1918(大正7)『東京節(パイノパイノパイ)』歌:エノケン

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  • čas přidán 19. 10. 2022
  • 『東京節(パイのパイ節)』は、演歌師の添田知道(添田さつき)によって作詞され大正時代に流行した俗謡です。
    メロディーはジョージア行進曲(Marching Through Georgia)です。当時、社会鍋をやっていた救世軍が街頭で原曲を日本語の歌詞で演奏していました。もともとヘンリー・クレイ・ワークという人の歌で、南北戦争、例の「風とともに去りぬ」のアトランタ攻めのときの北軍の進軍を歌った歌詞です。原曲をユーチューブで流していると、現在でも南部の人から「やめろ」という抗議が来る。つまり、北軍による南軍虐殺の歌なんです。それが救世軍によって日本に入ってきて、唖蝉坊親子は街頭で毎日、社会鍋のそばで流れているのに接していた。それを使ったわけです。これをつくったヘンリー・クレイ・ワークは、平井堅さんが歌った「大きな古時計」の作曲者でもありました。
    同曲は添田によって作詞される以前から、1892年に「ますらたけを」の題で国文学者・東宮鉄真呂の作詞による軍歌が販売されたり、救世軍が街宣活動で演奏するなど広く親しまれていたそうです。これに添田が改めて歌詞をつけたものが「パイノパイノパイ」。
    大正7年には、米騒動がおこったくらいで、物価騰貴では、一般庶民は困らされたものです。そんなことから、「パイのパイなんて唄がはやったから、物価が倍の倍になったんだと」などといわれたのは、とんだ作者の濡れ衣になりました。曲はアメリカ南北戦争時代の「ジョージア・マーチ」をちょっとちじめて使ったのですが、これは日本の軍歌「ますらたけおやよ」だの、救世軍の軍歌でも用いましたので、親しみやすかったのでしょう。この唄が警視庁史に載っているというので、時代記録の役に立つとは当時思いもしなかったことです。(解説:添田知道)
    売文社に勤めていた添田がある日「のんき節」の掲載許可を貰いに父・添田唖蝉坊の元を訪ねると気まぐれに、演歌を一つ作ってみないかと言われた。
    当時流行りつつあった洋食屋のメニューを羅列したような仮歌であったが、唖蝉坊がメロディーを口ずさむと、幼少期に神奈川県大磯の実家に預けられていた時に遊び仲間から「ますらたけを」のメロディーで囃し立てられた記憶が急に蘇り、小説家志望で歌は嫌いでなかったこともあり、作詞経験はないがつい釣り込まれてしまった。その席上、唖蝉坊にはどうせ浮世は出鱈目だという人生感があり、口癖になっていてその場でも出た。そうして「デタラメ」が「ラメ」となり「ラメチャン」となって囃子言葉はスラスラと決まり、全体は宿直の一晩で書き上げた。このとき添田知道はわずか19歳だった。
    【囃子言葉の意味】
    ラメちゃんったら ギッチョンチョンで パイのパイのパイ♪
    パリコとバナナで フライ フライ フライ♪
    ラメちゃん:デタラメの「ラメ」のこと。デタラメちゃん。深い意味は無い。
    ギッチョ(ンチョン):一般的には囃子詞とされるが、「左利き」の事かも。
    パイ:アップルパイとかのパイ菓子のことで当時は珍しい洋食。深い意味は無い。
    パリコ:フランスのパリっ子(当時日本人の憧れでライバル)。
    パナナ:当時は高級果物のバナナ。パナナと発音することもあった。深い意味は無い。
    フライ:海老フライとかカキフライとかコロッケ。たぶんFLYに掛けたたのかも。

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