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気の重くなる問題を、丁寧に解読してくださり、頭が下がる思いでした。相方の女性が洩らしておられたように、長くてしんどい視聴でしたが。(笑い)最後の、正しく生きねばという人生の脚本に縛られていないかというご指摘は素晴らしいと思いました。私もそうだ、ドキッとしました。
桜嵐坊さんが、『顕正流義抄』について動画を公開されました。czcams.com/users/live0FqqlCtNf5E?si=4ju9AuXqE78QtlYmご参考まで。
南無阿弥陀仏🙏
本尊は何か、真岡市高田の専修寺の本尊は善光寺仏の「一光三尊佛」、一身田の専修寺は「証拠の如来」岡崎の妙源寺の三幅対名号、仏光寺系の光明本尊(本派・大谷派にも多くが現存)、現在は本山の立像が本尊とすべきか。戦国期、名号の方が伝道での移動に使用しやすかったと単純な理由かもしれません。
本願寺が「絵像木像を捨てなさい」という「布教」をしていたことは事実のようです。蓮如上人が吉崎を拠点に布教をして専修寺の末寺を次々と奪っていた頃、専修寺の真慧上人が、本願寺側から「絵像木像を本尊として拝んでも無益。捨てるべきである。」という非難を受けていることを『顕正流義抄』において言及されているからです。以下、『顕正流義抄』からの引用です。・又、彼の邪義聴聞の人(本願寺)、問ひて云く。絵像木像は方便なり。これをたのみて益なし。・今、新義を立て仏法と号して人をすすむるやから(本願寺)、もはら絵木の仏像をすて、皇太子の尊形をのけ、念仏方便と云ふ。あに彼の同類に非すや、哀れなる哉や。・いつれの宗か仏法の弘通を知らん人、絵木の仏像をすて、皇太子をそしりたてまつるへき。その上、親鸞聖人、当流弘通の始めは、坂東常陸の国、笠間稲田と云ふ処なり。彼寺の「本尊」、聖徳太子にましますなり。これ今にあり。
@@souonji 1472『顕正流義抄』1499以降『御一代記聞書』よって、『御一代記聞書』の意を曲解したとする考えは誤りだと思います。『顕正流義抄』は本願寺の布教によって末寺が次々と奪われていく危機的な状況の中で、末寺の流出を防ぐ目的で書かれたものです。蓮如上人の御文章にもあるように、本願寺は専修寺の個々の末寺に対して直接論難をしており、双方が対面して言い争うことが頻発していたと考えられます。それらの末寺から真慧上人のもとに上がってきた報告事例をもとに、「本願寺対策マニュアル」として『顕正流義抄』が書かれたとみるのが自然だと私は思います。
私の知らない史料を紹介下さり、ありがとうございます。Wikipediaの『顕正流儀鈔』が掲載されていますね。labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%AD%A3%E6%B5%81%E7%BE%A9%E9%88%94ご指摘の通り、『顕正流儀鈔』は、高田派の真慧上人が、本願寺(蓮如)を批判して著した書でしょう。①さて、「彼の邪義聴聞の人(本願寺)、問ひて云く。絵像木像は方便なり。これをたのみて益なし」ですが、絵像・木像は《方便法身の尊像》だと、本願寺では相伝されています。ここで言う「方便」は、《偽物》という意味ではなく、悪い意味でもありません。姿・形なき真実・真如が姿・形をとって働きを知らせる事が、「方便」です。また、ここで言う「たのむ」は、「苦しい時の神頼み」と言われるような「たのむ」という意味でしょう。ですから、「絵像木像は方便なり」と「これをたのみて益なし」は、いずれも本願寺に相伝されている説です。けれども、その二つを一続きにしてしまうと、文脈が変わってしまいます。悪意ある(もしくは蓮如の説を曲解した)書き方です。②次の「・今、新義を立て仏法と号して人をすすむるやから(本願寺)、もはら絵木の仏像をすて、皇太子の尊形をのけ、念仏方便と云ふ。あに彼の同類に非すや、哀れなる哉や」ですが、この文章は、「今、新義を立て仏法と号して人をすすむるやから」は「あに彼の同類に非ずや」という文章です。「絵木の仏像を捨て、皇太子の尊形を除け、念仏方便と言う」というような「新義を立て、仏法と号して人を勧める輩」が存在し、その人達は、「彼(本願寺)の同類ではないか!」という文章です。本願寺(蓮如)が「絵木の仏像を捨てよ」「聖徳太子の尊形を除けよ」「念仏は方便である」と言っている、と読むのは、曲解だと思いまっす。それらは、本願寺とは別に「新義を立て仏法と号して人を勧める輩」ではないでしょうか。これらはいずれも、蓮如の《相伝》にはない説です。
