命か結果かを求められ続けた豊臣秀吉+謎多き宮本武蔵+戦国時代やその後の酒はどんな味? (【YouTube限定】「第10回 偉人・こぼれ噺 」BS11偉人・素顔の履歴書 加来先生のアフタートーク)
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- čas přidán 24. 07. 2024
- ■目次
0:00 オープニング
0:28 「宮本武蔵 編」見どころ (3/19(土)夜8時 BS11で放送)
2:40 「豊臣秀吉 編」こぼれ噺
11:36 教えて!加来先生「戦国時代やその後の酒の味に興味があります」
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BS11で好評放送中の歴史番組「偉人・素顔の履歴書」
番組収録後に、まだまだ番組内でご紹介できなかったエピソードなどを番組人事部長で歴史家の加来耕三先生にたっぷりと語っていただく「偉人・素顔の履歴書」のアフタートーク10回目です。
今回は
2022年3月19日(土)夜8時放送、「宮本武蔵」編の見どころと、
2022年1月に放送した「豊臣秀吉」編から、こぼれ噺をご紹介。
寄る辺がなく、生き残る為に必死だった豊臣秀吉はどうやって天下人まで上り詰めたのか。優秀な家臣が集まった理由、そして秀吉がなれなかった三国志の英雄とは。
秀吉が評価した部下、そして秀吉のライバルもご紹介します。
加来先生が視聴者の質問に答える「教えて!加来先生」のコーナーもたっぷりとお届けします。
■出演
MC:中西悠理(フリーアナウンサー)
解説:加来耕三(歴史家・作家)
「偉人・素顔の履歴書」人気動画をチェック!
• 「偉人・素顔の履歴書」
■番組情報
全国無料放送BS11「偉人・素顔の履歴書」
📺毎週土曜日 よる8時00分~8時55分放送
【番組公式HP】www.bs11.jp/entertainment/iji...
【BS11 イレブン じゅういっちゃんツイッター】 jyuittyan_bs11?la
<番組詳細>
戦国武将や幕末志士など、日本史にその名を刻む英雄・偉人たちの【偉大な功績】 と 【意外な素顔】 を、現代風に1枚の"履歴書"にまとめ上げます。
#豊臣秀吉 #宮本武蔵 #江戸時代までの酒 #徳川家康 #歴史 #日本史 #偉人 #英雄 #加来耕三 #中西悠理 #アフタートーク #こぼれ噺 #BS11 #天下人 #太閤さん #太閤 - Zábava
加来先生、いらっしゃらないとなんか穴が開いたような感じです。
お戻り頂きたいです。
このシリーズ面白すぎて見るの止まらん。
この女性アナウンサーの声が良いです。
そして綺麗です
加来先生は〜
物知り〜ですね〜
また〜女性👩
アナウンサー
の声質が〜
凄くわ耳に
爽やかな気分に
させてくれますね〜☺
加来先生の秀吉論、大変おもしろいですね。「君、取って代われ」には、ビックリしました。勉強になりました。ありがとう。
加来先生は
何でも〜知ってますね〜☺
中西悠理香さんと加来先生。私はテレビを見ないので、ここのこぼれ話が主です。お二人も、抜群の相性で、貴重な番組です。
醤油の話しで現代に生まれた幸せを実感しています。 ☺️🍚
私利私欲を捨て親友大谷吉継と共にただひたすら豊臣家大事を貫く忠臣石田三成公。素敵ですね
豊臣恩顧の大名の中では、なんだかんだと時代の流れに逆らい続けた蜂須賀家政さんが、ウチはなかなかの人物だったと思う~
まず、名前が『家政』ですから、天下人が徳川家康さんに代わった時点で徳川氏に縁も所縁もない蜂須賀氏でその後の系図にもずっと『家』の字を冠し続ける肝っ魂が凄いと思う~
きっと家康さんの腰巾着と化した黒田長政さんや藤堂高虎さんであれば、将軍家に媚び諂って勝手に忖度し変名していたに違いないと思う~
そんな時代に家政さんは、秀頼さんから拝領したとされる豊太閤像を、社殿を築いてずっと大切に祀り続けたそうで~
その豊国神社は幕府の圧力で潰されそうになったものの、社殿を縮小し日吉大明神などと名を変えながらずっと存続し、明治維新後の江戸幕府の閉幕をもって再び名を取り戻し豊国神社として見事に復帰を果たせたそうです~
阿波の古狸の面目躍如というところでしょうか~
ザ今夜はヒストリーの時の先生や!
好きやったぜ!
アナウンサー綺麗です❤
宮本武蔵とは、結局謎のベールに包まれた大山倍達や、プロレスで干されたゴッチの様な存在では?と思っていました。
大人の知りたい歴史ってまさにこういうことなんだよね。
なぜかって?いうと疑い始めるから。
本当にいたの?とか武蔵であれば無敗だったの?とか、そこに加来先生のような様々な時代に精通する人が教えてくれるとスゴく歴史に興味が湧く!
