国鉄時代の尾久駅にて(昭和60年)高画質版 Oku Railway Station - Tokyo 1985 (480p version)
Vložit
- čas přidán 19. 06. 2024
- 国鉄末期の東北本線尾久駅にて次々にやって来る列車を撮影したビデオです。以前公開した動画の再編集版で画質が大幅に良くなっています。今回新たなカットを沢山追加しました。
ビデオカメラを手にするのがあと3年ほど早ければ在来線の黄金時代だったのに、とは思いますが、、とても高価で学生の身では買えませんでした。 - Auta a dopravní prostředky
何気ない風景も時が経つと貴重になるんですね
東北本線の中では地味な存在ですが、上野東京ラインが開業してからは、この駅から横浜を通り、湘南も通り過ぎて熱海も乗り換え無しになりました。
高塚一司 それなんですけど
同じ185系なら黒磯から伊豆急下田まで踊り子号で運行できたはず
この時代に再び、169や、189の国鉄色「あさま」が見られることができ、感謝、感謝です!
地元は高崎なのですけど、映像なんて装置が高価で、残せていません。。
本当にありがとうございます!
東北線ってアナウンス、懐かしすぎる😂
この頃の電車はもちろん、街を走る自動車もトラックもみんなカッコよくて好きです
この時代に生まれたかった
非冷房車なんて久しぶりに聞いたまた懐かしい車両も貴重映像ありがとうございます。楽しましていただきました。🙇♂️
当時を知らない私にとっては夢のような空間だ
昭和50年頃、まだ小学生だったわたくしは列車が大好き、しかし家には旅行をする余裕も無い上、親戚は近所ばかりで特急や急行に乗る機会はゼロでした。そこでお小遣いを貯めて上野で駅弁を買い、尾久に行きます。当時の尾久駅ホーム上には木造待合室がありました。暖房はありませんがガラス窓がいくつもある待合室は冬でもサンルームのようにポカポカと暖かく、わたくしはそこで駅弁を食べながら、通過する長距離列車、雪を戴いた機関区の客車、忙しく行き交う機関車などを見、まだ見ぬ遠い街の風景を想像したりして、最高に贅沢な気分を満喫していました。素敵な動画をありがとうございます。
ほのぼのとした、いい思い出ですね。私も、どっさりと雪がついた車両がやって来ると遠い雪国を想像していました。
小学生の頃、おなじく電車好きの同級生と一緒に尾久から上野まで乗った普通電車で、なんと車掌さんが運行中の乗務員室を開けて中に入れてくれたことがありました。さすがに上野到着前には出されましたけど、現代では考えられない思い出です (^^)。
このころは冷房無くても耐えられる暑さだった。1994年から夏の暑さおかしくなった。湿気がえぐくなった
懐かしいです。この時期は急行が殆ど無くなって動画の中でも出てきましたが、新特急に化けていった時期ですね、普通も増発になって便利になってきた時期。
とても貴重な映像、良く残っていましたね。
タイムスリップしてぇぇぇ〜〜〜〜!
