戦国武将・小早川隆景の人生
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- čas přidán 25. 07. 2024
- 今回の歴史の細道は、『戦国武将・小早川隆景の人生』について紹介していこうと思います。
~目次~
0:00 オープニング
1:20 毛利元就の三男・隆景が小早川の後継ぎとなった理由
3:40 小早川隆景として、15歳で初陣を飾る
6:21 大内氏の滅亡と毛利隆元の急死
8:34 信長と秀吉の時代を生き残る
12:05 まとめ
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脚本・監修:歴史の細道
#歴史の細道 - Zábava
沼田小早川は、ぬまたこばやかわではなく、ぬたこばやかわと読むのが正しいと思います🤔
黒田の隠居(官兵衛)は油断ならん、瀬戸内に黒田の拠点など許すな(黒田家譜)。龍造寺の家は鍋島で持っている、直茂は別格の人物だ(葉隠)。立花の戦力は他家の3倍はある(立花家記)
とあるように何故か北部九州の大名は小早川隆景に褒められた、もしくは警戒されたというのを家祖の有能さを補強する逸話として使っています。勿論、全部家譜(葉隠は家譜とは言い難いが)なので成立が江戸も中期になって編纂されたものだけに、本当に隆景が言ったかどうか疑わしいものばかりです。なんせほぼこの家譜群が初出の逸話だらけなんですよね。隆景自身の逸話も初出が陰徳太平記(吉川元春の子孫が1700年に起稿した)や名将言行録(完成が明治維新後)等怪しいものばかりです
ただ、この家譜群を見ると隆景死去後50年以上経っても、北部九州では小早川隆景に認められるのが一流の証拠という共通認識があったのでしょうね。それだけで隆景がいかに有能で理想的な武将だったか推し量れます
小早川隆景が居たおかげで、毛利家は存続できたと思います。
秀吉の中国大返し時の静観、秀吉から毛利輝元に養子を送られた時にも隆景が自身に実子が居ないということで小早川秀秋を自身の養子に迎えたことは、毛利家の直系を守った大きな功績だったと思います。
アル中が毛利の跡取りとか、想像しただけで涙が出てくるわ(・Д・)
@@user-tk4sp6qk9g m(._.)m
毛利は滅んだ方が後々の為には良かった。または関ヶ原の後には内陸部に国替していたら良かった。
隆景がいたおかげで徳川も豊臣に背けなかったのでしょうか
彼の没後に徳川が豊臣を裏切ったのは史実のはずですね
秀吉が養子を送り込む理由が分かります
小早川隆景を主人公にしたドラマを見てみたい。できれば大河で。
関連人物:毛利元就、毛利隆元、吉川元春、毛利輝元、村上武吉、大内義隆、陶晴賢、尼子晴久、山中鹿之助、宇喜多直家、織田信長、豊臣秀吉、黒田官兵衛、徳川家康、安国寺恵瓊。
吉川元春は吉川晃司でw
大好きな武将の1人ですが、戦国武将ですから義だけでなく裏もあったと思います
私の地元に毛利博物館があり、あの「三子教訓状」が所蔵されています。
たまに企画展で公開されますが、元就の心情を思いつつ長時間見入ってしまいます。
毛利を第一に考え行動した隆景こそが、最も元就の意図を理解していたのではないでしょうか。
秀秋を毛利の後継にしようとした官兵衛の策略を、小早川家を潰す覚悟で阻止した隆景。
そこでは刀も鉄砲も使わない謀将同士の戦いがあったのでしょう。
黒田官兵衛とともに好きな武将の1人。
豊臣家に組み込まれ、長命で関ヶ原迄存命であれば世もどうなっていたか…。
BGMも良いですね‥。
まさに毛利の屋台骨。毛利本家の為に生き毛利を第一に考えた生涯。
もし隆景がいなければ元就亡き後の毛利はどうなっていたことか…
「ぬまたこばやかわ」ではなく「ぬたこばやかわ」ですね。
広島県三原市では英雄です^^
沼田小早川家は現三原市の西半部になります
両小早川家は隆景のもとに統一されますし備中高松城で講和しなければ毛利氏が無くなっていた可能性も有ります
竹原市でも英優です。国道沿いに小早川神社も有ります
@@msuu1279 でも数年前に土砂でぶっ壊されてそのままという...
意外と勝利数が多い隆景
沼田(ぬまた)ではなく、(ぬた)です。
三子教訓状には矢なんて出てこない
李克用の逸話を流用した後世の創作である
天正10年以降の足跡がないのが残念。特に、四国征伐後の伊予国分割⇒隆景の所領となるあたりは、毛利の瀬戸内海戦略と秀吉の隆景を直臣大名に引き抜きたい思惑が絡んでいて、とても重要な時期なのですが、その解説がないとは…求む、パートⅡですな。
6分23のとこ大内を大友と読み間違えてますよ!
