源頼朝の子孫ってどうなったの?頼朝の血脈をつないだ意外な人物

Sdílet
Vložit
  • čas přidán 29. 08. 2021
  • 鎌倉幕府の源氏将軍は3代将軍源実朝の死によって断絶してしまいました。
    しかし、源氏将軍が断絶した後も、頼朝の子孫たちは存在していたのです。
    頼家の娘の竹御所、頼朝の3男の貞暁を中心に解説していきます。
    #鎌倉殿の13人 #大河ドラマ #歴史

Komentáře • 139

  • @user-im8bd9gt5h
    @user-im8bd9gt5h Před 2 lety +98

    頼朝の血脈をつないだ奴一人も居ねぇじゃねえか

  • @user-em9lc9nu9d
    @user-em9lc9nu9d Před 2 lety +74

    血脈、繋いでない。
    タイトル普通におかしい。

  • @user-mj8vx1dl7t
    @user-mj8vx1dl7t Před 2 lety +12

    結局すぐ断絶してるなら繋いでないじゃん

  • @user-mh6ws9if7i
    @user-mh6ws9if7i Před 2 lety +10

    清和源氏の歴史を探ると、親戚兄弟ですら争うことがよくあって、多くの兄弟や子孫を残しても滅び行く運命にあった楊に思えます。
    結局は傍流となって別の氏を名乗った子孫たちが血を継ぐ結果に。

  • @georgejohns6419
    @georgejohns6419 Před 2 lety +13

    7:35 「政子も・・・政子の援助のもと」とはなんぢゃらほい

  • @user-oc7xx5yj5h
    @user-oc7xx5yj5h Před 2 lety +15

    源氏は北条氏(平氏)に皆〇しにされたと言っても過言ではない

  • @user-on5pi5fb8w
    @user-on5pi5fb8w Před 2 lety +51

    血脈をつないだ意外な人物って、結局断絶したんかいな

  • @vl3354
    @vl3354 Před 2 lety +4

    あくまでも頼朝の家督を継いだ直系がいなくなったけど頼朝の隠し子の末裔は頼朝直系の認定証出してあげたい

  • @KEISHINZAN
    @KEISHINZAN Před 2 lety +1

    有難うございます。

  • @user-ve1rf6uo9k
    @user-ve1rf6uo9k Před 2 lety +12

    昔「竹御所鞠子」という小説を読んだ記憶がある
    史実かどうかわからないけど、すごく哀しい人生送った人という印象が強い😥

    • @user-op8pe4jg2l
      @user-op8pe4jg2l Před 2 lety +1

      杉本苑子さんの小説ですね。
      竹御所は実在の最後の頼朝の末裔ですが、小説の方は伝承も交えたり創作部分もありますよね。
      頼家が父親なのは確かですが、母は比企氏説もあるしなあ。頼経と結婚する前にこっそり結婚して、娘を産んだが、その娘と始めの夫が殺されるのは多分創作。祖母の政子の後継として、御家人にも慕われたが、頼経の子を死産し死んだとありますから。
      ただ頼経とは年が離れすぎだし、初婚としては当時としては遅すぎるから、頼経に嫁ぐ前に結婚歴アリでも不思議じゃないからなあ。
      でもただでさえ哀しい運命なのに、愛した夫や子を殺害されたりな小説の様な展開は残酷過ぎるから、幼くして鎌倉に送られ不憫な境遇の頼経と愛ではなくとも共感し、短くとも幸福な結婚生活だったと信じたいですね、自分は。
      せめて創作するなら始めの夫と子は生き抜いて、哀しい竹御所の冥福を祈る展開が良かったかな。

