社名問題(同一名称あり)で一悶着。その後紆余曲折を経て同時期に半ば宙ぶらりんになっていた第一次の「長岡鉄道」に着目、木村らが改組した「新中貫鉄道」が敷設権譲渡を受けて第二次の「長岡鉄道」成立というシッチャカメッチャカな経緯をたどりました(笑)この間に信越本線アンダークロス案は消えたようです。失礼しました。
信越線とのアンダークロス案があったのですね。これが実現すれば今の信濃川西岸の交通事情は大幅に変わったことでしょうか。でも結局深才大島(西長岡)止まりがネックとなって厳しい経営になったのかもしれません。西長岡駅近くにある道路橋 長生橋(1937年開通)が併用橋として建設されればとも思いましたがその頃すでに国鉄長岡駅までの免許は失効していた様ですし。イギリスから鉄道が伝わってから昭和初期まで各地で今のベンチャー企業の如く鉄道会社が起業〜廃業(もしくは身売り)を繰り返していた様ですね。わずか数年で廃線になった路線も数あり、それを考えれば80年間にわたり(旅客は60年)鉄道事業を維持し、長岡鉄道時代からのバス部門が「越後交通」として現在もこの地域一帯の公共交通を担っている事を考えれば木村松二郎氏の興した事業が今でも成功していると言っても過言でないのかもしれませんね。
こんにちはいつも見ています。提案なんですけど蒲原鉄道の廃線跡(加茂〜村松〜五泉)歩きはいかがでしょうか?比較的わかりやすいと思います。駅のホームもそこそこ残ってますし。
コメントありがとうございます。蒲鉄に関してはトンネルや保存車両も複数あり、魅力的な廃線跡に違いないのですが、営業距離もそれなりにありますので、しっかり準備してから取り掛かりたいと思います。
すごいなぁ
ちょうど魚沼線も見たいと思ってたので嬉しい限りです☆
片貝花火を米菓工場🅿️から見た事がありますがその際違和感がある道があるなと感じたのを思い出しました(笑)
春先の廃線巡りは綺麗な跡を見れるので興味深いです☆
コメントありがとうございます。花火当日はあの工場の🅿️も解放されているのですね。祭り期間中の片貝の交通規制厳しいのでサクッと見てサクッと帰るにはちょうどいい場所なのかもしれませんね(笑)。
農免道路の先に廃線跡が未舗装で存在しているのはかなり前から把握していましたが、思ったより獣感(笑)があり歩き応えはありました。こういった廃線敷はじきに藪に覆われますので季節物企画だと割り切っております。
乗り鉄ですが、私が本格的に始めたのが昭和60年なのでここは乗れず…😵
私もこうやって調べていきますと木村松二郎という人物は長岡地域のありとあらゆる鉄道敷設に関係しており、地元での評価が高いと観るのが自然なように思えるのですが、どうもそうではないようだったみたいですね。
仰るように長岡と小千谷のいわば「おらが村」的意識に巻き込まれた部分もあったようです。
木村・岡田両名の失脚原因となったのは魚沼鉄道の本社をどちらに置くのかといういわば〈綱引き合戦」だったそうです。
小千谷側からすると、長岡への対抗意識に加えて、木村という「よそ者」に対する部分もあり、最終的には決算報告書にケチをつけて両名はお縄ちょうだいという事態に…
しかしながら木村氏のご子息の回顧録では、全くの冤罪であったとの後日談も…
もし長岡地域で木村姓の実業家がおられたら、一族であるのかもしれませんね。
後程もうちょっとだけ追加させていただきます。
親戚の家が映ってた(笑)今はコロナで行けませんけど解除になったら境界線見に行って来ます。
こんにちは。新作ありがとうございます。
残念ながら、魚沼線に関しては未踏です。
しかしこの魚沼線には先般長岡線の項で触れました木村松二郎が深く関わっていたのですね。
発起人として後に新潟県初の民選知事となる岡田正平を誘い、免許出願にこぎつけました。
ただ木村は大分県出身ということだったからなのでしょうか、よくある〈よそ者に冷たい〉という風潮に巻き込まれていたようでもあるみたいですね。
小千谷側の株主とはことごとく対立し最終的には失脚させられてしまいました。
その分長岡鉄道に力を入れたということも言えるかと思います。
県民気質から観るとどうなのでしょうか。
でも来迎寺~小千谷間の人流・物流に着目した点は評価されるべきでしょうね。
以上失礼します。
