元寇を戦った英雄ではなく、無力なリーダーだった? 北条時宗の生涯【鎌倉殿の13人】
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- čas přidán 26. 12. 2022
- 執権として元寇を戦い、国を救った後に若くして亡くなった八代目執権北条時宗。
ですが実際のところは、若い頃は北条政村や重臣たちが政治を行い、成長した後は安達泰盛と平頼綱が政治の中心になっており、時宗はお飾りに近い存在でした。
安達泰盛と平頼綱が対立する中、これを収めるべき役割の時宗は、優勢な方につくだけであり、この両者の争いが、鎌倉幕府滅亡につながる土地問題、皇位継承問題を引き起こしていきます。
今回は、政治面での活動を中心に、北条時宗の生涯、時宗を支えてきた有力者が次々と亡くなる中、時宗が元寇の混乱に巻き込まれていく様子を紹介します!
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参考文献
本郷和人『北条氏の時代』
amzn.to/3C6VloP
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』
amzn.to/3Gm91yE
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#鎌倉殿の13人 #大河ドラマ #歴史
こちらのチャンネルのおかげで大河ドラマ北条時宗の謎や沢山の歴史の疑問点が沢山解決出来ています。
本当に助かっています。来年も引き継ぎ、大河ドラマの解説等を楽しみにしています。
この動画を見てると大河「太平記」で片岡鶴太郎が怪演した北条高時の虚無感を漂わせる人物像の原因は執権として何もできないお飾りになってしまった祖父北条時宗から始まってたのかもしれないね。
北条得宗家が短命続きだったのは鎌倉幕府にとって致命的だったんだと思う。
貞時は父を反面教師にしてか、霜月騒動の後、最初は全ての政務を見ようとするなど意欲的に取り組むのですが、結局挫折して腑抜けになり、腑抜けになった貞時を見て高時は成長したので、時宗から始まっていると言えるかもですね。
時頼、時宗親子だけでなく政村もかなり貢献してますよね、息子の時村があんな事になってしまいましたが…
結局元寇の恩賞は霜月騒動で捻出されるという皮肉
参考にさせてもらいました。
時宗の早世が痛いですね。
偶然だと思いますがその後の
室町と江戸幕府の8代目の時は、
幕府の存続に関わる事が、
起きてるのですね。
義政ー応仁の乱で衰退の要因へ
吉宗ー倹約政策等が功を奏して
幕府の寿命がやや延びた。
源氏の血を引かない伊豆の国衆からよくそこまで成り上がったなとは思いますが、そこが北条氏の限界でしたか😢
持明院統と大覚寺統の10年交互交替はそんな理由だったとは、
後醍醐帝も知ったら吃驚するだろうなぁ。
平頼綱は、時宗死後も、自身(御内人)の権力拡充のために持明院統を利用しており、カオスな状態にしてしまっていますね…
両統迭立部分は北条貞時についての動画でもうちょっと触れようかと思っております。
皇位継承問題が 泰盛vs頼綱にあった、というのは 初めて知りました
ありがとうございます🙏
皇位継承という朝廷内の最大問題に 何故 幕府が口をはさめたのか? いくら何でも 朝廷自身が決めなければならない事なのに、と思っていました
そのあたり是非 ちょっと教えて下さい!
鎌倉幕府は、難しいですねぇ😢
元軍を退けられたのは奇跡?!
それとも日本武士の強さ?!
いろいろ噛み合ってのことでしょうが、謎といえば謎。当然といえば当然…。歴史は難しいけど、面白いですね♪
いつも細かにありがとうございます😊
元寇については、時宗が陣頭に出て指揮をとったわけでもなく、今回は撤退したという事実だけ触れ乱暴に済ませてしまいました…申し訳ありません…
元寇での勝利は、上陸を一度は阻止した鎌倉武士の強さ、元、南宋軍の連携、台風(神風)など様々な要因が噛み合わさった結果であり、一口に語るのは難しいですね…
@@rekishock
私のコメントこそ乱暴な書き方でごめんなさい!
