大江広元から毛利まで……政子への愛と明治維新まで続く偉大な血脈
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- čas přidán 26. 07. 2024
- ▼主な参考文献
大江広元 (人物叢書)
amzn.to/3UPIY7C
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【目次】
0:00 前置き
1:15 晩年の大江広元
11:39 嫡男・大江(源)親広
15:14 次男・長井時広
19:03 三男・那波宗元
19:33 四男・毛利季光
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#鎌倉殿の13人 #考察 #大河ドラマ #日本史 #吾妻鏡 #毛利元就 #明治維新 - Zábava
長井時広は山形県長井市を所領とし家祖となったと、長井市近くの大江町で開かれたセミナーで栗原英雄さんをゲストに迎え、学者先生が話していました。大江町も大江氏に由来したそうです。
長井市と同じ置賜地域・米沢市の万世町堂森にある善光寺には、長井時広夫妻の座像(木像)が安置され、山形県指定有形文化財に指定されています。また別個の話になりますが、この寺の近くに「天下無双の傾奇者」として知られた前田慶次の隠居地「無苦庵」があったとされ、同寺に前田慶次の供養塔が建立されています。
その系統の子孫です。栗駒方面においやられました。( ・∇・)
大江広元が毛利家の始祖というわかりやすい、解説ありがとうございました😊
私は兼重(山口県出身)と申します。歴史が好きで自分のルーツなど調べてました。毛利元就の叔父(毛利元鎮)が毛利から離れて兼重姓を名乗りました。その毛利のご先祖様が大江広元ということでいつか大江広元のお墓にも行ってみたいと思ってます😊
名前から歴史を紐解いていくのも面白いですね😊
大江さんの子孫も面白いが、祖先も面白いですね。
兵法家のようです
だから三谷さんは、剣豪みたいに描いたのかな😃
ありがとうございました。尺たっぷりの大江殿。本当に鎌倉幕府ってドラマの中に出てくる人物がその人生を目一杯生きたんだなぁと感じます。次の代で族滅の話も多すぎますし。
「歴史をうまいように利用した」ってまとめがいいですね。
中森明菜かっ!のツカミとか、ちょまてよとかニヤニヤして聴いてしまいますね。
鎌倉殿の13人が終わってしまったら、自分自身ガックリきてロスになる気もしますが来年も武士道さんの解説のみを!楽しみにしています(重すぎますw)
毛利経光の子孫のうち、安芸国に行ったのがのちに長州藩主になり、越後国に残ったのがのちに安田氏と北条(きたじょう)氏に別れて双方とも越後長尾氏→上杉氏の家臣となります。北条氏は高広の代に御館の乱で上杉景虎(北条氏康の子で、上杉謙信の養子となる)側に付き没落、安田氏はそのまま江戸時代に米沢藩士となり毛利に復姓、席次第13位・知行2166石の「家老」として明治維新を迎えます。
米沢城跡・松が岬公園に行くと、上杉謙信の旗印「毘」「龍」と並んで家臣の家紋が入った旗が立ち並んでおり、その中に北条高広の旗として「一文字三星」(大江氏・毛利氏と同じ家紋)の旗があります。
北条(きたじょう)さんは信長の野望で結構お世話になる人物ですね。始祖は大江さんでしたか。
@@sengokubanashi 自分も信長の野望をやるのですが、上杉家でやるとやたらと安田さんを姓にした武将が多くて越後では大きな一族なのだと思ってました。
んで、調べたら二つのけいとうがあるみたいなんです。
ひとつは今回の大江さんところを先祖に持つ安田さん。
もうひとつが元々越後の豪族だった平氏系の城(じょう)さんを先祖に持つ安田さん。
越後内部で別の安田さんが二系統もあるとさすがの謙信さんもまちがったりしたのでは? などと空想してしまいます。。。
動画拝見しました。
自分のご先祖様の特集ありがとうございます!