ブルートレインや急行電車に乗りたいけど今じゃ乗れないのが多すぎる
つーか真面目に寝台特急は
復活してくれ。それなりに元は取れるだろうし
え?夜行バス?中距離だけで
いいです。
それに日本は鉄道大国だし
究極の人参 (・Д・)つLCC
究極の人参
人が乗らないから廃止されたんですが
懐かしい映像をありがとうございます。
12系や14系客車の所属標記、北オク(尾久客車区)を思い出しました。
昔は非冷房車が多かったですね、115系や山手線、京浜東北線の103系の真ん中4両とか有りました。
近距離きっぷの黄色い看板、オレンジ色のオレンジカード対応の看板の券売機、懐かしいです。
改札員さんがずっとカチカチやってる音が懐かしい
自動改札がまだ少なくSuicaなど考えられない時代でしたな😃
うわぁ。。。懐かしい。子供の頃の光景だ。どの車両も見た覚えがある。
懐かしい西日暮里で生まれ育ち機関区や客車区は遊び場でした、尾久駅隣の踏切で午後になると客車の入れ替え作業を見たり夜になると家の近くで10系客車や20系客車の推進運転見てました。
推進運転の客車列車が多かった頃は回送線の踏切の閉鎖時間が長くて、朝の通学時とかだとヤキモキしました。急いでない時は見てて楽しいんですけどね。
今見ている列車も10年ちょっと経ったら幻になってしまう。記録って大事。
昭和62年10月から2~3年この近くに住んでました
その頃は試運転中のスーパーひたちもありました
小さな駅舎の写真は絵葉書にしたいくらいです
載せて下さってありがとうございました。-☆
当時は上野駅から色んな夜行列車が発着していたので、色んな客車がそろっていましたね。
よく端に停まっていた20系を見に行くのが好きでした。
客車が機関車に押されて、
バックで入線してきたのがカッコ良かった。
@@3areno922 そう、推進回送って言いますよね。あれは上野発着の夜行列車ではよく見られた光景でしたね。
冬になると、融雪した汽車や電車が
入線してくるのも好きでしたね。
乗車位置を示す、
吊り下げられた四角い鉄板も味がありましたね。
冷凍みかんとか、
決して美味しいとは言えない
針金の手提げのついた、
プラスチックの容器のお茶とか、
上野駅の賑わいが思い浮かびます。
白装束で腕や足の無い退役軍人と
隣でアコーデオンを弾いていたのは、
子供ながらに怖かったです。
今でもトラウマ案件ですが。
大人になってからは、
周遊券で、
夜行急行の八甲田や津軽に乗って旅行してました。
懐かしです。
昭和60年は青春18二冊買ってあちこち行ってたな〜当時は普通と思うことが変わるんだよね…当時は自分で現像していたので白黒ネガばかりです
この駅…子供の頃から駅前通りも駅の風景も全然変わってないw
泣かせるね〜ぇ😢😭 青春真っ只中の世界でした😌💐✨🌈👍
この尾久駅の下を通る地下道は、今でも当時のまま残っていますね。よく自転車で突っ走っていました。
はじめまして、あさま、懐かしいですね。何度か乗りました。いい車両でした。また臨時列車でも走ってほしいですね。
東北・上越新幹線開通前の尾久駅北寄りの梶原踏切にあった跨線橋は、数分毎に上りに下りにひっきりなしに行き交うL特急を見下ろせて、小学生だった私は、何時間も飽きずに見たものでした。
埼京線の開業がこの年の9月30日ですから、それより以前の映像ということになりますね。ちなみにこの2~3年後に新卒で就職して大阪から東京へ配属となり、2年半を東京で過ごしました。仕事とでよく運転しておりましたの「尾久橋通り・おぐばしどおり」と読むことから、この駅名も「おぐ」と思い込んでおりました。
何しろ地名が「おぐ」😉
オレンジカードが使える近距離券売機を見つけた! そういう時代だったんですね!
とても懐かしいですね。165系や455系の優等列車が廃止された直後くらいの映像でしょうか??当時は浦和近辺に住んでいたので同じ光景は今でも覚えています。それまで15両が当たり前だった115系が7、8両に分割されたり、185系の新特急が登場したり、風景的にもかなり変化した時期でした。今では高崎終点が当たり前な高崎線も、当時は郵便車付き115系夜行で長岡行きや越後湯沢行きなんてのもありましたね。笑 国鉄末期の貴重な映像だと思います!
