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今回も川西池田駅の貴重な写真をアップして頂き、ありがとうございます。以前、川西池田駅の改札付近に旧駅の写真が展示されていました。今回の動画は廃止直前の旧駅やオープン直前の新駅の様子も窺えて駅に展示されていた物以上に貴重な写真ですね。それにしても2面3線の地上駅はいかにも国鉄という風情があってよいですね。
ウォーリー.さん、コメントありがとうございます。「川西池田駅1974年」のリメイク版を制作するのに写真を整理していると、忘れていた新駅工事中の写真が出てきたので、補遺として公開しました。
あら、先程みどりの窓口に行ったばかりなのに、見落としてた💦今度、注意して見ます😅
@@giantnioinoba2023 旧駅の写真が展示されていたのは何年か前やったので、今は展示されてないと思いますよ。
福知山線と言えば、1970年頃の思い出でいっぱいです。全線電化後に三田まで乗りました。その変貌ぶりには、紀勢線、中央西線と同様にびっくりしました。113系2連がやたらと混んでいて、客車列車を懐かしく思いました。キハ47は大阪駅で何度も見ましたが、何故か乗る気になりませんでした。やっぱり17、20、26に乗りたいと感じていました。例外として、北海道で極寒地仕様のキハ40に乗ったときは空気バネ台車で乗り心地が良かったのを覚えています。
Zenjirooさん、コメントありがとうございます。キハ17はともかく、キハ20、26は乗りたくなりますね。兵庫県の北条鉄道には五能線を走っていたキハ40が来ていて、空気ばねの乗り心地を楽しむことができます。
能勢口駅...10連化の際は、梅田方2両がドアカットでしたね。
冒頭のキハ47は福知山線のほかに山陰本線京都口、舞鶴線、宮津線と共通運用された後、1985年3月改正では小浜線にも活躍の場を広げ運用範囲はワイド化されました。
rhscm989さん、コメントありがとうございます。キハ47が活躍していた時期、鉄じいじは”鉄離れ”していて追っかけをさぼっていました・・・
確かこのキハ47は加古川線と姫新線の1990年あたりでワンマン化でこちらに移動。加古川線電化と姫新線の高速化であちこちのJR西日本の非電化路線に行ったそうです。中には豊岡に戻った編成もあります。
宝殿も同じ時期に駅舎建て替えしてましたがちょっとだけ川西池田と駅名が似てますね。また駅周辺の整地もやってました。
へずま大介さん、コメントありがとうございます。加古川-姫路間も新駅ができたり、変貌が著しいですね・・・
1:09たしか写真を写している位置あたりに踏切ありましたよね?線路の南側に東洋食品工業短期大学の学舎があったような🤔1:36ここの道は殆ど変わっていませんね。右側は戸建住宅になって、左側は電気屋さんと自転車置き場ができたくらいかな🤔0:59写っている自転車は愛車ですか☺
脱サラ植木職人さん、コメントありがとうございます。1:09の写真はたぶん踏切から写したと思います。遮断機は新下り線だけ遮断するもので、上り線の上で写真が撮れました。自転車は自分のではありません。川西池田へ来るときはいつも阪急電車雲雀丘花屋敷駅で降りて、歩いてきました。
懐かしい画像です。新駅となって、もう40年以上経過し当時の記憶が薄れています。2:02 南側出入り口階段は姿形がありませんね。映っているプレハブ作業小屋撤去後に設置の流れでしょうか?鉄道誌でも103系運転直後の写真ではまだ階段は設置されていなかったようで、新駅移転後どれほど遅れて設置だったのか気になります。
sekarashika36さん、コメントありがとうございます。そうですね、気づいたら通り抜けられるようになっていましたが、いつ設置されたかはわかりません。
そういえば、駅の北伊丹駅寄りにあった、産業道路の踏切が片側3車線化の上アンダーパスにする工事をしていたのもこの頃だったかな🤔
脱サラ植木職人さん、コメントありがとうございます。今では当たり前の風景になっている福知山線のアンダーパスですが、以前はどんな踏切だったのか、思い出せません・・・
@@tetsu-jiiji さま。火打街道という名前の通り、細い片側1車線の道路でしたよ。あと久代より南の鋳物師(町)のあたりが、ぐにゃぐにゃに曲がりくねっていた思い出が。ここにあった鍛冶屋さんには、農具の修理で何度か行ったことがあります。
川西池田駅〜尼崎港が朝夕1本づつありましたね。最初はDD13の貨客混合列車で、最終章は塚口〜尼崎港でDE10が2両の旧型客車(スハフ42+オハ47など)牽引でしたね。1980年の宝塚電化後もDD51牽引の旧型客車列車(1986からは12系)が健在で、嵩上げされた国電ホームに、チョコレート色の車内が”木造ニス塗り“のオハフ33が到着するミスマッチ感がたまらなかったです。特に宝塚電化で「新規開業」の猪名寺駅に、朝のキハ58通勤列車や旧型客車が新たに発着するなんて夢のような世界でした!!
