悲劇的な最期を迎えた白虎隊の見どころ+会津九代藩主・松平容保が受けた裏切りとは?(【YouTube限定】BS11偉人・敗北からの教訓 こぼれ噺 第39回)

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  • čas přidán 11. 02. 2024
  • BS11で放送中の歴史番組「偉人・敗北からの教訓」
    番組収録後に、番組内でご紹介できなかったエピソードなどを歴史作家の伊東潤先生に語っていただく「偉人・敗北からの教訓・こぼれ噺」第39回目です。
    今回は
    2024年2月24日(土)夜8時放送、「白虎隊 編」の見どころと、
    収録で話しきれなかったエピソードをご紹介。
    悲劇的な最期を迎えた白虎隊。
    なぜ、会津藩は伝統的な武士道を守り続けたのか!?
    初代藩主・保科正之が「会津家訓」を遺したのはなぜ?
    「教えて伊東先生!偉人を深掘り!」のコーナーでは、偉人の側面にスポットを当てていきます。
    白虎隊を語るうえでの重要人物、会津九代藩主・松平容保が受けた裏切りとは?
    伊東先生にたっぷりとお話いただきます。
    ■出演
    進行:中西悠理(キャスター)
    解説:伊東潤(歴史作家)
    ▼TikTokでショートムービー公開中!
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    • 歴史「偉人・敗北からの教訓」ほか
    ■番組情報
    全国無料放送BS11「偉人・敗北からの教訓」
    📺毎週土曜日 よる8時00分~8時55分放送
    【番組公式HP】www.bs11.jp/entertainment/iji...
    【BS11 イレブン じゅういっちゃん公式X(旧Twitter)】 jyuittyan_bs11?la
    <番組詳細>
    「敗北」「失敗」から、偉人の人物像に迫る!
    毎回、偉人たちがおかした「歴史的な大失敗」から、その背景、要因、影響などを読み解き、
    偉人の人物像を浮き彫りにするとともに、今を生きる私たちの教訓としていく新しい歴史バイオグラフィー。
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    #白虎隊 #戊辰戦争 #会津藩 #保科正之 #松平容保 #徳川慶喜 #幕末 #大政奉還 #明治維新 #明治時代 #江戸時代 #安土桃山時代 #平安時代 #戦国時代 #戦国武将 #歴史 #日本史 #偉人 #英雄 #伊東潤 #中西悠理 #こぼれ噺 #BS11
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Komentáře • 61

  • @user-tk2nl8nm4z
    @user-tk2nl8nm4z Před 2 měsíci +7

    よく言って下さったと思います。伊東先生は会津人の本音を語って下さっていると思います。こんなに素晴らしい解析をなさる歴史家を初めてみました。

  • @user-ku6xr3vt8p
    @user-ku6xr3vt8p Před 4 měsíci +8

    子供の頃、大晦日・正月にかけて放映された大型時代劇ではじめて戊辰戦争を知りました。今でもたまに思い出したように観直してはボロボロ泣いてしまいます。

    • @kazyoci
      @kazyoci Před 4 měsíci +7

      日テレ年末時代劇ですね。里見浩太朗主演、堀内孝雄主題歌でした。詞にもある通り生真面目過ぎた会津の悲劇ですね。

  • @eiichimukaida9321
    @eiichimukaida9321 Před 4 měsíci +11

    小さい頃学校のイベントで鶴ヶ城行って白虎隊のこと聞いたり自決したところ見に行ったりしましたが、意味と動機がまったく理解できずに、木刀だけお土産に買ってきたことがありました。その頃は敬意も哀悼もなんにも感じられなかったです。でもいろいろと歴史を勉強し少年時代の判断力について考えると、大人の事情の難しさ、これは一度失敗にして出直そう、と判断できるかどうか、が、無垢な少年たちに甚大な被害を与えてしまう、という、影響力の恐ろしさとして捉えられるようになりました。初期教育の大切さも。
    現在の会津と長州の本格的な交流が、ようやく始まった、などとと、今の時代(昭和の後半~)にニュースで聞くことがあるくらい、そのときのことは大きな傷跡として、いまも残っています。
    そんな感じでいろいろと思い出がある白虎隊、本編、楽しみにしています。

