今は無き115系山スカ普通列車、EF64牽引の貨物列車、165系急行アルプス、183系あずさ、101系高尾〜相模湖間限定運用列車、どれも懐かしい車両です、貴重な映像ありがとうございます🙇
懐かしい、貴重な映像ですね!
115系が長い!・183系はパンタが2丁上がってる!・101系は窓全開で走ってる!…正に国鉄時代ですね。
クモニ・クモユニの吊りかけ音に101系のMT46の軽やかな音…全てが懐かしいです。
裏高尾での撮影の様ですが、高速道路のために長閑な雰囲気は失われてしまいましたね…
実に素晴らしい記録動画。
細かい事は別の方が沢山コメントされているから野暮は言いません。
ただただ貴重で本当に素晴らしいとしか言えない。
up主に感謝。
3+2+3にさらに増結3の11連の映像が見れるとは感動しました…!
115系の11連は確か4+4+3からサハを抜いて3連で挟むように変えたんですよ。
ある日一斉にサハ115が抜かれてしまって東北、高崎線の増結やクハ化の種車になった。
@@unokichi1 いいえ、800番台も300番台も登場時は3+2+3が所定ですよ。
300番台登場時(71系引退時)に71系が担っていたローカル運用を引き継ぐため、800番台のみが4両編成になったのです。
11連は「臨時」の表示が出ているように、休日の富士急行線乗り入れ列車の併結ですね。
なぜ4両ではなく3両が基本なのかといえば、富士急行線の限界が3両だったからです。115系のクモハは、そのために誕生したようなものです。
ちなみに165系かわぐちも同様に、松本の付属編成(クモハ+モハ+クハ+クハ)から三鷹でクハを1両抜いて3両で入線していましたね。
後に先頭化改造種車や上野口の増結のためにサハが抜かれたのはその通りですが、800番台の7両編成が映っている通り、サハが抜かれた時期にはズレがあります。私が幼少期だったため、今となっては800番だったのか300番台だったのかがはっきりしませんが、この時期に3+1+3という7両編成も見た記憶があります。
山岳路線向けではない101系が25パーミルを一生懸命上がっているのが伝わってきますね。
一方で25パーミルを下ってくる時の軽やかなMT46の音がいい音です。国電が高尾から西に行くのが特別な時代でした。
あと115系8両と荷物車の普通列車は何回見てもいいです。荷物車と郵便車が併結されているのは新宿発着の証拠でもありますよね。
懐かしい動画で幼少期を思い出したわぁ︎︎👍
101系懐かしい。
窓全開にしとくと、高尾〜相模湖間にある小仏トンネル内の冷気が気持ちよかったのですよ!
下校の途中、小田急に乗り換える前に新宿駅に停車している遠くまで行く荷電連結の中央線普通列車等ををよく観察していました
「次は立川に停まります」という放送に私鉄とはやはり違う国鉄列車の重みを感じたものです
前の動画にも出てきましたが、黙々と働く山男64がまたいい味出してますね
かつては多く路線でもトンネルや長大橋梁に入る際に鳴らされていた(今でも近鉄電車では鳴らしています)警笛が何故だかやたら旅情を誘う
この時代にタイムスリップしてみたい。
スマホのない時代ですが、毎日の鉄分補給で健康に生きれそうですね。
四方津に保養所があり毎年夏は115系で向かいました。トンネル内のモーター音が、そらもう凄くて。
ヨ!ヨ!ヨ!ヨ!w
急行のオレンヂを斜めに塗り上げて行く塗装とっても好きw
懐かしいですね。
115系の横須賀色はこの頃はオレンジ色の快速の合間を縫い新宿まで乗り入れがありました。
新宿から立川までノンストップという、本当の特別快速でした。
6両編成の為と、乗客の遠近振り分けの意味からかと思われます。
急行アルプスや郵便車も懐かしい。
あずさ同士の離合がカッコ良すぎる
115系『山スカ』に クモニやクモユニが付いていたあの頃は その形態で新宿−長野を走った列車もありましたね。
大体は 冷房車は新宿発着 デカ目の非冷房車は高尾発着の列車に充当されていたイメージでした。
ここにも出てきた 101系800番台の『相模湖臨』は 暑いから2段窓を全開にしている所もありますね。
MT46の 軽快な響きが心地良いです。
5:07の短いトンネルは やはり終戦間際に 列車が機銃掃射に遭った『湯の花(いのはな)トンネル』のようですね。
@ZIPANG1067さま
改めて観て気付いたのですが5:06より後の 115系や101系が『湯の花トンネル』に入るところで パンタが縮まっているのがわかります。
このための『低屋根』や『PS23パンタ◇』な 訳ですね。
あと101系の窓から顔や手を出している諸君は トンネル手前でちゃんと引っ込めていて 前方を注意してるから 偉いのか偉くないのか…😅
おっしゃるとおりに、新宿発300番代、高尾発初期型の構図が成立しておりましたね![東京の顔]新宿を出る列車には、新製冷房車を!との画策でしょうか?