  • @user-ic1yo3yw3k
    @user-ic1yo3yw3k Před 2 lety +9

    清々しいほどのタイトル詐欺

  • @user-yb5md7gh5p
    @user-yb5md7gh5p Před 2 lety +6

    タイトルおかしい

  • @user-wi2go5yy7i
    @user-wi2go5yy7i Před 2 lety +6

    頼朝も義経も正室じゃない人の傍系の子供は80代とかまで長生きしていて、子孫もいますよ☆結城朝光は流人時代の子という説が、87歳まで生きました。義経が一の谷の戦い前に現地の豪族の姫に産ませた子は、頼朝が弟を狙いだした頃に、機転を利かせた祖父が即自分の養子にと鎌倉から許可を得、家を継がせました。(当時の風習で、苗字が変われば無縁としてもう鎌倉から狙われないw)畠山重忠の姫が嫁いできて、その後家もずっと続いています…ニセモノの庶子なら、畠山の姫はこないでしょうね。。逃げのびた東北にも佐々木?なんとかという義経の子といわれる人が。どちらの方も80過ぎまで長生きで、戦が無ければ、本来健康長寿家系だったんでしょうね☆

  • @user-og8kx4ih7c
    @user-og8kx4ih7c Před 2 lety +3

    やっぱり族滅してるジャン
    っぱ鎌倉武士よ

  • @kongo-osaka
    @kongo-osaka Před 2 lety +2

    河内(大阪)に沢山います。
    源氏の故郷ですから。

  • @yh6146
    @yh6146 Před 2 lety +44

    頼朝の子孫はいないけど、頼朝の妹の娘が摂家に嫁いでいて子孫が鎌倉幕府の摂家将軍と親王将軍の内7代~9代になっている。そして現在の皇室の女系の先祖。

    • @RX78004
      @RX78004 Před 2 lety +17

      女系などと
      意味不明の供述を繰り返しており
      宮内庁では余罪を追及しています。

  • @user-gv9fj2ww3n
    @user-gv9fj2ww3n Před 2 lety +37

    一説では島津忠久と大友能直は頼朝のご落胤ともいわれていますね。

  • @wakanekomaru
    @wakanekomaru Před 2 lety +25

    結城系図によると結城朝光は頼朝の子とされ、当家の系図も例に漏れず朝光は頼朝の子となっています。吾妻鏡にも頼朝が朝光に身内のように贔屓する様子が描かれています。

    • @user-xh6jm3ci9y
      @user-xh6jm3ci9y Před 2 lety +3

      側室がたくさんいるから、北条政子さんが生んだ子じゃない子供がたくさんいますよ―頼家にも義経にも

    • @wakanekomaru
      @wakanekomaru Před 2 lety +5

      @@user-xh6jm3ci9y 具体的に根拠となる歴史資料としてどういうものがありますか?

    • @maronnkuririnn
      @maronnkuririnn Před 2 lety +1

      大友氏や島津氏は、御落胤説がありますよ。

    • @wakanekomaru
      @wakanekomaru Před 2 lety

      @@maronnkuririnn 系図を示した確かな古文書があると言うことですね。現在の極左が支配する歴史学会ではそういうものが理由なく一切否定されて「多数説」として歴史がゆがめられていますね。

    • @CX-EURO400
      @CX-EURO400 Před 2 lety +2

      結城朝光の母の寒河尼は頼朝の乳母の一人ですからね。さすがの頼朝も自分の乳母には手は出さなかったでしょうw
      頼朝は乳母を大切にする人でしたから、年の離れた乳兄弟である朝光に自分の名前から一文字を与えて大層引き立てたことが後に頼朝の御落胤と変化していったのだと思います。

  • @user-yr4nd7rp1v
    @user-yr4nd7rp1v Před 2 lety +12

    頼朝の子孫家は現在「清和源氏同好会」の首席ですよね。
    義経の子孫家系と奥州藤原子孫家系が末席。末席の両家は仲が良く、文武両道の家系だとか。先代、先先代の時代のことですが、集会での大立ち回りの逸話も聞いたことがあります。武人健在。