中納言大江一族から毛利家に繋がる事は、素晴らしいと思います。
結果的に大江一族や毛利一族は、心理学が得意だと思いました。
もしかしたらドラマの中で一番三谷さんにいじられてる人物かもしれないと思ってますw
今回の動画、自分の先祖はどの様に生きていたのか、知りようはないですが、想いを馳せました。
新潟県柏崎市に北条(きたじょう)という地区があり、毛利家の発祥を誇りにしています。森荘(厚木~愛甲)
、、と聞いて相模国とのご縁を感じます。
北条高広の「北条」ですね。同市安田には同族の安田氏もいて、こちらは戦国時代の混乱をうまく切り抜けて米沢藩の家老として残り、姓を本姓の毛利に戻して明治維新まで存続します。
先祖が武家政権、幕府を作り、子孫が終わらす。
大江さんの子孫大江時親は幼き楠木正成に兵法を教えた人物なので間接的に2度倒幕してますね
その時親が越後から安芸国吉田に移った人じゃないかな。同姓同名か
経光は宝治合戦の時に越後にいたので、関係ないとされて越後国佐橋と安芸国吉田の領有を認められ、本家筋の長井氏の影響下で生き残ったんですよね
頼朝の頃から鎌倉で側近として才をふるってきた広元は要所要所で重大な決断に加わっている。ヘタを打てば消されてしまいかねない中、うまく立ち回って長く仕えてきた。頭がいいし、勘がいい人なんだと思う
でも大江広元から毛利、それも駿河にいたのに安芸国に行って、そして長州藩の倒幕へと繋がるのか…
歴史は知れば知るほど面白いですね🎵
歴史は繋がってるんですねぇ~
毛利季光は大河ドラマ北条時宗で高橋英樹さんが演じてた
大江広元は、鎌倉ドリームの体現者でしたね。
伝大江広元の墓の方も行って欲しいです。明王院と瑞泉寺のルートのハイキングコース沿いにあります
先週に続いてMr武士道さんを、鎌倉の山の中とやぐら解説へ誘導したいコメントをさせていただいています
嫡男親広の後裔は最上義光に滅ぼしました
奮発というより発奮かな?
自分のルーツの武将を調べる方法を知りたい。
大江は本性で長井や毛利は通称だと思います。
そうですね。説明が足りませんでした。すみません。
つまり何が言いたいのかというと、通称で呼ばれる(記録される)ようになってしまった=傍流のような扱いになってしまったという認識です。
それは源頼朝が鎌倉頼朝にならずに、源義仲が木曽義仲となったように。
米沢には毛利季光の末裔で越後揚北衆だった安田氏と、武田勝頼の弟で甲斐源氏の安田氏を継いだ安田三郎信清の子孫も暮らしています😊
来年の大河毛利輝元は誰がやるんでしょうね。子孫が登場した大河元就では、宮沢りえ氏のご主人の森田剛さんが演じていましたね。
鎌倉、室町期の中で、血統的に信頼できる大名って、上杉(藤原氏)、毛利(大江氏)、ぐらいですよね…
将軍家以外だと。
伊達も島津も大友も怪しいし。
鎌倉期よりと考えると、毛利(大江)は最古に近いぐらいに信用できる血筋の大名ですかね…
最近の研究によって大江広元が大江氏ではなく、実は藤原氏です
@@user-rj8iv1zi1s 最新の研究だとそうなんですね
上杉氏について、関東管領であった憲政は謙信(当時の長尾景虎)と養子縁組を結んだけど、血縁関係はありません。家名は鎌倉時代から現在まで続いているものの、血統は憲政で一旦切れて、その後の血統は全く別個のものとなります。
@@toyo-rex4899 苫米地英人さんは関東管領上杉家(憲政)の子孫だと言っていますね。
武田、佐竹もかなり系統はしっかりしているよ
佐竹は途中で上杉の血統になってしまうけど
あと、伊勢の北畠も室町期だけど
吉川晃司さんも大江広元の子孫の一人です。
自称だけどね。元春の子孫は基本的にほとんど残ってないぞ、少なくとも公式の家系図が残ってる範囲では。今の吉川・小早川は輝元の子孫
大江は源氏、平氏と同じ氏のはずなので、長井を名乗るのはさほど不思議ではないような
大江ではなく、中原広元でドラマを進行してほしかった。大江は晩年に名乗った元々の本名。史実がある以上、リアリズムに徹してほしい。史実の無い部分を想像力豊かなフィクションならば納得です。楽しい大河にするには先ずは史実から
動画の内容とほとんど関係なくて恐縮なのですが、姓名の間に「の」を入れるのっていつ頃からなくなるんでしょう?
