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頼朝の血脈をつないだ奴一人も居ねぇじゃねえか
粛清した武田や佐竹の方が栄えた…因果は巡るね
血脈、繋いでない。タイトル普通におかしい。
結局すぐ断絶してるなら繋いでないじゃん
清和源氏の歴史を探ると、親戚兄弟ですら争うことがよくあって、多くの兄弟や子孫を残しても滅び行く運命にあった楊に思えます。結局は傍流となって別の氏を名乗った子孫たちが血を継ぐ結果に。
7:35 「政子も・・・政子の援助のもと」とはなんぢゃらほい
源氏は北条氏(平氏)に皆〇しにされたと言っても過言ではない
血脈をつないだ意外な人物って、結局断絶したんかいな
鎌倉殿の13人に東出昌大も出るべき
繋いでないね。
あくまでも頼朝の家督を継いだ直系がいなくなったけど頼朝の隠し子の末裔は頼朝直系の認定証出してあげたい
有難うございます。
昔「竹御所鞠子」という小説を読んだ記憶がある史実かどうかわからないけど、すごく哀しい人生送った人という印象が強い😥
杉本苑子さんの小説ですね。竹御所は実在の最後の頼朝の末裔ですが、小説の方は伝承も交えたり創作部分もありますよね。頼家が父親なのは確かですが、母は比企氏説もあるしなあ。頼経と結婚する前にこっそり結婚して、娘を産んだが、その娘と始めの夫が殺されるのは多分創作。祖母の政子の後継として、御家人にも慕われたが、頼経の子を死産し死んだとありますから。ただ頼経とは年が離れすぎだし、初婚としては当時としては遅すぎるから、頼経に嫁ぐ前に結婚歴アリでも不思議じゃないからなあ。でもただでさえ哀しい運命なのに、愛した夫や子を殺害されたりな小説の様な展開は残酷過ぎるから、幼くして鎌倉に送られ不憫な境遇の頼経と愛ではなくとも共感し、短くとも幸福な結婚生活だったと信じたいですね、自分は。せめて創作するなら始めの夫と子は生き抜いて、哀しい竹御所の冥福を祈る展開が良かったかな。
清々しいほどのタイトル詐欺
タイトルおかしい
頼朝も義経も正室じゃない人の傍系の子供は80代とかまで長生きしていて、子孫もいますよ☆結城朝光は流人時代の子という説が、87歳まで生きました。義経が一の谷の戦い前に現地の豪族の姫に産ませた子は、頼朝が弟を狙いだした頃に、機転を利かせた祖父が即自分の養子にと鎌倉から許可を得、家を継がせました。(当時の風習で、苗字が変われば無縁としてもう鎌倉から狙われないw)畠山重忠の姫が嫁いできて、その後家もずっと続いています…ニセモノの庶子なら、畠山の姫はこないでしょうね。。逃げのびた東北にも佐々木?なんとかという義経の子といわれる人が。どちらの方も80過ぎまで長生きで、戦が無ければ、本来健康長寿家系だったんでしょうね☆
やっぱり族滅してるジャンっぱ鎌倉武士よ
河内(大阪)に沢山います。源氏の故郷ですから。
頼朝の子孫はいないけど、頼朝の妹の娘が摂家に嫁いでいて子孫が鎌倉幕府の摂家将軍と親王将軍の内7代~9代になっている。そして現在の皇室の女系の先祖。
女系などと意味不明の供述を繰り返しており宮内庁では余罪を追及しています。
一説では島津忠久と大友能直は頼朝のご落胤ともいわれていますね。
結城系図によると結城朝光は頼朝の子とされ、当家の系図も例に漏れず朝光は頼朝の子となっています。吾妻鏡にも頼朝が朝光に身内のように贔屓する様子が描かれています。
側室がたくさんいるから、北条政子さんが生んだ子じゃない子供がたくさんいますよ―頼家にも義経にも
@@user-xh6jm3ci9y 具体的に根拠となる歴史資料としてどういうものがありますか?
