【NO.71】銘「肥後瓢箪王」50年前の肥後守 多少の蘊蓄 竹鉄砲 higonokami = japan old style knife.

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  • čas přidán 28. 08. 2024

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  • @japanknifemuseum5646
    @japanknifemuseum5646  Před 9 měsíci

    【説明、及び同時代人としての考証】
    石原裕次郎の歌じゃないですが、錆びたナイフが出てきました。実家で整理していたら、子供の頃に買った肥後守が、真っ赤に錆びて出てきました。 「肥後守」は商標で、子供の頃は誰もが肥後守と言わず、コガタナ(小刀)と言っていました。昭和の30年代頃までは、学童は皆、小刀で鉛筆を削っていました。女子は安全カミソリの刃を使ったカミソリナイフを使っていました。ですから、みんなの筆箱の中には普通に小刀が入っていました。手回し式の鉛筆削り機が教室に配備されたのは、小学校の高学年になってからでした。その当時は、机は今のように積層材では無いですから、机の上に悪童達は、小刀で落書の彫り放題でした。
    さて、その当時は日本全国の学童の需要があるものですから、小刀のメーカーは、乱立していました。従って登録商標の肥後守を使わないメーカーもたくさんあり、それぞれ独自の銘にした訳です。この「登録商標 肥後瓢箪王 切味本位」もそうした小刀です。
    現代の新品の小刀と比較してみると、刃幅はやや広く、刃厚は薄い。今では肥後守は両刃だと思われていますが、この瓢箪王のように片刃のものもあり、また、竹などを細工しやすいようにノコギリ刃の付いているものも有りました。この小刀は真っ赤に錆びていましたので、「ラスト リムバー」に漬け込んで錆びを取りました。その後に柄を黒く塗ったのですが、銘が全く見えなくなって、またサンドペーパーで剥がしたものです。すっかり手や爪が汚れてしまいました。そこで分かったのは、刀身を見てみると、片刃に近い作りですが、刃金を割り込んでありました。錆び取り液のおかげで、光の反射具合がはっきりして、割り込んである事がわかりました。今の用語で言えば、「特別本鍛造割込み」と言うところでしょうか。昔は、割込みが当たり前で、全鋼など材料代が高くついてやってられない、と言う感じです。職人の手仕事が安かった時代の話です。いわゆる「チギリ」と言われる親指で抑える部分を見ても、鍛造作りで、鉄を赤らめて柔らかい内に叩いたので、横に少し膨らんでいます。なお、両刃よりも片刃のほうが鉛筆や竹などを削りやすいです。更に柄部分の鉄も、近年のものよりもやや薄く、なました鉄に近い柔らかさです。この瓢箪王は、穴の部分が歪んでいますが、閉じた時のロック機構がない為に、不用意にポケットの中で開いたりしないように、金槌で叩いてすぼめたものです。
    竹の細工をする時、竹の切断方法としては、切断箇所にナイフで、何度も円周に沿って刃を回して行きます。( もっと、刃を竹に当てたまま、竹を転がして行くのです。) 動画ではふわふわした台で作業していますので、刃のほうをギコギコして、時間がかかっています。しっかりした台の上で力を込めて、竹のほうを回して行けば、もっと早く切断できます。
    ついでに、竹鉄砲を作ってみましたが、玉となる実の大きさと竹の内径が、うまく合っていない為に、10回に3回ほどしか、パシッと音を立てて飛びませんでした。( → 空気室を出来るだけ大きくする為に、筒を長く切ったほうが空気圧が高まり、いきよいよく飛びます。)
    これは南天の実で行なったものですが、昔はもっと大きな何かの実で発射していたような気がします。こんな細いものではありませんでした。単発式元込め銃として、村の子供達は源平に分かれて、村の神社の広場などで撃ち合い合戦を行いました。
    しかし、高度成長期を迎え子供達の間では、プラモデルや銀玉銃が流行り、竹鉄砲は急激に廃れて行きました。それと同時に肥後守もまた衰退の一途をたどりました。
    ※※※ 余談 ※※※
    田舎のほうの金物店に出かけて、変わった銘柄の肥後守が無いか、探しに行った。そこの50代と思われるおばちゃんに「コガタナ、ないかね?」と聞いたら「コガタナ? ウチの店にカタナなんか置いてないよ!」と返答された。あにはからんや、もう金物店でさえ「コガタナ」は死語になっていたとは、驚きだった。昔は、文房具店や荒物屋、金物屋に「コガタナ」が置いてあるのは、あたり前田のクラッカーでした。