鎌倉時代の人物だと「みなもとのよりとも」「おおえのひろもと」「ほうじょうのよしとき」のように、のを入れて読んでいるのに、戦国時代くらいになるとのは入れずに苗字と名前を続けて読むじゃないですか
何か基準があるのでしょうか
もしご存じでしたら教えていただきたいなと思います
大河ドラマではみんな「の」を入れていますが、本来「の」が入るのは天皇から与えられた氏(源、平、藤原、橘など)だけで、北条、三浦など地名に由来する武士の名字には「の」は入らないのが正しいらしいです。
教科書でも例えば北条時政は「ほうじょうのときまさ」ではなく「ほうじょうときまさ」と書いてあるはずです。
これは学者先生の間でも議論があることで、私自身まだまだ不勉強なので推測でご返答させていただきますね。
まず平安・鎌倉時代と、戦国時代ごろでは、名字すなわち『家』に対する考え方が違います
。
おそらく平安・鎌倉の名字は、その人がどこに住んでる人なのか?を表す程度のものだったんだと思います。
今でも遠くの親戚を「東京の辰徳おじさん」みたいな言い方をすることってあると思うんですが、それに近いのではと。
北条の時政さん、三浦の義澄さんみたいな。それが時代が経つにつれて名字がブランド化していき、「住所」を表すものではなく「家柄」を表すものになった。よって、「の」が取り払われていったのではないかと推測しています。
(これは学術的な話ではなく、私の想像にすぎませんので、話半分で聞いていただければと)
姓氏研究家の森岡浩氏によると、ルール的には「の」が入るのは姓だけなんだけど、実際は「北条の義時」みたいにルールを無視して名字に「の」を入れて名乗ってたっぽいです。なので、一応今回の大河ドラマは時代考証の上で「の」を使っているのかと思います。
言われてみれば確かに源や平は教科書でものが入っていた気がします。
天皇から与えられた氏説は説得力ありますね。
回答ありがとうございます!住所→家柄説、なるほどすごくしっくりきました。
未だ結論が出ていないのなら、もしかしたら本当にこれが理由だったかもしれないわけですし、歴史の解釈というのは面白いものですね。
これからも解説動画楽しみにしています。
なるほど毛利家は徳川家には大した御恩はないとは言えますね。島津家もそうですが。
所領安堵(〇〇万石と確定)するのも「御恩」だし家康からしたら「まさか200年以上も続いたんか。よー続いたもんや」って感じじゃないかな
許儀後という明国人が倭寇によって?薩摩に売られてきたが学問の才が開花して島津義久の専門薬師で雇用→朝鮮出兵時に秀吉から「島津お前、明と内通してるんか!?許儀後を鍋で煎り殺せ!」と浅野長政を使者に許の殺害を強要するが家康は「そんなことしたら日本人の度量狭いと他国から思われますよ」と秀吉を説得して赦免→家康が傷寒(チフス?)か何かで体調悪い時に今度は許儀後らが「あの時の恩を返したい」と担当医を志願して治すという、凄い仲良かったことが伺える話もあるんですよね
@@user-ub7tt4gl8y おっしゃる通りですが、まあ外様大名ってそういうことでは。
大江広元の子孫です。
興味深く拝見させていただきました。
余談になり恐縮ですが。
実は大江広元の子孫だけではなく、そのご先祖様もかなりすごい方達だったりするんですよ。
神代の野見宿禰という相撲の達人から土師氏が生まれ、そこから
菅家、江家、秋篠家が生まれそのうち江家が大江広元にたどり着きます。
ちなみに菅家は菅原道真公に当たりますので、大江広元とは遠い親戚に繋がります。
わしも大江の子孫です。お家芸が相撲でした。
自分も大江広元の子孫です。最近家系図が見つかったそうです。
イチコメ
よかったら、武士道さんと友達になりたいです
重すぎます……
毛利元就の子孫の方が、CZcamsやってますね( ˙꒳˙ )
徳山毛利家の人でしたっけ
徳山毛利家は輝元の子孫で宗家から冷遇されていたが、最後の藩主元徳は徳山藩の出身で維新後に藩主になりました。
でも大江広元は承久の乱で後鳥羽上皇にはむかい、戦したのですから、結局逆賊ですけどね。なので毛利家の大江は朝臣だから尊王っていうの論理は間違ってますね。毛利は好きではないです。
広元が明治維新まで影響を与えてたとは😨
ところが、ドラマでは慈円はでてきても、兼実も定家もでてきません。実朝と定家や鴨長明との関係を入れればもっと知的レベル上がったと愚考します。それに法然や親鸞もでてきません。三谷さんの知見は狭いのではと考えて
います。彼の演出はあの時代を全体的に描けていないのでは⁉️
時間に限りのあるドラマでそこにいる人物は全員登場させればいいってものではないと思いますよ。
慈円の兄・九条兼実はドラマに出ていましたよ。ココリコ・田中直樹が演じていました。
1207年に59歳で死去しているので今後は出ませんけど、ひょっとしたら回想シーンで登場するかもしれません。
コメント有り難うございます。その回は見逃したのでしょう。あの兼実がココリコさんでしたか。小生はNHKの大河ドラマに時代の全体的な表現を
求めて居ませんよ。あれはエンターテイメントで十分です。その点では三谷さん天才ですね。☺️
このドラマだと、九条兼実関連でしか関わりのない法然とか、その弟子の親鸞を出すくらいなら、北条家と関係の深い栄西を出すやろ。北条義時が主人公なんやから。