大友氏や島津氏は、御落胤説がありますよ。
@@maronnkuririnn 系図を示した確かな古文書があると言うことですね。現在の極左が支配する歴史学会ではそういうものが理由なく一切否定されて「多数説」として歴史がゆがめられていますね。
結城朝光の母の寒河尼は頼朝の乳母の一人ですからね。さすがの頼朝も自分の乳母には手は出さなかったでしょうw頼朝は乳母を大切にする人でしたから、年の離れた乳兄弟である朝光に自分の名前から一文字を与えて大層引き立てたことが後に頼朝の御落胤と変化していったのだと思います。
頼朝の子孫家は現在「清和源氏同好会」の首席ですよね。義経の子孫家系と奥州藤原子孫家系が末席。末席の両家は仲が良く、文武両道の家系だとか。先代、先先代の時代のことですが、集会での大立ち回りの逸話も聞いたことがあります。武人健在。
義経の子供って全員死んでませんでしたか男子は頼朝に娘は衣川の戦いで死んだはず
いるわけねぇじゃん いたら 鎌倉幕府の将軍になったりしてるし 第一義経の子孫はいません
今の源頼朝の墓は島津氏が建てたんだったかな。
島津氏は戦国時代ごろから初代・忠久が頼朝の落胤というのを自称してた関係で源頼朝関連の史跡を無下にできなかったんでしょうね。それに確か初代・忠久の墓所自体も鎌倉の頼朝の墓所の裏手にあるんですよね。(島津氏は初代・二代は鎌倉在住であり元寇を機に三代目以降から薩摩の土着化が本格化する。)
どこかに繋がっているかと思いましたが。
女の声より落ち着いた男の声のが内容に合ってていいなあ。
鎌倉幕府って言ってるけど、鎌倉時代には鎌倉幕府とは呼ばなかったという事実。「鎌倉殿」と呼ばれていた。鎌倉幕府と呼ばれだしたのは江戸幕末から。鎌倉殿と呼ばれた政府も江戸(徳川)幕府のように幕府でいいだろうとなった。
大阪で大阪焼きと呼ばれないナポリでナポリタンと呼ばれない
『幕府』は、あくまでも学術用語。
八田知家にも頼朝の落胤説があります。
義朝では?
頼朝の側室「丹後の局」は、北条政子に追われ、薩摩へ逃げ延びたが、難波で産気付き、狐火に守られ男児出産!その地に建立されたのが、住吉神社⛩〜薩摩は市来の湊へ辿り着き〜その地には、丹後の局を祀った県下一古い稲荷神社⛩が今も健在です〜その時生まれたのが、薩摩藩主初代島津忠久です。私の幼少期80年前にも、丹後の局のお墓も有名てした。1180年代だと思います。検証下さいませ。
島津忠久が落胤だったのは初耳だったので面白く検索させていただきました。ありがとうございます。住吉大社の件も面白い。ただし、薩摩藩は江戸期以降の名称(幕末だけ使用された用語)なので、「藩主」というのは違います。
島津忠久が落胤というのはあくまでも伝承で、歴史学的には否定されてませんか?ただ島津は子孫とされることで、頼朝を尊敬していた徳川家康や徳川将軍家から家を守る上で役立ったとは思うし、馬鹿殿無しと言われる島津家、偉大な祖を持っていても不思議ではないとは思うが 確かな落胤は動画にある貞暁だけでしょう。吾妻鏡にも詳細されてますし。因みに他にも落胤と言われる人物は多いですね。
Thank you so much for you !
北条政子という絶対コロすマンに、目をつけられた人々が不憫だ…
時政と義時が実権握ってるんだから政子は父親と弟に我が子を殺された被害者だろ
鎌倉二階堂の頼朝の墓のそばの白旗神社に島津さんことが書かれていますよ!