    • @user-cq6cp2gx5x
      @user-cq6cp2gx5x Před 2 lety +1

      義経の子供って全員死んでませんでしたか男子は頼朝に娘は衣川の戦いで死んだはず

    • @user-cq6cp2gx5x
      @user-cq6cp2gx5x Před 2 lety

      いるわけねぇじゃん いたら 鎌倉幕府の将軍になったりしてるし 第一義経の子孫はいません

  • @user-sw5ph1zf9v
    @user-sw5ph1zf9v Před 2 lety +21

    今の源頼朝の墓は島津氏が建てたんだったかな。

    • @user-ot8vv3yg5l
      @user-ot8vv3yg5l Před měsícem

      島津氏は戦国時代ごろから初代・忠久が頼朝の落胤というのを自称してた関係で
      源頼朝関連の史跡を無下にできなかったんでしょうね。
      それに確か初代・忠久の墓所自体も鎌倉の頼朝の墓所の裏手にあるんですよね。
      (島津氏は初代・二代は鎌倉在住であり元寇を機に三代目以降から薩摩の土着化が本格化する。)

  • @takashi1106a
    @takashi1106a Před 2 lety +1

    どこかに繋がっているかと思いましたが。

  • @miyukidbs7166
    @miyukidbs7166 Před 2 lety

    女の声より落ち着いた男の声のが内容に合ってていいなあ。

  • @penpingchan9671
    @penpingchan9671 Před 2 lety +37

    鎌倉幕府って言ってるけど、鎌倉時代には鎌倉幕府とは呼ばなかったという事実。「鎌倉殿」と呼ばれていた。鎌倉幕府と呼ばれだしたのは江戸幕末から。鎌倉殿と呼ばれた政府も江戸(徳川)幕府のように幕府でいいだろうとなった。

    • @RX78004
      @RX78004 Před 2 lety +7

      大阪で大阪焼きと呼ばれない
      ナポリでナポリタンと呼ばれない

    • @user-yz3iy9fw1v
      @user-yz3iy9fw1v Před 2 lety +10

      『幕府』は、あくまでも学術用語。

  • @aoiajisai669
    @aoiajisai669 Před 2 lety +5

    八田知家にも頼朝の落胤説があります。

  • @user-so9yv5hn5g
    @user-so9yv5hn5g Před 2 lety +25

    頼朝の側室「丹後の局」は、北条政子に追われ、薩摩へ逃げ延びたが、難波で産気付き、狐火に守られ男児出産!その地に建立されたのが、住吉神社⛩〜薩摩は市来の湊へ辿り着き〜その地には、丹後の局を祀った県下一古い稲荷神社⛩が今も健在です〜その時生まれたのが、薩摩藩主初代島津忠久です。私の幼少期80年前にも、丹後の局のお墓も有名てした。1180年代だと思います。検証下さいませ。

    • @hymn13
      @hymn13 Před 2 lety +8

      島津忠久が落胤だったのは初耳だったので面白く検索させていただきました。ありがとうございます。
      住吉大社の件も面白い。
      ただし、薩摩藩は江戸期以降の名称(幕末だけ使用された用語)なので、「藩主」というのは違います。

    • @user-op8pe4jg2l
      @user-op8pe4jg2l Před 2 lety +5

      島津忠久が落胤というのはあくまでも伝承で、歴史学的には否定されてませんか?
      ただ島津は子孫とされることで、頼朝を尊敬していた徳川家康や徳川将軍家から家を守る上で役立ったとは思うし、馬鹿殿無しと言われる島津家、偉大な祖を持っていても不思議ではないとは思うが
      確かな落胤は動画にある貞暁だけでしょう。吾妻鏡にも詳細されてますし。因みに他にも落胤と言われる人物は多いですね。

  • @KEISHINZAN
    @KEISHINZAN Před 2 lety +1

    Thank you so much for you !

  • @user-nb2th9it7s
    @user-nb2th9it7s Před 2 lety +5

    北条政子という絶対コロすマンに、目をつけられた人々が不憫だ…

    • @user-kq4zc6ji1e
      @user-kq4zc6ji1e Před měsícem

      時政と義時が実権握ってるんだから政子は父親と弟に我が子を殺された被害者だろ

  • @user-jd3io3yh9c
    @user-jd3io3yh9c Před 2 lety +14

    鎌倉二階堂の頼朝の墓のそばの白旗神社に島津さんことが書かれていますよ!