気楽トンボさん、コメントありがとうございます。宝塚駅までの複線電化時期、カオスの様にローカル列車と通勤電車が混在していましたね。
昭和末期の小学生でしたから、福知山線の旧客は大阪駅でよく見ましたよ。地下に潜ってる今は、マジで隔世の感があります。
Schimitchさん、コメントありがとうございます。客車列車で本格的な「旅」をした篠山口が、いまや4扉ロングシート車も入っていて、まさに隔世ですね。
せっかく移転してきたのに能勢電鉄妙見線国鉄前線は一年ちょっとで廃止されてしまった…そうそう、当時は典型的な国鉄型2面3線で普通列車が3番線に停まって2番線を通る「まつかぜ」や「丹波」や「だいせん」の通過待ちをしていました。あと昭和54年までは尼崎港線の終点は塚口では無く川西池田でした。まだ宝塚までの電化も無く103系が無かった頃はおおよそ2時間~3時間に1本ぐらいの運行で大阪まで運賃も高く対する阪急は宝塚急行4本と宝塚普通4本、雲雀丘普通4本と今よりも多く雲雀丘花屋敷~梅田は毎時12本!8両編成、しかも運賃安い、冷房車、シートはフカフカで新型方向幕付き6000系でサービス満点!線形は悪いけど国鉄より早く大阪梅田に着く、好き好んで国鉄に乗るのはよほどのマニアか物好きの方だけやったんやないかな?三田方面から国鉄に乗ってきてもほとんどは宝塚で阪急に乗りかえるのが当たり前だった時代…
国鉄前駅の廃止は、阪急川西能勢口駅高架化にあわせた都市区画整理事業にあわせて廃止される計画になっていて、それはかなり前に決定事項していました。現在はこの区間の延長600mより短い550mになっています。阪急高架化の直接の原因は、日生ニュータウン開発に伴うダンプカーなどの交通量の増加と駅の両側を道路と商店街に挟まれてしまってホームの延長が限界に達したことです。阪急のみが高架化完成したときは、立体移動よりも平面移動のほうが楽と感じた客が多かったのと、運賃の格差が縮まっていたので、けっこうJR側に流れて、能勢電の高架化を急ぐ結果になったそうです。ちなみに駅前の車輪のモニュメントのあるあたりは、区画整理に同意しなかった地区で、昔のままの町並みが残っています。
大輔 佐藤さん、コメントありがとうございます。梅田から豊中へ帰るのに、大阪駅→福知山線川西池田→雲雀丘花屋敷→豊中と乗るのは、超・物好きですね・・・月に一度はしてました。
非電化時代の最後の頃ですね。非電化時代の福知山線は、気動車や客車列車など、懐かしいものばかりが走っていましたね。いろんな懐かしい列車が、脳裏をよぎります。電化直後は、関西では珍しい黄色い103系も走り出しました。この頃を境に、周辺が大幅に変わっていった印象があります。私の知人は、「いや、阪急の方が便利だよ」なんて言っていました。
権三郎平衛さん、コメントありがとうございます。宝塚電化頃から急速に興味が薄れてしまい、カナリア色の103系も取らずじまいになりました。
小荷物=チッキの廃止が思ったより後でした。
ゆうゆう東海さん、コメントありがとうございます。私も意外でした。てっきり新駅移転と同時に小荷物扱いは廃止されたものと・・・
ええわ~。こうして奥床しい日本の風景が無くなるとともに自分の寿命も細くなる。これでええ。未練は無くなる。それにしてもこの映像はええなあ~。時間が手頃で内容が濃い。個人的には新日本紀行並みの内容の濃さやと思う。