185の音だけは平成生まれの私でも馴染みがある音でした
踊り子といえばまずこいつだもんね
子供の頃から憧れでした。
信越本線の急行はクモハが上野方先頭でした。
西ヶ原出身です。尾久は電車を見るにはよい場所でした。
この頃王子の教習所に通っていて街並みが懐かしい。田端の電車庫の横を毎日通っていました。夜窓を開けていると汽笛も聞こえました。朝の始発の音も聞こえてました。今は尾久近くのガストに良く行きます。
私も王子で免許取りました。路上教習で都電と一緒に走る教習所はウチだけだと教官が言ってましたw
夜の街に響く機関車の汽笛の音は尾久の住民にとって風物でしたね。
昔はホームと車両の高さが合ってない駅がたくさんあったなぁ…ホームと車両の隙間が広い駅は子供の頃の自分にはトラウマでした。
113系や115系の主力路線の駅はホームが低かったですね
客車時代の名残か何かで
JR化後順次嵩上げされました
高校聖橋でした、尾久駅良く利用しました。懐かしい
国鉄時代の尾久駅の映像ありがとうございました。とても懐かしいく車両もすべてが過去帳入りしてしまいました。映像を提供してくれた方に心からお礼申しあげます。
国鉄時代といっても末期ですが、標準色で全塗装されたごっつい国鉄型電車が行き交う光景はもはや別世界ですね。
近距離切符の黄色の自販機懐かしいですね。
初めまして!国鉄のたまらない映像ありがとうございます(*´▽`*)
チャンネル登録させていただきます!
よく見に行ったなぁ。。
ホームに一番近いところンい20系が留まっていて、その行き先が、日本海・青森 となっていて、まだ見ぬ特急に感動したっけ。
きれいな車両だけじゃなく、くたびれた車両もたくさんあって、いい雰囲気だった。
今の鉄博がある場所と尾久は、赤羽生まれには電車から、ホームから見られる夢の空間だった。
尾久車両区でしたっけ?😀
有人の改札口も、券売機の仕様も、懐かしいですね☺
当時の115系は、7両+4両編成で、下りの高崎線では先頭の4両が籠原駅止まりでした。
211系以降は、先頭の5両(切り離し)+10両に変わり現在に至ります。
東北本線(宇都宮線)の緑地に白文字サボも懐かしいです。
特急がバンバン走ってますね
今ではほとんど見ない光景です
当時、あさまは、12両、グリーン車2両連結だった。とても懐かしいです。
非冷房の115系は懐かしいですね。ホームも嵩上げされてませんね。
この頃は尾久車両センターではなく尾久客車区って名称でしたよね。上野駅発の列車が数多く走っていた時代でした。よく利用してたなあ。まだ国鉄のころでした。
最初の方に出てくるのは113系!?
昔は113系も東北線を走っていたんですね。後ろは115系に見えたし面白い編成ですね。
東北回送線付近に住んでいたので、懐かしすぎますw
グリーン車を先頭車どうしで挟んだ475系?の急行や、
赤の415系(いや403系とかかな?)とかEF58なんかもよく見ました。
少し見づらいですが、115系はまだ幕じゃなくてサボですね。
高崎線は白地、東北本線は紫地でしたね。
貴重な映像、感謝します!
客車列車が多かった頃は回送線の下田端踏切の閉塞時間が長くて、朝の通学時なんか引っかかるとイライラしました。
下田端踏切は、機関車が単機で引き返す線路があり、よく見に行きました。遮断機も下りず警報音も鳴らなかったので、故障したんじゃないかとヒヤヒヤしたものです。
サボ懐しいなぁ。
折り返しで手際良く裏返したり入れ替えたりして居ましたね。
この時代、まだ鉄道公安職員がまだいましたね😃
昭和60年忘れもしません、就職1年目の新入社員の年です。東京へ大学で出てきて丸4年が経ちこの年に卒業して5年目。毎日研修研修で疲れきっていました。毎夜会社から帰れば、バタンキュで、幾度かスーツきたまんま朝まで寝た日も。そしてこの年の暮れに、海外勤務赴任でフランスへまずヨーロッパ研修がてらに、出発した年でした。こんな寒い年の暮れに赴任させなくても、年末年始故郷に帰省してから、年が明けてから少し暖かくなってからでも、っと思っていた年でした。両親には赴任移動が発表になった11月の末に電話し、12月の初めに3日ほど帰省して、母の手料理を食べたのを覚えています。肉じゃか、筑前煮、カレーライス、帰った日は牛肉のすき焼き、帰る前日は、鳥ぶつ切り骨付き肉の水炊きでした。思い出しました。懐かしいです!帰りは新幹線で東京まで戻りました。また海外から帰ったら、帰ってくるから見送りはいいと。それから約3年後にまた帰省しました。海外からのお土産と土産話そして彼女を連れて。もうその両親は亡くなりましたが、幼い頃からこれからは大学も企業も東京の時代、地方でくすぶっていてはいかん!っと父がよく言ってくれてました。さすがに今となれば、両親が東京に出してくれたおかげです。日本にいるときは、いつも新幹線と国鉄在来線、山手線、中央線を利用してました。国鉄時代は大変お世話になりそして懐かしく、忘れられない思い出がいっぱいです!
