【まどマギ】実は美樹さやかは叛逆で…「フォルテッシモ」の伏線とさやかの活躍まとめ
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- čas přidán 13. 09. 2024
- さやかまとめです
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アカウント名「KIGGURUI」
◆引用した作品
【魔法少女まどか☆マギカシリーズ】©Magica Quartet/Aniplex・MadokaPartnaers・MBS
【フリーBGM音源 MusMus様】musmus.main.jp/
【ルミナス 歌詞 歌ネット】www.uta-net.co...
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使用させていただいたゆっくり
ジェルニラ式霊夢 ジェル二ラ式魔理沙
#まどマギ #まどかマギカ #ゆっくり解説 #アニメ
魔法少女と魔女という『迷宮』を長い間歩み続けた末にようやくその向こう側に到達した感じで「立派になったね」の一言に尽きる!
なんか良くて泣けてきた
「受け入れる」の例え(諦めとの違い)
前にアニメがやっていた終末のワルキューレのジャック・ザ・リッパー回で「あんなやつでも同じ人間なんだよ」的なセリフがあり、なるほどなぁと思いました。
かの有名なロンドンの猟奇殺人犯であっても我々と同じ人間であるという当たり前のことですが、どこかであいつには人の心が無いや、あんなやつが人間であるはずがない(少し行き過ぎた例えですが)、リッパーと我々は絶対的に同じではないというバイアス的な壁があり、これによって本当は同じ人間なのに「受け入れる」が生理的に無理になってしまうのでしょう。
これが「受け入れる」です。
一見同じ「諦め」と「受け入れる」ですが、「受け入れる」は「諦めの後、又は前にくる順番関係にあります。
しかし、さやかの場合は違います。
さやかの場合は「諦める」ではなく「満足」になります。ここがさやかの素晴らしいかっこいい可愛い流石僕の推しなだけあり主さんが仰る主人公気質というやつです。さやかは「満足」→「受け入れる」の順です。
ですが「満足」と「諦め」は正直捉え方の違いにしか過ぎません。コップのジュースが「まだ」これだけあるor「もう」これしかないかの違いです。ここでさやかはコップのジュースの量の捉え方としてではなくコップのジュースそのものを受け入れます「コップさん、あなたのジュースの量はこの量なのね。」ジュースの量など関係ありません。「受け入れる」とはそれに対して理解を示す事です。
だから叛逆のさやかはほむらに対して魔女化の理解(仲間としての受け入れ)があるのです。
最後にさやかの母性ですが、美しいですね。マミさんの母性を引き継いでる感じですね
自分という重荷に苛まれ続けた本編中終盤さやか
それを乗り越えた本編ラストさやか
本編を受け入れて笑えるようになった本編・叛逆の幕間さやか
永劫回帰する円環に付き添って少女を導く叛逆さやか
これってニーチェの超人ですね
駱駝、獅子、赤子を経て全肯定の超人になっている
さやかって水属性な感じありますからまさしく「水先案内人」
まどかが神に、ほむらが悪魔に、そしてさやかが超人に
美滝原のひらがな3文字組は、三者三様のやり方で本編=人としての生を超えてるんだな
ほかの解説者さんが踏み込んでいな。美樹さやかさんのいい所。そして思考的にも文学的にも高いものを見せていただいた気がします。
私の思考の血肉になって、大事な知識と致します。ありがとう。
まどかママは主夫の旦那を養えているから大人としての強度が並外れている。
人間科学の講義受けてる気になった
もう一度演奏が聞きたかっただけ は諦めか受け入れか
新作ありがとうございます
さやかちゃんのスタンスを理解すればするほで、ほむらちゃんが対極に浮き上がってきますね~
まさに「白い愛」と「黒い愛」
反逆の最後、最愛の2人と再会できたシーンは初見時不穏なものを感じましたが、大丈夫な気がします
………大丈夫ですよね?
うぽつです〜
最も大人になれなかった少女が最も大人になってしまうのも、もがき苦しんだ者の特権感があってさらに主人公みが深まりますね…
もうひとつあるようなので楽しみにしてます!
とても興味深く、思考を深めることのできる動画でした。この動画を見れてよかったです!