  • @user-yn4xn3cp6b
    @user-yn4xn3cp6b Před 4 měsíci +2

    今回の教訓の「人を信用しない」は、過度に信用すると思いがけないところで、失敗してしまうので、信用しつつ相手との距離を一定間隔とっておくことが、重要だと認識しました。
    また、会津藩と松平容保については、興味があります。
    伊東先生の腹案は、すごく興味あります。
    人生は、選択の連続なのでいつも参考にしています。

  • @HansSchmidt2006
    @HansSchmidt2006 Před 4 měsíci +7

    白虎隊生き残りの人の手記にとても興味があります。

  • @wettherboy
    @wettherboy Před 4 měsíci +7

    堀内孝雄の愛しき日々はドラマの主題歌として白虎隊のことをとてもよく表していると思う。特に前半の「かたくなまでのひとすじの道。愚か者だと笑いますか。もう少し時がゆるやかであったなら」後半の「気まじめ過ぎたまっすぐな愛。不器用ものと笑いますか。もう少し時がたおややかに過ぎたなら」の部分は泣かせる。

    • @ベルサイユ
      @ベルサイユ Před 29 dny

      白虎隊と共に会津藩のこともよく表しています

  • @evilflower765
    @evilflower765 Před 4 měsíci +6

    実社会でもあたら真面目で仕事が出来る人間には、人の何倍もの仕事を押し付けられたり、責任のある仕事をさせられたりとシワ寄せが来る。但し、会社が上向けばそう言う人間が出世をして行く、結局のところ容保も落ち目な会社(幕府)に居た事が運の尽きだった。

  • @mirocchi369
    @mirocchi369 Před 4 měsíci +1

    本編をとても楽しみにしています!!!❤❤❤

  • @user-jw7yh7wi3o
    @user-jw7yh7wi3o Před 4 měsíci +1

    お疲れ様で、ございます😊大変好きな武士道です😌💓

  • @user-ke9pb6ct7t
    @user-ke9pb6ct7t Před 4 měsíci +6

    家光の兄弟・忠長の失敗も知りたいと思った。

  • @user-bq1pp8ub6t
    @user-bq1pp8ub6t Před 4 měsíci +1

    いつもお二人の優しい語り口に癒されています。
    白虎隊は大人たちに祭り上げられた可哀想な少年達だと思います。今も反政府軍は少年兵を使ってます。
    時代が変わっても大人が考える事は同じですね。
    番組を楽しみにしています。

  • @user-hr4yx4wv9e
    @user-hr4yx4wv9e Před 4 měsíci +4

    白虎隊の悲劇というより、先に京都守護職なんてものを引き受けてしまったところからこの藩の命運は決まってしまったのでは?仮に江戸家老あたりが超有能で、幕府からの要請をあの手この手でのらりくらりかわしてれば、別の道が開けたかもしれない あとは引き受ける代償として、大幅に加増「越後の天領から10万石+新潟港+幕府の軍艦一隻乗組員ごとレンタルとか 日本海まわりで京都が近い  」

    • @pontarou01
      @pontarou01 Před měsícem

      ご褒美に南会津の天領も任されて、
      北海道にも領土貰って実質的な石高は50万石近くあったようですがこき使われてお金には困ってたようです。

  • @user-dw9lt2fo3q
    @user-dw9lt2fo3q Před 4 měsíci +1

    この番組を毎週面白く見させてもらってます。最後の教訓のコーナーでは今後ドラマや時代劇する時はその役をする俳優さんや女優さんは見ておいた方がいいと思います。勉強になります。

