[ゆっくり解説]昭和(戦前・戦中・戦後復興期)の食事
Vložit
- čas přidán 23. 06. 2021
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注)戦時中の食事で「襖」を入れて食べたとか言っていますが、それは恐らく、というかほぼ間違いなく、小麦の表皮の「ふすま」のことで家にある「襖」ではありません。
知的好奇心が旺盛であっても「襖」は食べないようにしましょう。約束。
戦争中、東京に「雑炊食堂」というものが出来ました。
文字通り雑炊を提供する食堂のことです。
この時代外食券がないと外で食事が出来ないのですが、この雑炊食堂は例外で一人一杯までなら外食券なしで食事が出来ました。
それもあり、かなり人気が出て毎回長い行列が出来たみたいです。
一食分の食事を減らすことが出来たため旦那さんが外食してくると奥さんも喜んだようです。
また、この時期家庭では雑炊に小麦粉を入れてお好み焼きみたいに焼く「焼きおじや」が流行りました。
味は案外美味しかったとのこと。
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/ hidori_asuka
参考文献
・くらしの昭和史
・ちゃぶ台の昭和
・ニッポンの主婦100年の食卓
・「和の食」全史
・イラスト版 たべもの日本史
・歴史ごはん(第3巻)
・日本食生活史
・日本の食文化史 - Zábava
この時代おばあちゃんがイナゴ食べたり
防空壕に逃げて命を繋いでくれたから
私があるのか。
生き残ってくれた事に感謝です🙏💖
感謝ですねー。
母方の親族が、大正初期にアメリカ本土のカリフォルニア州に移住して商売を営んでいました。しかし日米開戦時強制収容されましたが、終戦後直ぐにアメリカでの商売が再建出来たのか、母方の実家には大量の物資が定期的に国際郵便でアメリカから届いたそうです。
アメリカから日本に届く国際郵便小荷物の国内での取り扱いは相当厳重らしく、もし国際郵便小荷物の包装が破れ中身が一部でも無くなっていたら、郵政省とアメリカ軍が絡んだ大問題に発展するそうで、郵便局でも特別扱いされていたそうです。
アメリカの親戚からは缶詰や乾燥させたマッシュポテト等日持ちする食料品や砂糖、ハーシーズのチョコレートなどのお菓子、赤ちゃん用粉ミルク缶にオムツ、衣料・生地、タバコ、化粧品、香水などなど様々な物資が送られていたそうで、余った砂糖、粉ミルクやオムツ、タバコ、(祖父も祖母も嗜わない)、化粧品、香水などは封を切らず、近所の知人が大阪の闇市まで換金しに行ってくれていました。
手間賃払っても良い金額になったそうです。こちらでの生活が安定してくると、親戚からも闇市で高額で換金できる物資を中心に送ってくれたそうです。一度は祖父の通勤用の自転車を送ってくれた事もあったとか。
母方はアメリカの親戚のおかげで、戦後直ぐは困らずに生活できたと母は常々言っています。
カリフォルニアの親戚からは大祖母が亡くなった30年位前まで、クリスマスや日本の盆辺りにはハーシーズのチョコレート始めアメリカのお菓子等がよく届いていました。
フスマは本気にする人がいるから…
フスマというのは、小麦の外皮の部分や胚芽などの「表皮の部分」です。外国だと「ブラン」よばれるもので、最近は糖質制限クッキーなんかに入ってますよね。
オールブランってシリアルありますよね
それかな? 襖じゃないフスマ
スマップ。
漢字で「麬」
ふすまパンとか売ってるね。低GI食品で血糖値対策できて健康に良い。
猫🐱犬🐶用のカリめしの主原料
亡くなった婆ちゃん達、戦争中、幼い父と母を守ってくれて、どうもありがとう。今の私があり息子達がいるのは、あなた達のおかげです。昨年、墓参りに行くことができなくて今年もコロナ禍で行くことができるか分からないけど心の中で、いつも、あなた達に感謝をしています。
じーさんは、芋と茄子は大嫌いでしたね…それが芋餡みたいな甘味であっても。理由は「もう飽きるほど食ったからのう」で、貧しかった時代を思い出す食材だからとのこと。
あっしの家のカレーライスにはジャガイモが入ることがなかったです('ω')
理由はじいさんが「見たくないほど食った」からだそうで('ω')
うちの農家のじいさんもまったく同じこと言ってました。昔死ぬほど食ったから嫌いだって。
晩年には「最近芋がうまくてなあ。年くったなあ」っていってましたが。
@@y58ot2ah2i3no 自分で作ってると、また愛着があって違うでしょうかねー。同様に雑炊も嫌いな人が多い料理ですが、米農家なら違うのかも。
この年代の方が聞き覚えあるのは「コロッケの唄」でしょうね。大正中期で既にジャガイモは庶民にひろーく浸透していたようです。戦時中ともなればなおさらでしょうね。
私のおばあちゃんも!昭和っぽい芋飴あげようと思ったら同じ理由で断られた
'58生まれの者です。20代まで東京在住給食はアルマイト食器で脱脂粉乳途中から瓶牛乳になりました。毎日あまり柔らかいとは言えない食パンとおかず。母が魚嫌いだったため家のご飯はほぼ肉料理が多かったです。これまたパン好きの母の影響か私は無類のパン好きになりました。3歳くらいのうっすら記憶にチキンラーメンが台所にあってたまに食べて美味しかったです。小学生のころ我が家で良く食するようになったレタスやグレープフルーツは今と食べ方がちょっと違っていましたし、母は食品の大半は商店街で買ってたまにスーパーで買い物してたみたいです。醤油がペットボトルで売られてたのを見たのもこのころです。当時勿論買い物籠でお買い物、今はマイバックそして毎日の食事も和食中心で大食漢は過去の話になり50年かけてすべての生活が元に戻ったわけですね。
懐かしい!