①本願寺の相伝を検討してみると、整合性のある理論をたもつために後世の価値観によってふるいにかけられた都合の悪い事実の存在が見えてきます。例えば、「称名は即ち憶念なり」(浄土文類聚抄)「朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はばめでたう候ふべし。」(御消息)「阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして後生をたすけたまへとたのみまうせば」などです。SNSで自身の黒歴史を削除しても、他の人が保存していることがあるように、相伝によって捨てられ、内部の史料にも残っていないような本願寺の事実が、歴史上のさまざまな出来事をとおして、本願寺の外部の史料において拾われて残されている可能性がある、という視点を持つことも大切だと思います。先のコメントでも述べましたが、布教の現場において、本願寺は専修寺と直接意見を戦わせており、曖昧な発言があればその場で真意をただすことが議論においては普通であり、木像の本尊を目の前にして「捨てろ」と主張したことも考えられ、それが多数の末寺で行われていたと考えられることから、『顕正流義抄』の記述に誤解が混入する可能性はかなり低いと考えられます。ある人から聞いた発言や書物を曲解して書かれた、などというような文学部的で呑気な状況を想定するのは、『顕正流義抄』が書かれた意図を曲解しているのではないでしょうか?現場からの報告をもとに書かれた、本願寺から身を守るための具体的な「本願寺対策マニュアル」です。②>「絵木の仏像を捨て、皇太子の尊形を除け、 念仏方便と言う」 というような 「新義を立て、仏法と号して人を勧める輩」 が存在し、 その人達は、「彼 (本願寺) の同類ではないか!」 という文章です。曲解です。日本語のルールに従って前後の文脈を踏まえて読むならば、「彼の」は守屋と日蓮を指しており、「本願寺は守屋や日蓮と同類だ」という意味です。
コメントがひとつ抜けていて見れないのですが、もしかして削除されましたか?
もし、最初のコメントを削除し、二回目のコメントにおいて、いかにも初めてコメントするかのような書き出しにされているのであれば、それこそ私が指摘する、本願寺の相伝における「後世の価値観によってふるいにかけられた都合の悪い事実」と重なるものです。
気の重くなる問題を、丁寧に解読してくださり、頭が下がる思いでした。相方の女性が洩らしておられたように、長くてしんどい視聴でしたが。(笑い)
最後の、正しく生きねばという人生の脚本に縛られていないかというご指摘は素晴らしいと思いました。私もそうだ、ドキッとしました。
桜嵐坊さんが、『顕正流義抄』について動画を公開されました。
czcams.com/users/live0FqqlCtNf5E?si=4ju9AuXqE78QtlYm
ご参考まで。
南無阿弥陀仏🙏
本尊は何か、真岡市高田の専修寺の本尊は善光寺仏の「一光三尊佛」、一身田の専修寺は「証拠の如来」
岡崎の妙源寺の三幅対名号、仏光寺系の光明本尊(本派・大谷派にも多くが現存)、現在は本山の立像が
本尊とすべきか。戦国期、名号の方が伝道での移動に使用しやすかったと単純な理由かもしれません。
本願寺が「絵像木像を捨てなさい」という「布教」をしていたことは事実のようです。
蓮如上人が吉崎を拠点に布教をして専修寺の末寺を次々と奪っていた頃、
専修寺の真慧上人が、本願寺側から
「絵像木像を本尊として拝んでも無益。捨てるべきである。」
という非難を受けていることを『顕正流義抄』において言及されているからです。
以下、『顕正流義抄』からの引用です。
・又、彼の邪義聴聞の人(本願寺)、問ひて云く。
絵像木像は方便なり。これをたのみて益なし。
・今、新義を立て仏法と号して人をすすむるやから(本願寺)、
もはら絵木の仏像をすて、皇太子の尊形をのけ、念仏方便と云ふ。
あに彼の同類に非すや、哀れなる哉や。
・いつれの宗か仏法の弘通を知らん人、
絵木の仏像をすて、皇太子をそしりたてまつるへき。
その上、親鸞聖人、当流弘通の始めは、
坂東常陸の国、笠間稲田と云ふ処なり。
彼寺の「本尊」、聖徳太子にましますなり。
これ今にあり。
@@souonji
1472『顕正流義抄』
1499以降『御一代記聞書』
よって、『御一代記聞書』の意を曲解したとする考えは誤りだと思います。
『顕正流義抄』は
本願寺の布教によって末寺が次々と奪われていく危機的な状況の中で、
末寺の流出を防ぐ目的で書かれたものです。
蓮如上人の御文章にもあるように、
本願寺は専修寺の個々の末寺に対して直接論難をしており、
双方が対面して言い争うことが頻発していたと考えられます。