  • @user-th8bi9ib8s
    @user-th8bi9ib8s Před 4 měsíci +2

    会津藩、水戸藩、尾張藩、紀州藩。。。それぞれ立ち位置が違うの。おもしろい。

  • @user-sv1bk4gf3t
    @user-sv1bk4gf3t Před 4 měsíci +1

    あぁ白虎隊。橋幸夫の歌だったかな?詩吟が良かった。三橋美智也の武田節の詩吟も好きでした。人は石垣、人は城。

  • @pontarou01
    @pontarou01 Před 4 měsíci +1

    白虎隊の話にヒトラーとムッソリーニが感動して、
    モニュメントを寄贈してくれた。

    • @user-rs3my7nm5r
      @user-rs3my7nm5r Před měsícem

      それは残念ながら嘘ですよ。ある日本人がムッソリーニと交流があって冗談で「ムッソリーニも白虎隊の話に感激して会津若松に石碑を送りたいと言ってたぞ」なんてことを言ったらそれがたちまち会津若松中に広まる。市長の耳にも届き、ムッソリーニを待てど待てど全くこない。
      イタリアからも苦情がくる。日本がイタリア側に頼んで実現したものです。
      当時イタリアとドイツは日本と同盟でしたからね。イタリア側も仕方なく引き受けたのでしょう。
      イタリアが送るならと、ドイツも石碑を送っています。

    • @pontarou01
      @pontarou01 Před měsícem

      @@user-rs3my7nm5r
      結果はおんなじでしょ?

  • @user-th8bi9ib8s
    @user-th8bi9ib8s Před 4 měsíci

    温故知新。先人から学ぶことは多い。
    いまだから。わかることもある。

  • @user-uy5hd9ji2j
    @user-uy5hd9ji2j Před 4 měsíci +2

    秀忠の隠し子の保科正之が幕府や主君を裏切らないように教訓した。会津に帰った容保は家督を譲っていた。天皇から
    会津幕府を開く勅書を頂いていた。などの話しもあるようですので、どのように描かれるか楽しみです。

    • @pontarou01
      @pontarou01 Před měsícem

      当時会津の人の間では「今に会津が江戸になる♪」って言われてたのはそんな密約があったからでしたか、知りませんでした。

  • @kikiashi8729
    @kikiashi8729 Před 4 měsíci

    自決したのは20人というコメントを見たので調べたところ、飯沼貞吉の証言では一緒に自刃したのが本人含め17人で、それまでの道中で3人亡くなっていたので計19人が葬られたそうです。なので世間一般的には20人とされているという事のようですね。

  • @1700queen1700
    @1700queen1700 Před 4 měsíci

    尺の関係だと思いますが、保科公の徳川将軍家に対する恭順は、家光公との異母兄弟間の愛に他なりません。
    ご興味のある方は調べてみてください

    • @pontarou01
      @pontarou01 Před měsícem

      保科正之は幼少時にお江に命狙われてたそうで。

  • @ベルサイユ
    @ベルサイユ Před měsícem

    京都守護職の大命が下った時の将軍は慶喜ではないですよね
    伊藤先生は慶喜が頼んだとおっしゃってますがまだ将軍になる前の慶喜に頼まれたということなのでしょうか?

    • @nos3239
      @nos3239 Před měsícem +1

      ウィキペディアを見ると「徳川慶喜、松平春嶽から再三の就任要請云々」とありますので、将軍就任前に要請があったのではないでしょうか?

    • @ベルサイユ
      @ベルサイユ Před měsícem

      @@nos3239
      ということは慶喜が将軍後見職の時ということですね

  • @user-xb6xt8mc5h
    @user-xb6xt8mc5h Před 4 měsíci

    水戸藩が大日本史で幕末に地獄を見たの似たようなモンでしょうかね。
    とはいえこういうのは保科正之や水戸光國が悪いんじゃないんですよ。
    時代に合わせて変化(進歩)しないとダメ。
    時流に抗ってまで変化(進歩)出来なかった理由は「将軍家に近しいまたは負い目があった」などでしょうか?
    結城秀康の流れを組む福井藩なんかは白眉ですもんね。
    「幕府?もともと貰うもん貰っただけだし貸しはあっても借りはないよね?食いっぱぐれないようにだけは気を付けようや。」みたいなメンタルだったしね。