私は1967年生まれだけど、私の時代はまだ給食でアルマイト食器が健在でしたよ。
牛乳は瓶入りでした。
パンは基本的にはコッペパン。
水曜日のみ食パン、隔週で木曜日は葡萄パンまたは黒糖パンでした。
よく話題になる揚げパンは出ませんでしたね。
祖母に聞いた話だと、戦前・昭和初期の食事では、1~2か月に1回ぐらいは、ガス灯と石畳の通りに行き、外食でハンバーグやステーキ、曾祖父はワインやビールを飲んでいたらしいです。
ピラフに近い感じの謎料理?もあったとか。他に毎日瓶入りの牛乳(脱脂ではない)を飲んでいたらしいです。
戦中は、初期はまだチーズや紅茶が手に入ったとか
終戦間近においてはカボチャばっかでかぼちゃ嫌いになったとか
忘れちゃいけないのが松茸で、当時は比較的安い品物で大量にあった。
松茸が豊富だったのは赤松の林でしっかりと手入れをして下草も刈っていわゆるシバを拾い燃料にしていたからでもありますね。
戦前の牛乳は国産だったのかな?
じゃがいもを代用米にする焼き飯(ピラフ?)は、最近まで宝塚ホテルの食堂で提供されていました。
かなり恵まれた境遇でお過ごしだったようですね。
ちなみに親は農村の出身ですが基本的に食料にお金を出すことは
無く、お金を出して買う食べ物は親の感覚では
ごちそうと判断していたようです。昭和30年代の話です。
まあというとかなり貧しい家庭を想像されると思いますが、家では
豊富に農作物を作っていたので新鮮な野菜を美味しく頂いていたそうです。
まだまだ都市というか街と農村に生活格差が存在していた頃の話です。
この構成だとフスマはギャグなのかガチで言ってるのか判断に困る
一応補足すると食べ物のフスマは麦の実の表皮のことです
間違いなくマジで言ってますよ…フォロー入ってないし
まぁフスマ(ブランの方)も普段食べないものであったことは確かだけど、それにしてもねぇ…
補足ありがとうございます。普通に聞いたことない話だったからちょっとおかしいなとは思っていたのですけど
まあ…頑張れば食べれそうだし…戦時中の話だからってごり押しされたら信じちゃいそうではある
現在ではふすまはダイエット食品になっているから、なんか皮肉w
このシリーズを一気見して
影響されて少なめの玄米買って炊いたら普通に白米より美味しかった。
最近の玄米すげぇ
玄米を普通に炊ける最近の炊飯器もすごい。
とても興味深いシリーズでした!本当にありがとうございます。
大正生まれの祖母は麦飯、おかゆは嫌いでしたがさつまいもは大好きでした。たしかに麦飯、おかゆはあまり変わらないでしょうが、さつまいもは安納芋とか美味しい物が現代では食べられるので好物だったのかと納得しました。
今回も面白い動画をありがとうございました!
水団のイメージがする水餃子より、焼き餃子が流行ったらしい・・・
当時サツマイモばかり食べさせられたご老人方には二度とサツマイモは食べたくないと言う方もおられますねよほどのトラウマなのでしょうね
昔は食べ物が貧しい時代だからね。
毎日の様に米飯麦飯とか、とにかくひもじ過ぎて食べられれば良かったいう人にとっては、さつまいもは味変な感じ/ご馳走で良かったのだと思う。
逆に戦時中などで毎日の様にさつまいもだった人はトラウマ気味になったのではないかと。
因みに昔のさつまいもはほのかな甘みで好きな人はバクバク食えたけど、今は甘さ重視にしすぎて主食代わりには難しいみたいね。
逆にデザート感覚としてならトラウマ気味になった人でも食べられるようで。
最近は押し麦(オーツ麦。オートミール)が健康食品として人気です。
@@KOKI-cy3ph さま。とてもおいしい焼き餃子ですけども、発祥の国では焼き餃子は、前日の食事ののこりの水餃子を焼いたものという認識らしいですよ。
爺様は「ワシは芋が嫌いじゃ!」と言いながら紅はるかの焼き芋食っていたな!
俺は思わず「芋食べてるやん!」とツッコんだら「今の芋じゃなく、昔の芋が嫌いじゃ!」と言われた!
落語の饅頭怖いを思い出しました(笑)
食事シリーズ面白かったです。ありがとうございました。
戦前戦中戦後と経験した祖母は食べるものがなくてサツマイモを食べていたけど、どんどん土が痩せていって最後には膨らんでない根っこのようなサツマイモまで食べていたそうです。
戦中に生まれ戦後を経験した父はすいとんが好物でした。「昔のすいとんは具も入ってないし、味つけもほとんどなかったんだぞ」とか言いつつ母が作った出汁の利いた具だくさんでモチモチのすいとんを美味しそうに食べていました。既に二人とも故人ですが。
私は健康のため脱脂粉乳を毎日飲んでいます。
今の「すいとん」は、肉が入ってるwwwww
こうゆうのを見ると食べ物の大事さが再認識させられる
ありがとうございます。
いつも面白くてためになります。
また、アップをお願い致します。
「美味しんぼ」にも(当時の)中高年が芋に対して拒否反応を起こすという話がありましたね
どんなに美味しかったり高級料亭でも食材としてさつま芋が入ってると「うわ芋じゃねえか!」と避けるという
メキシコ人「日本人はなぜタイなんか
高級魚だと祭り上げてんだろ」
って話だし
所詮高級なんか当人の思い込み
戦時中の食糧難の時に、雑草を一度煮る時に当時の五厘銭を一緒に入れて炊くとエグミとか苦みが取れておいしく食べれたって亡くなった祖母から聞いた事があるな。後は少ない米を粉にしてすいとんみたいにして食べると少ない量でも腹持ちが良かったってのも聞いた。
そして戦時中に漁師をしていた亡き祖父は、タコが取れた時は漁師メンバー皆で歓喜してたって、タコはお腹がふくれるし腹持ちが良いから食べれるだけ食べて余ったのは干物にしてたって。だから魚とかよりもタコを狙ってたって言ってた。
家の年寄りは戦中戦後に食べる物がなくて火垂るの墓のようにタニシをとってきて、それをお弁当のおかずに持って行ったら悪ガキにからかわれて嫌な思いをしてたそうですが
それを知った担任の先生が生徒を叱ってくれて以降はからかわれるのがなくなったそうです
それだけ大人達は大変な思いをしてたんですね
また当時は悪ガキでも逆恨みしていじめがかえって酷くなるようなことはなかったと言ってました
この時代、悲惨な食糧事情に有ったのは基本的に「都会」と言われている場所だけで、田舎に疎開した子供達は、戦時中からキノコ・山菜・木の実・川魚などで、けっこうお腹一杯食べれて居た様です。
結局、東京は自然の実りが少ないので、飢餓状態になったんです。
私の母は農家で農地があったので自分で多少は野菜を作っていたそうだ!例えばネギを売るほど作って庭ではニワトリを飼育して卵を得て、ニワトリも自分で〆て捌いてすき焼きにしていたそうだ!そうでもしないと肉は食べれなかった!魚は内陸部だからほとんど手に入らんし。逆に漁村なら軍に提供する以外の魚を食べれたのは間違いない!