懐かしい映像ありがとうございました。
鉄の匂いがきついんだけど、その匂いが大好きでした
高崎線の115系は上尾事件の影響があって早くに冷房付きの115系が導入されて、115系を115系が置き換えるみたいな事があったので非冷房の115系は東北線か両毛線の電車に乗らない限りは拝めない存在でした。115系冷房車も昭和61年か62年ぐらいから211系の導入が相次いでほとんどが小山に行っちゃったようですし、211系だらけだったのはよかったのですが寂しいですよね。
子供のころ近くに住んでいて、買い物帰りによく電車を観に親に連れて行ってもらってたっけ。
この頃はもう電車のトイレは垂れ流しじゃなくなっていたかな?走行中の電車から霧のように舞っているのを見た記憶が・・・(笑)。
ホーム低い
当時113系や115系の主力路線の駅はホームが低かったですね
当時まだ幼稚園生だったけど懐かしいです
足元気をつけなさいと親によく言われましたね
今となっては夢のような光景...
私としては、東北新幹線開業前だったら457系の急行とかもバンバン走ってたのになあ、、とか思いますが、いまとなっては国鉄車のオンパレードというだけでも貴重ですね。
本籍地が東京都北区昭和町という尾久駅の駅前だったので、当時の姿が見れてよかったです。
本当に、北区昭和町はこの尾久駅の周辺だけなんですよね。
客車時代の名残りか、プラットホームが車輌のドアステップより、ずいぶん低いですね。
デカ目の非冷房115系だ~扇風機ブン回しだけど暑い~
シールドビームの冷房115系だ~助かったw
この頃ってまだ切符に鋏入れてた時代かな?うっすら覚えてる……。
昭和60年がつい最近だなんて思うくらい、自分がトシをとったんだなと実感します。
115の横サボ、非冷房車がまだ残っていたんだ~
新幹線開業で線路が空いて普通列車が増発できたのがこのころだったかな。
むか~し、尾久駅前にトロリーバスが走っていました。
このころの非冷房車は車内の天井に扇風機ついてましたよね。
はくつるなつかしいです、青森到着が午前4時頃なので眠いまま青函連絡船に乗ってました。
営団6000に乗ったとき一度だけ
見たな・・・。バリバリの
平成人の俺にとっては違和感したかなかった
究極の人参 当時の常識は忘れられつつあるのは寂しいです。全然関係無いですが、船上に線路というかレールがあってそのまま貨物車が入る大きな船も当時ありました。
philosomatika929
本当に関係ないですね。
尾久へは1,2回しか行ったことがありません。もっと行っておくべきだったと後悔です。それにしても、普通列車はまだまだ非冷房だったのですね。
宇都宮線を東北線と言っているのが、懐かしいです。
↑今でも言ってるオッサン😉
このころの高崎線と東北線て、113系じゃなくて115系が走ってたんだねーしかもデカ目の
変わらない所とおもいっきり変わった所がありますね
立ち食い蕎麦屋はりそなのATMに
公衆トイレはokuの型に改築
駅構内にエスカレーターもエレベーターも付きました。
日暮里といえば大宮〜日暮里の回数券で尾久も降りられるの最近知りました。
尾久駅下の地下道は当時とほぼ変わっていませんね。
回数券で降りたらもったいない‼️
この時代は良いなぁ
郵便番号は3桁、自動改札機もなく、夜行列車や急行列車も健在
車内販売もあるし、駅や車内では手動で放送してたし、ドリフ大爆笑も放送してたんだよね
消費税も無し
携帯電話も一般的に普及してない
連絡線がある…すごい!
