隠居後の八田知家のその後 常陸をめぐって北条と敵対し、幕府での立場を失っていた【鎌倉殿の13人】
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- čas přidán 7. 11. 2022
- 大河ドラマでは、土木工事から唐船作りまで、何でもできる御家人として存在感を発揮していた八田知家。
実際には、常陸国をめぐって長年北条氏と対立しており、そのせいで、北条氏の世の中になってからは、活躍の機会がめっきり減っていました。
それでも宿老として、人々からは尊敬され、承久の乱では留守居役として、幕府軍の後方支援にあたるなど、80歳近くになっても活動の記録が見られます。
北条氏との争いは、知家の死後に、八田氏の敗北という形で決着がつき、八田氏は常陸守護ながら、その勢力は限られ、幕府中枢で活躍することはありませんでした。
今回は、承久の乱まで活躍する八田知家、知家の息子たちのその後、なぜ八田知家は北条氏と対立するにいたったか紹介します!
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参考文献
本郷和人『鎌倉殿と13人の合議制』
amzn.to/3fPi7tw
茨城県史編集委員会 編 『茨城県史』《中世編》(1986年)
東京大学史料編纂所 編 『大日本史料 第四編』 4巻
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【画像引用】
大河ドラマ鎌倉殿の13人公式サイト
www.nhk.or.jp/kamakura13/
大河ドラマ鎌倉殿の13人公式Twitter
/ nhk_kamakura13
#鎌倉殿の13人 #大河ドラマ #歴史
とりあえず、市原隼人の存在感すげー好きやわ( ´_ゝ`)笑
「俺は……俺だ」と独自路線を走ってくうちに、知らず知らずに北条家と敵対してしまってたんですね
頼朝時代から常陸平氏への圧迫を続けているので、軸はぶれていないんですよね笑
あかん、八田ときたら筋骨隆々のガテンなアンちゃんしか頭に浮かばん
三谷史観にハマったな。
前回の大河本編で八田知家が年齢を暴露し引退を考えている故を仄めかせていたけど、薄々気付いていた八田の正体...
ここまで詳しく動画解説されてほぼ納得したけど、しかし、なぜあんなに若い俳優を登用したのか三谷さんはw
まだまだ謎だけど、承久の乱で解明されるのか。そういえば長澤まさみの本編での登場にもなにやら意味深な
動きもあるし、三谷マジック点灯しだしたな。やっぱこの人の脚本は面白いw
前回の大河では、北条政子も大まかな年齢が分かるセリフがありましたね。スタッフ「あっ、やべえ。登場人物の見た目を老けさせるの忘れてた(てへっ)」だったりして(んなわけない、と自分で突っ込んでおきます)
みんな大好き、小田氏治のご先祖様ですね。
小田城を知っていたが八田だったとは思いませんでした。小田城址は真上に線路後、サイクリングロード、今は発掘調査も終わり史跡らしくなりましたが、木田余城址は線路内、真壁城址は砂利置き場、栃木の那須与一生誕址の堀裏はパレット捨ててあり、高根沢城址は廃車の不法投棄プラス住宅で半崩壊、喜連川城址はお化け屋敷跡のようです。水路が有名と聞いていましたが一部を残しドブとなっていました。埼玉の蕨城址は?歴史を再認識できたらいいですね・・・
八田→小田氏の歴史については以前投稿したこちらの動画の後半にて詳しく紹介しているのでよかったら見てみてください!
czcams.com/video/eclLlg9vl2c/video.html
若く見えるが、あんたとそう変わらん。とかのコントみたいな台詞。
ドラマで、八田知家が、良く出ていましたが、詳しく知らなかったので、もっと知りたいと思っていた所、この動画で詳しく知ることができ、有り難うございました👍👏🥰
鎌倉時代は、中学や、高校の教科書では、書き尽くせ無いほどいろんな御家人がでできて、しかも同じ氏族でも、別れたり争ったりする本当に権力争いが、激しい時代たったのだなと、改めて感じさせられてました。
いつも、詳しい説明を有り難うございます👍👏🥰
とても、勉強になります👍🥰
八田知家は鎌倉殿の13人以外ではあまり出ないですからね。お役に立ててよかったです!
Add English underline, please! 😢😢
何があっても「俺は俺だぁ…」
子孫があの不死身の小田氏治だったとは
鎌倉以来の名門はしぶとい
余談ながら三浦家でも東西に分裂。一族の生き残り作戦でしょう。
泉親衡の乱に八田の子供が関わっているのになぜか和田一族は許されず八田は許されてしかも子供の茂木知基ものちに許されて承久の乱に幕府方で参戦してる
なぜ八田は罰せられなかったのやら…
泉親衡の乱では、中心となったと言われる庶流の和田胤長は罰せられましたが、義盛の子たちは許されていますし、ある程度優しい処分が行われていたのでしょう。
和田も暴発しなければ、八田のように存在感をなくしながらも守護として生き残っていたでしょうね。
亡くなったのは1218年(建保6年)享年は77歳で生年不詳のため諸説ありますね、
公卿が実朝を暗殺するまえに病死していたという説もあります。
真実はやぶの中。