それは縁故疎開ね、集団疎開は悲惨だったらしい・・・
@@KOKI-cy3ph ほんこれ。集団疎開と一緒にすべきではないね。
父親は農家、母親は都会ぐらしだったので、戦中戦後の印象が2人で全く違いましたね。
@物理 さん工藤夕貴さんが金スマで言った
ふすま飯のふすまは、そのふすまじゃなくて麦ぬかのことですね。
さすがに「襖」はないだろうと思っていたので、麦フスマで正しくてホッとした。
ふすま(うしおととらに出てくる妖怪)
の肉じゃなくて良かった。
漢字で「麬」です。漢字変換では出ない!
初めまして。
ぼくの祖母は戦中、女学校時代に勤労奉仕をしていましたが、あまり酷な目にあったことがなく、何とか食べることができたそうです。また祖母が病気になり、勤労奉仕を休んでいると、同僚や上役から、当時貴重だったコンデンスミルクを差し入れてくれたと言っていました。
先生の歴史食事シリーズは本当に楽しく勉強させて頂きました!
新チャンネルも登録させて頂きます!
配信ありがとうございました😊
うちの祖父、戦中に食べ過ぎたからって芋嫌いだったな。んでチョコレートとか豆大福とか甘い物が好きだった。
社会科の宿題に非常に助かりました(?)
ありがとうございます!!!!!!!!!!!!
カフェ従業員です。
おしゃれカフェ飯でおなじみの五穀米は年配の方には不評です。
「この世界の片隅に」なんこう飯が出てきましたね。
戦争中は、ひきわり飯やおじやを食べていたと祖母が言ってました。
農家だから、野菜には不自由しなかったらしいです。
戦時中 私の父は都市部(大阪)で 勤労動員の工場勤めがキツく 腹も減るから とにかく飯が食えたら死んでも良いで 志願で兵隊に行って直ぐに終戦。
母は 九州の農家の小作で 戦時中は 上の兄貴連中は兵隊に採られたので 働き手は無かったけど 普通に食えたし 戦後は 無事に復員して来て 農地解放で自作農になったで 別に苦労はせず(でも 牛は働く生き物で 肉は鯨か馬肉 芋の茎のきんぴらがご馳走)と言ってましたね。
やはり 地域差はありますね。
けれど 両親共に 麦飯は嫌ってました。
私の両親のそれぞれの祖父母に聞いてみた範囲だと特に食に困窮したって話はなかったです。父方(神奈川県央)は週一回魚屋が行商に来てたとかそんな感じ、母方(福島浜通り)は「お金以外はだいたいあった」とのことでどっちも特に食べるには困ってなかったようでした。ただし、父方の方は小学校の授業の課題で聞いたので、きついところは話さなかった可能性があります(平塚あたりでの機銃掃射の弾が屋根に飛んできたとか平塚の空襲のときは〜とかは言ってましたが)。
ただ、父方は「12月まで戦争が続いていたら兵隊に取られていた」と言っていたのが印象的で、大人になってからその正体がわかって((((;゚Д゚))))となりました(地元は相模川沿いなので本土決戦の戦場になってたと思われ)。
私の祖父も「うちは言うほど食べ物に困ってなかったし、空襲も来なかったなぁ」と言ってました。この時代って都市よりも田舎の農家の方が食に恵まれていたみたいですね。その証拠に戦後都市の人がお米のお返しにくれたという掛け軸がいくつか残ってます。
追記
祖父はさつまいもが大好物だったそうです
亡くなった祖母がボケ始めてから語らなかった戦争の頃の話を色々していたそうで
陸軍の祖父の部下が家にも住み込みでいたから
農家で元から食べ物があって軍の配給もあったから困らなかったそうだ
@@user-jt4hu3wn6g さま。
現在の画一的な戦中戦後感は疑ってかかってもいいみたいですね。たしかに大変だったのはわかるのですけども、被害のあったところとなかったところとの地域差はあるのが普通ですから。
それから父親は伊丹の軍需工場から歩いて帰るときに、グラマンに追っかけられたと言ってましたね。仁川の川西飛行機の工場の空襲のときは花火のようできれいだったとも。母親は大阪大空襲のとき、南の空がきれいだったとも言ってましたしね。
大正生まれの祖父母はお浸し、さつまいも、おから、漬物を好み、
終戦直前生まれの父親はチョコレート、飴、ガム、コンビーフ、コッペパンを好み、
戦後生まれの私はハム&ベーコン&ソーセージ、スクランブルエッグ、ピクルス、サンドウィッチが好きだ。
確かに食べるものは三世代で激変してる 特に父の好物は確実に戦後のギブミーチョコレートにはじまり
GHQの食料バラまき政策の影響を受けていると思う
そして息子世代はハンバーガー&フライドポテト&フライドチキン、ドーナッツ、ジェラート、コーラ好きで
孫はさらに進化してタコス、ボルシチ、カーシャ、ナン&グリーンカレー、フォン、ザワークラフトなどが
好きらしく国際的な味覚と嗜好を持っている。
洋食が好きな私が言えたことではないが、未来の日本食はどう移り変わるのだろう....
