豊臣秀長の生涯!秀吉を天下人にした男
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- čas přidán 23. 08. 2022
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豊臣秀長の生涯!秀吉を天下人にした男 をお届けします。
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#日本史の謎 #歴史 - Zábava
秀長さんが長生きしていたら…間違いなく豊臣家は滅亡などしてなかったでしょうね。
大谷吉継のお墓を建てた…藤堂高虎が家臣であったことを初めて知って少し嬉しくなりました。
裏切りと下剋上の乱世にも…仁義ある人物がいた事を嬉しく思います。
秀吉の、秀長の死後の秀長家への対応が酷かった事も藤堂高虎が徳川になびく原因の一つだからなぁ。関ヶ原で黒田長政と並んで西軍の寝返り工作をしたのが藤堂高虎だから、ほんと豊臣秀長の死が豊臣家を滅ぼしたんだと思います。
それもやっぱり三成の讒言だったみたいですね
秀吉は何でもかんでも三成の発言を鵜呑みにしすぎた
秀長が亡くなったのは
豊臣滅亡の始まりに過ぎず
秀次とその妻子たちへの仕打ちが
トドメを刺したと言っても過言ではない。
秀長が生きていたら
甥っ子への仕打ちを絶対許さなかっただろう
この人がもう少し長生きしてれば
豊臣の滅亡は免れていた可能性は高い。
秀吉より、頭も人格も良かったんじゃないの、今でゆう、幹事長クラスかな、秀吉は、時代をよむ感性があっても、容量が良いだけでは、人はついてこないしね、先に、秀長が死んでしまったら、秀吉のフォローする人が居なくなったからですね、秀吉の話ばかりが、有名すぎて、秀長の存在が薄いのは、先に死んでしまったからなのですね、惜しい人を亡くしてしまったものですね
島津が秀吉に降伏したのも秀長が説得したから
家康が大阪に来たのも秀長が説得したから
秀長が死んだ時秀吉よりも家康が悲しんだぐらいだからね
影太閤と言われるほどの人物。ピカイチの才能と性格。🇯🇵の今の政治や外交に絶対に欲しい方です。50代での死去は盤石基盤になりつつだった豊臣政権を崩壊させる元凶にも成った。本当に惜しすぎる器の持ち主でした。もし…天寿を全うしてたなら、織田信長や徳川家康を超える人物として🇯🇵の歴史時間では教えてられていただろう。
天下人になってからの秀吉のイカレっぷりを見ると、いくら秀長でも千利休や秀次を助けることはできなかったように思います。
諫めたら秀長さえも討たれたのではないかと。
ただし、暴君と化した秀吉の晩年を大人しく過ごして秀吉より長生きしていたら、関ヶ原も起こらず、豊臣が滅ばずに済んだかもとは思います。
良い弟だったんですね。
秀長、秀次、秀頼は
武田家に置き換えると信繁、義信、勝頼ですね。
秀長のような優秀な弟が、秀吉を天下人にした。秀長が、死んだ時に優秀な親戚を作っておれば秀吉も晩年をけがすことは無かったろう。
豊臣秀長卿
大納言にして所領は、畿内にて110数万石。
豊臣政権No2。
秀長が死去した際には、当時の心ある大名、武将は、どれほど嘆き悲しんだ事でしょう。
一番ガックリしたのは、藤堂高虎公じゃないですかね。
確か、豊臣家が滅亡前後、徳川の世になって大和郡山にある秀長公の菩提寺の大光院が荒れ放題になっているのを高虎公が大徳寺内に私費で移してますね。
秀長公の祭妃を絶やさず、定期的に高虎公が墓参し、法要は、欠かさず行っていたようです。高虎公としては、徳川の世になっても旧主君の秀長公の菩提寺と祭妃だけは、必死に
守らなければとの思いだったのでしょう。
高虎公も義理堅く
人間味のある武将ですね。
徳川幕府公認のうえでしょうし、
秀長公と徳川家康との仲も悪くなかったかもしれませんね。
石田三成の婚礼の仲人は、秀長が務めていますね。
石田三成の岳父は、豊臣秀長の重臣です。
自分の想像ですが
秀長公の残像を徳川家康に想いをはせたかもしれないと思います。
大和郡山城近くに住んでる。
(徒歩10分位)
大した人やったんやね。
秀長は、半兵衛を師として武士としてのあり方、礼儀作法、調整役としての働き方、戦争の仕方を学んだと考えられている。農民出身の秀長にはそのような知識は無い。半兵衛は秀吉の配下(あるいは与力)であったのは10年程度と短かった。その間、秀長は半兵衛の能力を目一杯学んだんだろう。半兵衛は楠公の再来とも今孔明とも言われる超有能な人物。その能力を学ぶのは並大抵の努力ではできなかったに違いない。結果として、半兵衛は36歳で病没したが、能力は秀長に引き継がれることになる。大和は多くの有力寺院が存在し、統治は簡単ではない地ではあるが、大きな争いは発生しなかった。
その秀長が病没すれば残念ながら豊臣の天下はたががはずれた樽のようになってしまい、秀吉の耄碌もあいまって、崩壊する。もう少し秀長が長生きして秀吉、秀次、秀頼を補佐できれば、豊臣の天下は続き、江戸幕府もなかったかもしれない。
それ以降のこと、秀次や朝鮮、はあくまで現象や結果であって原因は秀長の死ですよね。
秀長、秀次を亡くした時点で、秀吉の運の尽き。秀吉は自業自得ですね。
秀吉も62歳ではなく、70歳ぐらいまで、生きていたらまた違う歴史になっていたろう。家康も60歳ぐらいで亡くなっていたらもある。
長秀が生きてたら、姉の息子への切り捨ても、許さなかっただろ。
秀長
いやー、あの頃の秀吉のイカレっぷりだと、秀長が諫めても聞かないどころか、秀長さえも誅したような気もする
秀長が長生きしていたら豊臣家が滅亡しなかった可能性は高いと思うが、そうすると大阪政権が続くということてまあり、近代になってからの首都は大阪であり、標準語は大阪弁を基礎とした言葉だつたのかなあ?