MT46搭載の101系はMT54の115系とかとやっぱり音が違いますね
新宿から行くと山梨県に入ると左手に方水路式ダムが見えるよね。目立ちます。急行アルプスのビフェで蕎麦を食べたかった。私が乗った時は営業してなく混雑時は立客でいっぱいでした。
荷物電車も懐かしい
165系急行「アルプス・こまがね」 115系新宿発23時55分441M長野行は帰省に良く乗りました
こんにちは!
いつも楽しく見せていただいております。
以前の中央東線といえば、山岳夜行のイメージがあります。デカいリュックを背負った大学サークルなどの山男でハイシーズンになると通路まで一杯でした。😅
新宿駅ではあらかじめコンコースで整列させられており、登山前のイベントのようでした。😮
あと、地形上雨に弱いイメージでしたね。😢
これは今も変わらないかな?。😅
次の動画を楽しみにしております。🤗
いい音だ(^^)
車輌もともかく、「JNR」としての「最後の意地」みてぇなものを
この動画で誇示してくれている。
懐かしいなぁ・・・。
立川在住でした 昭和58年当時の普通列車にクモニ・クモユニが連結されていたのは記憶にありませんでした
115系山スカの映像、本当に感動しました。
桂川橋梁って白かったんですね
映像のクモニ(クモハ?)は旅客用に改造された後はJR西日本の中国地方での活躍が見られました。私が岡山に住んでいた頃はJR宇野線で見たことがあります。
私は会社で長期休暇の権利を取得しまして、今日は岡山(倉敷)に来ています。昨夜は大阪で宿泊して今朝は大阪環状線などの通勤通学ラッシュに当たってしまい移動が大変だったけど、なんとか懐かしい岡山に来ることが出来ました。
岡山には夕方まで滞在して新幹線と常磐線で深夜に水戸に到着予定です。
コメントありがとうございます。
九州から水戸へ、しかも途中には思い出の地へ訪問と、一気にすごい移動距離ですね。急に暑くなりましたので、熱中症などには道中お気をつけください。
やあ懐かしい。当時は小学生だったので残堀川橋梁(でいいのか?)を渡る電車たちを眺めてました。
でも115系がサハ付き8両だったり11両だったりという記憶はない不思議。
それでもクモニ83は覚えてる不思議。
懐かしい動画ありがとうございます。他の方のコメントにもありますが、115系の11両と言う編成は初めて見ましたし、後半に出てくる115系デカ目4R+300番台3Rの7両というのも初めて見ました。後半の7両は「高尾」という行先が出ていたので、101系と同じ高尾-相模湖チョン行の運用だったのでしょうか。私もこの頃中央東線に撮影に行っていますが、塩嶺ルート開通前の「大八回り」中心でした。冒頭のEF6427牽引の貨物は一般の「駅扱」貨物だと思いますが、「専貨」の印象が強いホキが2~3両交じっていたこともあったのですね。模型の参考にもなりました。
コメントありがとうございます。
当時ビデオで撮影されたB氏も、コメントは読まれていると思います。
そして、そのB氏の貴重な映像を、シェアすることが出来て良かったと思っています。
115系のサボ高尾、この当時以前はすべて行先の駅名表示で運行していました。甲府、松本はもちろん、穂高、長野、明科のサボでも運転してました。
このころ以後ですかね、『普通』表記のサボになったのは。
いわゆる[遜色急行]の[かいじ]にて3輛増結の11輛編成を見たことがあります。
しかし、この動画は、4輛しか投入されなかった1000番代配置後の動画、遜色急行かいじ号とは違うと思います。
遜色急行かいじ号はMc+M′+Tc+T+T+Mc+M′+Tcの8連に、Mc+M′+Tcの3連を増結した11連でしたね。この動画の11連は「何かの必要に迫られた」11連ではないかと、推察します。
数年前まで存在した新宿始発の中央特快の中野通過は普通列車の名残でした。
停車駅の少なさから見ると
普通>通勤特快>新宿始発の中央特快(中野通過)=特別快速(国分寺通過)=青梅特快(国分寺通過)>中央特快=青梅特快>通勤快速>休日快速>平日快速
と概ねこんな感じですか…上記の種別が一度に揃ったことは無いですが一番言いたいのは…普通最強!