貴重な時間を奪われました👍️
父方の田舎では中国山地の山の中の陸の孤島みたいな山村だったせいか、戦前戦中期には煮干し以外の魚は流通しておらずに魚を食べる習慣がなかったと言ってました。
川漁をする習慣もなく川魚を食べる習慣もなかったんだとか。
同じ中国山地でも山陰との街道に接続している村や町では山陰産のサメが流通してたそうですが、父方の田舎は街道沿いにはなかったので流通していなかったとか
広島県でも庄原市位までは、鮫の食文化がありますね。身にアンモニア臭が有り、工夫が要りますね。
福塩線の府中周辺より奥は、食べ物に余り不自由はなかったとも言われています。勿論贅沢品は有りませんが。
国会議事堂に芋畑なんて初めて見た。アメリカって国も原爆落としたり、人道支援したり複雑な国民性なんですね。そんな事も含めて勉強になりました。次の企画も楽しみです。
あの国は今でも一枚岩じゃないからな
今だって白人至上主義みたいな人から差別とかそういうのはやめようって言う人まで居るし
人の集まりである以上、一括りにして語れないんだね
@@y58ot2ah2i3no 別の教科書つかってたんだろ
原爆投下→核の生産能力と威力をソ連に誇示して日本の占領に口出させないようにする
戦後の支援→日本の共産化を防ぐ
どちらも対ソ連で一貫してるよ。
毎度のことですが…
オープニングの第一声、好きだなぁ👍
戦中戦後直後の食事内容は地方の方が豊かでした。
都市部から毎日物々交換に人が訪れて、お米はお金代わりに使われ、食事は雑穀が多かったと父母(故人)から聞いています。
麦ご飯は贅沢な食べ物で、かさ増しに豆や芋を使うのが一般的です。豆は肥料なくとも育つので優秀。
戦後の引き上げが始まったころに戦中孤児も多くが地方の農家などに引き取られ育てられました。
そんな孤児の多くは、おもに働き手として学業よりも稼業中心の生活だったようで生活も過酷を強いられ、実子との差別もありながら大きくなってから都市部に出ていったようです。(そんな多くの孤児が高度成長を支えていたのも事実)
大変にお疲れさまでした。
昭和初期は、都市部と農村でも随分と食事内容が違ったようですね。元々、農村の台所と言うかカマドで手の込んだ料理は作れないし、たまにお嫁さんが珍しい手の込んだ物を作ったら舅姑に罵倒されることもあったみたいですね。結局食に手をかけるより働けと言うことだったみたいです。
戦後の食糧難は父や祖母から良く聞きました。薩摩芋の水っぽさには農家が供出するのに、アルコールを作るためにでんぷん質が多く収穫量も多い品種を作った為と聞きました。実際、農家では自家用に金時とかの美味しいお芋を作ったと姑が話していました。
とても良くまとまっていて分かりやすかったです。大変お疲れさまでした。
うちの母親も都会から田舎に嫁に来ましたが、家族である祖父母や近所の妬みはすごかったらしいです。
それから、今でも自家消費する食べ物は出荷する食べ物とは別扱いで育てますね。手の懸け方がかなり違いますよ。
戦争文学とかで出てくるかぼちゃのツル食べるっていうのためしたことある。ゆでてお浸しにしたんだけどほんのり甘くてかぼちゃ風味で美味しかった
いやはやお疲れ様でした
死んだ婆ちゃんは終戦直後、米軍放出の砂糖(米の代わり)として配給されたが、砂糖だけではしょうがないので闇市に行ってうどんと交換してもらったと言っていた
父は昭和6年の早生まれで、中学1年なので、学童疎開に行けなくて、東京深川に残り、東京大空襲を逃げて生き残りました。
祖父も祖母も空襲の事は一言も語りませんでした。祖父の弟ジローちゃんが戦争で死んじゃったって事はよく聞きました。
そして、父はサツマイモとカボチャは、決して食べませんでした。一生分食べたそうです…
祖母は、アフリカの古戸もが痩せこけているテレビを見て、「もっとひどかったねえ~」と、普通に言っていました。
私の小学生の時、はと茶ミルク⁉️そして、ミルク⁉️というメッチャ不味
いミルクが、アルミのお椀←今のワンコの食器以下➰なまぬるい温度で出て、飲めませんでした。男子にあげてた。
魚油マーガリンなるものが銀紙で四角にくるまれて毎日出ました。毎日誰かにあげていましたが、ある日何故か手元に残り、食べるはめに…覚悟を決め口に入れると、死ぬほど不味くて涙が普通に出てきました。今でもマーガリン🙅です。いやだ😭
>飛鳥竹夢薫
うちの祖父母と父も深川出身です。今の枝川町あたりでしょうか。8人兄妹とともに東京大空襲を生き延びました。祖父母は明治生まれのため、関東大震災も経験しております。
祖父母が亡き今、当時の食糧事情を知ることはできませんが、食べれるものは食べた、というのは父から聞いていたので相当だったと思います。30年代にはいって食料が安定しても、今度は人口が増えたことで海側のごみ処理場に向かうトラックが絶えず往来しておりニオイが酷くて大変だったそうです。
戦前生まれの父母が、食後によくお茶碗に白湯を入れて、梅干しや昆布を入れて飲んでました。なんでそんなことするの?と小学生の頃に聞いたときに、お茶碗についたご飯を残さず食べるためとのこと。白湯ではなくお茶を入れるときはほうじ茶のほうが良かったみたいです。みそ汁飲んだ後のお椀に残る人もいるだろうけど麹もきれいに食べてました。母はまだ健在ですが、みそ汁を残さず食べる習慣は私も受け継いでます。母が亡き祖父が終戦直後に買い出しに行ってた話をしてくれたことがあります。疎開や、慰問に来た特攻隊が出撃時に上空旋回したのを見送った経験をしてるので、食べ物はとことん無駄にしないと決めてるようです。魚の食べ方が汚かった小学低学年時に亡父から鉄拳を受けたこともありますw