いつも詳しい解説には敬服いたします。魚沼鉄道計画時にはまだ上越線は存在せず、すでに存在した信越線を乗り継ぐことで小千谷と長岡を最速で結ぼうという考えは必然的だったのかもしれません。それにしても鉱物資源の輸送を伴わない盲腸線(可部線、高千穂線など)は大抵壮大な延長話がありそうなもんですが魚沼線に関しては出てきませんね。
県民気質という面では「物静か、控えめ」という面が大雑把にありますが(角栄は異端児です(笑))さらに細かく地域気質というのもあるのかもしれませんね。平成の大合併の話は小千谷と長岡との間では早々に消えましたから。
さて木村松二郎が大分県出身であることは先に記しましたが、市町村でいうと中津市です。
軽便鉄道法の公布により各地で鉄道敷設熱が高まりを見せる中、その中津市も例外ではなく耶馬溪鉄道(後の大分交通耶馬溪線)の計画が持ち上がり木村氏にもオファーが舞い込みました。
魚沼、長岡両鉄道で多忙ではあったものの見事事業成功に導きました。
さてお気づきかとは思いますが、先般ご紹介いただいた栃尾線の前身の「長尾鉄道」発起人名簿にも木村氏の名があります。
しかしながら役員就任等の記録がないのですね。これは多分前の両鉄道で多忙を極めていたせいなのでしょうか。
氏に関してはまだまだ武勇伝がありますけど、今回はここまでにしておきます。
以上失礼しました。
返信遅くなりましてすみません。中津と言えば福沢諭吉や村上巧児(元西鉄社長)等政財界に通じる人達を輩出してきましたね。その様な風土に育まれた木村松二郎が何かと腰の重い(笑)越後の人間をまとめながら起業していくのはさぞかし骨が折れた事でしょう。
スキャンダルに巻き込まれ、早いうちに退場を余儀なくされたり、再編により“長岡鉄道"の名前が消えて久しくこの地での松二郎の知名度は今一つの様な気がしますが(新潟大学に研究している人はいる様ですね)当時最先端の輸送手段であった鉄道を国の政策によらず各地に広めていった行動力は現代でも学ぶべき所でしょう。
それではもう少し追加させていただきます。
ご説明いただいている新来迎寺~深才大島の鉄道敷設権についてなのですが、このルーツは木村松二郎が個人出願の形で立ち上げた「新魚沼鉄道」なんですね。その計画は新来迎寺の手前で分岐して信越本線をアンダークロスするものだったそうです。
ところが周囲からわざわざ別会社にするよりは「魚沼鉄道」の延長の形の方がベターなのでは、という提案を受けて改めて発起人を集め今度は「中越鉄道」名で再度出願します。
ところがこれまた、社名問題(同一名称あり)で一悶着。
その後紆余曲折を経て同時期に半ば宙ぶらりんになっていた第一次の「長岡鉄道」に着目、木村らが改組した「新中貫鉄道」が敷設権譲渡を受けて第二次の「長岡鉄道」成立というシッチャカメッチャカな経緯をたどりました(笑)
この間に信越本線アンダークロス案は消えたようです。
失礼しました。
信越線とのアンダークロス案があったのですね。これが実現すれば今の信濃川西岸の交通事情は大幅に変わったことでしょうか。でも結局深才大島(西長岡)止まりがネックとなって厳しい経営になったのかもしれません。西長岡駅近くにある道路橋 長生橋(1937年開通)が併用橋として建設されればとも思いましたがその頃すでに国鉄長岡駅までの免許は失効していた様ですし。
イギリスから鉄道が伝わってから昭和初期まで各地で今のベンチャー企業の如く鉄道会社が起業〜廃業(もしくは身売り)を繰り返していた様ですね。わずか数年で廃線になった路線も数あり、それを考えれば80年間にわたり(旅客は60年)鉄道事業を維持し、長岡鉄道時代からのバス部門が「越後交通」として現在もこの地域一帯の公共交通を担っている事を考えれば木村松二郎氏の興した事業が今でも成功していると言っても過言でないのかもしれませんね。
こんにちは
いつも見ています。
提案なんですけど蒲原鉄道の廃線跡(加茂〜村松〜五泉)歩きはいかがでしょうか?
比較的わかりやすいと思います。駅のホームもそこそこ残ってますし。
コメントありがとうございます。蒲鉄に関してはトンネルや保存車両も複数あり、魅力的な廃線跡に違いないのですが、営業距離もそれなりにありますので、しっかり準備してから取り掛かりたいと思います。