浮草さん、コメントありがとうございます。好評価いただいて嬉しいです!川西池田駅の移転は新生福知山線のシンボルのようですね。
えっ今となっちゃ原型全くとどめていない自分の知らない川西池田駅です。国鉄から比較すると当時、阪急の方はかなり近代化されていたように映ったのでしょうか。
AzusaGOGOさん、コメントありがとうございます。阪急一択でしたね。国鉄で三田方面に行くのも、宝塚まで阪急を利用する人がかなりいました。
川西池田ってすごい駅名ですよね、実際には川西市に存在するわけですが例えて言うなら「市川小岩」とか「市川船橋」みたいなものですか?下総中山や原木中山がちょうど船橋市と市川市の境目になるので「市川船橋」をつけるとすれば下総中山か原木中山かな?ちなみに存在するのは船橋市、津田沼も半分は船橋市なので「船橋津田沼」もいいかな?あと中山と言う地名は全国にアチコチあり元祖が横浜線の「中山」なので川西池田の隣の駅は「中山」とはつけられず「中山寺」上記の「下総中山」と「原木中山」あとは福島県の「中山宿」かな、あとは「京成中山」、「阪急中山」は現在「中山観音」に改名されてますが以前は「中山」では無く阪急を冠して「阪急中山」
川西市と池田市の異なる2つの自治体の名前を冠したのも少ないのでは?阪鶴鉄道時代の池田(川西池田)駅は現在の阪神高速小花出入口ある呉服橋の近くにあって、池田への直接の玄関口になっていました。阪急池田駅近辺に移っていくのは室町地区が住宅地として分譲されてからです。能勢街道と西国三十三所巡礼道の重要な宿場町で古い歓楽街が呉服橋に寄っているのもそのためです。博物館明治村にも近くにあった演芸場が移築されています。落語『池田の猪買い』の舞台になるのもこのあたり。ちなみに自分も含めた地元(山本)では歓楽街といえば宝塚ではなく池田をさします。のちに宝塚方面への延長の際に前の駅舎のあった寺畑に移ってきて、川西の名前に改称しようとしましたが、池田市側から猛烈な反対運動があって、結果両者の名前をつけた経緯があります。
大輔 佐藤さん、コメントありがとうございます。川西池田駅は開通当時は終点で「池田駅」と称し、池田の市街とは橋一つで結ばれていたそうです。いまでも古い町並みの面影が残り、いい雰囲気です。
『中山寺』駅は『宝塚市史』によると、阪鶴鉄道開通時は『中山』とつけたらしいのですが、西国巡礼札所『中山寺』巡礼客をあてこんでか『中山寺』に改称したようです。ですが、肝心の中山寺まで1kmあまり離れているために、事情を知らない参拝客から苦情があったとかなかったとか。電化前は北側の駅舎前に小さい雑貨屋1軒があるだけでバス便もなにもない、ほんとうに小さな駅でした。
川西国鉄前駅と名乗りながら、旧川西池田駅までは少し歩かねばならなかったのですか。乗り換えが便利になったにも関わらず、その駅が一年ちょっとで廃止になるという不幸。
阪急川西能勢口駅前再開発計画に基づく区画整理がはじまって、阪急の高架化と駅位置の移動が計画された時点で、すでに廃止は決定していましたので仕方がないですね。