  • @user-ld6gq9kw9w
    @user-ld6gq9kw9w Před 4 měsíci +1

    松平定信と同質の人ですね。時代が違えば。

  • @ichigopurinda
    @ichigopurinda Před 4 měsíci

    会津松平系ではなく水戸徳川系から入った養子だからこそ
    会津藩家訓に将軍家への忠節を疎かにしたら我が子孫に非らず。面々従うべからず
    なんて残されたらまだ若く生真面目な容保は藩主であろうとしてがんじがらめになりますよね。
    どうせ子孫じゃないからなんて開き直れる性格と立場ならまた違ったかもしれませんね。

    • @pontarou01
      @pontarou01 Před měsícem +1

      重臣はみんな、京都守護職受けるのは「火中の栗を拾う」ようなものだからと反対したそうです。

    • @user-tk2nl8nm4z
      @user-tk2nl8nm4z Před 29 dny

      容保は水戸徳川家ではなく、美濃高須藩の出です。

  • @user-th8bi9ib8s
    @user-th8bi9ib8s Před 4 měsíci

    260年の泰平の世の中の代償を背負わされたような悲劇だね。

  • @user-do4yq2zz8n
    @user-do4yq2zz8n Před 4 měsíci

    会津の容保、桑名の定敬と共に養子であったことは幕末の不運でしようね。容保と家老西郷頼母の確執は幕府大事かお家大事があまり此れについて語られない。幕末には各藩において直系血族は、ほぼいない。この事が幕末の動きに影響しているのは間違いない。

  • @annegii3623
    @annegii3623 Před 4 měsíci +4

    慶喜は何で東北の会津じゃなくて京都に近い桑名とかに守護職依頼しなかったんだろう?

    • @user-ul7qz8gu1g
      @user-ul7qz8gu1g Před 4 měsíci +2

      松平容保の祖父は、水戸徳川家の人間でした。慶喜からしたらガチの身内なんです。だから信頼感が段違いだったのでは

    • @annegii3623
      @annegii3623 Před 4 měsíci +3

      @@user-ul7qz8gu1g
      桑名の松平定敬も父が松平義建で容保の実弟なのだから血筋としては同じガチの身内では?

    • @nktomm421
      @nktomm421 Před 4 měsíci +5

      慶喜はとても利口な人なので、守護職を引き受けてくれるのはこの人しかいない(桑名なんてどうせ引き受けない)と分かっていたんだと思いますよ。

    • @annegii3623
      @annegii3623 Před 4 měsíci +3

      @@nktomm421石高低いから大した兵力用意できない、
      桑名の方が官位が低いから抑えの守護職としてはある程度官位の高い方がいい
      じゃあ会津に、となったからかな?

    • @machimachio
      @machimachio Před 4 měsíci +1

      孝明天皇は京都守護職は薩摩を要望してましたけど、慶喜がそれを拒びました。
      いろんな藩に依頼してもどこも反対、会津藩にももちろん依頼はきたけど会津藩も何度も断っています。
      ただ最終的に松平春嶽が会津藩の家訓を持ち出して会津藩に京都守護職を引き受けるように強く迫り
      会津藩も断れずに引き受けました。要するに京都守護職ってそれだけ自分から進んでやりたいという
      人がいないような仕事だったわけです。孝明天皇の要望通り、薩摩藩に依頼してたとしても薩摩藩は
      断っていた可能性はあります。

  • @user-nz7nq2bw9u
    @user-nz7nq2bw9u Před 4 měsíci +2

    福島の人は二本松少年隊をよく語っています!

