《明治14年の政変》大久保利通亡き後、明治政府のリーダーの座を巡る戦い!!
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- čas přidán 17. 11. 2021
- 国会開設、憲法制定を巡って、大久保亡き後の明治政府で繰り広げられる権力争い!!
【参考文献】
大隈重信(上) 「巨人」が夢見たもの (中公新書)
amzn.to/3lRrDeH
伊藤博文 知の政治家 (中公新書)
amzn.to/3DDhqcW
岩崎弥太郎―商会之実ハ一家之事業ナリ (ミネルヴァ日本評伝選)
amzn.to/3qY5Kyh
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#日本史 #明治政府 #伊藤博文 #大隈重信 #憲法改正 - Zábava
青天を衝けと同時期に幕末明治の話を聞けるのはありがたいです。
初めて知った内容でした。
大人になってから教養をつけることの楽しみを実感しております。有難うございます♪♪
歴史大好き、大久保と西郷亡き後の日本史、知りたかったです。勉強になりました、ありがとう御座いました。
毎々楽しく視聴させて頂いております。
伊藤博文さんは、飄々とした性格で時流に乗って、初代内閣総理大臣にまで成り上がった。
とも取れる評価(評判)が結構ありますが、氏の詠んだ漢詩に「酒は飲むべし百薬の長。
女は愛すべし谷間の姫百合。酔うては枕す美人の膝。覚めてははにぎる天下の権」という詩があり、
表向きは飄々としつつ、いろいろ思案してた事が伺えます。
この辺りの歴史の私の拙い知識では、伊藤博文→千円札、岩倉具視→五百円札、板垣退助→百円札の肖像画なんですが( ˊᵕˋ ;)
すごくわかりやすい解説で、とても勉強になります。
ありがとうございます(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)
渋沢を切った大隈。渋沢を味方につけた伊藤。
補足です。伊藤博文は新憲法(ドイツ式、一方政敵である大隈はイギリス式を推していた)を作るために渡欧のため、一時、黒田に預けた感じなので、実質伊藤内閣とみていいかも知れない。ただし、伊藤が初代総理大臣になった時期と、大日本国憲法の発布は時期がズレているということは、認識しておく必要があると思う。
二人とも木戸派だから思想はほぼ一緒で仲はまあいいんだよね。
古今東西、政治と経済に於ける覇権争いは良くも悪くも激烈ですね。
特に国と国民に基づく当時に於ける国の大義は、元を正せば欧米列強諸国と肩を並べる一等国にするか?
彼等欧米列強諸国の植民地化に準ずるのか?
と云う二者択一の時代背景を読み解くと、当時の政府の和洋折衷でも新しい日本国を創造するその先人達の気迫そして、ぶつかり合いながらも対応する姿は生まれ育った国の新たな発展と国を愛する気概を強く感じます。
よく優柔不断な日本、日本人と海外からは揶揄されるが個人的には逆にそこが「日本の強み」でもあると考察してます。
例えは変だが「納豆の粘り」の様なパワーが伝統的に内在してる国だと思う。現に諸問題を抱えながらも、戦後の焼け跡から現在の姿に蘇ってるではないか..
板垣退助👍🫶🫶好き
明治14年の政変で野に降った大隈重信は、早稲田大学を作りましたとさ
めでたし、めでたし
少しどころか結構がっつりやってましたよね
ちょっと最後の方、伊藤博文が初代総理大臣になったとっころと、大日本国憲法が発布されたところが説明不足に思う。
伊藤博文が初代総理大臣になったのは明治18年12月で、大日本国憲法が発布されたのは、黒田内閣の時で明治22年2月である。ここは大事なところだと思いますが、いかがでしょうか。また、財閥とのつながりで言えば、大隈と三菱、井上馨と三井というのがある。
大隈と三菱(岩崎)を云うなら、井上と三井、渋沢も挙げてほしかった。
歴史は九州が動かしたでいい?ww特に鹿児島w
いつも興味を持って拝聴しています。
ところで少し話しのテンポが速いことから理解できない場合があります。
私事
グランドシニアの年齢から頭の回転がスムーズでないでこと恐縮ではありますが心がけていただければ幸いです❗🙏
速度落とせばいいのでは…?
有栖川宮つて和宮のフィアンセだった方ですか?
そうですよ
伊藤博文と言うのは面白い人で、最高実力者になりながら、独裁者を目指さなかった人です。こんな人は少なくもアジアには昔も今も皆無です。日本の民主化に絶大な貢献をした人と言って良いと思います。アメリカでは独立戦争の英雄ワシントンは最初国王に推挙されたのですが、これを拒否し大統領になりました。こうしてアメリカは民主主義共和国となったのです。あの偉大なワシントンさえ国王や独裁者にならなかったのですから、だれも独裁者になれなくなったのです。それと同じ役割を果たしたのが伊藤博文だったように思います。少なくとも晩年の伊藤博文は実質的に自由民主主義者だったと思われます。
伊藤と大隈の両者と交流のあった尾崎咢堂は、昭和に入ってからの回顧録の中で、伊藤と大隈は、生涯政敵であったが、その政治信条において大差はなかったと言い、この両者と比べれば、山縣有朋の方は、反民主主義的で、両者とは全く政治信条において違っていたと言っています。また大隈は考えが大雑把で、伊藤の死後実力者となった山縣を抑えられなかった(それまでの元老筆頭の伊藤の死後、政界では山縣は最高実力者となり絶大な影響力を持っていました)、山縣を抑えらたのは伊藤だけだったと言って、伊藤の早すぎた死を惜しんでいます。
すごい話力
台本なくて、こんなにペラペラ話せて羨ましい
自分は台本あっても、とても話せられない
この時に大隈の憲法意見書が採用しておけば、軍部の台頭を阻止し太平洋戦争の悲劇もなかったでしょうけどね。
大久保利通が暗躍したからだめ。
その当時は慶喜は折半を探てたのに
岩倉に会いに行くくらいの方が何を
恐れたのか。
もっとゆっく説明出来ないのかな
落ち着いて聞いていられないはかまのひと