しずかちゃんじゃなくてよかったです。
「北鎌倉の東慶寺。」に行ってみて下さい。
血脈を継いだ意外な人物って誰ですか
1979年に放送された大河ドラマ「草燃える」では頼朝が北条義時の妻の茜に手を出して生まれた子供が後に鎌倉幕府の3代執権になった北条泰時という驚愕の展開を見せました。史実かどうかはともかく頼朝と政子は泰時を重用していたことは確かです。
鹿児島の島津氏です。 島津氏の先祖は、源頼朝の御落胤と称してます。
@@user-xx3lr5ib4c 自称してるだけで公式には否定されてるけどね。豊後の大友氏も頼朝の御落胤と称している。
阿野廉子…義朝の子阿野全成の末裔
頼朝さんに限らなければ源氏の末裔って結構居るよね ウチもそうだし
僧侶が勝手に家系図を作るんだよな徳川家の末裔も「源」を名乗ってたりするし
@@RX78004 それかもねー 戦国時代は武家とはいえ、それ以前は微妙だし
昔、女子水泳の短距離選手に「源」さんがいて、その後ネットのスポーツ記事(サンスポ)で記事を書いていた。
@長尾雪道 だから朝廷から『豊臣』をもらったんですよ。
頼朝の側室、丹後の局が、北条政子に追われ下降の途次、、難波の港へ辿り着き、、そこで狐火に守られ出産し〜薩摩へ逃げ延びた!その子が薩摩藩主島津家元祖、、初代島津忠久〜1180年代⁈〜大阪の住吉神社⛩は、丹後の局と忠久を祀り建立〜薩摩の市来の湊へ辿り着いた場所には、800年の歴史ある県下一古い稲荷神社⛩が今も健在です。検証下さい。
ご返信拝読しました。島津忠久は、島津家元祖です。藩政以前の1180年代〜源平合戦「篠原の乱」で巴御前に敗れた武蔵國武将、平家の武蔵三郎左衛門有国の孫、式部少輔有實を家臣に、薩摩國へ下降し、戦国時代を薩州統一へ共に戦い抜いた島津家歴史が有ります。
うーん。それ。正史になるの?
知らないことが多かったです。
8:26 動画のラストは最後ーさん?
己の立身出世の為に、実の弟含め何人もの命を手にかけたのだから、自業自得と思う。
千鶴丸はスルーなんだね。
頼朝は、結局、そうとう恨まれていたということになるのかな?家を守るという意識のない北条政子というのも興味深い。頼朝に嫁いでも北条氏の女であったか!
この時代女はそんなもの
タイトル詐欺じゃん
源頼家像の2,30年後…長谷寺の徳川秀忠像なくらいクリソツ。大型の耳、目元口元、特に笏の持ち方は完全に一致。
島津氏が頼朝の子孫だと言うよね。
日向国都城(宮崎県都城市)は「島津都城荘」(しまづみやこのじょうのしょう)と呼ばれ、源 頼朝の落胤こそ島津家の発祥とされる。古来から薩摩の隼人族は、肥後の熊襲族と対立しており、都城は島津の前線基地だったという説もあり、明治政府は陸軍の歩兵第23連隊を都城市に置き、現在も陸上自衛隊の駐屯地がある。
「あしやドーマン」出版。国会図書館、三重県立、石川県立図書館等に蔵書。
島津の初代は頼朝の妾が母親だ。だから島津は、鎌倉時代から江戸時代まで700年間源氏直系の血統を継いでいる。
島津家は秦氏の系統で有りながら源氏を名乗るのはこれが理由と言われていますね。
公暁の師は定暁であって、貞暁ではない。wikiも一部の『吾妻鏡』も間違っています。五味、本郷の『現代語訳吾妻鏡』を参照してください。
北条政子を恐れて頼朝の子どもたちは姿を隠してたんだろうな
北条政子がギリシャ神話の主神ゼウスの正妻、女神ヘラのように感じました。嫉妬深いことやヘラクレスに試練を課したことで有名です。
島津藩の祖が頼朝の実子/直系子孫との根強い伝承が有ります?島津藩が外様大名として警戒されながらも大藩として、また、幕府の要職を歴任した裏事情かもしれません?
島津氏は源氏の系統を自称していますね。島津氏が歴任した幕府の要職って何でしたっけ?
源氏うんぬんは仮冒の可能性が高い。
元々近衛家と仲良しという背景もありますね(近衛前久が薩摩に下向して義久と会うくらい)
島津忠久は、三郎忠久とも。頼朝が命名した三郎。義父広言が命名した忠久。
以外→意外
頼朝の近親の男性は頼朝と頼朝の三男以外は全て殺されたか処刑されている。
兄弟は他人の始まり。まして母方が違う。兄弟とは名ばかりか。
他人どころか仇敵の始まり
意外な人物って?血が絶えたって話?つりですか?