他の方も仰られていますが叛逆ほむらと大人さやかは対比的なキャラクターだとこの動画を見て感じました。納得のいかない現実に対して「こんなものが私の人生であってたまるか」と現実を否定し理想を維持するために戦っている叛逆ほむらと、「これが私の人生だ」と受け止めて納得し昇華している大人さやか、といった具合に。
その辺りを踏まえると、この2人は「愛」という言葉の定義が恐らくは正反対なのだろうと思います。大人さやかの「愛」は他者を前提しているもので、叛逆ほむらの「愛」は他者の存在を認めないものなのではないか、と(ほむらファンの方にこれを言うのは実のところ憚られるのですが……)。
大人さやかの「愛」は、動画内で仰られているように「他者は他者で、自分じゃない。思い通りになんかならない。でもそれでいい。そんなことは関係ない。ただ私はその人が好きで、だから大事にしたい」というような『尊重の態度』の事を指すのではないかとだと思われます。ですので『自他の境界を守り、その上で他者を尊重する行動を実行すること』が大人さやかにとっての「愛」という言葉の定義なのではないかと考えます。見事です。
対して叛逆ほむらの言う「愛」というのは「他者には自分の望み通りに動いてほしい」というものに見えます。自分の思い通りに動く「他者」。それはもう他者ではなく自分なのでは?と思いますが、自己完結の魔女の究極形態としてはひどく妥当ではあります。叛逆世界には叛逆ほむらの意思"しか"ない。そこに他者は存在を許されていないと思うのです。自分の思い通りにならない世界/人間はいらない、という態度はまさしく「自己完結」の「お人形遊び」。そのお人形遊びをする動機が「愛」であると本人が言う以上、叛逆ほむらにおける「愛」という言葉の定義は『自分の思い通りに動くまどか・さやか・マミ・杏子を、本人の意思を無視してでも手に入れ続けること』なのかなとも思います。
こう捉えてみると確かに叛逆ほむらと大人さやかは見事に対比を成しているなとしみじみ感じます。そしてそんな「大人」と対比される叛逆ほむらは「大人」ではないとも。と言うのもまどマギにおける大人代表・鹿目詢子の「詢」という漢字の意味が「とう、はかる、相談する」であり、詢子が名前の通り(叛逆ほむらとは真逆の)「他人の意見に耳を傾けられる人」であるので。
そんな叛逆ほむらは自らを「悪魔」と名乗り、疲れ果てたような表情を見せますが、大人さやかとの対比によって見えてきた叛逆ほむらの「愛」がどういうものであるのかを考えると、そのどちらも筋の通った描写に思えてきます。
叛逆ほむらは理想を叶えるためなら大事な人たちを苦しめたりその願いを踏み躙りもしているので、確かにそこは「悪魔」っぽく思えます。まどかの人格を手に入れる時まどかの制止を無視し悲鳴を上げさせるような苦痛を与えていますし、その先でまどかはさやか・仁美・恭介たちとの大事な幼馴染関係を奪われています(ちなみに人格形成に大きな影響を与える交友関係が丸ごと違うので、厳密に言えば叛逆世界のまどかは1週目のまどかでもないと考えています)。そして挫折を経て大人に成長したさやかからも「成長」を奪う。割とひどい。確かに悪魔です。
そして叛逆ほむらが悪魔っぽい行動をとる理由は「手に入れたい人たちを手に入れたいから」、それがほむらが定義する「愛」だから。ただそれは愛は愛でも「渇愛」の方ではなかろうか?と思わなくもないです。執着を背景に持つ愛、というか執着そのものと化した愛、『単なる己の欲望充足のための愛』、人生の苦しさの根源。仏陀が「渇愛から離れられないから人は苦しむ、渇愛から離れれば苦は滅する」と言っていることを考えると、渇愛を強固に抱いている叛逆ほむらが倦み疲れた表情をするのはむしろ自然に思われます。仏陀に言われちゃ仕方がない。
これらの理由から叛逆ほむらは「やつれた悪魔」として描かれたのだろうと思っています。
このように深く読み込めるまどマギという作品に触れることはやはり楽しく、またここまで考えることができるのは今までアップロードして下さったたくさんの動画のお陰です。月並みですが動画を本当にいつも楽しみにしています。素敵な動画をありがとうございます!
参考サイト
愛 | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学(www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000q21.html)
「詢」という漢字の読み方・名のり・意味・由来について調べる - 赤ちゃん命名辞典(babynames.jp/dictionary/kanji/627.php)
すげぇ…
ほむらはこれまでの人生を受容できず、自分を否定してまどかさえ否定した。ということになるか。
あきらめも大事なんだとしった。
諦めでは悲しいので受け入れ(受容)と満足ですね!大らかな心でそれをそれとありのまま受け入れる事が大切ですね
@@スズネツォフ
そう言えば「諦める」と「受け入れる」なんてシチュエーションにもよるけどまあほぼほぼ同じ意味なのに、この二つの言葉の使い分けに拘りたがる自分がいる事に気付いた。
もしかしたらこれも酸っぱい葡萄の話と同じで「これは受け入れても大丈夫なもの」と「あれは諦めないと苦しいもの」って線引きで自分を納得させたいからなのかな…とか思ってみたり
これはさやかあちゃん。
仏教用語の「諦(たい)」も良い意味で使われると聞きますね。
単に「諦める」だと、悔いや恨み、愚痴が残る。
物事の道理が明らかになった上でのことなら、納得しての「諦め」となる。
だから仏教では、後者の方が良いとしているのだとか。
理想化に近い言葉は、善悪二元論とか、勧善懲悪かな?
それしか知らない時期はありましたが、完璧主義な性格が理想化に向いたことが無かったもんで⋯⋯( ̄▽ ̄;)
ちょっと、馴染みがなくて⋯⋯( ̄▽ ̄;)
長文のため、分割します
そう言えば、1個違いの妹は、放映当時、叛逆のさやかが苦手だと言ってました。
これはまあ、彼女自身がほむら推しで、ほむらの願いを尊重している為なんですけど。
何でも、さやかはまどかが女神のままでいいんだ。
親友だったのに。さやかの中では、その程度の友情だったのかな? と。
なので、私は依存性の気もある妹を諭すように、こう反論。
いくら親友といえど、さやかとまどかは別人で、赤の他人でしょ。
いちいち他人が幸せになるまで面倒見てたら、さやかの身が持たねーじゃん。
仮に出来たとしても、その手伝いをする程度だよ。
だって、親友だもん。幸せにはなって欲しいと、さやかは思うはず。
と。そしたら、「お前ってそういうとこ冷たいよな」と言われましたね(笑)