  • @user-rd6ne7wq3p
    @user-rd6ne7wq3p Před 4 měsíci +2

    ならぬことはならぬものです

  • @user-jv6zc6xn8p
    @user-jv6zc6xn8p Před 4 měsíci +3

    藩祖・保科正之の遺訓を、かたくなまでに、守り通した。あまりにも、悲しい。

  • @user-fv4hs5lk4q
    @user-fv4hs5lk4q Před 4 měsíci +1

    保科正之さんは徳川家の人だしね。徳川家に忠誠心貫いた藩だし。亡くなった人達は安らかに鎮魂させて行かないといけない。

  • @mt-gv1zl
    @mt-gv1zl Před 4 měsíci +6

    ドラマは會津藩可哀想な感じになってますが
    會津藩自体重い年貢と横柄な士族で住民は薩摩藩歓迎ムードだった様ですが。
    ドラマは美化しすぎ。

  • @user-ok8ni1de3z
    @user-ok8ni1de3z Před měsícem +1

    松平容保はトップに立っては いけない方ですね

  • @user-px9xz6bv5k
    @user-px9xz6bv5k Před 4 měsíci +1

    本動画の小説家のお話についてご質問・コメントしたい。
    二本松少年隊とは異なり、白虎隊は必ずしも少年兵ではない。16~17歳と言うのは元服を済ませる年齢であり、実際に元服を済ませた藩士もいる。
    白虎隊の自決は17名との解説があるが、白虎隊士中二番隊の20人が自刃、19人が亡くなったが1人が生き残った。
    会津が挙国一致というのも間違い。金がないのに戦争ばかりしたがる松平容保による重税に苦しむ領民は新政府軍に味方したし、ヤーヤー一揆と言われる大規模な領民の反乱がおこったし、長州や庄内藩のような大規模な庶民の軍隊は編成できなかった。
    慶喜から舐められていたと言うコメントは根拠不明。勇ましいことばかり言う、会津桑名藩主とは異なり、鳥羽伏見で戦端を開くことを慶喜は望んでいなかったし、敗戦後も、一度も謝罪することなく、上野や宇都宮に兵を差し向けるなど、トコトン慶喜の恭順の意向に逆らった。その意味では藩祖、徳川を守るべしという保科正之の遺訓を破った。話は前後するが、保科正之は天皇制を絶賛する山鹿素行を会津から追放したが、容保は藩祖が嫌った国学的な動き、即ち、孝明天皇に取り込まれてしまい、幕府のために孝明天皇の考え方を改めようともしなかった。遺訓を無視された藩祖も「わが子孫に非ず」と、さぞやお怒りであろう。
    また会津藩が「武備恭順」した?」東北諸藩を巻き込むために非道なことを繰り返し、周辺諸国を略奪し、プロシアに北海道を売ろうとし、そして、世良の手紙を捏造して仙台藩を引っ張り出すと、先に、会津領でもない、白河城を攻め、東北戦争の火ぶたを切った会津は全く恭順していません。
    徳川慶喜が江戸城を守ろうとした??これも根拠がわかりません。