平家だけでなく、親戚からも呪われているから。
6:51その藤原(伊達)朝宗も、母方の祖父は、源為義にあたります。
足利尊氏の、後醍醐帝と上手く行かなくなった辺りからの行動を見ると、「もっと武家政権に自信をもてよ」と言いたくなるような弱気なところがみえますが、その後の歴史を知っている我々と違って、足利尊氏にしてみたら平清盛の家系も源頼朝の家系も滅んだという前例しか知らないわけで、「やっぱりこういうのは天の定めに反することをしているということなのか」と悩んだのかもしれないなぁ、と想像しています。
ましてや天皇に逆らって勝ったのなんて北条義時だけですし、その北条氏を滅ぼしたのは後醍醐天皇ですからね。尊氏の気持ちに立ったら、いくら上手くいく要素が揃っていてもまず無理としか思えません。
武田信玄、甘利晴吉 晴信は甘利の子。家康の兄弟。信虎の子ですから。信虎が甘利の子か武藤の子かはたぶん両方の子でしょう・
後北条とは全く関係無さそうですな
まだ結婚する前、伊東さんの娘さんとの間に子供を作ったよね。
でも、娘の父親によって殺されてしまいました。
@@kyokookada7641 さん返信ありがとうございます。崖下へ投げ捨てられたんでしたっけ?
千鶴丸ですね。松川という川の上流にふしづけ(簀巻きにして更に重しをつけ沈める)にされたようですね。そこは現在稚児が淵と云われているようです。
@@user-tq7gl5ct4g さん返信ありがとうございます。頼朝とはいえ、まだ不遇の時代だったので娘の名前なんかはないのかと思っていました(または伝わっていない)。きちんと記録に残っているんですね。 しかも、未だに地名に名残りがあるとは…。 それにしても残酷な殺し方ですね。崖下へ投げ捨てたのは勘違いか、間違った記載を読んだのかもしれません。 それとも、静御前の赤ちゃんだったかな?
頼朝の最初の妻(伊東祐親の娘)の名は史料的根拠はないようですが一般的には八重姫(または静姫)と云われており子供は男児ですね。なので猶更祐親は生かしておかなかったのでしょう。八重姫はその後近隣の豪族江間氏に嫁いだとも云われてますが江間氏は伊東氏同様旗揚げした頼朝に敵対し誅されたようです。または八重姫は相馬氏に嫁いだとの説もありもありその辺は諸説あり、ですね。
「以外な人物」?
頼朝直系は、天運無さすぎるな
ドラえもんの静香ちゃんしかしらんw
基本的な話、徳川とか織田とか武田とか島津とか、みんな源氏か平家筋でしょ。朝廷の官位制度上、源氏か平家が武門(武士)の頭領だって決められてるからそこ外れると爵位貰えないもの。(なお、豊臣は関白家に養子縁組で入り込んで後に家としては断絶)
豊臣を拝命したのは秀吉だけでなく、秀吉の正妻高台院の一族の木下家を含みます。この木下家は日出藩と足守藩を幕末まで支配していて、家康から豊臣を名乗ることを許されてました。なので豊臣は断絶してません。
タイトル&サムネ詐欺は幻滅…
甘利のまんま行忠から続かないのは天皇家の秘密がばれっから
現在でも33歳は高齢出産でリスクが高い
今はそんなにですが、あの時代に初産でその歳はね。頼朝の兄弟姉妹の子孫は残ってた訳だし、(いや彼女は直系だから配偶者にそこまで源氏に拘らずともいいかな)もっと歳の近い相手と結婚させていたならな。頼経は幼すぎて結婚させるのが遅くなったわけだし。
ええ?!源氏の子孫を名乗る人々が日本の権力を牛耳っているようなのですが、頼朝の子孫ではないということなのですか?清和源氏って、、、なんでしょね?
俺も子孫だけど^ ^
恨みは無いが源氏の子孫はなるべく避けたい
私、家系からさかのぼると源氏のうじになりますよ。なので、見ていると命が繋がれていることを考えるとすごい事だと思うし面白いと思います。
サムネわ?