昔、母ちゃんが健康ブームに乗って麦飯を出したら米作してる爺ちゃんがガチギレしてた。
「きちんとワシが米を作ってるのになんでこんなもの食わにゃならん!!」て泣いてた。
他にも爺ちゃんは死ぬまでサツマイモやカボチャは絶対食わなかった。
煮物でも天ぷらでも炊き込みご飯でも絶対にサツマイモとカボチャだけはより分けてた。
父ちゃんが畑をブドウ畑に変えたいと言ったときも
「米を作るのに支障が出るようなら絶対に許さん!!それが出来るなら文句は言わん、お前がやりたいようやってみぃ」
と言っていた。
そんな爺ちゃんも、新米が食卓に上がるとニコニコしながら
「美味しいなぁ…今年の米は特別美味しいじゃろう!」
と毎年孫の自分にどや顔を披露していたのは今ではいい思い出です。
爺ちゃんが亡くなった後に婆ちゃんから聞いた話で、爺ちゃんは戦争中のひもじい思い出から、その時食べていた麦・カボチャ・サツマイモは人間の食べ物じゃないと言っていたらしい。
戦後に自分が頑張って米を作って、家族に白米をお腹一杯食べさせてあげれているのが爺ちゃんの自慢の1つだったよう。
麦・かぼちゃ・さつまいも農家に失礼
@@user-xm8eb2em7i 人の食べ物のじゃないという書き方失礼しました。
ただ、じいちゃんはそう言ってたらしいけど、より分けた、と書いた通り食事に出て家族が食べるのは別に何も言わなかったよ。
何よりうちもカボチャもサツマイモも作ってて普通に農協に卸してたからね。
麦の時はおかずじゃなくて主食だったのと白米にこだわってたから、つい口に出たんだと思います。
でも、失礼かもしれないけど、現代の豊かで食事に色々な選択肢がある私たちが思うよりも、当時の人たちの食に対するトラウマって根深いと思いますよ。
近所のお婆ちゃんもいつもは優しいのに、地域のお祭りとかで出す食事やお菓子でさつまいもがでると、途端に機嫌が悪くなって子供みたいに顔を背けていました。
今のスーパーとかで出回ってる野菜や果物が農家の人たちや業者の人たちが新しい育成方法を考えて、何世代にもわたって品種改良した結果、より美味しい物や甘い物が出来てるのは同じ農業してる身からしたら痛いほど分かります。
でも、当時、男手は兵隊で取られて、苦労して育てた作物(米)は国に持っていかれて、毎日毎日雑穀なんかでかさましした食事で、それでもお腹一杯にならない。
今の時代、この作物はこんなに美味しくなってるんだよ!って言っても、その時に味と一緒にこびりついた絶望のイメージはそう簡単に拭えない。
見るのも嫌、食べるなんて以ての外。
自分の子供が好き嫌いでこれ食べれないって言ったら「作ってくれた人(農家さん)に失礼でしょ!」て怒るけど
流石に当時の話を聞くと、当時を経験してきた人にそんなこと口がさけても言えないです。
長文失礼しました。
全然蛇足ですが小作農だったうちはGHQのお陰で農地が増えたから、じいちゃんはひもじさの元凶、戦争したはずのアメリカが大好きでしたw
新米を食べる、という習慣も稲作技術が向上した戦後からみたいですからねぇ。
高齢者の、米へのこだわりはハンパない。介護施設とか米の等級落とすとすぐ気付き、大ブーイングらしいです。
味噌汁嫌いって方も多いですね、当時はただのしょっぱい味噌風味の汁なので。
何にしろ新米と美味しい味噌汁食べれる現代は、とりあえず平和で幸せじゃないでしょうか?
お爺様の言いたいことは、そこなんだと個人的に思います。
農家です。
かぼちゃとサツマイモも作っています。
戦後本当に頑張られたんですね
尊敬します。
戦時中の44年以降は日の丸弁当でも贅沢とされ、学校に持ってきた子供が教師に叱られたこともあったとか・・・・・
戦後の食糧不足は最初の1年は非常に厳しく、その後GHQの指導による食糧援助で徐々に良くなって行ったそうですね
※昭和帝が単身マッカーサーのところに行き、国民の窮状を訴えたことも要因だったらしい。
戦後になって九州で脚気が流行るぐらい白米が食えるようになりましたからね。それまで、戦前であっても粟や稗、麦、さつまいもで食いつないでいたようです。
雑草は天ぷらにすれば大概美味しい。
春先の新芽は柔らかくて美味しいので、散歩がてら食料集めしてくるのが楽しみ。
まあ当時は油が高く、揚げ物=贅沢品だった・・・
ふきのとうやタラの芽が美味しい季節になりましたねぇ(3/12)
都市部の下町で生まれ、終戦から一年足らずの頃妹が飢えで亡くなった(祖母が母乳出なかったそう...)ことで日本料理の板前になった父と、満州で生まれて祖母が臨月に近い中命懸けで日本に帰り、養父母に育ててもらった母。
両親とも多くは語らないけど、小さい頃から「お腹空いた」というと父が「早くご飯に」と母を急かしてたのを思い出す。裕福ではなかったけど、食べるものは困らせないように育ててもらったと思う。両親のおかげで生きてられることに感謝。
戦中・戦後の代用食の代名詞ともいえるサツマイモですが、当時「代用石油のアルコール醸造用」として栽培されていた非食用種を食していたようです
本土決戦に備えて大量に栽培したものの日本が降伏、燃料用途ではなく食用に回したとか
当然、現代の栽培品種とは比べ物にならないくらい食味が劣っていたんでしょうな
亡くなった祖母達もサツマイモ嫌がってたなぁ。
金持ちと米屋だったから普通の人よりは食べれたと思うのだけど。
それでも好きなものは食べれないし、食べ物だけじゃなくてチリ紙不足はトラウマみたい。
面白いです!