のをか嫌ですねんけど
豊臣秀吉〜豊臣秀長
陣代で中継ぎ豊臣秀次
それを五大老が支援する
集団指導合議制ならわからなくないが
外国人は標準語より大阪弁の方が覚えやすいらしい。
大阪平野は狭く、ここを首都に定めるのは悪手だと思うけどね。明治維新の際、もしかしたら関東平野に首都を置いたかもしれない。
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実際、大阪首都論は明治初期に議論されてる
手狭な事は大阪湾岸の埋立で簡単に対応出来るね。。
山手線は当初海中を走っていたが、今や鉄道の東側にどれほど広大な土地があると思う?
平家でいえば清盛が秀吉で重盛が秀長だと思います
兄よりも能力高そうなのに信長の野望とかでは兄より能力低いよね😅
秀吉秀長の出身が農民というのは通説で実際は明らかではない。声聞師(民間の陰陽師)だったという説もある。異父弟だったかも正確な事は断言できない。ブリタニカは異父弟を否認している。決して批判の為に書いた訳ではない。まだ明らかになってない事が多いと言いたかっただけだ。全体としては短く良く纏めた動画だったと言っておく。Thanks a lot.
長秀にも、子供がなかったんだな。
子供は居ましたよ
娘は毛利秀元に嫁いでます
男子は居なかったので秀次の弟を養子にしましたが
その息子も早死にしています
小一郎っていう同じ名前の子どもがいたらしいですが戦死してしまったようです。
追伸。秀吉自らスカウトしたのですから、豊臣政権がこれからとゆうときに秀吉が毒殺は無いでしょう。
子のない秀吉の後継者として秀次を一番に推していたのは秀長でした。
秀長が長生きし、秀次の補佐を強固にして秀次の後継者信頼性が高まれば、困るのは自らの「子」を後継者にしたい淀君か、徳川家康でしょう。
特に淀君は父母の仇を取りたかった。つまり好色なのに秀吉は精子が少なく子が出来ない。それを淀君は知っていた。
なので幼馴染の大野治長と不倫して二度も子を作って豊臣家を内部分裂させて崩壊させるのが淀君の真の狙いでした。それには秀次を一人前の後継者に推す秀長は邪魔だったのでは。
また利休切腹命令の真相は、後継者に秀次を推す事を遺言として秀長から利休へ託され、それを秀吉に伝えて、反感をかった為ではないでしょうか。
以上都市伝説でした。
信じるか信じないかあなた次第です。
私たちは産まれてないね😊
弟豊臣秀長の死は当時としても少し早いのではないか。
戦国大名の食生活、運動量は江戸時代の大名よりも健康的だったと言われています。
淀君~石田三成一派か、徳川家康一派の忍びに毒殺されたのではないでしょうか。
秀長じゃなく長秀って連呼してるんだけど。
そこにこだわるなら、長秀名乗るのが何処からかにもこだわらないとじゃないかな。
歴史解説者って、ありがちな自己主張によってわかりにくくなってる。
🤔うーん面白い視点だと思うけど生きていたとして家康の台頭を防げたり利休の切腹を止められたとは思えないなぁ。秀吉が邪魔に思って毒殺したのかもしれないし。
長秀では無く、秀長では?
動画でも説明されていますが、最初に名乗った諱が“長秀”で、後に“秀長”に改めました。
個人的には、信長が健在な頃には信長と同じ“長”の字を秀吉に通じる“秀”より上に置いた。
そして信長に遠慮しなくてよくなると、今度は秀吉の“秀”を上に置いたということかなと考えています。