賀来先生、復活希望
歴史は:
個人的主観を持って理解する事は大変危険行為!
👍同意見です👍
秀吉と家康のイフ物語は面白いですけど吾妻鑑をよく読んでいた家康はやっぱり最後は豊臣家を滅ぼしたと思います。
家康さんが豊臣家を滅ぼしたのは、秀頼さんが生き残る為の外交を疎かにしたせいですよね~
大坂の陣の間も秀頼さんの下に千姫さんがいるワケですし~
きっと外交下手はお爺さんの浅井長政さん譲りだったんでしょうね~
少しは実父の秀吉さんに似て欲しかったです~
@@user-jm2ze4ub9s豊臣一家が滅びたのも、李舜臣が文禄·慶長の役と丁酉再乱を勝利に導いた原因もあります
分かる、劉備と秀吉はチンピラ出身ということでとても似通ってると前から思っていた。
「五輪之書」は宮本武蔵の著書と言われていますが、あまりに有名な「巌流島の決闘」に関する内容が少しも触れられていないのは謎ですよねぇ。
秀吉は、劉備玄徳というより劉邦に似ていますよね
もし、淀君が呂太后みたいなバリバリの女性リーダー気質だったら~
豊臣家臣団は分裂せずに徳川家康さんなんかが天下をとるのは不可能だっただろうね~
戦争の才ある劉邦ですね
子供が欲しくても出来ない夫婦の人達は沢山います。
きっとそういう人達は秀吉の気持ちが良く理解出来るのかも知れません。
もう自分には子供が出来ないと諦めていた時にやっと授かった子供への愛情
また、秀頼の前に生まれた子が早世してしまった事も秀吉にとっては心の深い傷となったでしょう。
秀吉は母親が死んだと聞いた時、卒倒したと言います。
その例を取るだけでも秀吉が情に厚い人だった事が分かります。
その情が拗れたせいで秀次が犠牲になりました。
秀頼が生まれなければ秀次もあんな悲惨な最後を迎える事にはならなかったでしょう。
また、その頃の秀吉には周りに「イエスマン」と官僚的な人物しか居なかった事
秀吉自身も一気に老け込んでしまった事で判断力にも陰りが見えます。
確かに秀吉が劉備の様に潔の良い遺言を残せれば良かったのですが
劉備自身は秀吉と比べて軍才は無かったし、ブレーンに恵まれた
秀吉にも黒田官兵衛や竹中半兵衛は居たが秀吉自身の軍才も凄いと思います。
例えば、毛利中国攻めの際、水攻めを行っています。
これは竹中半兵衛や黒田官兵衛の策だと言われる事が主ですが
秀吉はそれ以前にも既に水攻めで城を落としています。
その時には黒田官兵衛はいませんでした。
それを考えると秀吉自身の案であった可能性は高いと思います。
豊臣秀吉さんの水攻めの歴史を辿ると始まりは備中高松城だと思います~
1582 備中高松城水攻め~
1584 小牧長久手の戦い、竹鼻城水攻め~
1585 紀州太田城水攻め~
1590 小田原征伐、忍城水攻め~
ただ、黒田官兵衛さんは水攻めの発案者では全く無いとの意見には賛成です~
なぜならば、戦国時代に水攻めを豊臣秀吉さんに先駆けて行った人物が近江にいるからです~
その方は、近江の覇権を巡って浅井長政さんと戦った六角承禎さんという戦国大名です~
1560 野良田合戦、肥田城水攻め~
六角承禎さんは、水攻めによって浅井長政さんを合戦に誘き出すことに見事成功しますが~
半分以下の手勢であった浅井軍に苦戦してしまい、六角軍は浅井長政さんを戦場で討ち取ること敵わず、逆に浅井軍の方が救援成功となり~
六角承禎さんにとっては苦い思い出となってしまった感じです~
しかしながら、敵の大将を誘き出すという水攻めの目的は果たしているワケですし~
秀吉さんが長浜城主時代にこの戦を知り学んで、やり方をマスターしていたとすれば納得ですよね~
信長のシェフに出てくるのは近代醤油じゃないし、広まってもいなかったんだな
信州 鹿児島 野間岬鹿児島県桜島噴火軽石白州大地 稲作出来ない芋類 味噌を京の京都 京から江戸 千葉県野田市 銚子市 他
秀吉は信長に気に入られたくて大気者を演じていたが全然大気じゃない
秀吉は劉備玄徳よりも、劉邦か、洪武帝?
生涯無敗ってヒクソン・グレイシーみたいだな。ってかヒクソン・グレイシーも五輪書を読んでいそう!