祖父が満州出身のお坊ちゃまで食べ物に関しては色んなエピソードを聞きました。
やはり食べるものが無くなってきた時は蚕を食べたと言っていました。
(脂が乗ってた、美味しかったと言ってたし、ある時は美味しくなかったとも言ってたので本人も記憶が薄い模様)
それまでは小学校の遠足にキャラメルやチョコレートを持っていったり、
ロシア人のシチュー(多分ボルシチ?)を食べる機会があったりなど、豪華な食事だったそうです。
対して漁師町で育った祖母は戦時中梅干しの作り置きがなく日の丸弁当が作れなかったため、
さいたスルメをのせ醤油をかけたご飯を持って行ったと言ってました。
今は食べたくないけど美味しかったと言っていたのが印象的です。
祖母は亡くなり、祖父も中々会える距離ではなくなってしまったのでもう聞く機会も無いのですが、祖父母の子供時代がどんな生活だったか、思いを馳せる良い機会になりました。
動画面白かったです。
upありがとうございました♪
なるほど~
漫画ジパングに「敗戦を親とし、アメリカによって育てられた日本人なのです」って台詞あるけど食べ物できくとよりリアルだな
いいチャンネルにまた巡り会えた!
この世界の片隅にで戦時中、楠公飯を炊いたり、すみれをお味噌にしたり、いろいろな献立を作るシーンを拝見しました
歴史と共にご飯の流れを追うのは興味深いですね。
アメリカに関しては、占領したのがこの国でよかったと思うほど良心的でしたよね。
面白かったので他の動画も見ます!!
大正三年生まれのばあちゃんは、つからった当時の想いを、余り語らなかったです。その息子の親父は、「お前たちは、空腹がどんなに辛いことだか知らない。」と、食事の度にに言っていました。親父の話ですが、戦後、食べるものがなかったときのことです。子供たちに食べさせたいのに、その材料すら手に出来ない ばあちゃんを気の毒に思い、ある日、食材調達を思い立ちました。当時、家族は富ヶ谷(渋谷)に住んでいて、連合軍に接収されていた代々木公園が目と鼻のさきでした。なんと、中学生だった親父は、代々木公園の鯉を頂きに上がったのです。しかし、闖入した先は、連合軍の施設です。たちまち、威嚇射撃を受け、泣く泣く退却したとのことです。因みに、両親が商売に忙しかった我が家は、甲府出身のばあちゃんが、ほぼ、母親の様でした。畑で桑をふるう、縁側で煙草を吸う、台所で食べ物を拵えるという姿が、私にとっての祖母の姿です。野菜の煮物、ホウトウ(山梨出身なので)、尾っぽのついた卵の煮物が通常の献立でした。「ばあちゃん!!たまには、肉食いてーよ!!」と何度も叫んだのが懐かしいです。ばあちゃんは、101歳で大往生しました。当時ブウブウ文句を言ったのですが、また、ばあちゃんのご飯を食べたいというどうしようもない思いが胸を焦がします。
まじでありがとうございます
次回楽しみさんです⌒
質素な食事の話も逆に飯テロ
大正産まれの曾お祖母さんは、生前すいとんを戦時食だからって理由で絶対食べなかったですね。私が子供の頃、大量の砂糖と醤油をまぶした、オカキの様な菓子を作ってくれました。戦時中、砂糖やお米って貴重だったから、ひ孫の私には、甘いもの沢山食べさせてあげたかったのかなと思います。因みに、祖母は、戦時産まれでしたが、戦後食の影響なのか、80過ぎても、肉が大好物です。
ふすまって扉の襖の事じゃなくて小麦の表皮の事ですね
ほとんど交流がなかったとはいえ、戦中の同盟国であるドイツとイタリアの食がぜんぜん日本に浸透せず、否応なくながらも最大の敵であったアメリカの食が定着したってのも面白いよなあ。良くも悪くも、結果的に日本は戦も含めて最もアメリカと深く交流したってわけだ。
『火垂るの墓』で幼い兄妹が飢餓で亡くなってしまうのは、単に貧乏だったからではなく、食料を得る為のコネが無かったからなのかもしれませんね。この時代、奥さんが電車に乗って買い出しに行ってその日の食料を確保する時代。農家や闇市を紹介するからと知らない男についていき、色々な被害にあう事もあったそう。
生きる悪知恵が無いと死んでしまう時代という…
父(1939年生まれ)は成長期が戦後復興期と重なったので、食べ物には苦労したそうです。特に農林2号という質より量を体現したサツマイモの不味さは30年以上たっても愚痴っていたレベルでした。
闇市には物資が溢れかえってたけど、あれ実は軍の備蓄品で隠匿したり略奪したりで大もうけした軍人や兵隊が実はかなりいる
児玉誉士○とか、笹川○○とか?
