「一人の道」ピンク・ピクルス(円谷幸吉)

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  • čas přidán 25. 07. 2021
  • 1972年1月10日発売。
    作詞 : 今江真三郎
    作曲 : 茶木みやこ
    円谷幸吉の遺書を参考に作った曲である。当初は「あなたの手紙」のB面曲として発表されたが、その後、A面/B面を入れ替えた形に変更された。
    オリジナル盤では、曲の冒頭に1964年東京オリンピックのマラソンの実況録音(円谷が2位で国立競技場に入り、イギリスのベイジル・ヒートリーと2位争いを演じた場面)が収録されているが、後にCDとなって再発売されたアルバム『FOLK FLAVOR』においては、実況録音の部分の著作権の問題により、本曲のみオリジナルとは別テイクのものに差し替えられている。
    ピンク・ピクルスは、一年間限定での活動だったが、本曲が反響を呼んだのは1972年の解散後だった。
    〈円谷幸吉〉
    1964年10月の東京オリンピック。
    陸上最終日、10月21日のマラソンで円谷は歴史に名を刻んだ。世界の強豪に伍しての銅メダルは、日本マラソン史上初めてのメダルであり、また、この大会での日本陸上陣唯一のメダルでもあった。日本国中からかつてない喝采が寄せられたのは、この若者が勝利のため、国のために自らの力の限りを出し尽くしたのを誰もが見てとったからだ。
    しかし――。国を挙げての喝采の裏側には等量の重圧があった。ヒーローとなった円谷にはすぐさま、次のメキシコオリンピックでは金メダルを取ってほしいという期待がかけられるようになった。それが取り返しのつかない悲劇を呼んだのは、メキシコ大会を翌年に控えた1967年のことである。
    東京大会の後、円谷にはさまざまな心労が襲いかかった。腰痛で調子を崩し、思うように走れない毎日。レースでも結果を出せない。畠野コーチの転任により、信頼する指導者とも離れ離れになった。私生活では、進んでいた結婚話が破談になってしまった。結婚の件もコーチの件も、体育学校の新たな上層部が干渉したためと指摘されている。追いつめられた円谷は、自分の四方すべてが閉ざされたように感じたに違いない。
    多くの期待にこたえられなくなり、私生活でも希望を失った彼は行き場を失い、自死を選んだ。体育学校宿舎の自室で、かみそりで頸動脈を切って亡くなっているのが発見されたのは1967年1月9日である。27歳の若さだ。両親や兄弟、親戚にあてた遺書には、それぞれへの感謝の言葉だけが連ねられていた。「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉に絶望の深さがにじんでいる。
    日本のスポーツ史の中で最も悲しい出来事。それもまた、時代の空気を映し出すものだったかもしれない。
    円谷とデッドヒートを繰り広げたヒートリーは、円谷の遺族と親交を結ぶようになり、2020年の東京オリンピックを楽しみにしていたという。しかし、残念ながら2019年夏、それを待たずに亡くなった。うつくしい日本人として今なお記憶に残る円谷幸吉。自殺していなければまだ81歳、二度目の東京オリンピックを前に引っ張りだこになっていたはずだ。もしそうであったら、今の日本人、そして開催中の東京オリンピックについてどんな言葉を残していたことだろう。
    #一人の道
    #ピンクピクルス
    #円谷幸吉

Komentáře • 35

  • @motokawa_ken
    @motokawa_ken Před rokem +26

    涙😢😢で、画面が見れない。婚約破談、アキレス腱切断、腰痛ヘルニア、思うように記録も出せない。マスコミからのプレッシャーも苦しかったのでしょう。自衛官は責任感があるね。真面目過ぎた一面もある。親より先に死んで、自殺はいけない。冥福をお祈り申し上げます。

  • @chipo944
    @chipo944 Před 5 měsíci +8

    60年前の日本人はこの偉業を競技場内で抜かれたことを責めて自殺に追いやった
    私はあの3位でゴールしたことを感動の思い出として今も目に焼き付いている
    メキシコオリンピックを控え走れない自分を責めってしまった
    円谷さん
    今でもあの勇姿を忘れられません
    今でも贔屓の引き倒し
    敗戦の時に責める人の気持ちが分かりません

  • @user-dt2ql1dq4p
    @user-dt2ql1dq4p Před 2 měsíci +7

    円谷さん、お久しぶりです。
    新幹線に乗って国立競技場、あなた戦いを拝見してから早60年です。
    あの時のあなたの雄姿は私の命ある限り、頭から離れることはありません。