ちなみによく言われる能勢電伊丹延長線の川西池田駅は阪急をアンダークロスしたところから崖沿いに宝塚方面に進んで、元の川西池田駅前の国道の北側に計画されていました。線路はそこからすこし宝塚方面に進んでから国道と福知山線を超えて加茂方面に向かう計画でした。で、大正13年に申請した工事が昭和11年になって却下された理由は、兵庫県が申請を10年ほど死蔵していたのが原因だとか。お役所仕事ね😰
するがまなぶさん、コメントありがとうございます。川西池田駅が目の前に来たと言っても、乗客が増えるわけでもなく住民からも見放されていた路線ですので、やむを得ない結末です。
サムネの踏切、元地元なのでわかります。川西池田駅旧駅舎も懐かしいです😊この頃、国鉄福知山線がどんどん都市近郊路線に変わって行きカナリアイエローの103系が走り出した頃、いよいよ福知山線にも国電が走り出したんだなって思いました。
成光さん、コメントありがとうございます。電化当初はいばらの道だったですが、117系・223系などの快適な車両がどんどん増えて、よくなりましたね。
キハ47の長大編成が見られるということは、1980年時点で輸送力が限界だった模様ですね。
キハ26系のときも、8両編成はありましたよ。おそらく朝7〜8時頃に走っていた篠山口駅あたりからの快速用の送り込み普通列車ではないかと。折り返し4両編成2本に分割して快速列車になったと記憶しています。
この頃も、まだ余裕があったというか、むしろガラガラ。
YASUTO YOSHIMIZUさん、コメントありがとうございます。1980年頃はまだ、国鉄も輸送量に見合った編成を用意するだけの余裕があったようですね。1986年頃になると、乗り切れないのを承知で113系2両など無茶な列車を走られていまして。
川西池田と言えば三ツ矢サイダー
平野は、アサヒ飲料創業の地ですよ。源泉は能勢電の車窓からでも見えますね。大正天皇御愛飲の品。
今回も川西池田駅の貴重な写真をアップして頂き、ありがとうございます。
以前、川西池田駅の改札付近に旧駅の写真が展示されていました。今回の動画は廃止直前の旧駅やオープン直前の新駅の様子も窺えて駅に展示されていた物以上に貴重な写真ですね。
それにしても2面3線の地上駅はいかにも国鉄という風情があってよいですね。
ウォーリー.さん、コメントありがとうございます。
「川西池田駅1974年」のリメイク版を制作するのに写真を整理していると、忘れていた新駅工事中の写真が出てきたので、補遺として公開しました。
あら、先程みどりの窓口に行ったばかりなのに、見落としてた💦
今度、注意して見ます😅
@@giantnioinoba2023
旧駅の写真が展示されていたのは何年か前やったので、今は展示されてないと思いますよ。
福知山線と言えば、1970年頃の思い出でいっぱいです。全線電化後に三田まで乗りました。その変貌ぶりには、紀勢線、中央西線と同様にびっくりしました。113系2連がやたらと混んでいて、客車列車を懐かしく思いました。
キハ47は大阪駅で何度も見ましたが、何故か乗る気になりませんでした。やっぱり17、20、26に乗りたいと感じていました。
例外として、北海道で極寒地仕様のキハ40に乗ったときは空気バネ台車で乗り心地が良かったのを覚えています。
Zenjirooさん、コメントありがとうございます。
キハ17はともかく、キハ20、26は乗りたくなりますね。兵庫県の北条鉄道には五能線を走っていたキハ40が来ていて、空気ばねの乗り心地を楽しむことができます。