ワイは吉見氏の血筋を通して頼朝の弟の子孫やね。とある地方の大庄屋が先祖に居て、その婚戚の庄屋さんの先祖が吉見氏の娘との子を当主にしてたから。女系の女系で、末端の末端だけど、一応ご先祖様ですね。
母方は、来年の、鎌倉殿の13人の大江広元の傍系(次男:永井時広)の直系と言われていますが、戦国時代に後・北条氏に滅ぼされたはずで、後の徳川家康が、名前だけ継がせたという研究があります(本当のところは遺伝子解析でもせんとわからんが…)
島津はウソだよね
清盛の孫まで処刑したから呪いかもねー
凡人
だから甘利の子が足利義満とか徳川家康。清和惣領一系である。覚えなさい
頼朝の血脈をつないだ奴一人も居ねぇじゃねえか
粛清した武田や佐竹の方が栄えた…因果は巡るね
血脈、繋いでない。
タイトル普通におかしい。
結局すぐ断絶してるなら繋いでないじゃん
清和源氏の歴史を探ると、親戚兄弟ですら争うことがよくあって、多くの兄弟や子孫を残しても滅び行く運命にあった楊に思えます。
結局は傍流となって別の氏を名乗った子孫たちが血を継ぐ結果に。
7:35 「政子も・・・政子の援助のもと」とはなんぢゃらほい
源氏は北条氏(平氏)に皆〇しにされたと言っても過言ではない
血脈をつないだ意外な人物って、結局断絶したんかいな
鎌倉殿の13人に東出昌大も出るべき
繋いでないね。
あくまでも頼朝の家督を継いだ直系がいなくなったけど頼朝の隠し子の末裔は頼朝直系の認定証出してあげたい
有難うございます。
昔「竹御所鞠子」という小説を読んだ記憶がある
史実かどうかわからないけど、すごく哀しい人生送った人という印象が強い😥
杉本苑子さんの小説ですね。
竹御所は実在の最後の頼朝の末裔ですが、小説の方は伝承も交えたり創作部分もありますよね。
頼家が父親なのは確かですが、母は比企氏説もあるしなあ。頼経と結婚する前にこっそり結婚して、娘を産んだが、その娘と始めの夫が殺されるのは多分創作。祖母の政子の後継として、御家人にも慕われたが、頼経の子を死産し死んだとありますから。
ただ頼経とは年が離れすぎだし、初婚としては当時としては遅すぎるから、頼経に嫁ぐ前に結婚歴アリでも不思議じゃないからなあ。
でもただでさえ哀しい運命なのに、愛した夫や子を殺害されたりな小説の様な展開は残酷過ぎるから、幼くして鎌倉に送られ不憫な境遇の頼経と愛ではなくとも共感し、短くとも幸福な結婚生活だったと信じたいですね、自分は。
せめて創作するなら始めの夫と子は生き抜いて、哀しい竹御所の冥福を祈る展開が良かったかな。
清々しいほどのタイトル詐欺
タイトルおかしい
頼朝も義経も正室じゃない人の傍系の子供は80代とかまで長生きしていて、子孫もいますよ☆結城朝光は流人時代の子という説が、87歳まで生きました。義経が一の谷の戦い前に現地の豪族の姫に産ませた子は、頼朝が弟を狙いだした頃に、機転を利かせた祖父が即自分の養子にと鎌倉から許可を得、家を継がせました。(当時の風習で、苗字が変われば無縁としてもう鎌倉から狙われないw)畠山重忠の姫が嫁いできて、その後家もずっと続いています…ニセモノの庶子なら、畠山の姫はこないでしょうね。。逃げのびた東北にも佐々木?なんとかという義経の子といわれる人が。どちらの方も80過ぎまで長生きで、戦が無ければ、本来健康長寿家系だったんでしょうね☆
やっぱり族滅してるジャン
っぱ鎌倉武士よ
河内(大阪)に沢山います。
源氏の故郷ですから。
頼朝の子孫はいないけど、頼朝の妹の娘が摂家に嫁いでいて子孫が鎌倉幕府の摂家将軍と親王将軍の内7代~9代になっている。そして現在の皇室の女系の先祖。
女系などと
意味不明の供述を繰り返しており
宮内庁では余罪を追及しています。
一説では島津忠久と大友能直は頼朝のご落胤ともいわれていますね。
結城系図によると結城朝光は頼朝の子とされ、当家の系図も例に漏れず朝光は頼朝の子となっています。吾妻鏡にも頼朝が朝光に身内のように贔屓する様子が描かれています。
側室がたくさんいるから、北条政子さんが生んだ子じゃない子供がたくさんいますよ―頼家にも義経にも
@@user-xh6jm3ci9y 具体的に根拠となる歴史資料としてどういうものがありますか?