  • @machimachio
    @machimachio Před 4 měsíci +4

    戊辰戦争の勃発は慶喜が、薩摩に我慢できずに興奮した会津藩、桑名藩、旧幕府軍を抑えられなくなったことで
    起こった戦争です。慶喜としては朝命に従い軽装で京に出向くつもりでした。当時の旧幕府側の軍では長州や土佐の軍だけならなんとか
    なっても薩摩軍をも相手にできるほど人材はいなかったからです。幕府は大政奉還をしていますし、大政奉還の前から
    幕府の権威が失われつつあったので徳川家には昔ほど大きな力はなかった。
    興奮する会津桑名藩や、旧幕府軍に何を言っても無駄だろうから好きにしなさいと流された感じです。
    薩摩との戦を決めて討薩表を作成して滝川がそれを持って上京。
    会津、新選組、桑名、旧幕府の軍が進軍。
    鳥羽の戦の敗退後
    慶喜が恭順の形をとって、鳥羽の戦についての謝罪、家名を残してほしい事、家臣を許してほしい事を伝えていますが、
    逆に会津藩は孝明天皇の書簡の写しを添えて「我々に責任はない、先に攻撃をされたからそれに応じたまで」
    という主張。
    会津藩と一緒に強硬論を唱えた桑名藩は恭順、旧幕府に味方した藩も恭順。
    会津藩だけ謝罪はしませんでした。
    新政府軍側としては帰国を命じられていた会津藩が京に武装してやってきてるので許せない
    わけで、しかも会津藩は謝罪なし。
    動画では歴史小説家の伊東潤先生が恭順しても許してもらえるかわからなかったと
    おっしゃってますが、そもそも会津藩は許してもらおうという姿勢ではなかったわけです。
    戊辰戦争研究家の山川さんも会津藩の文書には一切「謝罪、恭順という文字はなかった」と
    言っています。
    また会津藩が恭順してたのは天皇に対してであって、新政府軍については認めていませんでした。
    むしろ敵対心をもっていましたし、不審な行動もとっていました。
    奥羽越列藩同盟という軍事同盟も新政府軍の排除(特に薩摩の排除)を目的としたものです。
    ちなみに会津藩の中にも降伏派はいました。鳥羽の戦の後、会津藩では降伏派と抗戦派の2つに分かれましたが、
    降伏派は戦争を続けようと画策する会津藩の抗戦派に藩主の命令だと嘘を言われて
    降伏派の多くが切腹しています。結果、会津藩は新政府軍と戦争を望む抗戦派が殆どを占める事になりました。
    会津藩は軍資金確保のために幕府から譲渡された蝦夷地を売却しようとしていました。ドイツと会津藩の交渉のやりとりの証拠が
    2013年に見つかっています。
    幕府から譲渡された蝦夷地を売却しようとするところをみると幕府に対しての忠誠というものに疑問を感じます。
    それに孝明天皇は外国嫌いだったので生きていたら会津藩を許さなかったでしょう。
    この時点では既に容保は藩主を辞めてます。
    上を見てもわかるように会津藩士みんながみんな真面目というわけではなかったと思います。容保が真面目だからそれが
    会津藩=真面目にみえてただけではないでしょうか?

  • @user-gh5ri8th5o
    @user-gh5ri8th5o Před 4 měsíci +15

    白虎隊より主の容保の失敗を取り上げるべきでは?藩祖の正之様の残した家訓に縛られ、慶喜降伏後も無謀な戦争を続けてしまったんだから。

    • @kurita1201
      @kurita1201 Před 4 měsíci +3

      ホントだよ!

    • @user-kc7nj9eg2g
      @user-kc7nj9eg2g Před 4 měsíci +5

      7:13
      全部見ました?
      有名な白虎隊の方が視聴者導入としては最適だとの判断だと思いますよ。

    • @kurita1201
      @kurita1201 Před 4 měsíci

      ​@@user-kc7nj9eg2g
      同じ職場に松平容保嫌いの人がいてけちょんけちょんに貶してましたね。

    • @machimachio
      @machimachio Před 4 měsíci +5

      容保よりも容保辞任後の会津藩が暴走してたのだと思います。会津藩の降伏派は会津藩の抗戦派に追放されたり藩主の命だと嘘を言われて切腹させられました。それで会津藩は抗戦派が優位になり力をもったので。徳川家よりも会津藩のプライドから薩摩長州の新政府軍に従うくらいなら戦って死んだほうがマシだと思っていたのかもしれませんね。2013年に会津藩は幕府から防衛管理のためにと譲られた蝦夷地の一部を担保にドイツから資金を得ようとしてた証拠が見つかったので、幕府や孝明天皇に対して忠誠を誓ってたならそこまではやらないと思います。
      容保が藩主のままだったらやってなかったと思いますね。

    • @user-fe7wi1vt8b
      @user-fe7wi1vt8b Před 4 měsíci +1

      頭(上が狂えば 尾っぽも狂う!) 
      頭の責任は今も無きにされる
      今生の政が表されている