  • @user-uv5yl4hs9p
    @user-uv5yl4hs9p Před 8 měsíci +17

    円谷幸吉さんあなたは英雄です。国民一人一人の心を掴んで、歴史に残る伝説の人、ありがとうございます。

  • @user-yb9ki3ox1f
    @user-yb9ki3ox1f Před 2 lety +31

    1964東京オリンピック。当時、幼稚園でしたがなぜか、女子バレーボール優勝の瞬間だけ鮮明に覚えています。
    この曲が出てから知ったことですが、東京でメダルを獲ったから今度はメキシコで金を!という過度のプレッシャーと円谷選手自身のケガで思うように体が動かないジレンマに耐えられずに・・・。
    メダルは国のために目指すものじゃありません、選手自身の糧。そう、頑張った証しです。

  • @user-xx6we1gh3b
    @user-xx6we1gh3b Před rokem +34

    何回聞いても、なみだがでます。円谷選手が最後まで思い詰めていたこと責任感の強い人 やっぱり辛いです!!!

  • @RAIJIN1956
    @RAIJIN1956 Před 2 lety +22

    亡くなったことを知ったときすごくショックでした。遺書がとても素朴で大泣きしました。あの川端康成氏が絶賛したと聞きました。

  • @atsushiokuda8029
    @atsushiokuda8029 Před 4 měsíci +6

    この歌を作曲し、歌っているピンク・ピクルスの茶木みやこさんは今でも各地のライブハウスでライブ活動をしています。

  • @nako4529
    @nako4529 Před 2 lety +36

    この歌を聴いてて、「日本のためのメダルじゃない、走る力の糧なんだ」というこの歌詞が今重く感じます。裏でいろんなことがある昨今のオリンピック、この歌を聴いてもう一度原点に返って欲しいなと思います。

  • @user-kr4vv6zj7o
    @user-kr4vv6zj7o Před rokem +17

    この曲、最近まで知らなかったです。勿論、昭和39年の東京オリンピック、最終日陸上男子マラソン、国立競技場に円谷選手とヒートリ-選手がわずかな差で入ってきたこと、当時の実況も昨日のことのように記憶しています。その後の円谷選手の運命も、スポーツはひとに感動をあたえますが、ときには残酷さもあたえます。
    円谷選手に合掌🙇

  • @user-pt5cd8lm2v
    @user-pt5cd8lm2v Před 2 lety +17

    何故か、この唄を聴きたくなりました。私は、円谷選手の事は全く知りません。姉から、聞きました。
    私が高校受験の時期になると、何故か❓ラジオから✨1人の路✨の曲が流れておりました。それを聴きながら勉強しておりました。
    ・自殺・と言う残念な結果に成ってしまいましたが…………。
    今の時代のオリンピック選手の方達は「楽しく🎵泳げました!」とか、「楽しかった!」とか、楽しさを全面に

  • @user-lu1lp8yf9r
    @user-lu1lp8yf9r Před 2 lety +35

    いつもこの歌を聴く度に涙が止まらないです。ほんまに頑張って走ったのに!ありがとう円谷幸吉さん❤️❤️

    • @user-xx6we1gh3b
      @user-xx6we1gh3b Před rokem +7

      本当にありがとう!何回聞いても涙が出ますね!

  • @user-mv1bo7mu6z
    @user-mv1bo7mu6z Před 2 lety +15

    円谷幸吉選手について概要欄の記載に感謝いたします。僕はもう走れません。重い言葉、悲しい言葉ですね。
    もうすっかり商業化した利権だらけの五輪はなくすべきです。

  • @user-xx6we1gh3b
    @user-xx6we1gh3b Před rokem +13

    円谷選手、忘れません。私も一人の道を走って歌ってますよ!!!この歌で乗り越えたんですよ~

  • @user-wi4cx4wo5y
    @user-wi4cx4wo5y Před 4 měsíci +5

    この歌は1983年の結婚した時に初めて聞きました。夫は彼のオリンピックでのことやピンクピクルスさんのことも熱く今も、語っています。

  • @user-mn4tw7vf6v
    @user-mn4tw7vf6v Před 2 měsíci +2

    名取から須賀川に行くようになる時円谷さんの所にまた来た、とメモリアルホールが出来る前に生家を訪れた記憶を思い出します。ユニフォームも遺書も展示されていて忘れ得ません。