ウチの前々の会社も、そうらしいって聞いたコトがあるなぁ。砂糖でしこたま儲けたらしい。
経済警察というのがいてな。ヤミ米屋から米を取り上げて自分等で消費する輩がいたらしい。
戦後の食糧難を知っている人はとにかくすいとんが好き。私はすいとんが嫌いですが、暖かくて腹持ちしたすいとんが忘れられないとよく聞きます。
亡くなった母が「最近のすいとんはすいとんじゃない。戦時中や戦後直後のすいとんはもっと薄くて味がしなかった」と40年くらい前に言ってました。汁の味付けもそうですが、すいとん本体が水分多くてブヨブヨだったのだとか。なのでねだってもすいとんは作って貰えませんでしたね。
うちの祖父は農家だけど戦後のほうが大変だったと言ってた
戦中はまだ配給があったけどそれが止まった上に帰還者による人口急増で一気にギリギリになった
戦後は食糧増産のことだけ考えて必死に働いたと言ってた
その食糧増産で戦後何十年かは量重視で農業を主導したので農薬たっぷりの農薬まみれの野菜が出回っていましたね、当時の教科書には野菜は洗剤で洗わないと危険と書いてありましたよ。(今の中国みたい)
戦後30年くらいはとにかくもう一度発展させようと邁進してたのと健康被害への意識知識が低かったからな。農薬以外にも四大公害に代表されるように公害だらけだった。
はだしのゲンで犬を食うシーンは衝撃的だった。
お隣さんは今でも食べてますよね
日本では東京オリンピックで外国人が多数来日するから評判を下げないようにするために犬肉をやめたって聞いた(´・ω・`)
国連が昆虫食を推進しようとしているが、それならまた犬でも食べたほうがよっぽど良いのではと思われる。
いや、昭和中期ころでも犬は食ってたよ(ド田舎)。どっかから迷い込んだ犬を捕まえて捌いて食ったと戦後生まれの親父が言ってた。捌いたのはじいさまで、しっかり覚えてる位には珍しいことだったらしいけども。それ位ひもじい生活だったはずなのに脱脂粉乳だけは不味すぎて強制された時以外は飲まなかったらしいが。
@@nuruosan4398 綱吉がやめさせったって聞いたけどな
オーガニックブームはすでにあって終わった感じがする
農薬化学肥料は悪だ→自家菜園で作ろうぜ→無いとまともに出来んやん→悪にしてすいませんでした
って言う流れがすでに起こった後だと思う
このうp主はちょっと偏った志向持ってるからな
オーガニック教の信者
俺のお婆ちゃんも戦争経験者だけど焼き芋好きすぎて毎日吠えてます
「芋うますぎニャァ~ン...」
犬かな
いや、この動画は自分のクソみたいな暇な時間に彩りを与えてくれるよ………
おばあちゃんが絶対サツマイモ食べなかったな。
あの時代に一生分のサツマイモを食べたのでもういいってw
やべぇうっかり貴重な時間を奪われたわ
弁当だと、日の丸や卵焼きと沢庵のイメージ(主に高度経済成長期の頃かな)
戦中から戦後すぐだとご馳走だよな、その献立
「松」とか「杉」も食料になってましたね。以外と、樹木は中心部まで食すことができる。
マッカーサーが天皇陛下と初めて会った際に、自分が死ぬ代わりに陛下が国民が飢餓で苦しむことがないようにしてほしいなどの願いをマッカーサーに述べ、マッカーサーの心が大きく動かされたのが大きいと思われる。
お疲れ様でしたm(__)m新しいチャンネルもチャンネル登録しました
私の昨夜の食事が大正時代のそれであった。
和食美味しいよね。
雑炊食堂の中には、米軍基地の残飯を仕入れていた所もあったので、タバコの吸い殻やガムの噛みカスが入っていた店もあったそうです。
何だかわからないモノが入っていたほうが、ダシが効いてて旨かったって国語の先生が言ってました。
使用済みのコンドームも混じっていたとか
@@ky690522 米軍も日本人に食べさせるなら、残飯だったとしても嫌がらせをしたかったのでしょうか。
@@yasujiji5911 「日本人に対する嫌がらせ」という積極的悪意はなかったと思います。闇市の業者が仕入れたのは「残飯」ですから、ゴミ箱に何でも放り込むような感覚だったのでは?「後から人間(日本人)が食べる」という明確な認識があったかどうか、今となっては検証が難しいですが。ちなみに戦前は(日本の)軍隊の残飯を仕入れて加工し、貧困層向けの食事として販売する商売があったとか。この時も残飯には不衛生なゴミが混じっていたことでしょう。
みなさん自分からあとの経過がどうなるかに関心は低いですからね。
@@yasujiji5911 さま。残飯給食はベトナム戦争時期までアメリカ軍の訓練としてあったとは聞いていますよ。タバコが代わると味が変わる件も。当時の軍隊風刺の4コマ漫画にありました。
私の両親は、取り敢えず戦争は経験していないけど、そう貧しくない部類に入りそうです。福岡県の炭鉱関係から市政に関わり、麦飯入りではなく、麦飯を入れて上から白米を入れるのではなく、ちゃんとした弁当と言えば、年輩の方ならお分かりになると思います。
母方は、現在でも健在の豪農と言えば一番分かり易いかも知れません。だから、むしろ江戸時代まで厳密には庄屋だったらしいのです。然し、時の流れには従えずに、塩田や、広大な田畠を国の政策で取られてしまった話はたびたび聞かされましたね。現在、福岡県福津市になっている海辺生まれですが。男衆女衆(おとこし・おなこし)に聞き覚えのある世代なら、ピンとくるかもしれません。強いて言えば、原作「華麗なる一族」で出てきます。
いい内容の動画だ。素晴らしい。
松牛と吉牛を食べて「こんなうまいものが、こんなに安く食べられるのは戦中戦後では考えられない」と、大正8年生まれの父親がよく言っておりました。
昭和45年あたり以前の体験した学校給食のコッペパンは明らかに砂糖の量が少ないというか入ってなかった。近所の出入り業者がガキは文句を言えないから何を食わせてもいいんだと取り合えずパンの形をしたものを納入していた。従って物凄くまずかったよ。今なら学校を盲信しない父兄達が大騒ぎすると思う。
貴重な時間を奪われにきました
代用パンに使われた「ふすま」は、襖じゃなくて小麦の外皮かと。