大河ドラマの毛利元就で隆景といえばいつも元春と喧嘩していた恵敏明のイメージがあります。
小早川家に養子に行かなければ歴史の上に残らなかったでしょう。
毛利家では外交を担当していました。
ナレーターさんの声、いいですね!
6:21 「おおうちし」ですね。 ザンネン・・・。
ナレーターさんのファンです!応援しています、がんばってください。
間違いは誰にでもあるし、良い声の方だからこれからも頑張って欲しいよね😊
戦国期において最も優秀な人物だと考えてます!
秀才肌のイメージがありマスがありますが事蹟を検証すると、少領主の三男として大内氏ヘの人質に始まり養子小早川家や実家毛利家の差配し豊臣政権の重鎮迄を務めた叩き上げでした!!
隆景公は実務を理解した政治家であり、算段(損得)も駆使する武人でした( ´∀`)
秀吉が備中から大返しした時
追撃しようとする毛利本体を思いとどまらせた人
秀吉は恩を感じて五大老に任命するが就任直前に死んでしまった😢
毛利勝永を取り上げて欲しいです!!
既出でしたら申し訳ないです!
毛利隆元は家臣からの人望も厚く政務・外交にも優れた武将で元就の跡継ぎとなるには申し分ない人だったとも言われてます。早く亡くなり活躍した時期が少ないため過小に評価されてるのかも
毛利のポリシーが本領安堵ではなく拡大だったら、更に活躍したであろう人だと思う。ただそれがあったからこそ関ケ原後は減封程度で済み、維新以降の長州閥の拡大に繋がるのだから 本当に歴史はどう転ぶかわからない。
ある意味豊臣政権の中心人物。秀長・隆景・利家が政権を支え、先ず秀長次いで隆景そして利家が死んだことで豊臣政権は瓦解して徳川政権が事実上生まれた。
本能寺の変後に毛利が中国方面軍(秀吉軍)を追撃しなかったのは隆景の主張だけでなく毛利軍が秀吉軍を追撃する余裕が無かった。
よみは 沼田 =
ぬたとなります
もし70代があれば家康の天下はどうなっていたか
大河ドラマの主役で見たいですね❕
大相撲の若隆景も大活躍です。
私、若隆景好きです。怪我をして幕下に落ちてしまいましたが、先場所から出場しているようです。再入幕してまた上位で活躍してほしいです❗️
若元春も活躍しています。
長男の若隆元、貴景勝といい戦国武将の名前をとった四股名出てきました。
あの官兵衛が
唯一敵わなかった男
毛利家にも
副将軍格がいるなら
隆景がぴったり
秀秋を利用して
毛利家を乗っ取りたかった
秀吉の野望を砕いた手腕
もっと高評価していい
前田利家と共に
この人が長生きしたら
関ヶ原は起きなかったかも
あるいはもう少し先に
なったかもしれない
隆景が官兵衛に高評価を下したから官兵衛の知名度が上がった。もし高評価を下さなかったら官兵衛の存在感は今より薄かったかもしれない。
うぽつでございます。いつも大変お世話になっております。
逆に、明智光秀公 謀反の折には 事の前に毛利氏の内証をもらっておけば、腹背からの挟撃で 天下の羽柴秀吉と言えどもえらいことになってしもたのかもしれませんなぁ~。(関東の北条家、越後の上杉家とかとも? 敵の敵は味方、的な)
そんな事…露見するリスク大きすぎてやれなかったと思いますよ( ̄▽ ̄;)
それやってたら信長は光秀の不穏な動き察知してたでしょうね。
クーデターってのは対象相手が有能なほど露見しやすく、根回しに時間や手間かけすぎるとそれだけ成功率は下がるでしょうね。
信長が京都に少人数で滞在してたのはそれだけ情報網が張り巡らせてあって隙がなかったことの裏付けで、唯一の隙を見つけた光秀にしてやられた…ってことでしょう…仮に光秀が根回ししてれば信長はその動きを察知してたと思いますよ。
無理だと思いますよ〜本能寺の変直前の毛利家はかなりキツい状況でした
背後にの大友家が織田と同盟関係なので毛利領国に侵攻する気配もありますし、領国の国衆らに出陣要請を出しても、兵を出さなかったりする程かなり危機的状況でした。瀬戸内海では来島水軍が裏切り、山陰では南條が吉川軍に抵抗していいます。
なので備中高松城に本家が援兵に来たのにも関わらず援軍は実数一万五千程度と言われてます。毛利家はボロボロで戦どころではない状態です。ちなみに羽柴軍は三万。また
明智軍が当時1番警戒してたのが柴田軍なので挟撃どころか柴田軍の方に軍を向けると思います
@@user-dg5kx3gd5p 様 九州からでありますか!? (;▽;)
@@ledfishing2895 様、『密なるをもって良しとなす、、、』
都知事殿がおききになられたら卒倒しそうな?( ´艸`)ムププ
@@user-xr3bl6mb1b ただ大友も耳川の戦いでかなりの疲弊してますが、織田信長が大友と島津の和議を斡旋してますからかなり現実味のある話だと思います
さおりぃぃぃ
ぬまたではなくぬたですね。地名から来ているのでなおさら沼田ではないです
隆景が亡くなった時黒田官兵衛が
天下の賢人が亡くなったって悲しんだんだっけ?
