長篠・設楽原の戦いをわかりやすく解説【織田信長&徳川家康VS武田勝頼/大岡弥四郎事件/鳥居強右衛門/鉄砲の真実/どうする家康】

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  • čas přidán 23. 05. 2023
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Komentáře • 14

  • @user-dg6dn8dg2c
    @user-dg6dn8dg2c Před rokem +20

    史実に中立な解説で、イデオロギーが入ってないので、大変好感でき、評価してます、ガンバってくださいね。

  • @user-by3wm2js8x
    @user-by3wm2js8x Před rokem +13

    動画投稿、首を長くして待ってました。
    わかりやすい言葉で解説していただけるので毎回楽しみです。長編なのもありがたいです。大変なご苦労があるとおもいますがこれからも頑張ってください。

  • @hiroshiyamashita
    @hiroshiyamashita Před rokem +8

    ありがとうございました。長篠の戦いは、これまでの伝説的な鉄砲三段撃ちなどと違い、複雑な説明が必要なのですね。解説のご苦労、大変だと思います。次回の勝頼動画を楽しみにしております。

  • @user-kj6cq2of3l
    @user-kj6cq2of3l Před rokem +2

    大変シンプルでわかりやすかったです。😊

  • @user-wq5gm1ek5w
    @user-wq5gm1ek5w Před rokem +3

    勉強になります。今後も期待してます。

  • @user-cz8ob4bo5x
    @user-cz8ob4bo5x Před rokem +3

    とても 詳しくの 説明して頂き有難う御座いました なぜ四男なのに
    大将になったか 分かり 勉強に なりました 有難う御座いました

  • @user-go3qw3vz7l
    @user-go3qw3vz7l Před rokem +4

    とても参考になりました。

  • @m.a.n.a.
    @m.a.n.a. Před rokem +4

    今回も分かりやすい解説動画ありがとうございます!今後アップされる動画が早くも楽しみです!

  • @user-hi5tl6vk5q
    @user-hi5tl6vk5q Před rokem +1

    鳥居強右衛門のくだりは…
    様々な小説で描かれ、
    戦国武将の鑑とされるような
    切なく勇壮な話しだよね、
    BGM次第では泣いちゃうな
    😭😭😭
    俺なら
    「来ない、来ない、
    来るもんかね〜ヤッホ~!、」
    だな😅

  • @starigano7558
    @starigano7558 Před rokem +2

    私の推測ですが、織田信長と徳川家康が長篠に出てきた時、武田方は、決戦をするか、退却をするか、家臣団で議論が行われたと思います。当然、決戦派と退却派で、激論となったと思います。そして、最後に勝頼が、決戦を決断したのだと思います。もし、家臣団が退却で意見が一致した場合、勝頼がそれを無視することはできないと思います。決戦で武田軍が有利であることを力説した家臣が複数名いたと思います。勝頼はその意見をもとに決断したと思います。実際、武田軍は勇敢に近い、かなり善戦したと思います。連合軍の鉄砲の数と、陣城の存在がなければ、武田軍が勝っていたかも知れません。でも、それらをすべて見通していた信長の思慮の深さが恐ろしいです。勝頼が愚かだと単純に責める気になれません。

    • @user-qc2lq4gu8q
      @user-qc2lq4gu8q Před rokem

      決戦派が多数を占めたから決戦したのでしょうね。
      でも決戦させろと息巻いておきながら生き残った者は後に織田・徳川に寝返った者が多く、勝頼のせいでと吹聴してそれが後世にまで伝わったと思うと勝頼が可哀想です。
      遠征費分の出費を取り返す為には戦の後での略奪が必要。 決戦させろと息巻いた者達の意見を尊重したのに最終的には手のひら返しされるなんてと思います。

  • @user-qc2lq4gu8q
    @user-qc2lq4gu8q Před rokem +2

    鳥居強右衛門の話ですが、強右衛門の忠義の心に心を打たれた勝頼は強右衛門を助命しようとしたが、強右衛門が助命を断ったとか、勝頼の叔父の武田信廉の家臣が勝頼の助命せよという命令が来る前に既に強右衛門を処刑していたとかいう話もあるらしいです。
    決戦についてですが、本当に重臣達が反対したなら、勝頼が強行なんてできないんじゃないか、むしろ山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら重臣達が積極的に決戦を主張したんじゃないかという話もあるようです。
    その理由は当主の意見を通しやすい環境だった織田家などとは違い、武田家の政治体制は豪族達の連合体。 そんな政治体制の中、正式な官位を持っていなかったとされる勝頼が決戦を強行なんてできそうにないでしょうし、武田家家臣達は名門意識が強かったらしいから、そんな彼らが氏素性が怪しい織田・徳川の城一つ落とせずにのこのこと撤退する事を主張するのかという疑問があるからです。
    岡崎城乗っ取り、吉田城攻めが失敗しての長篠城攻めで、何の戦果も無しに撤退したら、武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで戦わずに尻尾を巻いて逃げたと信長や家康が喧伝し、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速するだけの結果になったと思います。
    甲斐や信濃の国衆達も、信玄の時代からの重税や金山の枯渇などで困窮する中、わざわざ遠征したのに何の戦果も無しに撤退する事になったら恩賞も貰えないし、城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や討ち取った兵の刀や鎧兜を売り払って臨時収入を得る事ができない。
    わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか、戦っていれば勝って略奪できたのにと不満を持ち、何をしでかすか分からないと思います。
    仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。 仕切り直した時には今以上の兵力で織田は徳川の援軍に来るかもしれない。
    それどころか、織田が畿内を完全に平定したら、織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなると徳川も呼応するからもう打つ手が無くなる。
    伊勢長島の一向一揆が鎮圧され、連携できなくなったとはいえ、まだ織田が本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない今のうちに痛手を与えようと勝頼は判断したのかは分かりませんけど、決戦を選んだのは間違ってはいなかったと私は思います。

    • @user-tk5xc2fj4i
      @user-tk5xc2fj4i Před 8 měsíci

      家康は武田21将といわれている勇敢な家臣団を、信玄亡きあと先ずは崩す事に力を注いでいたようです。
      伊賀越えの際に家康と同行した穴山梅雪も元は武田信玄の勇敢な家臣の一人。
      長篠の戦いで武田勝頼が敗北した一番の要因は、信玄を支えて来た勇猛な家臣の離脱が原因のように思います。
      更に、様々な書籍によれば武田軍というのは、元来騎馬戦に強いので、それを重視し過ぎた点もあると思います。
      しかし、家康は武田家滅亡後、その残った家臣将兵をそっくり井伊直政に付属させ、この後井伊直政軍は武田の赤備えを受け継いだとされております。
      武田は古い騎馬戦という戦法を重んじたが為に、家康に負けたのでしようね。
      これも本から学んだ事なので、どこまでが本当なのかは、僕にもわかりませんが?

    • @user-qc2lq4gu8q
      @user-qc2lq4gu8q Před 8 měsíci

      @@user-tk5xc2fj4i
      信玄も勝頼も鉄砲を重視はしていたが、鉄砲を使う為の火薬や弾を作る為の鉛がなかったらしい事は聞いたことがあります。
      銅銭を溶かして弾を作ったりもしていたが、鉛で作った弾と違って飛距離が伸びなかったとか、鉄砲をすぐに痛めてしまったとか、火薬や鉛は織田は東南アジアからの輸入品を多く手に入れられる状況だったが、武田はそうではなかったとか聞いた事があります。