時宗が無力であったという内容、とてもよかったです!
その無力からの元軍追払いがますます元寇の魅力を高めますね!いつも楽しく拝見しております!!お返事もありがとうございます!
今までで一番興味深い内容でした。従来言われている名君、北条時宗の実像は、どうだったのか?とても気になります。高校の”日本史用語集”山川出版を見ても、時宗の項は、モンゴル軍撃退、非御家人を動員する権利を朝廷から獲得し、得宗専制がめだつようになる、無学祖元を招き円覚寺を開創とあるだけで、実際の彼の事跡はほぼないようですね。重要な政治的判断は、ベテランの政村が行っていたわけですから、実際は書状に押印するくらいだったのかもしれません。では、どうして名君と呼ばれるのか? やはり、当時の強力な対外勢力、元を破った際の執権だったからでしょうね?!元寇の対処に己の力の全てを注ぎ込み、若くして没した悲劇的英雄像は、ちょっと違うのかもしれません。かつての大河ドラマ”北条時宗”を、もう一度観たくなりました。書かれているコメントも全て目を通し、いろいろな意見がある点も、面白かったです。一面的な見方だけでなく、複合的に判断できること、歴史においても大事な視点ですね。大切な気づきを得られた動画でした。ありがとうございます。
時宗は、桑が谷療養所で、貧民の病気治療に関わった功績もあります。
元を破ったというのが一番大きいですね。
長年英雄として語られ、特に明治時代以降は、神風信仰も相まって国家ぐるみで顕彰していたのでその影響は大きいと思います。
判を押していただけというのも、全て時宗が支持して宿老たちを動かしていたというように見ることも不可能ではないので、色んな視点で見るというのも歴史の醍醐味の一つかもしれませんね。
ただただ時輔が可哀想
大河ドラマでの義時と時宗の闇落ちが凄い被ります
時宗は義時の半分程度しか生きていないのにだいぶ粛清を行っていますからね…
モンゴルが友好的な親書?メフィラス星人が「争い、私の嫌いな言葉です」って言うのと同じだ。
大河ドラマを観てて、なんで出来る男感満載の渡部篤郎の時輔より、終始フニャフニャしてる和泉元彌の時宗を周りがやたらと持ち上げてるのかがさっぱり分からず、演出や芝居の説得力不足のせいだとばかり思っておりました。
しかしこうして史実に照らしてみれば、ドラマとしての出来はさておき、状況そのものの描写自体はあながち間違いでは無かったようですね。
出来る男より フニャフニャしてる男の方が自由に操れて 持ち上げる側には都合がいいから、ですね
そもそも 鎌倉幕府と執権=得宗体制事態が
曖昧さを含んだ存在だからねしかも代を経る事に組織も権限が変化するから把握しきれないと思う。そして時頼が若くして亡くなってしまったのでノウハウが引き継がれなかった可能性も
時頼が早死して、得宗家以外の有力者で政治を回さなくなり彼ら中心の政治体制になった結果、再び得宗家の執権時宗に一からノウハウを引き継ぐ必要もなくなったというかんじですかね。
両統迭立は承久以来の鎌倉の皇位継承介入におんぶにだっこで、後深草と亀山が治天の君争いの裁定を幕府に持ち込んだのが始まり。二人の父親の後嵯峨が後継者を指名せずに死んだ事がそもそもの原因だが
朝廷と幕府は 別の組織のはず
自分達の頭を決めるのを 別の組織に裁定を持ち込めば、いいようにあやつられるのは 目に見える事ですよね
そこまで情け無い状態だったんですかね💦
@@memejiro7147 鎌倉も皇位継承なんかに深入りしたばっかりに大覚寺統の後醍醐の恨みを買うことになりましたw
柳葉敏郎と北村一輝の対立
(`・ω・´)ゞ
○んだはずの渡部篤郎
時輔生存伝説をあそこまでドラマに落とし込んだのはある意味すごい手腕です笑
でも、時宗以降まだ、7代、50年程は、北条氏の天下が続いたのはどうしてなのだろうか?