115系の青いサボ懐かしいですね。
昭和40年末から50年初めにかけて学生の頃自分は田端新町、友人は尾久に住んでいたので何度かこの尾久駅を使った。
その友人は20代後半で早世してしまったが真面目で生き下手な奴だった。
懐かしい風景が懐かしい思い出を誘ってくれた。
ありがとうございました。
昭和60年かぁ
生まれた頃の景色と思うと
懐かしい気がするかも
縁あって尾久駅前に住んでます、もう10年目w
1985年当時は115系非冷房車がまだ現役で活躍していた頃でしたこの2年後JRに民営化して、115系の小山車、新前橋電車区現在の高崎車両センター所属の非冷房車は一部はシールドビーム改造、冷房化されましましたが、老朽化や新形式の置き換えで非冷房車の半数は廃車になりました
新製冷房の115系中期車が昭和48年から順次導入されたと思いますが、それらに東北線の初期非冷房軍団ってつまみ出されたんじゃなかったんですね。高崎線の方は中期新製冷房の115系しかいなかったので、とうの昔に全て消えたと思いました。こっちは上尾事件のせいで非冷房の115系は昭和55年より前にほぼ姿を消していましたもので.......。
尾久といえば上野始発の上信越と東北方面の次の駅で事実上は東北本線の駅と聞いたもんで国鉄末期のこの頃はデカ目の初期型非冷房の115系が走ってたんですねぇ🥴
E電区間(今でも使用してるのかはわからないが)田端駅・上中里、中距離電車だけの尾久駅は(始発列車の時間帯が遅い時刻・終電時刻が早い)早朝・深夜に電車を利用したい方は田端や上中里を利用することだと考えられますが運賃計算・定期券は購入はどうなっているのでしょうか?
24系ブルートレインの入れ替え、サロを2両組み込んだあさま号も懐かしい。7両編成を二つつなげた115系の映像も貴重
懐かしい‼️
見れて感激です
田端機関区にもザリガニ釣りに
行きました。
尾久客車区と田端機関区の間の通り(旧王子街道)は、私が子供の頃はザリガニ街道と呼ばれていました。昭和40年代のことですが。
私が幼稚園の頃「昭和55年」もドブ川があり、ザリガニもいました。田端操車場内にもまくら木でかけた橋を渡って入る事が出来「田端ストア」というお店もありました。よく貨車のそばでも遊んでいました。
今では考えられませんけどね。
@@user-dz2tv3yv9f 話しの内容がぜんぶ分かります (^^) 昭和50年代まで尾久に住んでいましたから。
私は、あの道路沿いにあった「旭電化」の看板があった建物「社宅」に住んでいました。朝の目覚めは機関車の警笛と103系の走行音でした。昭和55年まで住んでいました。
@@user-dz2tv3yv9f 旭電化は、給食の銀リスマーガリンでお馴染みでしたw
尾久の原公園のところが大きな工場でしたね。
169系がいる僕みたいな国鉄時代を知らない人間にとっては新鮮です
昔は子供の頃旅行に行くと上野を出るとすぐにいろんな車両が見れてこれがきっかけで鉄オタになった人は多いはず。
昭和60年かぁこの年に上野〜大宮間の東北新幹線がようやく開業した年だったね
今見てる車両たちも50年後くらいには懐かしいなぁと思えるんだろうなぁ…
185系といえば、新幹線リレー号塗装の窓下に緑のラインが入ったいわゆる200番台が最も印象的です。新特急はもちろん、それ以前の特急白根、あかぎなど。踊り子にも、一部運用に入っていた記憶があります。でも僕は、183系1000番台のほうが断然好きでした。
埼京線と京葉線がない!