  • @user-xi5yi3qr9n
    @user-xi5yi3qr9n Před 3 měsíci +2

    久し振りに思い出した歌です
    たぶん小学校の時に口ずさんだ歌ですが
    誰に聞いたか思い出せませんが
    よぼと身体の故障が辛かったのでしょう

  • @user-hz6nh8ng9k
    @user-hz6nh8ng9k Před 2 lety +21

    個人競技をやってきた人には 心の心臓部に突き刺すような歌ですね!なぜか涙が滲んできます

  • @kazukok34
    @kazukok34 Před 3 lety +23

    なんて 悲しいメロディ 何で オリンピックが こんなに過酷😔

  • @kazukok34
    @kazukok34 Před rokem +7

    オリンピック世界平和の為勝っても負けても平和の為でも選手の立場には勝つ事しか望まれていない。現実を受け止めるには あまりに過酷なのだろう。辛かったですね。お疲れ様でした。安らかな眠りである事を信じて🌸。・゜゜。・゜゜🌸

  • @user-xi5yi3qr9n
    @user-xi5yi3qr9n Před 3 měsíci +2

    姉に聞いた所 姉が歌ってたそうです
    心に響く 残る歌は 何年たっても
    つい口ずさむものなんですね

  • @user-ws1mz6ec6o
    @user-ws1mz6ec6o Před 2 měsíci +2

    当時小学生で、リアルタイムで見てました。ラスト、競技場に2位で入って来たのに、大観衆の眼の前でヒートリーに抜かれて3位に。その後も期待が大きすぎてプレッシャーに押し潰されたのだろうか、気の毒でならない。

  • @user-ko5di7wx8y
    @user-ko5di7wx8y Před 3 měsíci +2

    確か、近藤正臣さんと島田陽子さんのドラマの記憶がありますいいドラマでした。懐かしいです

  • @user-zh9tz1ro4d
    @user-zh9tz1ro4d Před 9 měsíci +3

    1964東京オリンピック 小学校から帰ると家族全員が白黒テレビで見てました。裸足のアベベが断トツの一位 円谷は最後に抜かれて3位でした。この死闘を忘れることはありません。

  • @user-md2cq3ez1p
    @user-md2cq3ez1p Před 2 lety +8

    1964年の東京オリンピックですが、当時私は3歳になったばっかりの頃。円谷さんのことなど全く記憶がありません。後にピンクピクルスのこの歌で彼のお話を知った次第です。ピンクピクルスは、僕にさわらせておくれという歌で、初めて聞きました。茶木みやこさんお元気でしょうか?

  • @hnrfb570
    @hnrfb570 Před 9 měsíci +2

    高校受験の時に深夜ラジオ番組を聞きながら勉強していた時に流れてきた曲です。聞いていて涙が出てきたのを覚えています。関西、大阪のラジオ番組で浜村淳さんが担当していた記憶があります。

  • @user-pt5cd8lm2v
    @user-pt5cd8lm2v Před 2 lety +21

    続きです………。
    出しております。
    でも、円谷選手は本当に自分自身
    追い詰めてしまった😢
    時代が違っていたら、無くさなくても良い✨命✨だったかも知れません…そう思うと泣けて来ます。
    円谷選手……貴方は頑張りました。偉かった!です。
    悲しいけど、綺麗な曲です。

  • @user-fx8qb7xh6k
    @user-fx8qb7xh6k Před 9 měsíci +2

    久しぶりにピンクピクルスの一人の道を聞きました。何度聞いても涙なしでは聴けません。この歌が好きで、レコードを買ったので円谷幸吉の自殺した為にできた歌だと知って余計に忘れられないです。ピンクピクルスの他の歌も聴いてみたい!

  • @user-pm2ew2bq1x
    @user-pm2ew2bq1x Před 2 lety +8

    お母さんに、捧げる、オリンピックのメダル。

  • @user-le8qq5sp2r
    @user-le8qq5sp2r Před 2 lety +16

    私は当時中大法学部2部に在籍し、教室の移動の時、円谷選手と
    すれちっがったことがあります。自殺を知った時、「なぜ自殺したのだろう」と
    ショックを受けました。

  • @user-oj2zl3be3t
    @user-oj2zl3be3t Před rokem +5

    涙なしには聴けない歌。何故死を選んでしまったのか? 本当に「金メダル」でなければならなかったのか?そんな筈はない。二度とこんな犠牲を出してはならない。

  • @gbcjpn
    @gbcjpn Před rokem +8

    虚飾のオリンピックに踊らされる悲しい日本の犠牲者。

  • @user-xc9mz9iq9z
    @user-xc9mz9iq9z Před rokem +2

    作詞は同志社高校ラグビーOBの今江さんです。自身の体験談かな

  • @Port712
    @Port712 Před 9 měsíci +4

    自死に至った経緯をみると、五輪金メダルへのプレッシャー以上に
    様々なタイミングの悪さ、歯車が徐々に狂っていったことへの折り合いのつかなさが原因だったと思う。
    これを単に、「プレッシャーに潰された」とするのは安易じゃないか。
    そんなものではないだろう。