大友氏や島津氏は、御落胤説がありますよ。
@@maronnkuririnn 系図を示した確かな古文書があると言うことですね。現在の極左が支配する歴史学会ではそういうものが理由なく一切否定されて「多数説」として歴史がゆがめられていますね。
結城朝光の母の寒河尼は頼朝の乳母の一人ですからね。さすがの頼朝も自分の乳母には手は出さなかったでしょうw
頼朝は乳母を大切にする人でしたから、年の離れた乳兄弟である朝光に自分の名前から一文字を与えて大層引き立てたことが後に頼朝の御落胤と変化していったのだと思います。
頼朝の子孫家は現在「清和源氏同好会」の首席ですよね。
義経の子孫家系と奥州藤原子孫家系が末席。末席の両家は仲が良く、文武両道の家系だとか。先代、先先代の時代のことですが、集会での大立ち回りの逸話も聞いたことがあります。武人健在。
義経の子供って全員死んでませんでしたか男子は頼朝に娘は衣川の戦いで死んだはず
いるわけねぇじゃん いたら 鎌倉幕府の将軍になったりしてるし 第一義経の子孫はいません
今の源頼朝の墓は島津氏が建てたんだったかな。
島津氏は戦国時代ごろから初代・忠久が頼朝の落胤というのを自称してた関係で
源頼朝関連の史跡を無下にできなかったんでしょうね。
それに確か初代・忠久の墓所自体も鎌倉の頼朝の墓所の裏手にあるんですよね。
(島津氏は初代・二代は鎌倉在住であり元寇を機に三代目以降から薩摩の土着化が本格化する。)
どこかに繋がっているかと思いましたが。
女の声より落ち着いた男の声のが内容に合ってていいなあ。
鎌倉幕府って言ってるけど、鎌倉時代には鎌倉幕府とは呼ばなかったという事実。「鎌倉殿」と呼ばれていた。鎌倉幕府と呼ばれだしたのは江戸幕末から。鎌倉殿と呼ばれた政府も江戸(徳川)幕府のように幕府でいいだろうとなった。
大阪で大阪焼きと呼ばれない
ナポリでナポリタンと呼ばれない
『幕府』は、あくまでも学術用語。
八田知家にも頼朝の落胤説があります。
義朝では?
頼朝の側室「丹後の局」は、北条政子に追われ、薩摩へ逃げ延びたが、難波で産気付き、狐火に守られ男児出産!その地に建立されたのが、住吉神社⛩〜薩摩は市来の湊へ辿り着き〜その地には、丹後の局を祀った県下一古い稲荷神社⛩が今も健在です〜その時生まれたのが、薩摩藩主初代島津忠久です。私の幼少期80年前にも、丹後の局のお墓も有名てした。1180年代だと思います。検証下さいませ。
島津忠久が落胤だったのは初耳だったので面白く検索させていただきました。ありがとうございます。
住吉大社の件も面白い。
ただし、薩摩藩は江戸期以降の名称(幕末だけ使用された用語)なので、「藩主」というのは違います。
島津忠久が落胤というのはあくまでも伝承で、歴史学的には否定されてませんか?
ただ島津は子孫とされることで、頼朝を尊敬していた徳川家康や徳川将軍家から家を守る上で役立ったとは思うし、馬鹿殿無しと言われる島津家、偉大な祖を持っていても不思議ではないとは思うが
確かな落胤は動画にある貞暁だけでしょう。吾妻鏡にも詳細されてますし。因みに他にも落胤と言われる人物は多いですね。
Thank you so much for you !
北条政子という絶対コロすマンに、目をつけられた人々が不憫だ…
時政と義時が実権握ってるんだから政子は父親と弟に我が子を殺された被害者だろ
鎌倉二階堂の頼朝の墓のそばの白旗神社に島津さんことが書かれていますよ!