  • @user-ib1kk8ip8g
    @user-ib1kk8ip8g Před 2 lety +10

    しずかちゃんじゃなくてよかったです。

  • @kenichitatewaki2387
    @kenichitatewaki2387 Před 2 lety +14

    「北鎌倉の東慶寺。」に行ってみて下さい。

  • @ticonanami7284
    @ticonanami7284 Před 2 lety +17

    血脈を継いだ意外な人物って誰ですか

    • @tentenkai
      @tentenkai Před 2 lety +6

      1979年に放送された大河ドラマ「草燃える」では頼朝が北条義時の妻の茜に手を出して生まれた子供が後に鎌倉幕府の3代執権になった北条泰時という驚愕の展開を見せました。史実かどうかはともかく頼朝と政子は泰時を重用していたことは確かです。

    • @user-xx3lr5ib4c
      @user-xx3lr5ib4c Před 2 lety +3

      鹿児島の島津氏です。 島津氏の先祖は、源頼朝の御落胤と称してます。

    • @CX-EURO400
      @CX-EURO400 Před 2 lety +1

      @@user-xx3lr5ib4c
      自称してるだけで公式には否定されてるけどね。
      豊後の大友氏も頼朝の御落胤と称している。

    • @beforeafter3258
      @beforeafter3258 Před 4 měsíci +1

      阿野廉子…義朝の子阿野全成の末裔

  • @user-ei3hw6in3d
    @user-ei3hw6in3d Před 2 lety +22

    頼朝さんに限らなければ源氏の末裔って結構居るよね ウチもそうだし

    • @RX78004
      @RX78004 Před 2 lety +10

      僧侶が勝手に家系図を作るんだよな
      徳川家の末裔も「源」を名乗ってたりするし

    • @user-ei3hw6in3d
      @user-ei3hw6in3d Před 2 lety +4

      @@RX78004 それかもねー 戦国時代は武家とはいえ、それ以前は微妙だし

    • @haouseiso1683
      @haouseiso1683 Před 2 lety +2

      昔、女子水泳の短距離選手に「源」さんがいて、その後ネットのスポーツ記事(サンスポ)で記事を書いていた。

    • @user-dp7jh6dl8x
      @user-dp7jh6dl8x Před rokem

      @長尾雪道 だから朝廷から『豊臣』をもらったんですよ。

  • @user-so9yv5hn5g
    @user-so9yv5hn5g Před 2 lety +23

    頼朝の側室、丹後の局が、北条政子に追われ下降の途次、、難波の港へ辿り着き、、そこで狐火に守られ出産し〜薩摩へ逃げ延びた!その子が薩摩藩主島津家元祖、、初代島津忠久〜1180年代⁈〜大阪の住吉神社⛩は、丹後の局と忠久を祀り建立〜薩摩の市来の湊へ辿り着いた場所には、800年の歴史ある県下一古い稲荷神社⛩が今も健在です。検証下さい。

    • @user-so9yv5hn5g
      @user-so9yv5hn5g Před 2 lety +9

      ご返信拝読しました。
      島津忠久は、島津家元祖です。藩政以前の1180年代〜源平合戦「篠原の乱」で巴御前に敗れた武蔵國武将、平家の武蔵三郎左衛門有国の孫、式部少輔有實を家臣に、薩摩國へ下降し、戦国時代を薩州統一へ共に戦い抜いた島津家歴史が有ります。

    • @user-bi9yo8yj9g
      @user-bi9yo8yj9g Před 2 lety

      うーん。
      それ。正史になるの?

  • @I_am_an_innocent_man
    @I_am_an_innocent_man Před měsícem

    知らないことが多かったです。

  • @user-bn7yy8ti5c
    @user-bn7yy8ti5c Před 2 lety +1

    8:26 動画のラストは最後ーさん?