もし隆景と利家が生きてたら豊臣政権は長続きしたのかな?
隆景、利家だけじゃ無理。秀長も居ないと
しないだろうなぁ…家康の声望と実力に勝てる人間が秀吉しかいない以上
大内氏と言わず大友氏と言ってました
毛利隆元、吉川元春、小早川隆景
実はめちゃくちゃイメケンらしかった。実際、若い時の肖像画見てみると、絵でさえもイケメン過ぎて腰抜かした。
お相撲さんの若隆景もイケメンですしね!
織田信長より年上なのね。初めて知った。てっきり秀吉より年下かと。
ご先祖様が、小早川隆景の側近でした。
えと。取り敢えず。竹原小早川家との経緯は、説明どおりで、多分に大内義隆の強い意向で、毛利は三男を差し出すしか無かったと言います。沼田小早川も尼子と大内義隆の狭間で、これまた毛利元就は譲歩したですね。この沼田小早川家は、隆景擁立派と、反対する勢力で、お家が割れ、反対派の粛清があったと言う説もあります。元服は、いつ何歳でが解らないのですが、合戦で功を立て、感状を貰っているのですが、これには既に、隆景の名は確認されます。名を見れば、隆の1字は値諱ですね。
この時代で、大内義隆と衆道の関係があったと、あるいは大内義隆がおしりを狙っていたとか噂程度の説話が残り、謀神は内政に関して「景に及ばす」と、概嘆だか親の欲目と読めばよいのか解らない言葉を書き残しています。美貌だったとされます。
三本の矢に関しては、隆景は、「欲があるから不和が起きる。欲を捨てれば不和は起きない」と答えたとする説もあります。
高松城の逸話は、追撃を主張する吉川元春他追撃を言い立てる諸将に対し、
「血判状の血も乾かぬうちに」と。
小牧長久手の戦いあたりで小早川は秀吉を支持しています。
そして秀吉の手で天下布武になり、改めて毛利輝元と小早川隆景は、秀吉政権の重鎮として扱われるのですが。ちょっと秀吉政権発足したばかりの頃ですと、小早川隆景は、毛利家の重鎮でしたが、独立した大名では無かったと思います。それは秀吉としてはちょっと都合が悪くもあり、また毛利との離間を考えたか、いきなり伊予国を与えようとして、これも隆景は辞退です。結局毛利輝元に与え、毛利家から隆景に与えられました。伊予国の統治がどうだったかは、ルイズ・フロイスが書き綴っていますので割愛。そして、筑前国をも与えられ、世人に「筑前宰相」と呼ばれました。
朝鮮出兵では、高麗鶴光忠を所持しての参戦とはされ、後この剣には金銘が入れられたとされます。この剣は現存とされ、名物と数えられた一振りですが、個人蔵のため、墨拓さえ見たことがありません。この剣でググったら、なんかアニメ絵の女の子イラストが大量に出て、困惑しました。なお、文禄の役では、かなりな武功を挙げてます。
後世五大老のひとりと数える趣も多いです。御掟、その追加には、徳川家康や前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家と共に、署名したかと思うです。これで六人。御掟では、大名同士の縁組みを禁じていて、秀吉の死後、家康は伊達家と縁組みをし、内府心得違いの状では、叩かれました。
どう考えても過労死を疑うしか無い最後を迎え、小早川家は小早川秀秋が継承しました。
生前の官位は、従三位中納言豊臣隆景で、明治時代に一位追贈。正三位が現状となります。徹底的に、内政特化と言える武将だったと考えます。
三村元親にしたことは忘れないよ
隆景は秀秋の器量を見抜いていたんだろうか?ヾ(;゚;Д;゚;)ノ゙ヾ(;゚;Д;゚;)ノ゙
跡継ぎを産めなかったのが悲劇。
養子だけど秀包がいたんだよなぁ…
跡取りだった毛利秀包は当主秀秋より前に死去したため、秀秋没後小早川家は絶家。と言うより
隆景の親戚筋が「裏切り者」の名前を良しとしなかったんだろう。
馬鹿養子を貰った時点で小早川家の命運は尽きた