中央東線と言えば、夜行の普通列車長野行がありましたね!まあ、中央東線も東北や上信越線同様、たくさんの夜行列車(と 言っても大半は165系の急行アルプスですが…)が走っていましたが、さすがにもうそんな時代ではないですね。
やっぱ101系、3枚窓デカ。
山線の115系と言えば、非冷房車のスカ色が多かったみたいですが、動画を見る限り昭和50年山線旧型国電置き換え用に投入された新製冷房車がほとんどでしたね。この頃だと登場から8年しか経ってなくて、ちょうど快速線で201系が101系の本数を上回ってきたか来てないかという頃でしょうね。
見慣れたスカ色115系だが編成長くてびっくり
たしか143Mだっけ?長野夜行。でかいリュックは網棚から溢れんばかり、通路床まで寝ててよく飯田線撮影に利用してた。富士見での長時間停車とか。
23時55分発、441M、普通列車長野行(各停ではなく笹子・勝沼・東山梨・別田・新府は通過)
長時間停車(おぼろげな記憶)甲府19分・日野春55分・上諏訪43分、翌朝の始発&通勤列車となり得るよう、長時間の停車で時間調整をしていましたね。
シートピッチの狭い300番台で1BOX占領時はよかったが4人の時はつらかったな。小淵沢で小海線に乗り換え八ヶ岳方面 上諏訪乗り換えで飯田線とか 終点長野まで行って善光寺
猿の温泉とか色々使わせてもらいました
貴重な映像ありがとうございます。
ギリギリこの時代を生きたものです。
もしご存知の方いらっしゃったら教えてください。
普通上り列車で大月もしくは相模湖で増結し終着地へ向かう運用はありましたでしょうか。
純粋な増結ではありませんが………大月駅での[分割・併合]は、富士急乗り入れの為に、83年当時在ったかも知れない。
相模湖駅は昔、相模湖への、レジャー客輸送で、高尾↔相模湖の一区間運転が、休日に実施されていたもの。
従って、相模湖以外何も無い(失礼)相模湖駅での、分割・併合は無かった筈です。
もうすでに書かれていますが、大月で増結する普通列車は富士急に入線した3両編成ですかね?
となるとあの11両編成のうち3両は富士急に入線していた115系の可能性もありますね。
荷物車からキオスクへダイレクトにマンガ週刊誌が届けられ書店より一日早く(都内と同じ日)買うことが出来たなあ
書籍(週刊誌)・各社朝刊は、いわゆる[長野夜行]併結のクモニで運ばれていました。朝刊10版及び12版は、降版時間(校閲&修正が終わり印刷に引き渡す時刻)がとりわけ早く、プロ野球ナイターの結果は、途中経過までというのが、ほとんどでした。かりに試合が早く終わったとしても、フィルムの現像が間に合わずに、写真掲載無しとか。
インターネット、デジカメ全盛の現代では、考えも及ばない、長閑な時代でしたね。
話が逸れましたが、長野夜行、深夜の甲府停車などでは、慌ただしく、朝刊をブン投げて下ろしていました。
週刊誌は、書店販売よりも早くキオスクで購入出来たのですね!
その頃ですかね。プレスライダーとか原稿ライダーと呼ばれ、撮影済みフイルムなどをバイクで急ぎで運ぶ方々がいました。
バイクのフロントフォークに新聞社の社旗を掲げるように改造、ただし、出し放しだと社旗が直ぐにボロボロになるため、普段は掲げる棒に社旗をグルグル巻にしていたみたいです。
そして、乗り方がとにかくカッコ良かった。
直進してたと思ったら、バイクをベタッと寝かせ一瞬で車線変更を完遂、それを見た時は鳥肌モノでした。
@@ZIPANG1067
時代とともに、輸送&伝達手段も一気に変わりますね!今やバイク便そのものが、風前の灯火か?