  • @user-ln7ur3lp6f
    @user-ln7ur3lp6f Před 2 lety +7

    己の立身出世の為に、実の弟含め何人もの命を手にかけたのだから、自業自得と思う。

  • @giantnioinoba2023
    @giantnioinoba2023 Před 2 lety +2

    千鶴丸はスルーなんだね。

  • @user-hk5yl7hl4p
    @user-hk5yl7hl4p Před 2 lety +10

    頼朝は、結局、そうとう恨まれていたということになるのかな?
    家を守るという意識のない北条政子というのも興味深い。頼朝に嫁いでも北条氏の女であったか!

  • @user-jb9qq3py7p
    @user-jb9qq3py7p Před 2 lety +4

    タイトル詐欺じゃん

  • @user-bv8ye3ud8w
    @user-bv8ye3ud8w Před 2 lety +2

    源頼家像の2,30年後…長谷寺の徳川秀忠像なくらいクリソツ。
    大型の耳、目元口元、特に笏の持ち方は完全に一致。

  • @user-tz7gv8hj2s
    @user-tz7gv8hj2s Před 2 lety +19

    島津氏が頼朝の子孫だと言うよね。

    • @user-wv9qd6rl1y
      @user-wv9qd6rl1y Před 2 lety +4

      日向国都城(宮崎県都城市)は「島津都城荘」(しまづみやこのじょうのしょう)と呼ばれ、源 頼朝の落胤こそ島津家の発祥とされる。
      古来から薩摩の隼人族は、肥後の熊襲族と対立しており、都城は島津の前線基地だったという説もあり、明治政府は陸軍の歩兵第23連隊を都城市に置き、現在も陸上自衛隊の駐屯地がある。

  • @user-gw4nf5zk7n
    @user-gw4nf5zk7n Před 2 lety +2

    「あしやドーマン」出版。国会図書館、三重県立、石川県立図書館等に蔵書。

  • @user-hs9zk6re5s
    @user-hs9zk6re5s Před 2 lety +24

    島津の初代は頼朝の妾が母親だ。だから島津は、鎌倉時代から江戸時代まで700年間源氏直系の血統を継いでいる。

    • @user-gv9fj2ww3n
      @user-gv9fj2ww3n Před 2 lety +14

      島津家は秦氏の系統で有りながら源氏を名乗るのはこれが理由と言われていますね。

  • @user-jx2qm1ho9t
    @user-jx2qm1ho9t Před 2 lety

    公暁の師は定暁であって、貞暁ではない。wikiも一部の『吾妻鏡』も間違っています。五味、本郷の『現代語訳吾妻鏡』を参照してください。

  • @ehehe123456
    @ehehe123456 Před 2 lety +6

    北条政子を恐れて頼朝の子どもたちは姿を隠してたんだろうな

    • @user-nf4mv1wh9f
      @user-nf4mv1wh9f Před rokem

      北条政子がギリシャ神話の主神ゼウスの正妻、女神ヘラのように感じました。嫉妬深いことやヘラクレスに試練を課したことで有名です。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y Před 2 lety +22

    島津藩の祖が頼朝の実子/直系子孫との根強い伝承が有ります?
    島津藩が外様大名として警戒されながらも大藩として、また、幕府の要職を歴任した裏事情かもしれません?

    • @kleenex9981
      @kleenex9981 Před 2 lety +4

      島津氏は源氏の系統を自称していますね。
      島津氏が歴任した幕府の要職って何でしたっけ?

    • @CG-gh7xt
      @CG-gh7xt Před 2 lety +12

      源氏うんぬんは仮冒の可能性が高い。

    • @user-ub7tt4gl8y
      @user-ub7tt4gl8y Před 2 lety +7

      元々近衛家と仲良しという背景もありますね(近衛前久が薩摩に下向して義久と会うくらい)

  • @user-ne6ue9ti9p
    @user-ne6ue9ti9p Před 2 lety +5

    島津忠久は、三郎忠久とも。頼朝が命名した三郎。義父広言が命名した忠久。

  • @user-nl7yr7rk4o
    @user-nl7yr7rk4o Před 2 lety +2

    以外→意外

  • @yh6146
    @yh6146 Před 2 lety +13

    頼朝の近親の男性は頼朝と頼朝の三男以外は全て殺されたか処刑されている。

  • @ukito12345
    @ukito12345 Před 2 lety +17

    兄弟は他人の始まり。まして母方が違う。兄弟とは名ばかりか。

  • @user-zy4fd8mm3o
    @user-zy4fd8mm3o Před 2 lety +4

    意外な人物って?
    血が絶えたって話?
    つりですか?