それらの末寺から真慧上人のもとに上がってきた報告事例をもとに、
「本願寺対策マニュアル」として『顕正流義抄』が書かれたとみるのが
自然だと私は思います。
私の知らない史料を紹介下さり、ありがとうございます。
Wikipediaの『顕正流儀鈔』が掲載されていますね。
labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%AD%A3%E6%B5%81%E7%BE%A9%E9%88%94
ご指摘の通り、『顕正流儀鈔』は、高田派の真慧上人が、本願寺(蓮如)を批判して著した書でしょう。
①さて、「彼の邪義聴聞の人(本願寺)、問ひて云く。絵像木像は方便なり。これをたのみて益なし」ですが、
絵像・木像は《方便法身の尊像》だと、本願寺では相伝されています。
ここで言う「方便」は、《偽物》という意味ではなく、悪い意味でもありません。
姿・形なき真実・真如が姿・形をとって働きを知らせる事が、「方便」です。
また、ここで言う「たのむ」は、
「苦しい時の神頼み」と言われるような「たのむ」という意味でしょう。
ですから、「絵像木像は方便なり」と「これをたのみて益なし」は、いずれも本願寺に相伝されている説です。
けれども、その二つを一続きにしてしまうと、文脈が変わってしまいます。
悪意ある(もしくは蓮如の説を曲解した)書き方です。
②次の「・今、新義を立て仏法と号して人をすすむるやから(本願寺)、
もはら絵木の仏像をすて、皇太子の尊形をのけ、念仏方便と云ふ。
あに彼の同類に非すや、哀れなる哉や」
ですが、
この文章は、「今、新義を立て仏法と号して人をすすむるやから」は「あに彼の同類に非ずや」という文章です。
「絵木の仏像を捨て、皇太子の尊形を除け、念仏方便と言う」というような「新義を立て、仏法と号して人を勧める輩」が存在し、
その人達は、「彼(本願寺)の同類ではないか!」という文章です。
本願寺(蓮如)が「絵木の仏像を捨てよ」「聖徳太子の尊形を除けよ」「念仏は方便である」と言っている、と読むのは、曲解だと思いまっす。
それらは、本願寺とは別に「新義を立て仏法と号して人を勧める輩」ではないでしょうか。
これらはいずれも、蓮如の《相伝》にはない説です。
①
本願寺の相伝を検討してみると、
整合性のある理論をたもつために
後世の価値観によってふるいにかけられた
都合の悪い事実の存在が見えてきます。
例えば、
「称名は即ち憶念なり」(浄土文類聚抄)
「朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はばめでたう候ふべし。」(御消息)
「阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして後生をたすけたまへとたのみまうせば」
などです。
SNSで自身の黒歴史を削除しても、他の人が保存していることがあるように、
相伝によって捨てられ、内部の史料にも残っていないような本願寺の事実が、
歴史上のさまざまな出来事をとおして、
本願寺の外部の史料において拾われて残されている可能性がある、
という視点を持つことも大切だと思います。
先のコメントでも述べましたが、
布教の現場において、本願寺は専修寺と直接意見を戦わせており、
曖昧な発言があればその場で真意をただすことが議論においては普通であり、
木像の本尊を目の前にして「捨てろ」と主張したことも考えられ、
それが多数の末寺で行われていたと考えられることから、
『顕正流義抄』の記述に誤解が混入する可能性はかなり低いと考えられます。
ある人から聞いた発言や書物を曲解して書かれた、
などというような文学部的で呑気な状況を想定するのは、
『顕正流義抄』が書かれた意図を曲解しているのではないでしょうか?
現場からの報告をもとに書かれた、本願寺から身を守るための具体的な「本願寺対策マニュアル」です。
②
>「絵木の仏像を捨て、皇太子の尊形を除け、 念仏方便と言う」 というような 「新義を立て、仏法と号して人を勧める輩」 が存在し、 その人達は、「彼 (本願寺) の同類ではないか!」 という文章です。
曲解です。
日本語のルールに従って前後の文脈を踏まえて読むならば、
「彼の」は守屋と日蓮を指しており、
「本願寺は守屋や日蓮と同類だ」という意味です。
コメントがひとつ抜けていて見れないのですが、もしかして削除されましたか?
もし、最初のコメントを削除し、
二回目のコメントにおいて、いかにも初めてコメントするかのような書き出しにされているのであれば、
それこそ私が指摘する、本願寺の相伝における「後世の価値観によってふるいにかけられた都合の悪い事実」と重なるものです。