これは、時宗の代に、得宗独裁体制を整えたからです。
50年続いたというのは、中身が朽ちていっても組織構造がしっかりしており、北条氏に挑戦する勢力も現れなかったため形だけは保たれたというのが実態だと思います。
子の貞時の代に得宗独裁体制含め色々と動くので、29日投稿の北条貞時の動画を参照していただけますと幸いです!
レキショック殿
時宗は無力だった…これは新説ですね。
ところで、これは強引な論理だと批判されるでしょうが、日本の現在の政治形態は「立憲君主制」です。
天皇は国の象徴であり、君臨すれども統治せずですが(象徴天皇制)、泰時は源氏将軍が滅亡したので、象徴天皇制ならぬ象徴将軍制を行おうとしたのではないでしょうか。天皇は君臨すれども統治せずで、実際の政治は内閣(行政府)が行いますが、それと同じで、将軍は君臨すれども統治せずで、実際の政治は執権(内閣)が行い、執権(総理大臣)が任命した者が各々の業務を行う…議院内閣制ならぬ御家人内閣制です。現代と違うところは執権(総理大臣)が世襲だというところでしょうか。
御家人から選ばれた者から別当(大臣)を任命もしていたところもあるので、現代の象徴天皇制や議院内閣制のはしりとも言えないでしょうか。強引な論理だとは承知しております。残念なのは根付く前に泰時が亡くなって、一代で終わってしまった事ですね。
貨幣経済に対処できなかった…これは井沢元彦氏が、日本人の根強い商業(商人)蔑視感情があると書いていました。だから商人からお金を徴収すれば(現代でいえば所得税、法人税)、潤うものを蔑視して農業だけで対処しようとした為、行き詰まったという見解でした。
新説という程でもなく、本郷和人先生が著書で紹介されていたのを参考にしただけです。
強引でもなく自分もそう思いますね。
泰時は幼い将軍三寅に将軍権力の行使を期待できない中、むしろ象徴将軍制にせざるを得なかったというところだと思います。
執権も世襲制だったのが、執権すら半分象徴執権制になり、その元で実力者が政治の実権を握るという感じになったかなと自分は考えています。
個々の政策についてトップが決裁以外の面でどれだけ主体的に関わっていたかなどは、中々現代からは判断できないと思うので、どういう点(史料)から時宗が主導的に政治を行っていなかったと判断したのか、動画で触れていなかったこともあって気になりました。
おっしゃる通り、決裁以外の面でどれだけ主体的に関わっていたかなどは、史料もなく現代からは判断できません。
ただし客観的な面として、トップの仕事である部下の統率ができていないからか、土地、朝廷政策が二転三転する(時宗が主導権を握っていたらさすがにありえない)、時宗死後、政治経験皆無の貞時が執権に就任、泰盛の政治が滞ることなく進む(執権がお飾りだった可能性)などがあります。
もちろんこれらの点だけで時宗が主導的に政治を行っていなかったと判断はできませんが、、若い時宗がリーダーシップを発揮して元寇に対処したという考え方の方がむしろ根拠が薄く、時宗はお飾りに近い方が可能性は高いと自分は考えました。
@@rekishock 泰盛が主導する弘安徳政は、時宗の急死直後からスタートしていますが、このことは改革の方向性と100条の条例大部分が時宗が死ぬ前に形になっていたことを示す根拠にはなっても、時宗が主体的に関わっていなかった根拠にはならないのではないでしょうか。
むしろ泰盛と他の首脳陣の立場も考えると、特権層の既得権益と反する改革を独断で計画できるとは考えづらく、最低限上位の権威(この場合は時宗以外にない)の積極的な賛同はあったように感じます。
また弘安徳政がその後、平頼綱らの抵抗にあって頓挫して霜月騒動に至ることを考えれば、実際は時宗がいない状況では滞りなく進まなかった印象を受けます。時宗が生きていて上手くいったかは別の議論ですが。