  • @user-kr2ke2oz4l
    @user-kr2ke2oz4l Před 2 lety +4

    平家だけでなく、親戚からも呪われているから。

  • @user-ub8jh8bp3s
    @user-ub8jh8bp3s Před 2 lety +1

    6:51その藤原(伊達)朝宗も、母方の祖父は、源為義にあたります。

  • @Sugiura_Kenji
    @Sugiura_Kenji Před rokem

    足利尊氏の、後醍醐帝と上手く行かなくなった辺りからの行動を見ると、「もっと武家政権に自信をもてよ」と言いたくなるような弱気なところがみえますが、その後の歴史を知っている我々と違って、足利尊氏にしてみたら平清盛の家系も源頼朝の家系も滅んだという前例しか知らないわけで、「やっぱりこういうのは天の定めに反することをしているということなのか」と悩んだのかもしれないなぁ、と想像しています。

    • @rekishock
      @rekishock  Před rokem +1

      ましてや天皇に逆らって勝ったのなんて北条義時だけですし、その北条氏を滅ぼしたのは後醍醐天皇ですからね。
      尊氏の気持ちに立ったら、いくら上手くいく要素が揃っていてもまず無理としか思えません。

  • @user-eb1zo7pd1s
    @user-eb1zo7pd1s Před 2 lety +1

    武田信玄、甘利晴吉 晴信は甘利の子。家康の兄弟。信虎の子ですから。信虎が甘利の子か武藤の子かはたぶん両方の子でしょう・

  • @jardins-du-cosmos
    @jardins-du-cosmos Před 2 lety

    後北条とは全く関係無さそうですな

  • @haouseiso1683
    @haouseiso1683 Před 2 lety +19

    まだ結婚する前、伊東さんの娘さんとの間に子供を作ったよね。

    • @kyokookada7641
      @kyokookada7641 Před 2 lety +7

      でも、娘の父親によって殺されてしまいました。

    • @haouseiso1683
      @haouseiso1683 Před 2 lety +4

      @@kyokookada7641 さん
      返信ありがとうございます。
      崖下へ投げ捨てられたんでしたっけ?

    • @user-tq7gl5ct4g
      @user-tq7gl5ct4g Před 2 lety +1

      千鶴丸ですね。松川という川の上流にふしづけ(簀巻きにして更に重しをつけ沈める)にされたようですね。そこは現在稚児が淵と云われているようです。

    • @haouseiso1683
      @haouseiso1683 Před 2 lety

      @@user-tq7gl5ct4g さん
      返信ありがとうございます。
      頼朝とはいえ、まだ不遇の時代だったので娘の名前なんかはないのかと思っていました(または伝わっていない)。きちんと記録に残っているんですね。
       しかも、未だに地名に名残りがあるとは…。
       それにしても残酷な殺し方ですね。
      崖下へ投げ捨てたのは勘違いか、間違った記載を読んだのかもしれません。
       それとも、静御前の赤ちゃんだったかな?

    • @user-tq7gl5ct4g
      @user-tq7gl5ct4g Před 2 lety +1

      頼朝の最初の妻(伊東祐親の娘)の名は史料的根拠はないようですが一般的には八重姫(または静姫)と云われており子供は男児ですね。なので猶更祐親は生かしておかなかったのでしょう。八重姫はその後近隣の豪族江間氏に嫁いだとも云われてますが江間氏は伊東氏同様旗揚げした頼朝に敵対し誅されたようです。または八重姫は相馬氏に嫁いだとの説もありもありその辺は諸説あり、ですね。

  • @user-st9lo7gm4c
    @user-st9lo7gm4c Před 2 lety +3

    「以外な人物」?