能勢口駅...10連化の際は、梅田方2両がドアカットでしたね。
冒頭のキハ47は福知山線のほかに山陰本線京都口、舞鶴線、宮津線と共通運用された後、1985年3月改正では小浜線にも活躍の場を広げ運用範囲はワイド化されました。
rhscm989さん、コメントありがとうございます。
キハ47が活躍していた時期、鉄じいじは”鉄離れ”していて追っかけをさぼっていました・・・
確かこのキハ47は加古川線と姫新線の1990年あたりでワンマン化でこちらに移動。加古川線電化と姫新線の高速化であちこちのJR西日本の非電化路線に行ったそうです。中には豊岡に戻った編成もあります。
宝殿も同じ時期に駅舎建て替えしてましたがちょっとだけ川西池田と駅名が似てますね。また駅周辺の整地もやってました。
へずま大介さん、コメントありがとうございます。
加古川-姫路間も新駅ができたり、変貌が著しいですね・・・
1:09たしか写真を写している位置あたりに踏切ありましたよね?線路の南側に東洋食品工業短期大学の学舎があったような🤔
1:36ここの道は殆ど変わっていませんね。右側は戸建住宅になって、左側は電気屋さんと自転車置き場ができたくらいかな🤔
0:59写っている自転車は愛車ですか☺
脱サラ植木職人さん、コメントありがとうございます。
1:09の写真はたぶん踏切から写したと思います。遮断機は新下り線だけ遮断するもので、上り線の上で写真が撮れました。
自転車は自分のではありません。川西池田へ来るときはいつも阪急電車雲雀丘花屋敷駅で降りて、歩いてきました。
懐かしい画像です。新駅となって、もう40年以上経過し当時の記憶が薄れています。
2:02 南側出入り口階段は姿形がありませんね。映っているプレハブ作業小屋撤去後に設置の流れでしょうか?鉄道誌でも103系運転直後の写真ではまだ階段は設置されていなかったようで、新駅移転後どれほど遅れて設置だったのか気になります。
sekarashika36さん、コメントありがとうございます。
そうですね、気づいたら通り抜けられるようになっていましたが、いつ設置されたかはわかりません。
そういえば、駅の北伊丹駅寄りにあった、産業道路の踏切が片側3車線化の上アンダーパスにする工事をしていたのもこの頃だったかな🤔
脱サラ植木職人さん、コメントありがとうございます。
今では当たり前の風景になっている福知山線のアンダーパスですが、以前はどんな踏切だったのか、思い出せません・・・
@@tetsu-jiiji さま。火打街道という名前の通り、細い片側1車線の道路でしたよ。あと久代より南の鋳物師(町)のあたりが、ぐにゃぐにゃに曲がりくねっていた思い出が。ここにあった鍛冶屋さんには、農具の修理で何度か行ったことがあります。
川西池田駅〜尼崎港が朝夕1本づつありましたね。
最初はDD13の貨客混合列車で、最終章は塚口〜尼崎港でDE10が2両の旧型客車(スハフ42+オハ47など)牽引でしたね。
1980年の宝塚電化後もDD51牽引の旧型客車列車(1986からは12系)が健在で、嵩上げされた国電ホームに、チョコレート色の車内が”木造ニス塗り“のオハフ33が到着するミスマッチ感がたまらなかったです。
特に宝塚電化で「新規開業」の猪名寺駅に、朝のキハ58通勤列車や旧型客車が新たに発着するなんて夢のような世界でした!!