弘安徳政が始まったのは確かに時宗死後ですが、それ以前、弘安の役前後から泰盛は平頼綱から実権を奪い政治の主導権を握っています。
もちろん時宗の積極的な賛同はあってこそですが、それ以前は平頼綱の政治に積極的な賛同を示しており、時宗をいかに抱き込むか、時宗が政治を主導するのではなく権威の象徴でしかなかったと考える所以です。
仮に時宗が生きていたとしても、頼綱ら反泰盛派の動きが大きくなる中では、弘安の役前の平→安達の時と同じく、泰盛を支持せず、頼綱に賛同して泰盛を遠ざけるといった動きをしたのではないでしょうか。
自分が主導権を握るのではなく、武力衝突に至らせない重石としての役割しかなかったと考えます。
ご丁寧なご説明ありがとうございます。また食い下がるようですみません(これで最後にします)。
弘安徳政にしても頼綱が動いた政策にしてもそれが時宗発案→下が具体化したのか、下の意見を時宗が採用したのか、実際ははっきり分けられるものでも無いと思いますが、現代の目で判断するのは容易ではないと思います。
そして、異なる部下の発案の中で、時宗が選んだ(=支持した)政策が実行される体制であったのならトップの役割としてむしろ真っ当なもので、御飾りとは逆に感じます。
おそらく、「そうではなくそこに主体的な時宗の意思は無かったんだ」と判断された根拠があるのだと思いますが、どちらかというと通説とは異なる解釈であると思いますので、もう少しそこを詳しく突っ込んで説明した動画を作成されてはいかがでしょうか?(例えば他の得宗家の意思決定プロセスとはここが異ってる、だとか)
元寇を神風で勝ったと解釈している時点でかなりおかしな動画だと思います。なんか残念です。
元寇については鎌倉武士の戦いぶり、南宋兵含めた元高麗軍の統率等様々な要因があり、おっしゃる通り神風(台風)の一言でまとめるのは乱暴だったなと反省しております。ご指摘ありがとうございます。
レキショクさんの時宗評価を批判してる多いですが、けして下げてる訳ではないと思います
時宗は時宗でおそらく苦しみがあったと思います
その苦しみは大河ドラマ北条時宗での和泉元彌さんが良く演じていたと思います
泰時家系は時氏以後、皆、若死にですが、どうしてなんでしょうか。女色に励みすぎ?飲みすぎ?遺伝子疾患?
わたしは最後のをうたがってるんですが...
時頼が義時や泰時ぐらいまで生きていたら、元寇に対処していたのは息子時宗ではなく、彼でしたからね…
執権の激務に〜ともいいますが、あまりにも血が近いのがやはり気になりますね。医学的根拠が示せないので憶測にはなりますが。
@@rekishock 清朝の康熙帝など激務でも80過ぎまで皇帝位にありましたから、ましてお飾りだったなら仕事のしすぎっていうのは、ありえないと思います。
結果論じゃないですか
時宗を過小評価し過ぎていませんか?元寇以外でもリーダーシップを発揮した場面は数多くあります。幕府衰退のきっかけは、子どもの貞時の堕落さが要因ですよ。もう少し俯瞰的な動画を作った方が良いと思います。
かといって元寇は外交無視した時宗のせいだしなぁ
朝貢外交すれば莫大な利益を得られたのに一次侵攻の後はもっと悪化して使者を斬ってしまうんだもの
ご指摘ごもっともで、自分も最初は時宗を高評価する目的で動画を作っていたのですが、調べれば調べるほど、北条政村、安達泰盛、平頼綱が主導的に政治を行っており、時宗が何をした?という結論になってしまいました。
時宗がリーダーシップを発揮していれば、政村の死の前後の10年の間、元寇で大変な時期に安達→平→安達と目まぐるしく政権交代し、そのたびに土地、朝廷政策がコロコロ入れ替わるということもなかったかなと考えています。
時宗は時宗で義時同様苦しみがあったと思いたいですね
言い過ぎです
時宗への悪意むき出しの動画?どうした?時代の流れや矛盾を無視して個人攻撃する大人気なさ?