しずかちゃんじゃなくてよかったです。
「北鎌倉の東慶寺。」に行ってみて下さい。
血脈を継いだ意外な人物って誰ですか
1979年に放送された大河ドラマ「草燃える」では頼朝が北条義時の妻の茜に手を出して生まれた子供が後に鎌倉幕府の3代執権になった北条泰時という驚愕の展開を見せました。史実かどうかはともかく頼朝と政子は泰時を重用していたことは確かです。
鹿児島の島津氏です。 島津氏の先祖は、源頼朝の御落胤と称してます。
@@user-xx3lr5ib4c
自称してるだけで公式には否定されてるけどね。
豊後の大友氏も頼朝の御落胤と称している。
阿野廉子…義朝の子阿野全成の末裔
頼朝さんに限らなければ源氏の末裔って結構居るよね ウチもそうだし
僧侶が勝手に家系図を作るんだよな
徳川家の末裔も「源」を名乗ってたりするし
@@RX78004 それかもねー 戦国時代は武家とはいえ、それ以前は微妙だし
昔、女子水泳の短距離選手に「源」さんがいて、その後ネットのスポーツ記事(サンスポ)で記事を書いていた。
@長尾雪道 だから朝廷から『豊臣』をもらったんですよ。
頼朝の側室、丹後の局が、北条政子に追われ下降の途次、、難波の港へ辿り着き、、そこで狐火に守られ出産し〜薩摩へ逃げ延びた!その子が薩摩藩主島津家元祖、、初代島津忠久〜1180年代⁈〜大阪の住吉神社⛩は、丹後の局と忠久を祀り建立〜薩摩の市来の湊へ辿り着いた場所には、800年の歴史ある県下一古い稲荷神社⛩が今も健在です。検証下さい。
ご返信拝読しました。
島津忠久は、島津家元祖です。藩政以前の1180年代〜源平合戦「篠原の乱」で巴御前に敗れた武蔵國武将、平家の武蔵三郎左衛門有国の孫、式部少輔有實を家臣に、薩摩國へ下降し、戦国時代を薩州統一へ共に戦い抜いた島津家歴史が有ります。
うーん。
それ。正史になるの?
知らないことが多かったです。
8:26 動画のラストは最後ーさん?
己の立身出世の為に、実の弟含め何人もの命を手にかけたのだから、自業自得と思う。
千鶴丸はスルーなんだね。
頼朝は、結局、そうとう恨まれていたということになるのかな?
家を守るという意識のない北条政子というのも興味深い。頼朝に嫁いでも北条氏の女であったか!
この時代女はそんなもの
タイトル詐欺じゃん
源頼家像の2,30年後…長谷寺の徳川秀忠像なくらいクリソツ。
大型の耳、目元口元、特に笏の持ち方は完全に一致。
島津氏が頼朝の子孫だと言うよね。
日向国都城(宮崎県都城市)は「島津都城荘」(しまづみやこのじょうのしょう)と呼ばれ、源 頼朝の落胤こそ島津家の発祥とされる。
古来から薩摩の隼人族は、肥後の熊襲族と対立しており、都城は島津の前線基地だったという説もあり、明治政府は陸軍の歩兵第23連隊を都城市に置き、現在も陸上自衛隊の駐屯地がある。
「あしやドーマン」出版。国会図書館、三重県立、石川県立図書館等に蔵書。
島津の初代は頼朝の妾が母親だ。だから島津は、鎌倉時代から江戸時代まで700年間源氏直系の血統を継いでいる。
島津家は秦氏の系統で有りながら源氏を名乗るのはこれが理由と言われていますね。
公暁の師は定暁であって、貞暁ではない。wikiも一部の『吾妻鏡』も間違っています。五味、本郷の『現代語訳吾妻鏡』を参照してください。
北条政子を恐れて頼朝の子どもたちは姿を隠してたんだろうな
北条政子がギリシャ神話の主神ゼウスの正妻、女神ヘラのように感じました。嫉妬深いことやヘラクレスに試練を課したことで有名です。
島津藩の祖が頼朝の実子/直系子孫との根強い伝承が有ります?
島津藩が外様大名として警戒されながらも大藩として、また、幕府の要職を歴任した裏事情かもしれません?
島津氏は源氏の系統を自称していますね。
島津氏が歴任した幕府の要職って何でしたっけ?
源氏うんぬんは仮冒の可能性が高い。
元々近衛家と仲良しという背景もありますね(近衛前久が薩摩に下向して義久と会うくらい)
島津忠久は、三郎忠久とも。頼朝が命名した三郎。義父広言が命名した忠久。
以外→意外
頼朝の近親の男性は頼朝と頼朝の三男以外は全て殺されたか処刑されている。
兄弟は他人の始まり。まして母方が違う。兄弟とは名ばかりか。
他人どころか仇敵の始まり
意外な人物って?
血が絶えたって話?
つりですか?