ブランなんて呼ばれてて、健康食品やダイエット食に使われてたりする
これ使ったシリアル食べたことあるけど、ほんのり酸っぱくてモソモソした食感
いつでも手軽にカロリー取れる今だからあえて食べられてる感じだと思う
私の家族は樺太で終戦を迎えましたが、地域柄かイモはジャガイモでした。そのおかげで母は「戦争中に一生分食べたから」と自分でカレーに入れたイモには手をつけず、私に全部くれたものです。ちなみに兄は、脱脂粉乳の不味さを身をもって体験したと言っていました。
向田邦子さんも成長期、とにかく米を食えと言われてできるだけたくさん食べていたと言ってたな。
戦後の芋は本当に不味かった、毎日がひもじい思いしてたと母が事有ることに言ってました。母の親父さんが信州の人だから蜂の子取ってきて炒って食べてたとか言ってました。これは旨かったみたいです。
今日もたくさん時間を奪われた(笑)
戦時中に生きていた方々は偉いよなあ。「負けちまえ」は同感です。人々の食生活をおかしてまで戦うことはない。アメリカに勝てるわけない。
アメチャンも実は意外かも知れないが、一般人の物資が不足したりしたんだが。どちらも軍需に全振りしてるからね。
バブル期までやってほしいな
こんばんは😃
僕らの世代(昭和3~40年代)は、赤飯は和菓子屋さんで買ってくるっていうイメージがあるね。
でも、コンビニでおにぎりが買えるから、ご馳走という感じは無いな。
体にいいと言われる雑穀飯を嫌う高齢の方はそこそこいるようで
そらこんな時代経験したらなんで白米食えるのに食わんねんって思うよな…
戦前の段階から脚気があり
白米に対して麦飯を食べることを推していた時期もあると思うんですけどね
なるほど、昔ばーちゃんがさつまいもを食べたがらなかったのはこう言う事情があったからなのか・・。
オーガニックはそれに固執しすぎると却って健康を害するのが欠点ですかね。やっぱり高いので費用の捻出の為に過労で倒れては元も子もないですし
ただ、オーガニックが嗜好品の立場を脱するには食生活に革命が起きでもしない限りは無いかなあ、とは思います
そうですね。
あとプラシーボ効果などもあるでしょうが、人間は美味しいと感じる物を食べる栄養の吸収が高まるはずです。
なので昔より栄養が落ちた同じ物でも、劇的に変わるって事も無いのかも知れない。
あと今は手軽にサプリが摂れるのも大きいですね。
そういった意味では、既にオーガニックブームに近い事は起こっているとも言えますね。
とりあえず和風アリスから読ませてもらいます🐥
雑草というか野草、山菜ですね。土筆とかタンポポ、いたどり、ゆりわさび等々。今でも山菜といえば喜んで食べるでしょ
こいうのは戦前からも研究されてて、1943年には陸軍から「食べられる野草」という本が出版されています
このレシピ通りに実食された方の感想は概ね良好ですね。(エノコロクサだけはまずかったとかw)
昆虫食もヘビもカエルも、地方じゃ普通に食べてました。親戚の叔父は今でも「マムシはご馳走」と言いますね。飢えてたのはほぼ都市部だけです
それと、アメリカの食糧支援に大きな影響を与えた昭和天皇の話は入れるべきでしょう
最後に、日本では「有機栽培(オーガニック)=無農薬」と勘違いしている人が多いので、有機栽培農地面積の登録が増えません。有機JASマークの農薬使えばOKですよ
オーガニックなんてやってみればすぐわかるけど、虫に食われわ、育たないわでかなり高コストになる。
意識高い系金持ちは何倍も払ってオーガニック(実際はどうか怪しい)食品を買う、おれは絶対買わないけど。
叔父は今でもサツマイモを出すと「出すな!見たくもない」といい場を離れます
戦争で流通網が壊滅したのもあると思います、米軍の爆撃で線路が寸断され、航路は機雷が撒かれて船が出せない状況でした。
都会では深刻な食糧難でしたが、北杜夫さんの『どくとるマンボウ青春記』によると、疎開した山形の田舎では米が普通に食べられ牛肉まで手に入ったそうで、北さんは感動したそうです。
@@usejehwikuhehejidjcuruehje コメント有難うございます🙇
だからこそ尖閣諸島や沖縄を守らなければ、台湾も他人事ではありません。
現在シーレーンは兵器の高騰や利害の複雑化により、一国では守り切れなくなりました。関係諸国が連携して守るべきと思います。
今までありがとうございました。
霊夢がまりさの「赤飯がご馳走だったんだな」に「ちょっと意外よね」って答えてるのが違和感。その直前にお米の話で、「一般的にはお米7、大麦3の割合」って自分で紹介してるんだから、小豆以外はお米10の赤飯がご馳走なのは意外でもなんでもないと思うのですが。
戦中の食事で疑問に思うのが都会と田舎での食事内容の差
配給制とはいえ国がすべて把握しているわけではないだろうから都会は大変だったかもしれないが田舎で畑を持っていたり、漁師の人はどんな食事だったのだろうか
ある程度は国に管理されていたかもしれないが、本当のドがつくような田舎で農家や漁師、猟師は意外といい食事ができていたのかもしれないとも思える
戦時中から終戦直後にかけて都市部の子どもだっの父方の祖父母がまともに食べられるものが無く、いも一本を争ってきょうだい同士で大喧嘩した一方で、田舎の子どもだった母方の祖父母は食べ物に困ることはなく、山で収穫できる様々な山菜や、山の中に地域の人たちで作った飼料用の牧草地の草を餌にして育てたうさぎの肉を毎日のように食べることが出来ていたという話が印象的でした
ふすまは麦の殻のことですな。若い頃ケロッグのオールブランを食っていたら祖父(大正2年生まれ)がふすまを金を出して買ったことに驚愕してました
子供のころ、給食のツルツルパッサパサなコッペパンは苦手だったな。でも、背中が開いたようなコッペパンは柔らかく、しっとりしていて腹持ち良かったから好評だったです。
戦前過ごしたひいばあちゃんはサツマイモ大嫌いで、戦後過ごしたばあちゃんは脱脂粉乳大嫌いで、私はダイエットにふすまパンを食べているw