気楽トンボさん、コメントありがとうございます。
宝塚駅までの複線電化時期、カオスの様にローカル列車と通勤電車が混在していましたね。
昭和末期の小学生でしたから、福知山線の旧客は大阪駅でよく見ましたよ。
地下に潜ってる今は、マジで隔世の感があります。
Schimitchさん、コメントありがとうございます。
客車列車で本格的な「旅」をした篠山口が、いまや4扉ロングシート車も入っていて、まさに隔世ですね。
せっかく移転してきたのに能勢電鉄妙見線国鉄前線は一年ちょっとで廃止されてしまった…そうそう、当時は典型的な国鉄型2面3線で普通列車が3番線に停まって2番線を通る「まつかぜ」や「丹波」や「だいせん」の通過待ちをしていました。あと昭和54年までは尼崎港線の終点は塚口では無く川西池田でした。まだ宝塚までの電化も無く103系が無かった頃はおおよそ2時間~3時間に1本ぐらいの運行で大阪まで運賃も高く対する阪急は宝塚急行4本と宝塚普通4本、雲雀丘普通4本と今よりも多く雲雀丘花屋敷~梅田は毎時12本!8両編成、しかも運賃安い、冷房車、シートはフカフカで新型方向幕付き6000系でサービス満点!線形は悪いけど国鉄より早く大阪梅田に着く、好き好んで国鉄に乗るのはよほどのマニアか物好きの方だけやったんやないかな?三田方面から国鉄に乗ってきてもほとんどは宝塚で阪急に乗りかえるのが当たり前だった時代…
国鉄前駅の廃止は、阪急川西能勢口駅高架化にあわせた都市区画整理事業にあわせて廃止される計画になっていて、それはかなり前に決定事項していました。現在はこの区間の延長600mより短い550mになっています。
阪急高架化の直接の原因は、日生ニュータウン開発に伴うダンプカーなどの交通量の増加と駅の両側を道路と商店街に挟まれてしまってホームの延長が限界に達したことです。阪急のみが高架化完成したときは、立体移動よりも平面移動のほうが楽と感じた客が多かったのと、運賃の格差が縮まっていたので、けっこうJR側に流れて、能勢電の高架化を急ぐ結果になったそうです。
ちなみに駅前の車輪のモニュメントのあるあたりは、区画整理に同意しなかった地区で、昔のままの町並みが残っています。
大輔 佐藤さん、コメントありがとうございます。
梅田から豊中へ帰るのに、大阪駅→福知山線川西池田→雲雀丘花屋敷→豊中と乗るのは、超・物好きですね・・・月に一度はしてました。
非電化時代の最後の頃ですね。非電化時代の福知山線は、気動車や客車列車など、懐かしいものばかりが走っていましたね。いろんな懐かしい列車が、脳裏をよぎります。電化直後は、関西では珍しい黄色い103系も走り出しました。
この頃を境に、周辺が大幅に変わっていった印象があります。私の知人は、「いや、阪急の方が便利だよ」なんて言っていました。
権三郎平衛さん、コメントありがとうございます。
宝塚電化頃から急速に興味が薄れてしまい、カナリア色の103系も取らずじまいになりました。
小荷物=チッキの廃止が思ったより後でした。
ゆうゆう東海さん、コメントありがとうございます。
私も意外でした。てっきり新駅移転と同時に小荷物扱いは廃止されたものと・・・
ええわ~。こうして奥床しい日本の風景が無くなるとともに自分の寿命も細くなる。これでええ。未練は無くなる。それにしてもこの映像はええなあ~。時間が手頃で内容が濃い。個人的には新日本紀行並みの内容の濃さやと思う。
浮草さん、コメントありがとうございます。
好評価いただいて嬉しいです!
川西池田駅の移転は新生福知山線のシンボルのようですね。
えっ今となっちゃ原型全くとどめていない自分の知らない川西池田駅です。国鉄から比較すると当時、阪急の方はかなり近代化されていたように映ったのでしょうか。
AzusaGOGOさん、コメントありがとうございます。
阪急一択でしたね。国鉄で三田方面に行くのも、宝塚まで阪急を利用する人がかなりいました。