  • @user-uw7mr1cu9i
    @user-uw7mr1cu9i Před měsícem

    頼朝直系は、天運無さすぎるな

  • @user-qe6ph8qy5n
    @user-qe6ph8qy5n Před 2 lety +7

    ドラえもんの静香ちゃんしかしらんw

  • @user-bb8ds9lp4j
    @user-bb8ds9lp4j Před 2 lety +2

    基本的な話、徳川とか織田とか武田とか島津とか、みんな源氏か平家筋でしょ。朝廷の官位制度上、源氏か平家が武門(武士)の頭領だって決められてるからそこ外れると爵位貰えないもの。(なお、豊臣は関白家に養子縁組で入り込んで後に家としては断絶)

    • @qzp01467
      @qzp01467 Před 2 lety

      豊臣を拝命したのは秀吉だけでなく、秀吉の正妻高台院の一族の木下家を含みます。この木下家は日出藩と足守藩を幕末まで支配していて、家康から豊臣を名乗ることを許されてました。なので豊臣は断絶してません。

  • @ch_trainmusicbay
    @ch_trainmusicbay Před 2 lety +1

    タイトル&サムネ詐欺は幻滅…

  • @user-eb1zo7pd1s
    @user-eb1zo7pd1s Před 2 lety

    甘利のまんま行忠から続かないのは天皇家の秘密がばれっから

  • @RX78004
    @RX78004 Před 2 lety +2

    現在でも33歳は高齢出産でリスクが高い

    • @user-op8pe4jg2l
      @user-op8pe4jg2l Před 2 lety

      今はそんなにですが、あの時代に初産でその歳はね。
      頼朝の兄弟姉妹の子孫は残ってた訳だし、(いや彼女は直系だから配偶者にそこまで源氏に拘らずともいいかな)もっと歳の近い相手と結婚させていたならな。頼経は幼すぎて結婚させるのが遅くなったわけだし。

  • @philosophydoubtfuljournalcom

    ええ?!源氏の子孫を名乗る人々が日本の権力を牛耳っているようなのですが、頼朝の子孫ではないということなのですか?清和源氏って、、、なんでしょね?

  • @ttt186
    @ttt186 Před 2 lety +1

    俺も子孫だけど^ ^

  • @alpacagroupheathaze5350
    @alpacagroupheathaze5350 Před 2 lety +8

    恨みは無いが源氏の子孫はなるべく避けたい

  • @user-sy6mo2pw7e
    @user-sy6mo2pw7e Před rokem +2

    私、家系からさかのぼると源氏のうじになりますよ。
    なので、見ていると命が繋がれていることを考えるとすごい事だと思うし面白いと思います。

  • @user-ki7pk4tt5o
    @user-ki7pk4tt5o Před 2 lety +2

    サムネわ?

  • @user-eg7fc9mk9s
    @user-eg7fc9mk9s Před 2 lety +5

    ワイは吉見氏の血筋を通して頼朝の弟の子孫やね。
    とある地方の大庄屋が先祖に居て、その婚戚の庄屋さんの先祖が吉見氏の娘との子を当主にしてたから。
    女系の女系で、末端の末端だけど、一応ご先祖様ですね。

  • @mogurofukuzo10
    @mogurofukuzo10 Před 2 lety +2

    母方は、来年の、鎌倉殿の13人の大江広元の傍系(次男:永井時広)の直系と言われていますが、戦国時代に後・北条氏に滅ぼされたはずで、後の徳川家康が、名前だけ継がせたという研究があります(本当のところは遺伝子解析でもせんとわからんが…)

  • @user-ry3du7we4k
    @user-ry3du7we4k Před 2 lety +3

    島津はウソだよね

  • @chio3144
    @chio3144 Před 2 lety

    清盛の孫まで処刑したから呪いかもねー

  • @user-bm8mr1qv6p
    @user-bm8mr1qv6p Před rokem

    凡人

  • @user-eb1zo7pd1s
    @user-eb1zo7pd1s Před 2 lety +1

    だから甘利の子が足利義満とか徳川家康。清和惣領一系である。覚えなさい