平家だけでなく、親戚からも呪われているから。
6:51その藤原(伊達)朝宗も、母方の祖父は、源為義にあたります。
足利尊氏の、後醍醐帝と上手く行かなくなった辺りからの行動を見ると、「もっと武家政権に自信をもてよ」と言いたくなるような弱気なところがみえますが、その後の歴史を知っている我々と違って、足利尊氏にしてみたら平清盛の家系も源頼朝の家系も滅んだという前例しか知らないわけで、「やっぱりこういうのは天の定めに反することをしているということなのか」と悩んだのかもしれないなぁ、と想像しています。
ましてや天皇に逆らって勝ったのなんて北条義時だけですし、その北条氏を滅ぼしたのは後醍醐天皇ですからね。
尊氏の気持ちに立ったら、いくら上手くいく要素が揃っていてもまず無理としか思えません。
武田信玄、甘利晴吉 晴信は甘利の子。家康の兄弟。信虎の子ですから。信虎が甘利の子か武藤の子かはたぶん両方の子でしょう・
後北条とは全く関係無さそうですな
まだ結婚する前、伊東さんの娘さんとの間に子供を作ったよね。
でも、娘の父親によって殺されてしまいました。
@@kyokookada7641 さん
返信ありがとうございます。
崖下へ投げ捨てられたんでしたっけ?
千鶴丸ですね。松川という川の上流にふしづけ(簀巻きにして更に重しをつけ沈める)にされたようですね。そこは現在稚児が淵と云われているようです。
@@user-tq7gl5ct4g さん
返信ありがとうございます。
頼朝とはいえ、まだ不遇の時代だったので娘の名前なんかはないのかと思っていました(または伝わっていない)。きちんと記録に残っているんですね。
しかも、未だに地名に名残りがあるとは…。
それにしても残酷な殺し方ですね。
崖下へ投げ捨てたのは勘違いか、間違った記載を読んだのかもしれません。
それとも、静御前の赤ちゃんだったかな?
頼朝の最初の妻(伊東祐親の娘)の名は史料的根拠はないようですが一般的には八重姫(または静姫)と云われており子供は男児ですね。なので猶更祐親は生かしておかなかったのでしょう。八重姫はその後近隣の豪族江間氏に嫁いだとも云われてますが江間氏は伊東氏同様旗揚げした頼朝に敵対し誅されたようです。または八重姫は相馬氏に嫁いだとの説もありもありその辺は諸説あり、ですね。
「以外な人物」?
頼朝直系は、天運無さすぎるな
ドラえもんの静香ちゃんしかしらんw
基本的な話、徳川とか織田とか武田とか島津とか、みんな源氏か平家筋でしょ。朝廷の官位制度上、源氏か平家が武門(武士)の頭領だって決められてるからそこ外れると爵位貰えないもの。(なお、豊臣は関白家に養子縁組で入り込んで後に家としては断絶)
豊臣を拝命したのは秀吉だけでなく、秀吉の正妻高台院の一族の木下家を含みます。この木下家は日出藩と足守藩を幕末まで支配していて、家康から豊臣を名乗ることを許されてました。なので豊臣は断絶してません。
タイトル&サムネ詐欺は幻滅…
甘利のまんま行忠から続かないのは天皇家の秘密がばれっから
現在でも33歳は高齢出産でリスクが高い
今はそんなにですが、あの時代に初産でその歳はね。
頼朝の兄弟姉妹の子孫は残ってた訳だし、(いや彼女は直系だから配偶者にそこまで源氏に拘らずともいいかな)もっと歳の近い相手と結婚させていたならな。頼経は幼すぎて結婚させるのが遅くなったわけだし。
ええ?!源氏の子孫を名乗る人々が日本の権力を牛耳っているようなのですが、頼朝の子孫ではないということなのですか?清和源氏って、、、なんでしょね?
俺も子孫だけど^ ^
恨みは無いが源氏の子孫はなるべく避けたい
私、家系からさかのぼると源氏のうじになりますよ。
なので、見ていると命が繋がれていることを考えるとすごい事だと思うし面白いと思います。
サムネわ?
ワイは吉見氏の血筋を通して頼朝の弟の子孫やね。
とある地方の大庄屋が先祖に居て、その婚戚の庄屋さんの先祖が吉見氏の娘との子を当主にしてたから。
女系の女系で、末端の末端だけど、一応ご先祖様ですね。
母方は、来年の、鎌倉殿の13人の大江広元の傍系(次男:永井時広)の直系と言われていますが、戦国時代に後・北条氏に滅ぼされたはずで、後の徳川家康が、名前だけ継がせたという研究があります(本当のところは遺伝子解析でもせんとわからんが…)
島津はウソだよね
清盛の孫まで処刑したから呪いかもねー
凡人
だから甘利の子が足利義満とか徳川家康。清和惣領一系である。覚えなさい