実際に読んでます
ブルースリーのジークンドーと宮本武蔵の五輪書は愛読書だとヒクソン自ら語ってます
「美味しいという概念が無かった」は流石に言葉のアヤが過ぎる
娯楽としての食事体験、一般庶民にとって美食は無かった、くらいならまだ分かるが
宮本武蔵 富永ケンキチ 吉川氏他 武蔵の体型 強い剣豪とは戦わない 数多い道場相手
動画内容で醤油の件ですが、
大衆の調味料として味噌と醤油は戦国時代から存在するよ。
特に醤油(上質な醤油)は東日本よりも西日本で大量生産されていた。
江戸時代、江戸及びその周辺地域で醤油不足になり、上方醤油(関西地域)が流通する事になる。
それに伴い、逆き上方地域で醤油不足になる。
この事により、生産性を高める必要があったけど、生産性が間に合わない事により『薄口醤油』が誕生する経緯になる。
(龍野市の薄口醤油)
現在の醤油と思われる具体的な記述が残っているのは、天正4年らしいです~
つまり、戦国時代のさなか長篠合戦と手取川合戦のちょうど間の年ですね~
そして、現在のたまり醤油に関してはやっぱり江戸時代のはじまり、慶長8年のようですね~
ただ、中華由来の醬(ひしお)という調味料はかなり昔から伝わっていたようで~
古墳時代の大和朝廷では、肉醬(ししびしお)や魚醬(うおびしお)といった今で言う「塩辛」のようなものを調味料として使っていたようです~
そして、平安時代の安倍晴明さんが活躍していた頃に味噌の原形となるような豆醬(まめびしお)が使われ出し朝廷では、塩、酒、酢、醬の四種の調味料が配膳されていたそうですが~
この醬という調味料、醤油や砂糖の普及が進むと逆に日本では廃れてしまったそうです~
しかしながら、醬なくして味噌、醤油なし、と言い切るに値するような結構凄いヤツです~
プーチンも秀吉も晩年は、悲惨です。
当時、イエズス会の宣教師たちはこのように評価しました。豊臣秀吉はすでに朝鮮国を征服しました。 明らかなことは、この戦争は何の名分もないということです。 もっぱら彼(秀吉)の征服欲によるものです
秀吉であれプーチンであれ、何の名分もなく侵攻したと思います。 二人とも個人的な征服の野望もありました。 秀吉の目標は明の次はインドとフィリピン侵攻計画まで立てたと思います。 東南アジア侵攻計画もです。
歴代日本の為政者の中で世界レベルの英雄といったら、唯一、豊臣秀吉さんだけだと思う~
王道による天下一統、刀狩り、検地、天皇家の利用法、海外進出、、、全ての政策が従来の日本の為政者の枠を超えています~
確かに神様みたいな全知全能の人物ではなかったでしょうが、秀吉さん個人の能力は他に比べて群を抜いていると思います~
晩年の悪政とされる後継者の選択に関して、豊臣秀次さんと豊臣秀頼さんを天秤にかけて秀頼さんを選んだ際、当時の武家の習いとしたら秀次さんの一族を断罪するのは普通のことだった気がします~
その際に秀次さんの部下として活躍した人たち(田中吉政さんなど)を、豊臣家にとっての不安要素になるのにも関わらず天下のため有用な人物として生かしているワケですから晩年の秀吉さんが目が曇っていたとするのは少し違うかなと思います~
最後は老害化したけど、根はいい人だったのかもね
( `ー´)ノ鳥取
養子の劉封を殺したのは劉備だから最後は実子を大切にしたのでは?
孔明を信頼してたからそう言っただけでは?
やわ
いや。残したらその威光をかさに天下を奪い取ろうとする人間が出てくるからどの道豊臣家は滅ぼされたと
加来先生って女性の方かと
分をわきまえてるなら家康にいちいち噛みつかないで欲しかった。
伊織は武蔵の弟子というより養子です。伊織は二刀一流は習ったと思うが、年齢的に武蔵の弟子に習ってたかも知れない。(武蔵が伊織を養子にしたのは四十過ぎなので。)
豊臣家じゃなくて羽柴家です。それに、秀頼は大野治長の子です。家康は淀と治長の密通はたぶん知ってたと思う。
戦国時代は美味しいという感覚がなかった? 当時の一つのデータで決めつけるのはどうかと思う。
福島正則が江戸の酒は不味いと言って、備後の酒を取り寄せたエピソードはなんなん?
加来先生、
劉備でよろしい。
字名を言う時は劉玄徳じゃないですか?
あと、
固定概念?
それを言うなら既成概念か固定観念でしょ。w
高齢者向けに宮本武蔵を取り扱ったんでしょうけど、宮本武蔵はもう架空の人物扱いでいいでしょう。五輪書そのものが変な内容ですから。
ニセの秀吉も要らぬ💢