川西池田ってすごい駅名ですよね、実際には川西市に存在するわけですが例えて言うなら「市川小岩」とか「市川船橋」みたいなものですか?下総中山や原木中山がちょうど船橋市と市川市の境目になるので「市川船橋」をつけるとすれば下総中山か原木中山かな?ちなみに存在するのは船橋市、津田沼も半分は船橋市なので「船橋津田沼」もいいかな?あと中山と言う地名は全国にアチコチあり元祖が横浜線の「中山」なので川西池田の隣の駅は「中山」とはつけられず「中山寺」上記の「下総中山」と「原木中山」あとは福島県の「中山宿」かな、あとは「京成中山」、「阪急中山」は現在「中山観音」に改名されてますが以前は「中山」では無く阪急を冠して「阪急中山」
川西市と池田市の異なる2つの自治体の名前を冠したのも少ないのでは?阪鶴鉄道時代の池田(川西池田)駅は現在の阪神高速小花出入口ある呉服橋の近くにあって、池田への直接の玄関口になっていました。阪急池田駅近辺に移っていくのは室町地区が住宅地として分譲されてからです。能勢街道と西国三十三所巡礼道の重要な宿場町で古い歓楽街が呉服橋に寄っているのもそのためです。博物館明治村にも近くにあった演芸場が移築されています。落語『池田の猪買い』の舞台になるのもこのあたり。ちなみに自分も含めた地元(山本)では歓楽街といえば宝塚ではなく池田をさします。
のちに宝塚方面への延長の際に前の駅舎のあった寺畑に移ってきて、川西の名前に改称しようとしましたが、池田市側から猛烈な反対運動があって、結果両者の名前をつけた経緯があります。
大輔 佐藤さん、コメントありがとうございます。
川西池田駅は開通当時は終点で「池田駅」と称し、池田の市街とは橋一つで結ばれていたそうです。いまでも古い町並みの面影が残り、いい雰囲気です。
『中山寺』駅は『宝塚市史』によると、阪鶴鉄道開通時は『中山』とつけたらしいのですが、西国巡礼札所『中山寺』巡礼客をあてこんでか『中山寺』に改称したようです。ですが、肝心の中山寺まで1kmあまり離れているために、事情を知らない参拝客から苦情があったとかなかったとか。
電化前は北側の駅舎前に小さい雑貨屋1軒があるだけでバス便もなにもない、ほんとうに小さな駅でした。
川西国鉄前駅と名乗りながら、旧川西池田駅までは少し歩かねばならなかったのですか。乗り換えが便利になったにも関わらず、その駅が一年ちょっとで廃止になるという不幸。
阪急川西能勢口駅前再開発計画に基づく区画整理がはじまって、阪急の高架化と駅位置の移動が計画された時点で、すでに廃止は決定していましたので仕方がないですね。
ちなみによく言われる能勢電伊丹延長線の川西池田駅は阪急をアンダークロスしたところから崖沿いに宝塚方面に進んで、元の川西池田駅前の国道の北側に計画されていました。線路はそこからすこし宝塚方面に進んでから国道と福知山線を超えて加茂方面に向かう計画でした。
で、大正13年に申請した工事が昭和11年になって却下された理由は、兵庫県が申請を10年ほど死蔵していたのが原因だとか。お役所仕事ね😰
するがまなぶさん、コメントありがとうございます。
川西池田駅が目の前に来たと言っても、乗客が増えるわけでもなく住民からも見放されていた路線ですので、やむを得ない結末です。
サムネの踏切、元地元なのでわかります。川西池田駅旧駅舎も懐かしいです😊この頃、国鉄福知山線がどんどん都市近郊路線に変わって行きカナリアイエローの103系が走り出した頃、いよいよ福知山線にも国電が走り出したんだなって思いました。
成光さん、コメントありがとうございます。
電化当初はいばらの道だったですが、117系・223系などの快適な車両がどんどん増えて、よくなりましたね。
キハ47の長大編成が見られるということは、1980年時点で輸送力が限界だった模様ですね。
キハ26系のときも、8両編成はありましたよ。おそらく朝7〜8時頃に走っていた篠山口駅あたりからの快速用の送り込み普通列車ではないかと。折り返し4両編成2本に分割して快速列車になったと記憶しています。
この頃も、まだ余裕があったというか、むしろガラガラ。
YASUTO YOSHIMIZUさん、コメントありがとうございます。
1980年頃はまだ、国鉄も輸送量に見合った編成を用意するだけの余裕があったようですね。1986年頃になると、乗り切れないのを承知で113系2両など無茶な列車を走られていまして。
川西池田と言えば三ツ矢サイダー
平野は、アサヒ飲料創業の地ですよ。源泉は能勢電の車窓からでも見えますね。大正天皇御愛飲の品。