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十使

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  • čas přidán 26. 01. 2024
  • 仏教には、さまざまな用語が用いられています。仏教は理解するのではなく、信仰としてとらえるものであることは基本ですが、日蓮大聖人の御書を拝するにあたって仏教用語を理解していれば、たいへんわかりやすいものです。文字で表示すると、結構な分量になりその分文字が小さくなってしまいます。
     このシリーズでは、仏教用語をわかりやすく読み上げて説明しています。
    #日蓮正宗 #妙霑寺支部 #仏教用語
    読み上げた元の原稿は以下のとおりです。
     
    十使(じっし)
     「十使」とは、人間の心身を悩乱させ、成仏の正道を妨げる「五利使」と「五鈍使」を合わせた十種の煩悩をいいます。
     天台大師は『摩訶止観』で、すべての煩悩(惑)を三惑(見思・塵沙・無明)に分類しています。
     十使は、この三惑のなか、見思惑の見惑(物事の道理に迷う後天的な惑であり、思想的な迷い)をさらに分類した煩悩です。
     「使」とは、使役のことで、常に心を駆り立てられ、使役のように追い使われる迷い多き凡夫の姿を意味します。
     五利使について日蓮大聖人は、『一代聖教大意』に、
     「見惑とは一には身見〈亦我見とも云ふ〉、二には辺見〈亦断見常見とも云ふ〉、三には邪見〈亦撥無見とも云ふ〉、四には見取見〈亦劣謂勝見とも云ふ〉、五には戒禁取見〈亦非因計因非道計道見とも云ふ〉なり。見惑に八十八有れども此の五が本にて有るなり」(87頁)
    と仰せられています。
     五利使の「利使」とは、正しい道理を理解すれば直ちに除くことができる鋭利な煩悩を表しています。
     すなわち、「身見」は自我に執着する考え。「辺見」は中正を得ないで一辺に偏る考えをいい、生命は死によって消滅するという「断見」と、生命は霊魂となり、永遠に続くなどと思いこむ「常見」とに分けられます。「邪見」は因果の道理を無視する考え。「見取見」は前の三見に固執し、劣っているものを勝れていると見る考え。「戒禁取見」は仏法上戒められ、禁じられている邪行に固執する考えをいいます。
     次に五鈍使の「鈍使」とは、過ちに気づいても即時に消滅できる性質のものではないことを表わしています。
     天神の『倶舎論』に、
     「十の中に於て(中略)五は月の性にあらず、一に貪、二に瞋、三に無明、四に慢、五に疑なり」
    とあるように、五鈍使とは、貪・瞋・癡(無明)・慢・疑の五つの煩悩をいいます。
     「貪」は愛着すること。「瞋」は怒ること。「癡」は道理に暗く愚かなこと。「慢」は驕り高ぶること。「疑」とは法を信ぜず躊躇することをいいます。
     私たち凡夫の生活は、常にこのような十種の煩悩に使役の如く追い使われて、自ら苦悩に陥り、そのために多くの罪障を作っています。
     しかし、法華経の『普賢経』に、
     「煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得」(開結674頁)
    と説かれ、大聖人が『当体義抄』に
     「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて」(694頁)
    と御指南されているように、南無妙法蓮華経の光明に照らされたとき、これら十使の煩悩は即菩提と開かれ、即身成仏の大利益を得ることができるのです。
         大白法 493号

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