今では普通に使うけど、結構最近できたんだね
戻りたいな
こんにちは。はじめまして。はじめて拝見させて戴きました。
1985年というとやはりあの航空機事故を思い出してしまう…
子供の頃、非冷房車の独特の電車臭が好きでしたw
わかります。モーターの温まった油の匂いとブレーキの焼ける匂いですね。
上野の手前の駅。あまり降りる人がいない。この変は今とあまり変わらない気がする。
上野口で7〜8両編成って今では考えられないですね。
東北線のサボは青で高崎線は白だったんだよな~。新車の211系がとまってますね♪
一編成だけ留置されている211系は、まだ旅客運用に入っておらず「試運転」表示だったのを覚えています。
現在では上野東京ラインが通るようになった尾久駅は一般に知られるようになったと思いますが利用客の低迷は続いてると感じます。令和3年6月。
尾久駅って利用者も少ないし廃駅にしてもいいと思う。
田端に行くか上中里に行くか王子に行くかで済むと思う。
構内入れ換えの時だいぶ速度出てるような気がする
それ思った
1989年頃、川口から尾久間を利用してました。その時の車内案内で、次はオクオクオクオクと連呼していました。ゆっくりと尾久を2回位で良いのではと思ってました。
ちなみに、かえりに尾久から車内で小さなビールを飲んでました。
この頃は寝台特急、特急、新特急、115系が健在だったですね
あらかわ遊園、近いですよね。
50mプールが取り壊される前の最後の夏にバイトをしました。
その時に初めて尾久駅を知りました。1990年だったかな?
ただ、よく乗ったのは都電荒川線でしたが・・・
あらかわ遊園わりと近いです。巨大なテーマパークもいいけど、小さな子供連れて手軽に安く遊べる近所の遊園地も、もっとあってもいいように思います。とりあえず荒川区偉い!
あらかわ遊園の釣り堀のあった場所は、昔ひび割れたローラースケート場でした。
白Hゴムで非冷房で大目玉。なつかしい。
尾久駅は電車撮りの宝庫❗
すごい貴重ですね…
あとすみません…音MADでこの動画をお借りしたいのですがよろしいでしょうか…?
この動画を使用いただくことは問題ありませんが、必ず原典(ここのURL)からの引用であることと、私のYoutbeネーム(kamepo)の明記をお願いします。
昭和60年になった時代なのですね!
昭和50年代に、尾久駅前のボウリング場で、アルバイトをしていた時に、よく利用していました。駅に券売機はなく、ただ、初乗り料金だけの、レバー式の硬券販売機が1台ありました、お金をいれ、レバーをガチャンとと押すと、硬券が発見される、単純な物でした。映像を見ておもいだしました、駅舎も、映像の様なモダンなものでは、ありませんでした。時間が合わないときは、京浜東北線の上中里駅から、尾久のヤ-ドの地下をトンネルで抜けて行った記憶もあります。トンネルは今でもあるのかな?
尾久ボウル、中学生時代に行きました。そのあとキンカ堂になって、今はそれも無くなりました。
上中里へ抜けるトンネルはそのままありますよ。
@@kamepo
尾久ボウルは、義理の兄の会社でやっていた、ボウリング場で、最盛期の頃で、忙しかったです。
トンネルはまだありますか、今度時間が有ったら行ってみます、情報有難うございます。
尾久駅を発着する電車はすべて近郊形電車でクロスシートばかりで今はグリーン車付。以前から「通勤形」車両は発着したことがなく鉄道ヲタクにとっては楽しみ深いけど駅西側は広大な車両基地があるために反対側へ移動するには赤羽まで乗って京浜東北線の南行に乗り換え上中里駅まで行くか(しかも並行する王子、東十条駅には東北、高崎線列車は止まらない)あるいはバスなど乗り継いで行くしかなく同じ駅ながらも不便さは否めない。
尾久から上中里なんか徒歩10分かからないよ😉
周辺ロケーションから見て遠回りは避けられないでしょう。
485系?が通過してるのかな
貴重な映像ですね
多分189系です(あさま?って書いてあったので)
そーだね189だね