件(くだん)の件、道路事情等、交通手段も限られていた昭和40年代、新聞社では未だ伝書鳩が現役だったそう。どうやら伝書鳩は私奴より優秀なようです。
クモユニ連結は勾配対策「補助機関車代り」は都市伝説ですか?
101系臨時は、小金井の担当だったかな、抑速ブレーキがついていなかったから、運転は、大変だったんじゃないかな
確か『西ムコ』でしたね。
もっと昔の『山スカ(70系)』や『山ゲタ(73系)』は 発電ブレーキすらなかったから もっと大変だったでしょうね。
西武池袋線+秩父線(飯能−西武秩父)も 発電ブレーキのない701系列や その701系列でも 更に自動空気ブレーキの『赤電』や吊り掛け式の旧型も入ってましたから 苦労が偲ばれます。
相模湖臨電は、一区間の運行でしたから、さほど問題はなかったみたいです。子供の頃、115系が、急行かいじの運用に入ると、穴埋めに101系が、甲府まで代走しておりました。たしかに山線、勾配区間ですが、速度も高くないので、苦労を伴う程の運行ではなかったと思います。
モハ71・モハ72にも乗車経験がありますが、こちらの乗り心地は………、酷いものでした。
@@asokai2346
Jトレインで201系を取り上げたときに載っていたのですが
201系は制御装置の回路の構成の関係で回生ブレーキを抑速ブレーキとして使うことができるそうです。
追伸
101系の[代走甲府行き]は、基本編成から、サハを1輛抜いた6輛で運行されていました。本来の115系は8輛ですが、出力の小さい101系の登板能力を考慮した[安全策]だったのかも?
1983年と言うと、国鉄にも、翳りの色が一層深まった時期だったと思いますが(遠い昔日のこと、記憶が曖昧です)職員も、42万人体制から、35万人、最終的には28万人へと、削減された。
リストラされたのは人だけではなく、施設も、土地も、そして商品である車輛も。急行型165系の、いびつな編成、115系ローカルの、バラバラな編成を、私奴は知らない。特急あずさだけは、今に至るまで、盛況そのものですが。
貨物も、大幅削減。山岳線ゆえ、輛数はもとより多くはないが、それにしても少ない。
この時分に、鉄道趣味から離れて[このような廃れた光景]を見ずに済んだのは、ある意味、幸せだったのかもしれません?
今、高速バスに負けじと疾走するあずさ、かいじ、これらを見るにつけ、中央東線が健全な路線であることを?うれしく想います!
@@ZIPANG1067
まあ、そういう時期でしたね。全てが、楽しかった。
サントリーホワイトを愛し、
煙草の峰を愛し、
レイバンを愛し、
競馬ポマードを愛し、
斜に構えた若造でしたね~!
話、変わりますが、カワサキの Ninja 、カッコ良いですね!欲しいな!ただ、体力・気力が………、情けな~!
うわっ!懐かしい商品が並びましたね。
「やんちゃ漢」の必須アイテムといったところですね。
年齢もあってか、皆バイクは降りてしまいましたが、拙宅の125ccスポーツバイクに乗った友人は、リターンライダーとなりましたよ。
My China steam videos: czcams.com/video/jCb--7RJt2s/video.html
101系の窓から手を出している奴危ないよ。
クモニ83.カッケーヾ(≧∀≦*)ノ〃
映像上にあります101系電車はこの当時最後の1年を過ごして、翌年1984(昭和59)年4月下旬に皆様から大きな感謝で引退を迎え、この日以降の東京⇄高尾間の列車は201系電車に世代交代しました、また115系電車は8両から最長11両での運用に荷物輸送、荷物郵便輸送電車クモニ83型・クモユニ82型の併結運用もありましたので華々しい時代を感じます。
115系の11連なんてあったっけ?😋
@@psychedelicraspberry5172:39~3:00
@@psychedelicraspberry517 東北本線なら7+4であり得た話かもしれない。